隣人の、恋。
「ねぇ最近、何か良いことでもあった?」
「どうしてです?」
「いや、顔に書いてあるよ」
「顔に言葉が浮かんだりはしませんよ」
「顔には浮かばなくても、表情には浮かぶんだよ」
「そんなもの、ですか?」
「そんなもの」
真田先輩とそんなやり取りになった。真田先輩とは、元サークルの先輩後輩、という間柄だ。元、と付くのは、俺がすぐにサークルを辞めたからだ。サークルを辞めた後も、サークルのメンバーの一部とは比較的良好な関係が続いていて、真田先輩もそのひとりだった。
俺が所属していたのは、『SF・ミステリ小説同好会』だ。その名の通り、SF小説やミステリ小説が好きな者たちの集まりだ。元々そのサークルに入ろうと思っていたわけではなかった。元は高校までテニスをやっていたこともあったので、テニス部にでも入ろうかな、と思っていたのだが、うちの大学のテニス部は強豪で付いて行けそうにないし、テニスサークルはほとんどテニスもせずに飲み歩いてばかりの、こっちも別の意味で付いて行けそうにない雰囲気だった。
そんな時に勧誘されたのが、『SF・ミステリ小説同好会』で、最初に声を掛けてくれたのが、真田先輩だった。俺は読書家ではない。ただ年に何冊か読む本はすべてミステリなので、詳しいわけではないが、好きなほうではある。でもそういう場所は読書の鬼みたいな連中が揃っているのではないか、とためらいもあったのだが、同好会メンバーからの熱心な勧誘もあり、足を踏み入れることになったのだ。実際やはりみんな読書家ばかりだったのだが、そういうひとほど、他人の読書量を馬鹿にしたりはしないことを知った。
入ったばかりの頃、真田先輩にどんなミステリが好きか、と聞かれて、俺は何が好きかを言えるほど、まだミステリを読んではいなかったが、『十角館の殺人』とか『葉桜の季節に君を想うということ』とか『殺戮にいたる病』、『ハサミ男』などを挙げた覚えがある。それなら、あれがいい、これがいい、と話を一緒に聞いていたみんなも含めて色々な作品を薦めてくれた。それだけで大学の間では読み切れない量の、読む予定の本、が増えていったのも懐かしい思い出だ。
結局辞めてしまったのはバイトが忙しくなったからで、たいした理由ではない。人生はじめてのバイトだったせいで、友人に聞くまでは分からなかったのだが、ちょっとブラック気味のバイトで、精神的な疲弊が強くなってしまって、サークルどころではなくなってしまったのだ。結局そのバイトも辞めてしまったのだが、サークルに出戻り、なんて気持ちにはどうもなれなかった。
「で、良いこと、ってなんだったの?」
真田先輩が、俺に聞く。
ちょうど学校の図書館前で偶然会った俺たちは、外壁に沿う部分に置かれたベンチに、横並びで座って話していた。半袖の白いTシャツ姿の真田先輩のほおには、ひとしずくの汗がつたっている。膝の上に置かれたカバンからはみ出るように、桐野夏生『残虐記』が飛び出ていた。いま読んでいるのだろう、厚さの薄い文庫本だ。
「いや実は最近、隣人さんと仲良くなりました」
「それは、女」
探るように真田先輩が聞いてきた。もちろんそんなことはない、と分かってはいても、一瞬ヤキモチかな、と思ってしまったのは許して欲しい。このぐらいの年齢の男子は勘違いしてしまうものなのだ、きっと。
「女性ですよ」
「どんな?」
「それが実は、あんまりよく分かってないんですよね。急に訪ねてきたんです。肉じゃが作り過ぎちゃって、なんて言われて」
「えっ、それってフィクションの世界だけのお話じゃないの。ミス研のメンバーが外界から閉ざされた場所で連続殺人に巻き込まれる、くらいの」
「俺も最初は思いました」
やっぱり考えることはみんな同じみたいだ。リアルの出来事とは、やはり思えないのだろう。
「ねぇ、それって妄想の相手とか、じゃなくて」
と大変失礼なことまで聞いてくる。
「そんなわけないじゃないですか。実在の人物ですよ」
「ごめんごめん。ほら、きみってちょっと、妄想癖が強いところがあるから」
「まぁそれは否定しないですけど。……で、まぁそれから、よく色々なものを作って持ってきてくれるんです」
「それは惚れてるな、きみに。大学生?」
「それが分からないんです。年齢も何をしてるかも」
「ふーん、何をしているかよく分からない隣人ねぇ。なんか怪しくない」
「いや、言葉だけで聞いているからそう思うだけですよ」
本当に、とちいさく意味ありげな笑みを作って、真田先輩が笑った。
「好きになったせいで、相手を見る目が曇ってしまってる、なんて可能性もあるじゃない」
「そういう関係じゃないですよ」
「どうだか」
すこし突っかかるような口調だった。なんだか冷たいな。
「本当です、って」
すくなくともいまはまだ、という思いはのみ込んだ。
「フィクションの読みすぎだ、って言われたらそれまでなんだけど、ね。隣人や身近なひと、っていうのは、どこか大丈夫だろう、って思い込んでしまいがちになるから、最低限の注意は必要だよ。たとえば映画にもなった比較的新しいミステリだけど、『クリーピー』って知ってる?」
と、ここからは小説に話に変わる。真田先輩は、話しはじめると止まらないところがあるのだ。『クリーピー』の話から、どんどん自分の好きな話に変わっていく。真田先輩は、イヤミスや心理サスペンス、ホラーといったジャンルが好きなのだ。作家なら小池真理子や沼田まほかる、真梨幸子なんかが好きと言っていたはずだ。そして『クリーピー』の話は派生して、『黒い家』に、『ミザリー』、『恐怖小説キリカ』、と、これも好きならあれもなんて横に繋がっていく。
その話を聞いている途中の、俺の腹の音が鳴って、
真田先輩が、くすり、と笑った。
「お腹、空いたね」
「あっ、いや。実はまだ昼飯、食べてなくて」
たぶん恥ずかしさで、俺の顔は赤くなっているはずだ。
「実は私も。お腹空いたぁ」
と彼女が笑顔のまま、自分自身のお腹あたりに手を当てた。
「そのジェスチャー、どっちかと言うとお腹いっぱいの時にしません」
「えっ、私、どっちの時にもするよ。そんなに少数派でもないと思うけど。……って、まぁそんなことより、学食にでも行こうか。きみの奢りで」
「いや、ここは年齢で」
「なんて失礼なことを。女性に年齢を聞くなんて」
「いや知ってるでしょ。お互いの年齢、元々」
「細かいこと言わない、ね。そんな大金を使うわけでもないんだから。ほら、もうちょっと話そうよ」
言葉の『ほら、』というあたりから、彼女の表情に翳りを感じた。かすかな変化で、自信はなかった。俺たちは学生食堂に向かう。昼食時でもないから、いまの時間は、閑散としていた。俺は肉うどんを頼み、真田先輩はプリンをひとつ買っただけだった、たぶん彼女は何か俺に話したいことがあっただけで、そんなにお腹は空いてなかったのだろう。
「何かありましたか?」
俺が思い切って聞くと、
「やっぱり分かった。なんだと思う」
とちいさく笑った。すこし不安げに。
「分かりませんよ。俺は超能力者じゃないんですから。さらに言えば、探偵でもないですから、推理もできませんよ。俺が分かるのは、なんかあったのかな、ってくらいです」
「そっか。……まぁ冗談はこれくらいにして、最近、私、誰かの視線を感じるんだ?」
「誰かの視線ですか?」
「そう、毎日、毎時間、ってわけじゃないから、『お前の考えすぎ』って言われたら、それまでなんだけど。なんというか、はっきり言うと、誰かに尾行されている気配、っていうかね」
その時ふと、千里さんの顔が頭に浮かんで、俺は慌ててその顔を消すことにした。なんでその顔が浮かんだのか自分でも分からない。違う違う、だって千里さんは真田先輩のことなんて名前も知らないんだから。いや、それも違う。俺は以前に一度、真田先輩のことを、千里さんに話している。一緒に雑談する中で……。いやいや、そもそもいまの話だけを聞いて、千里さんの顔を浮かべること自体おかしい。これじゃあまるで、俺が千里さんをストーカーだと思っているみたいじゃないか。あれだ、真田先輩の小説の話を聞いたから、こんなこと考えるだけだ。
「それは、どういうタイミングで」
「確実にこのタイミング、っていうのは特にないんだけど……家とかはないかな。そうだね。学校が多い気がする。気のせいだよね……きっと」
真田先輩自身が、気のせいだとまったく信じていない口調だった。でも俺は彼女に合わせるように、
「そうですよ、気のせいです。きっと。あぁそれか、あれです。先輩に見惚れたひとたちが、みんな揃って、憧れの目を向けているだけですよ」
と重くなりそうな雰囲気を感じて、俺はとっさに冗談めかした言葉を返してしまった。嫌な気持ちになるかな、と不安に思っていると、真田先輩は、ふふっ、と笑って。
「本当にそんな目を向けて欲しいひとは、別の誰かばかり見ているみたいだけど、ね」
んっ、と俺がその言葉について咀嚼している間に、
「じゃあ、ごめんね。付き合ってもらっちゃって。きょうはもう帰る。これから授業はないから」
と言われて、彼女は帰ってしまった。
食堂を出た時、あれっ、と俺は思わず声が出てしまった。
遠目に見えるひとりの女性の後ろ姿が、どこか千里さんに似ていたからだ。
確認してみたいな、と思いながらも、さすがに追い掛けるのは、と悩んでいるうちに、その女性の姿は、俺の視界から消えてしまった。
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