隣人は、変。
あの日の女性の後ろ姿の真相は、あっけなく明かされた。
「この間、あなたの通っている大学に行ったんだ」
千里さんのその言葉を聞いて、どきり、とした。ど、どうしてですか、と返した言葉は、うまく舌が回らなくて、それを見た彼女が、くすり、と笑った。
「だって私、あの学校に通っていたOGだからね。って言ってもだいぶ昔の話だけどね」
「えっ、そうだったんですか」
「まぁ、って言っても、色々あって途中で辞めちゃったから、OGは正しくない表現なんだけどね」
今夜も千里さんは俺の家を訪ねてきていて、俺は彼女の作ったシチューを食べていた。
「でもなんで、うちの大学に」
「あなたの話を聞いてたら、ちょっと久し振りに行きたい、って思ってね。こっそり忍び込んだんだ。文学部の知っている先生の映画を観る講義に出たんだけど、全然ばれなかった。どきどきしながら行ったから、ちょっと肩透かし。ばれたらばれたで困るくせにね。まだ私も女子大生としていける、ってことかな」
それを聞いて、もしかしたら千里さんは、俺が思っているよりもずっと年上なのかもしれない、と思った。思っても、実際に聞くことはできないのだが。こういう時、多少デリカシーがなくても、ストレートに聞ける人間が羨ましい。ただ本当に信じてしまってもいいのだろうか。俺はあの日、真田先輩から尾行されているかもという話を聞き、その後すぐに千里さんの姿を見たせいで、拭いきれない彼女への疑いが萌している。そんなわけない、と思いつつも、やっぱりタイミングが良すぎる。
「ねぇ、私の最近の悩み、聞いてもらってもいい?」
千里さんが自らそんなことを言うのは、はじめてだった。いままでの俺ならば嬉しさのほうが大きかっただろうが、いまは俺の心のほとんどを不安が占めている。
「なんですか。めずらしいですね、千里さんが悩みなんて」
「私も人間だから、そりゃ悩むよ。まったく、失礼な。……とまぁ、悩みなんだけどね。実は私、最近誰かの視線を感じるんだ。知らない誰かの」
先日の真田先輩の言葉がよみがえってくる。もちろんこんな偶然があるわけない、と思って、
「もしかしてこの間の俺たちの話、聞いてました?」
と聞くと、千里さんが首を傾げた。
「俺たち、ってなんのこと?」
嘘をついている表情には見えないが、だからと言って表情だけで、やっぱり真実だ、と思い直すことはできない。間違いなく千里さんは嘘をついている。だけど踏み込んで聞くのは、ちょっと怖い。
「あぁいや、なんでもないです。たまたま別のひととも、そんな話をしてたので」
と引いてしまった。もっと確証がなければ、さすがに勇気も出ない。
「ふぅん。……で、変質者だったら怖いなぁ、と思って。まぁたぶん気のせいだろうけど、私なんかよりもっと別の若い子狙うでしょ」
「それは自己評価が低すぎですよ」
「そうかなぁ。ねぇ、もし何かあったら助けてくれる」
と千里さんが、俺に近付いてきた。あまいにおいがする。
「それは……。もちろん何かあったら、きっと」
「そっか。ありがとう。聞いて安心した。それじゃあ、きょうは帰る。実はちょっと用事もあって」
そう言って、千里さんは隣の自分の部屋へ帰っていった。俺は残念な気持ちと安堵の気持ち、ふたつの混じった息を吐き出した。もしも彼女に誘われていたなら、俺は、きっと肉体を重ね合わせていたかもしれない。彼女が何かを企んでいたなら、俺はその瞬間、からめ捕られていたはずだ。
翌朝、俺は外に出ると、
アパートの庭には大家さんがいた。穏やかな笑みを浮かべて、「こんにちは」と言った大家さんは、六十代の女性だ。夫に先立たれて、いまはひとりでこのアパートの大家さんをしているのだ。悪いひとではないのだけれど、すこし口が軽いのが、たまに瑕だ。庭には、インパチェンスとマリーゴールドが咲いている。他にも咲いてはいるのだが、知っているのがそのふたつだけだった。
「どうしたの。なんか難しい顔してるけど」
「いえ、ちょっと考え事を」
「学校の悩み?」
「あっ、いえ、学校はあんまり関係なくて……、実は隣の部屋の鮎見さんのことなんですが」大家さんの顔を見ながら、思い切って聞いてみることにした。「最近よく夜ご飯を持ってきてくれるんです。作り過ぎちゃった、なんて言って」
「えっ」困惑した表情を、大家さんが浮かべる。「千里ちゃんが」
「やっぱり変、ですよね。いきなり隣のひとに、なんて」
俺と大家さんの間に、ほんのすこし沈黙があった。
それは言うべきかどうかの、大家さんの中での、逡巡している時間のようにも思えた。
「いえ、まぁいきなりあなたに、というのも正直意外とは思ったんだけど……、それもそうだけど、うーん、千里ちゃん、そんなに金銭的に余裕があるわけでもないから、そんな暇があったら、っていうのがあってね」
「家賃の滞納でもしてるんですか」
「さすがにそんなことはないけど。たったひとりで生活しているわけでもないんだからね。それが隣の男の子に会いに行くためなんて」
その言葉にはわずかに怒りが滲んでいた。そして俺はその言葉にショックを受けていた。ただの妄想だと思っていたものが、現実となって迫ってくる感覚だ。やっぱり一緒に暮らしている男がいたんだ。俺は挨拶もしていないから会ったこともないし、でも俺のところにこうやって足繁く通っている、ということは、普段は家にはいないのかもしれない。
「まぁでも他人の家庭のことに、私が口を出すようなことではないのだけど、ね。……ただもしも何か異変を感じたら、教えてくれないかしら」
「異変、ですか?」
「うん、社会問題にもなっていたくらいのことだしね」
不倫が、ということだろうか。それは確かに、芸能人の不倫なんかはよく問題になっているけれど、異変、という言葉にはどこか違和感を覚える。教えてくれるかは分からないが、千里さんの事情について聞こうと思った時、大家さんのズボンからスマホの音が鳴った。
「あっ、ごめん。電話だ。じゃあ、さっきのことお願いね」
と言われて、大家さんは自分の部屋に戻ってしまった。
それから数日が経った。結局あの言葉はなんだったのか、といまも、もやもやしているが、タイミングを逃してしまって大家さんには聞きに行けず、千里さんはあの日以来、俺の部屋を訪ねてこない。元々毎日来ていたわけでもないのに、俺が、「なんで最近、来ないんですか?」と訪ねていくのも変な話だ。
この間に、真田先輩から電話が来て、すこし話をする機会があった。
『この前のこと、勘違いだったかもしれない』
「勘違い、って、どういうことです?」
『ほら、誰かに尾行されているかもしれない気配、ってやつ。最近は特に何も感じないから。たぶん神経が過敏になっていただけ、なんだと思う』
と、真田先輩からの話はそんな内容だった。俺は千里さんのことがあったから、それを聞いてもまだ、千里さんがストーカーである可能性を捨て切れないのだが、本人が大丈夫、というなら深く突っ込むわけにもいかない。
せっかく電話があったのだから、と俺は大家さんとの話や千里さんが大学に来ていた話を、真田先輩にしてみることにした。
『それ、やっぱり距離取ったほうがいいよ。やっぱりそのひと、どこかおかしいよ』
電話越しにも、険しい顔をしているのが想像できるような口調だった。
「いやまだ、そうと決まったわけじゃ」
『決まってからじゃ、遅すぎるよ。前も言ったけど、身近なひとだから、って信じ過ぎたら駄目だよ。身近なひとだから信じたい、って気持ちは分かるけど、ね。平気で嘘もつけば、悪いことだってするんだから』
「……とりあえず様子を見るよ」
『私、本当に心配してるんだよ。きみが思っている以上に、きみのことを』
「ありがとうございます」
真田先輩との電話以外は、これと言って特別なことは何もなく、静かな日々が流れた。ただ俺自身の心に、ずっとさざ波が立っていただけだ。だから大学の授業もどうも頭に入ってこないし、休みの日に動画を観たり、本を読んだりしていても、気付けば千里さんのことを考えていて、悶々とする毎日だ。
俺はある夜、コンビニに行こうと外に出た。
コンビニから帰る途中、俺は千里さんの部屋の窓を見た。特別な意味はない。本当に何気ない行動で、ぼんやり見上げていると、いきなりカーテンが開いた。
そして目が合う。
目が合った相手は、千里さんではなかった。
空虚な目をした、極度にやせ細った少年だった。悲しそうでも、嬉しそうでも、寂しそうでもない。虚ろな目だ。
少年が俺のことを知っているのかは分からない。
ただ少年は俺を見ながら、お腹に手を当てた。まるで、「お腹が空いた」とでも言いたげに。
俺はなんで勝手に、大人のふたり暮らしだと決め付けていたのだろう。
ネグレクト。虐待。ふとそんな言葉が浮かんだ。もちろん実際のところは分からないが、あんな状態になっている子どもがいて、「ご飯を作り過ぎちゃった」なんて俺のところに来る行動が、常軌を逸しているのは間違いない。まず気になったのは、真田先輩のストーカーの件だ。俺は真田先輩に電話で事情を伝えて、「もしかしたら、と思って、注意は続けて欲しい」と告げた。そして大家さんの部屋に行き、俺が見たことを伝えると、児童相談所に連絡してみる、と言ってくれた。
結局、千里さんの家庭の事情は、俺の手から離れてしまったので、その後、どうなったのかは分からない。もう一週間ほど経つが、一度も千里さんとは会っていない。俺自身も千里さんを避けたい気持ちがあったので、友人の家に泊まったり、ネットカフェで過ごしたり、部屋にいないようにしていたのもある。
その間、ずっと願っていた。
俺は妄想癖が強い。
だからこれまでのすべてが現実ではなく、妄想であってくれ、と。
きょういったんアパートに帰ろうとすると、アパートの近くで悲鳴が聞こえた。
周りを野次馬が囲んでいて、
その中心にふたりの女性がいる。
ひとりの女性は刺されて倒れている。
もうひとりは取り押さえられても笑っている。
そのふたりの女性を、俺は知っている。
『実は私、最近誰かの視線を感じるんだ。知らない誰かの』
ひとつだけ、
俺はたったひとつだけ、
大きな勘違いをしていたのかもしれない。
前に見た半袖の白いTシャツは返り血を浴びて、赤く染まっていた。
隣人の恋は、変 サトウ・レン @ryose
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