隣人の恋は、変

サトウ・レン

隣人に、恋。

 一目惚れ、だったのかもしれない。

 俺は引っ越しの時、挨拶に行かなかった。大学生になって初めてのひとり暮らし。本当なら行くべき、というのは分かっていたのだが、挨拶に行こう、と決めた瞬間、強烈な緊張が押し寄せてきて、結局諦めてしまったのだ。しかも生活のリズムがずれていたからか、外出の際に会うこともなかった。だから実はアパートの隣人がどんなひとか、それまでは顔さえも知らなかった。初夏の陽射しを受けて、ほほ笑むそのひとを、俺は心底、美しい、と思った。いや美しさの定義なんてひとそれぞれだから、あくまで俺の主観での話なのだが、それでも彼女を美しいと思う男は結構いるはずだ。それは自信がある。


 初対面のまま、俺の部屋を訪ねてきた彼女は、

「肉じゃが作り過ぎちゃって。もし良かったら」

 と言った。


 漫画かアニメでしか聞いたことのないようなセリフだな、と喜ぶよりも前に、びっくりしたのを覚えている。そして彼女の姿を見ながらぼんやりと、でもこのセリフ、何の漫画で読んだんだっけ、なんて考えていた。


「えっと、どちら様、ですか?」

「隣に住んでる者ですが……、って、あれ、以前、何度か話したことありませんでした、っけ」

 これで本当に初対面でなかったとしたら、俺は本当に失礼な奴だが、ひとの顔を覚えるのは割と得意で、絶対に一度も話したことがない、とそれなりに自信もあったので、初対面の振りはしなかった。


「いや、たぶん初めてですよ。すみません、実はタイミング逃して、挨拶に行けなくて」

「なんだ、そっか。ごめんね」砕けてはいるけれど、嫌な気持ちにはならない口調だった。「私、隣に住んでいる鮎見です。あと引っ越しの挨拶なんて気にしなくていいですよ。すくなくとも私はあまり気にしませんし」


 それが鮎見千里さんとの出会いだ。以降、定期的に彼女は、俺の部屋に訪ねてくるようになった。彼女はその時、いつも「作り過ぎちゃって」なんて言って、最初の時のような肉じゃが、あるいはカレーやシチュー、餃子やコロッケなんかを持ってきてくれた。


 もちろん本当に言葉通り、作り過ぎてる、わけではないことなど分かっている。

 それが恋愛感情によるものかどうかはまだ分からないし、もし違っていたら恥ずかしいので聞くことはできないが、彼女が俺に多少なりとも興味を持っていることは間違いないだろう。


「頑張る学生さんの応援になれたらな、って思って」

 千里さんは、俺にそう言っていた。すこし照れたように。


 こうやって数日に一度訪ねてきてくれるわずかな時間以外に、俺と彼女との関わりは一切ない。彼女を部屋に招いて、大体一時間くらいだ。どうでもいい雑談をしながら彼女の手料理を食べて、そして彼女が帰っていく。肉体関係はない。千里さんの感情が好意なのか善意なのか分からなくて、そういった関係に、進展しそうな気配もない。俺が積極的になれない理由は、実はもうひとつあるのだが……。


 そもそも俺は千里さんのことを、いまも、よく知らないままだ。


 雑談の時も俺ばかりが話していて、いつも彼女が相槌を打っている。俺としては千里さんのことも、もっと知りたいので、話を振ってみるのだが、彼女は自分に関することをかたくなにしゃべらない。


 まず千里さんの年齢さえも分からない。彼女は何歳なのだろうか。外見で判断するなら、俺と同い年か、すこし年上くらいだろう。年下ということは、まずないはずだ。大学一年の俺より年下になると、それはもう高校生になってしまう。高校生には見えない。そもそも高校生が隣人に、「肉じゃが、作り過ぎちゃいましたぁ。てへっ☆」なんてふうに夕飯を持ってくるだろうか。ちなみに、てへっ☆、は俺が脳内補完しただけで、当然、千里さんはそんなこと言っていない。


 じゃあ大学生なのか、と考えてみるが、それはそれで違うような気がする。


 だってそれなら、

『頑張る学生さんの応援になれたらな、って思って』

 なんて言わないだろう。たぶん。


 まぁもしかしたら面倒見の良い大学の女性の先輩が、頑張る後輩男子に、部屋も隣になったことだし、と食事を作ってあげる、なんてことも、可能性としては、無いとは言い切れないが、残念ながら俺にそんなことをしてくれるようなひとはいない。逆に作って、と言ってきそうな先輩ならいるが。


 女性に年齢を直接は聞けないので年齢不詳だ。じゃあ、「仕事は何してるのか?」と聞けばいいのだが、それもなんとなく聞けないまま、いまにいたる、という状況だ。俺が彼女自身の話に持っていこうとするたび、彼女から、聞かないで欲しい、という圧を感じるからだ。もちろん俺が勝手に思っているだけで、彼女には、そんなつもりもないのかもしれないが。


 そして千里さんについて知りたくて、まだ不明なことで、何よりも気になっていることがある。

 本当に千里さんはひとり暮らしなのだろうか、と。

 声が、聞こえてくるのだ。隣の千里さんの住む部屋から。


 とはいえ、俺の住むアパートはそこまで壁が薄いわけでもなく、隣の部屋から声が聞こえてくるとすれば、それなりに大きな声である必要がある。


 聞こえてくるのはいつも千里さんが誰かと話している声で、相手の声は全然聞こえてこない。そしてその千里さんの声が、本当に目の前にいるこの優しい雰囲気の女性と同一のものなのか、と考えてしまうほど、強く激しい声なのだ。最初は別の女性かとも思ったが、しゃべりかたの癖とかは、間違いなく千里さんの声だった。


 誰と喧嘩しているのだろう。もしかして彼氏から暴力でも振るわれているんじゃないだろうか。両親や兄弟姉妹と一緒に暮らしている可能性もあるが、あまりそんな感じはしない。ただの勘ではあるのだが。


「どうしたの? 私の顔をじっと見て」

 今夜は特にそんなことを考えながら、千里さんと話していた。だから、だろう。おそらく心配の色が混じっているのだろう俺の表情を見て、彼女が小首を傾げていた。


「……いえ、ちょっと考え事を」

 その日は彼女が帰った後も、俺はずっと千里さんのことを考えていた。俺のところに千里さんが来るのは、彼女なりのSOS信号なのではないか。彼氏か、あるいは同居人なのかは分からないが、その人物から受ける苦しい思いを、俺と話すことで紛らわせているのではないだろうか、と。


 俺はむかしから妄想癖がある、とよく周囲に言われる。だからこれも、ただの考えすぎだ、と自分に言い聞かせてみても、一度根付いた考えはなかなか離れてくれない。


 俺は頭を冷やすため、外に散歩に行くことにした。自販機で買ったコーラを持って、近くの公園へ行き、ベンチに座る。


 ひんやりとした夏の夜気を浴びながら、

 何か困っているなら、力になれないかなぁ、

 と思いながら、俺は慌てて首を振る。まだ困っているかどうかも分からないのに。これじゃあまるで、彼女との距離を縮めるために、俺が彼女の不幸を願っているみたいじゃないか。


 アパートの外から、何気なく千里さんの部屋の窓を見上げると、カーテンにはすこし隙間ができていて、何者かが動く姿が一瞬、目に入った。遮光カーテンで人影までは見えない。


 何者か……。

 普通に考えれば、千里さんだろう。だけど俺自身のさっきの妄想があるせいで、別人という可能性を拭い去ることができない。


 あぁまた変なことを考えすぎている。こんなにも悩むなら、もういっそ、勇気を出して聞けばいいだけなのに。俺の元々の性格もあるだろうが、何よりも直接聞けない理由は結局、深く踏み込むことで、彼女が離れていくことが怖いからなのだろう。

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