第4話 生き直し

 しばらくして、さおりの噂を聞いた。その話をもたらしてくれたのは、さつきだった。

「彼女、あれから結局流産したんだけど、それから少し体調を崩して病院に入院していたの」

「それは大変だったね。どれくらいの間、入院していたんだい?」

「半年くらいだったかな? その時に知り合った男性がいて、その人と結婚したらしいのよ」

 修平は驚いた。

 本当なら、驚いている表情をさつきには知られたくないと思うはずなのに、驚きを隠す気にはなれなかった。さつきも修平の驚きの表情を見て、さほどビックリはしていない。当たり前だと言わんばかりの表情だった。

「でも、さつきさんはさおりさんのことを今、『結婚したらしい』って言ったけど、結婚式には呼ばれていないの?」

「ええ、さおりは披露宴はしていないの。教会で二人だけで結婚式を挙げただけだって言っていたわ。私も深くは聞かなかったけど、さおりらしいとは思ったわ」

「彼もそれでいいって思ったのなら、それでよかったんでしょうね。でも、私にはその人にも何か人には言えないような苦悩があるような気がするな」

「会ってもいないのに、そう思うんですね?」

 さつきは意地悪っぽく微笑みながらそう言ったが、その表情から、自分も同じ意見であることは修平には察しがついた。

「ええ、さおりさんの性格を思うと、何となくそんな感じがしたんですよ。それに病院で知り合ったというのも、何か神秘的な感じがしてですね」

「そうですね。病人同士ということですからね」

「さつきさんは、その男性と会ったことはあるんですか?」

「ええ、一度だけさおりが退院してから会った時、彼も一緒にいたんですよ」

「どんな人でした?」

「正直、明るい感じの人ではなかったですね。寡黙な感じがして、よくこれでさおりと合うなって思ったくらいです」

 確かにさおりも寡黙な方だった。しかも、さおりの寡黙さには重さがあった。奥の深さが感じられるのだが、その奥を覗こうとしてしまうと、いつまで経っても行き着くことのない奥深い洞窟であることに気づけばよいが、気づかなければどこまでも嵌ってしまいそうな深さだった。

 修平は、途中で我に返ったことで、何とか深みに嵌ることはなかったが、中には深みに嵌ってしまった人もいるかも知れないと思った。それが、さおりの流産した子供の父親であり、今度結婚した相手だということになるのかも知れない。

「寡黙というのは、奥の深さを感じさせますね」

 と修平がいうと、

「そうですね。でもさおりの寡黙さは、奥深さの重みに気づく人でなければ、その奥深さに嵌り込むことはないと思うんです」

 さつきの話は、修平の考えていることと少し違っているようだ。さつきが一体何を考えさおりを見ているのか、修平には想像がつかなかった。

 どちらかが正で、どちらかが誤であるとは、一概には言えないような気がする。どちらも誤である可能性もあるし、ひょっとすると、どちらも正なのかも知れない。

――何を持って正とするか?

 などというのは、当事者の目線でも、まわりからの目線であっても違ってくるものだ。そう思うと、修平はさつきの話を、自分の考えとは違うということで、他人事のような目で見ることはできないような気がした。

 さつきと再会して思ったのは、

「さつきと裕子を比較して、裕子の方が重たく、さつきの方が軽い」

 と単純に思っていたのだが、

「実際には、さつきが軽いというよりも、さつきは裕子に比べて柔軟で、汎用性に長けている」

 と感じたことだった。

 こうやって、さおりの話をしている時、自分との考えの違いをあからさまに感じられる会話は、さつきのことをちゃんと理解できていなければ、

「ただ、考えの違う人だ」

 としてしか思えなかっただろう。

 会話に出てくる人も、会話の内容が、自分の思っていることと、ちょっとだけのすれ違いであったとしても、受け取る相手は、まったく違った人物像をその人に抱いてしまい、大きな勘違いを生んでしまうことになりかねない。

 裕子には、そんなところがあった。

 裕子と付き合っていても、絶えず考えていることは、

――この人は、一体何を考えているんだろう?

 という思いだった。

 付き合っている相手に絶えずそんな思いを抱かなければいけないというのは、実にやるせないもので、

――付き合っている相手なんだから、そんなことはない――

 と、無意識に自分の思いを抑え込んでいたのかも知れない。

 考えていたというのを今分かるのは別れたからであって、付き合っている時は、そんな思いを必死に覆い隠してきた。覆い隠すには何かが必要で、その時々で違っていたのかも知れない。だから、裕子と付き合っていた時の印象は、別れてからはほとんどなかったのだ。

 どんなことを考えていたのかすら思い出せない。別れた原因を、

「しっかりと相手を見ていなかったからだ」

 と思っていたが、実はそうではない。

 本当はちゃんと見ていたはずなのだ。しかし、考えを押し殺そうとするあまり、無意識に抑え込むことに必死になり、覆いかぶすことに躍起になっていた。覆いかぶされた思い出が表に出るはずもなく、修平は本当は重くて濃かったはずの裕子との関係が、闇に包まれた得体の知れないものだったように感じられ、なるべく思い出さないようにしようという意識が働いたに違いない。

「こんな男女の関係って、誰も自覚していないだけで、意外と多いのかも知れないな」

 と感じた修平だった。

――もし、最初に付き合っていたのが裕子ではなく、さつきだったらどうだっただろう?

 と思うこともあった。

 裕子とは、あまりうまく行っていなかったのは事実だが、裕子が修平のことを好きだったのも紛れもない事実だった。

 修平が自分を差し置いてさつきと付き合っていたとすれば、裕子の性格からして、何をしたか分からないだろう。それを思うと修平はゾッとするが、それが嫉妬から来るものだということを、修平は頭では分かっていても、自分に置き換えて考えることはできなかった。

 だが、その時修平は、

――もし、裕子が自分とさつきが付き合うようになったら、どんな気分になっていたか、分かるような気がする――

 と思っていた。

 裕子は、今から思えば猜疑心の強い女だった。ひょっとすると、別れる原因になった重苦しい空気に一つの要因に、

「さつきと自分への嫉妬」

 というものがあるのではないかと思った。

 裕子の重苦しい空気の奥を覗くことは恐ろしくてできなかったが、少しでも横から見る勇気と余裕が自分にあったら、そのことが分かったかも知れない。

 分かったとしても、その対策ができるかどうかは二の次だが、分かるために必要な有機と余裕を持つことは、困難を極めることであろうと思った。

 もし、そんなことが容易にできるのであれば、世の中の男女が別れる比率は、かなり低くなっているかも知れないと思った。

 だが、これも考え方だが、それはそれでいいと思っている。

「出会いの数だけ別れがあり、別れの数だけ出会いがある」

 という話を聞いたことがあるが、別れの数が多いから出会いの数も多いというものだ。

 別れの数が少なくなってしまったら、出会いの数は減ってしまう。矛盾していない当たり前の理屈なのだが、簡単に、

「はい、そうですか」

 と言えない複雑な心境から、思わず苦笑いが出てしまいそうだ。

 そういう意味では、嫉妬というのは、「必要悪」なのかも知れない。嫉妬によって別れる人が生まれる可能性は非常に高い。しかも、嫉妬というのは、別れる時にしこりを残すことも多く、そのため、

「あまりいい別れではない」

 と言われるが、確かにそうだ。

 だが、円満に別れることができても、まだ相手に未練を残している場合もないとは言えない。そのため、円満でありながら、完全な別れ出ない場合は、後々にしこりを残してしまい、新しい人と付き合い始めても、三角関係に陥ってしまったり、結婚してしまったあとでは、不倫ということにもなりかねない。そうなってしまえば、それこそ悲惨だと言えるのではないだろうか。

 後々にしこりを残さないという意味でも、嫉妬は必要なものだとは言えないだろうか。嫉妬は確かに気持ちのいいものではないが、元々人を好きになるという感情と相関関係にあるもので、切っても切り離せないものだと言える。修平は今までにも何度か嫉妬したという意識はあるが、そのたびに、

「悪いことなんだ」

 と自分に言い聞かせ、誰にも知られないように心がけていた。

 そのくせ、人が誰かに嫉妬しているのに気づくことは多い。見ていて、

「気持ちのいいものではない」

 と感じるのだが、考えてみれば、

「自分が他の人を見て見えるのだから、自分のことを隠そうとしても、他人からは容易に見えるものなのだ」

 と言えるだろう。

 修平はさつきから、さおりが結婚したという話を聞いて、どこか気持ちの悪さを感じた。悪寒にも近いもので、ゾクゾクしてくるものだった。それがどこから来るのかすぐには分からないと思っていたが、頭によぎった言葉が、そのすべてを表していた。

――嫉妬――

 その言葉を感じたのは、さおりが結婚したということを聞いた瞬間だった。胸の鼓動が激しくなり、一瞬にして顔全体が沸騰してしまったかのように熱くなり、思わず頬に掌を押し当てたほどだった。

 修平がさつきの話を聞いて、思わずさおりの顔を思い出そうとした。しかし、シルエットに浮かんだその表情を思い出すことができなかった。

――まるで夢の中のようじゃないか――

 起きている時、誰かの顔を思い出そうとして思い出せないことは何度もあるが、シルエットになってしまった顔を想像することはなかった。シルエットを思い浮かべるのは、夢を見ている時だけだったからだ。

――どんな顔をしていたんだっけ?

 起きている時に顔は思い出せなくても、どんな表情が似合っていたかという意識だけは残っていた。だからどんな顔だったのかということを感じることはないのだが、シルエットで思い浮かべてしまうと、

「表情がない」

 という状態で思い出しているので、それ以上を想像することはできない。

 表情がないというのは、無表情だというのとは全然違うものである。

 ただ、ここでいう表情がないという表現は適切ではないかも知れない。

「顔がない」

 と言った方が、無表情との比較という意味では当て嵌まるのかも知れないが、そう言ってしまうと、

「首から上がない」

 というグロテスクな発想に繋がりかねない。

 だからこそ、ここでは敢えて、

「表情がない」

 という表現をしたのだ。

 修平は、考えてみればさおりの顔を、萩で見た時の苦悶に歪んだ顔しかほとんど印象に持っていなかった。決して綺麗、可愛いというたぐいのものではない。それなのに、どこから嫉妬を抱くようなイメージになったのか。それは、

――シルエットに浮かんだ「表情がない顔」を思い浮かべたからなのかも知れない――

 と、感じたからだった。

 さおりが結婚したというのは、どんな男性なのか? さおりのことを気に入る男性とはどんな男性なのか、修平には想像もつかなかった。

「ひょっとすると、俺に似ている男性なのかも知れないな」

 と、感じたが、その思いが自分にとって、

「それでいいんだ」

 と容認できるものなのかどうか分からない。

 嫉妬しているのだから、容認できるはずないはずなのに、どうしてそんな気分になったのか、自分でも分からない。修平には分からないことだらけのさおりなのに、いや、分からないことだらけだからこそ気になるのか、そう思うと、自分が感じている嫉妬は、他の人に対して抱く嫉妬や、他の人が抱く嫉妬とも違っているものに思えて仕方がなかった。

 修平は、それからしばらくして、後姿がさおりに似た女性を見かけたので、思わず追いかけた。

「一体、俺は何をやっているのだろう?」

 と、自問自答してみたが、答えは返ってこなかった。

 追いかけてはいけないと思えば思うほど、足は彼女を追いかける。

「ここで見失ったら、ずっと後悔することになる」

 という思いだけはあった。

 さつきから話を聞いた時は、確かに嫉妬のような感情が浮かんだのは否定できない。しかし、さつきとその日別れてすぐから、さおりへの思いは急激に冷めていった。そんなに大きな盛り上がりではなかったはずなのに、急激に冷めるというのもおかしなもので、

「このまま、底なしの奈落に落ち込んでしまうのではないか?」

 という思いを抱くのだった。

 それは、思い抱いたのがさおりだったからだというわけではなかった。その時の精神状態がそんな気にさせたのかも知れないと思った。さつきとの会話には、修平の中で何かを感じさせるものがあるが、気持ちが盛り上がる時、普段なら一気に盛り上がるのに、相手がさつきの時は、一旦立ち止まって振り返る余裕があるのを感じさせられた。

 ただ、その時に、本当に立ち止まるかどうかというのは、修平自身の精神状態に委ねられる。やはり最後は、自分なのだ。

 修平は、その女性を追いかけながら、

「さおりだと思っていたけど、何となく違うような気がする」

 と感じた。

 少しでも違うと感じると、もうその女性をさおりだとは思えなくなっていた。それなのに、修平は追いかけることをやめない。本当にさおりではないことを確かめたいからなのだろうか?

 いや、そうではない。相手が誰なのか確かめたい気分でもあった。知っている人に思えてならないからだ。もし、その人が自分の知っている人だったとしても、修平に声を掛けるだけの勇気はなかった。もし、その人であれば、声を掛けた瞬間、間違いなく不愉快な表情をされるはずだという思いがあったからだ。

 その人が不愉快な表情になるのは、振り返った時に目の前にいるのが修平だからではない。まったく知らない人であっても、声を掛けられた時点で相手は不愉快な気分になり、その気持ちを露骨に表に出す以外に、他の表情はその人には許されないものではないだろうか。

 修平は、

「つかず離れず」

 の距離を保っていたが、

「次第に離されてるのではないか?」

 と感じるようになっていた。

 近づいているはずはないと思っていたが、離されているとは思わなかった。ただ、相手の姿は小さくなっているわけでも大きくなっているわけでもない。そのため、

「離されているわけではない」

 と、感じるのだった。

――そういえば、昔にも同じようなことがあったな――

 あれはいつだったか。好きな人を思わず追いかけてしまったことがあった。

「これじゃあ、ストーカーじゃないか」

 と分かってはいたが、自分では制止することができなかった。

「つかず離れず」

 の思いだけを胸に、前を見ながら歩いている。

 そんな時、不意に相手が角を曲がった。曲がる様子などまったくなかったのにである。

 ビックリした修平はその角まで一気に走って近づき、こっそり、角から曲がった道を覗いてみた。

「何してるの?」

 完全に相手に気づかれていたようだ。

 修平は何も言葉に出すことができず、その場に立ち尽くしている。まるでまな板の上の鯉のように、修平にはその場を仕切る資格はまったくなかった。

 修平は、相手に睨まれながらも、なぜか後悔はしていない。こうなることは最初から分かっていたような気がするし、

「やっと、自分では制止できない行動を、彼女が止めてくれた」

 という意識が強かった。

 どうして自分で、制止できなかったのかというと、この時のまな板の上の鯉のような状態に、自分で自分を追い込むことはできないからだ。いくら相手に睨まれたり嫌われたりしても、自分ができない制止をしてくれるのであれば、それも仕方がないと思うようになっていた。

 もちろん、その時の彼女とはうまく行くはずもなく、最悪の形での結末を迎えた。

――きっと俺のことは、彼女の友達の間で噂になっているだろうな――

 と思った。

 彼女は友達も多く、彼女の口から洩れた悪評は、瞬く間に広がることだろう。それだけ彼女はまわりの信任が厚いようだ。

 だが、逆の立場になればどうだろう?

 自分が彼女に弱みを握られてしまえば、あっという間に、自分が悪者であることを宣伝されてしまう。それを防ぐには、彼女と関りにならないか、あるいは関わってしまったのなら、彼女を敵に回さないようにするしかない。精神的には完全な主従関係である。

 修平の悪評は、想像通り、結構触れ回っていた。それ以降、友達ができることもなく、友達だった人も少しずつ離れていった。だが、考えてみれば、

「残った連中が、本当に一番自分との信頼関係を築くことができると思ってくれている人だけだ」

 と思った。

 少なくとも、親友だと言える相手であろう。その中からどんどん絞られていき、大学卒業前くらいには、やっと本当の親友ができた気がした。

 ただ、卒業してしまうと、なかなか連絡を取り合うこともなくなった。何とも皮肉なことである。

 修平は、さおりに似た女性を追いかけながら、かつてのことをいろいろ思い出していたが、追いつけないと分かると、もうそれ以上追いかけることをやめた。目の前を歩いているようで、なかなか追いつけないという思いは、もうしたくないと感じたからだ。ハッキリとした確信があるわけではないが、同じようなシチュエーションを夢で見たような気がして、結果として、追いついてしまったことを後悔したという意識があったからだ。修平は、その時、やっと夢から目が覚めたのかも知れないと感じた。

 布団の中で目が覚めた時は、夢を見たという意識はあったのに、どんな夢だったのか、まったく覚えていない。ということは嫌な夢ではなかったのだろうが、後悔する夢だったようだ。

 今までにも思い出せない夢を楽しい夢だと位置づけていたが、本当は、

「怖い夢以外だ」

 という意識を持つのが正解なのだと、その時に感じたのだ。

 以前から、似たような気持ちになったことはあったが、どうしても考える時は目が覚めた意識が曖昧で、朦朧としている時なので、確証というには程遠い感覚だったのだ。

 追うのをやめて、踵を返して元来た道を歩き始めた。振り返ることもなく、ひたすら歩いた。

 それでも、どうしても気になってしまうからなのか、正面をまともに見ることができなかった。

 さっきまで歩いていた道だという認識はない。初めて歩いた道ではないはずなのに、まるで知らない道を歩いているような気分になっていた。

 確かに同じ道でも、普段と違う時間帯に歩くと、まったく違った道に感じるということはよくあることだ。よく歩く道だけに、知らない時間帯が想像もつかないからだろう。この道は、学校に行く時に使っていた道だった。彼女を追いかける時は帰り道になるので、夜ということも珍しくはなかったが、逆の道は、学校に出掛ける道なので、夜はほとんど考えられなかった。そういう意味で、まったく知らない道に思えてきたとしても、それは仕方のないことに違いない。

 夜に歩くと、昼間よりも、道も広く感じるし、空間も余裕があるように思えた。逆に言えば、幾何学的な区画された感覚にはならないということでもあった。

 一つ考えられることとして、

「夜には影がないからだ」

 ということが言える。

 昼間には、太陽の角度によって、影が根元から靡いている。陰の太さや影の濃淡によって、どれほどの広さがそこに広がっているかということは、想像できる。

 しかし、影のない夜だと、街灯の明かりや、家から洩れる明かり、さらには、車のヘッドライトなどのような、固定的なものではないため、影ができたとしても、それは流動的である。

 それを感じさせないようにすると、すべてが影に見えると思わなければ、不気味な感覚から逃れることはできない。修平はそのことを子供の頃から分かっていたはずなのに、そのことを敢えて考えようとはしなかった。

「夜の感覚は曖昧である」

 ということを、理論づけて考えることをしなかったのだ。

 当然、影について考えることもない。

「慣れてくれば、そのうちに距離感もつかめてくるさ」

 と、考えていた。

 その日は結局、そのまま家に帰った。スッキリとしない気分だったので、

「今日は夢見が悪いだろうな」

 と、目が覚めた時に、怖い夢を見たという意識を持ったまま朝を迎えると思っていた。目が覚めるにしたがって、忘れていく夢ではないと思っていた。

 しかし、その日、夢を見たという意識はなかった。本当に夢を見なかったのか、それとも、夢を見たはずなのに、夢を見たということすら覚えていない状況なのか、分からなかった。

 今までであれば、

「今夜、夢を見るだろうな」

 と思って眠りに就いて、そして朝目を覚ました時、どんな夢であれ、

「夢を見た」

 という感覚だけは少なくとも残っていたのである。

 次の日、修平は同じようなシチュエーションに誘われた。

 朝から前兆があったというわけではないので、夜のその時間になると、昨日の出来事を忘れてしまっていた。

 気が付けば、昨日と同じ時間、同じ場所にいた。それは結果論であり、目の前に、

「どこかで見たことのある後姿をした女性」

 が通り掛からなければ、そのまま、似た人を追いかけたという事実さえ、決して思い出すことのない記憶の奥に封印されたに違いない。

 まったく同じシチュエーションであることで、これが昨日と同じだということが分かった。少しでも違っていれば、過去に同じことがあったとしても、それがいつのことだったのか、ハッキリと思い出すことはできなかったであろう。

 この感覚も、小学生の時に同じ感覚に陥ったことがあったことを思い出したから感じたことだった。

 意識や記憶に通じることは、思い出しても、すぐに忘れてしまうことはない。記憶にしても意識にしても、今自分で理解できるまで忘れることはなかった。逆に言えば、理解できてしまうと、思い出したことは意識から消えてしまっている。またこうやって思い出したということは、理解できない何かが修平の中に芽生えたということであろう。

 最初のシチュエーションが同じであっても、昨日とまったく同じことが起こるとは限らない。

 なぜなら、今日は昨日ではないからだ。いくら同じシチュエーションであっても、日が違うのだから、どこかしらまわりの状況は変わっているはずだ。昨日も今日も、通りを歩いている人は誰もいなかった。昨日は気づかなかったのに、今日は気が付いた。それだけでも昨日とは違っている。

 つまり、修平本人の精神状態が違っているからである。少なくとも、昨日と同じシチュエーションを感じているという時点で違っている。昨日は、その前の日に同じシチュエーションだなどとは思っていないからである。

 それでも、進んでいる状況は昨日とまったく同じだった。昨日と同じところで、

「これ以上、追いかけないようにしよう」

 という気持ちになった。

 今日も昨日と同じように、追いかけないようにしようと思うに違いないという意識はあったが、どこでそのことを感じたのか、その時点にならなければ分からなかった。

「今日感じていることは、すべて昨日の出来事ありきなんだ」

 と、思えた。

――そうなると、昨日の出来事、あるいは今日の出来事、本当にどちらも必要なことだったのだろうか?

 という思いが頭をよぎった。

 同じことを繰り返す必要があるのであれば、その理由を教えてほしい。そうでなければ、昨日の出来事なのか今日の出来事なのか、どちらかが、まったく無意味であるという結論にした達しないのだ。

 修平にとって、そのどちらかが夢での出来事だとすれば、気が楽である。もし、今日が夢であるとすれば、昨日見たことが夢となってもう一度再現されたことになり、もし、昨日のことが夢であれば、昨日の夢は、今日の現実を予告する「予知夢」のようなものだと言えるのではないだろうか。

 気が付けば、距離が縮まっていた。追いかける修平の方はまったく気づかなかったが、追いかけられている女性の方が追いかけられていることが分かったようだ。

 彼女は立ち止まった。修平も驚いて立ちすくんだ。

 相手が止まったから止まったわけではない。足がすくんで動けなかったのだ。

 修平の目から見ていると、ゆっくりと振り返った彼女の顔はやはり分からなかった。

 相手の顔が分からないことに、

――昨日と同じだ――

 と感じたが、どこかが違うという気もした。

 彼女はこちらに近づいてくる。どうやら、修平のことを知っているようなのだが、声がするわけでもなく、気配だけで嬉しそうな顔になっているような気がしていた。

 懐かしい人にでも会ったかのような表情に、修平は小学生の時のお姉さんを思わず思い出した。それは、その時に癒しを感じることができる人を想像した時に、最初に出てきた表情が、お姉さんだったのだ。

 しかし、次の瞬間、お姉さんではないということが分かった。自分がお姉さんを想像した瞬間に、目の前の女性の表情に翳りを感じたからだ。

――俺が違う人を想像したことで、少しショックを感じたのかな?

 と思った。

 そして、次に癒しを感じることができるのが誰なのか、すぐに想像はついたのだが、その時はすでに、目の前の女性の表情を感じることができなくなっていた。

――あくまでも、俺に相手が誰なのか、知らせないつもりなのか?

 この場を仕切っている神様がいるとすれば、その人の気持ちが分からない。きっと神様の考えていることに逆らってしまったことで、目の前の女性の正体を、知らせないようにしているのかも知れない。

 修平がその時に誰を想像したか、夢の中では分かっていたつもりだった。しかし、目が覚めるにしたがって、夢の内容は忘れなかったくせに、二人目に誰を想像したのか気沖にはなかった。

「その人を目の前にすれば、思い出すかも知れない」

 と、自分の心がそう言っているように思えたが、相手がどう思っていたのか、修平は、夢に出てきた女性は、自分が夢の中で作り出した虚空の世界の人だとはどうしても思えなかった。お互いに夢を共有しているという思いが強かったのだ。

 それから少しして、修平は街中で、

「どこかで見たことがある」

 と思う女性を見かけた。

 その人が誰だかすぐに分かったが、声を掛けてはいけない相手だという認識だった。

「もし、声を掛けると、嫌な顔をされるに違いない。あの人のそんな顔、見たくはない」

 と思った。

 だが、相手も修平に気づいた。

「あら、こんにちは。会社からの帰りですか?」

 スーツにネクタイ姿の修平に、彼女は笑顔で答えた。

「ええ、そうなんですよ。今日は早めに帰れたので、今くらいの時間になったんですけどね」

「私も行動が夕方からになるのは、昔からのくせですかね」

 と言って笑った。

 彼女は、風俗で何度か誘わせてくれたりほだった。

「声を掛けると悪いかなと思ってたんだけど、君の方から声を掛けてくれるなんて感激ですよ」

「そう言ってくれると嬉しいわ」

 そう言って微笑む彼女を見て、

――この癒しなんだ――

 と、自分がいつも求めているものをすぐに思い出した。

「私、お店辞めたんです」

 そう言って、ホッとしたような表情になった。

「今はどうしてるの?」

「親戚の人がやってるお花屋さんを手伝っています。元々お花が好きだったし、前に少しは勉強もしたので、それを生かすことができて、よかったと思っています」

 お店の小部屋での淫靡な雰囲気もよかったが、淫靡な雰囲気の中で、普段の彼女を無意識ながらに想像しようとしていた自分を思い出した。

――俺が彼女に感じていた癒しは、淫靡な彼女なのか、それとも、今目の前にいる彼女のような雰囲気を想像しながら感じていたものなのか、どっちなんだろう?

 りほのことを多面的に見ていた自分を思い出したのだ。

「私、名前は弥生って言います。りほというのは、源氏名ですね」

「弥生ちゃんか、いい名前だね。三月生まれなの?」

「ええ、そうなんです。親がつけてくれた平凡な名前です」

 と言って、少し俯き加減になった。

 せっかく親がつけてくれた名前を変えてまで働いていた風俗。違う名前でお店に出ていたことを、少し恥じているのかも知れない。

「お店にいる時の弥生ちゃんから、いっぱい癒しをもらったと思っているよ。これからは、お互いに癒し合えたらいいな」

 思わず、口説き文句になってしまったことに焦りを感じたが、口から出てしまったものは引っ込めるわけにはいかない。せっかく口にした正直な気持ちなのだから、その気持ちを大切にしながら、弥生とは正面から向き合っていきたいと思っている。

「私は、お店好きだったんですよ。あの狭い小部屋に一人でいる時間もあったんだけど、待ち時間がどれほどあっても、考え事をしていると、嫌な気はしなかった。もし、少しでも嫌な気分になっていたとすれば、私はあのお店では続かなかったと思うの」

「一人の時間って、僕も独特なものだって思うんだよ」

「私は、人と一緒にいる時間よりも、一人でいる時間の方が大切だって思っています。特に何かを考えている時というのは。必ず前を向いているんです。私は記憶の半分が欠落していると思っているんだけど、一人で考え事をしていると、他の人と同じなんだって思うんですよ。だから、りほでいる時も、本当の自分なんだって思っていました」

 自分に対して、負い目があったり、働きながら惨めな思いを感じていたりすると、絶対に相手に癒しなど与えられるものではないだろう。そういう意味では、りほがイヤイヤ仕事をしているわけではないということは分かっていた。ただ、記憶の半分が欠落していると言っていたりほは、その欠落した部分が自分にとって必要なものなのか、いらないものなのかが分かっていないことで、たまに一人の世界に入っていくのが分かったような気がした。

 りほが店の中で、それほど指名が多くなかったというのは、そのあたりの微妙なところが影響しているのかも知れない。

 風俗に通っている男性は、自分に対しての疑心暗鬼が大きい人もいたりする。そんな人は、相手の女の子に自分を重ねてみたりすることがある。そのため、

「俺と重なってしまうと嫌だな」

 と感じる。りほにそう感じた人も結構いたのかも知れない。修平は感じなかったが、りほを見ていて微妙だと思ったことは何度かあった。微妙だと思える分だけ、修平には気持ちに余裕があったのかも知れない。

 今は、りほではなく、弥生ちゃんだった。ただ、相変わらず記憶の半分が欠落していることに変わりはないことが気になっていた。

「記憶の半分が欠落しているって言ってたけど、今も同じなの?」

「同じかどうかは、自分でも分からないんだけど、何が違うのか、説明ができないの。自分で理解できていないのに、人に説明なんかできるはずはないわ」

「そうなんだ」

「一つ言えることは、最近、欠落していたと思っている記憶が戻りつつあるような気がするの。まったく繋がりのないところから、湧いて出た記憶があるんだけど、それが欠落していた記憶だって思うの。その中で、あなたが出てきた記憶があったんですよ。今日、声を掛けたのも、私の記憶に出てきたその人が目の前にいたから、思わず声を掛けたんだけど、すぐにはそれが私がお相手した男性だと気付いたのは、あなたの表情を見てからなんですよ」

「というと?」

「最初、あなたは私に声を掛けようかどうしようか迷っていたでしょう? その時はすぐには欠落した記憶の中の人だって思わなかったわ。でも、私と目が合った時、私は声を掛けなければいけないって本能的に感じたの」

「どうしてなんだい?」

「あなたの目の中に、私の姿が写っている気がしたの。そして、頭の中での想像なんだけど、その私の目の中に、またあなたが写っていて……。自分の両側に鏡を置くと、果てしなく自分の姿を映し出すでしょう? まさにそんな感じなのかしら」

 りほは、どこか神秘的なところがある女の子だと思っていたが、弥生ちゃんも同じだ。りほの時には、雰囲気だけで神秘的なことを口にすることはなかったが、弥生ちゃんと話をしていると、今まで見ることのできなかったりほの裏の部分を垣間見ることができるのではないかと思えてきた。いまさら、りほの裏の部分を垣間見たとしても仕方のないことだが、弥生ちゃんと向き合うには、りほの裏の部分を垣間見る必要があるような気がしていたのだ。

 弥生の方も、修平をずっと見つめている。

 自分がりほであった時を知っている人で、弥生に戻ってからの自分を知っている人は、修平一人だ。弥生からりほになった時のことを知っている男性はいたのだが、その人は、すでにりほの前にはいなかった。

「皆私が悪いんだ」

 と、思っているが、後悔はしていない。

 その男性は、弥生の表の部分しか見ていなかった。裏の部分を見ようとはしなかった。弥生がりほになろうと思ったのは、弥生自身が自分の裏を見てみたかったからだ。弥生に戻った今、弥生の裏の部分を見れたかどうか分からない。しかし、りほになってみて、修平がりほの裏側を見ようとしてくれたという意識はあった。修平がりほに癒しを感じたのと同じように、裏を見ようとしてくれている修平に、自分も癒しを感じていたのだ。弥生に戻った彼女が、修平に声を掛けたのは、そんな思いがあったからだ。

 修平は、最初弥生を見た時、

――弥生が、りほの裏側なのではないか?」

 と感じた。

 そして、

――弥生がりほになったことを知ってた彼が、もし、りほの裏側を見たら、弥生が見えるだろうか?

 弥生を最初から知っている人の立場から、同じ視点で考えた時、同じものが見えるかどうかを考えてみたが、修平には同じものが見えるとは思えなかった。

 ということは、

――弥生が、りほの裏側だとしても、りほの側からその裏側を見ようとすると、見えてくるのは、弥生ではないような気がする――

 と感じた。

 一度変わってしまった環境の裏側というのは、もはや元には戻れないことを意味しているように思えた。りほの記憶が半分欠落しているのは、りほが、弥生の記憶を思い出そうとした時、環境が違っているのに、りほの目から弥生を見ようとしたことで、見えるはずのものが見えなかった。本当はそこにあるのに、見ている人がりほであったために、気が付かなかったと考えると、記憶の欠落の正体が分かってきた気がした。

 そこまで考えてくると、

――記憶の欠落というのは、弥生やりほに限らず、誰にだって起こりうることではないか?

 と感じるようになった。

 そういえば修平も、自分で思い出そうとしないだけで、思い出そうとすると、思い出せないこともあったような気がする。

「思い出すことって、怖いことなんだ」

 とかつて感じたのを思い出したが、それを感じたのは、夢の中だったように思えた。

「目が覚めるにしたがって薄れていく夢の中の記憶」

 その中に、思い出すことが怖いという意識があったように思えた。

 怖いと思うことは記憶しているはずなのに、この意識は覚えていなかった。つまり、怖いと思いながらも、恐怖とは違う次元のものだということを、自分なりに理解していたということなのだろう。

「私、本当は病気なの」

「えっ?」

 弥生の言葉を聞いて、ビックリした。しかし、ビックリはしたが、別に想定外のことを聞いたような気はしなかった。

「重いのかい?」

「ええ、今は療養中で、時々散歩が許される程度なの。お店を辞めたのも、病気が原因だと言ってもいいわ。本当はね。私はお店に入る前から、病気で辞めることになるような気がしていたの。お店に入ってすぐくらいの私は、毎日がどこかに向かって進んでいるような気がしていたわ。それがいい方向なのか、悪い方向なのか分からなくって、毎日が怖かった。部屋で夜寝る時も、怖い夢を見るんじゃないかって思って、毎日怖かったわ。その夢の中で、病気になる夢を見たの。その夢は目が覚めても、忘れてくれない夢だったわ。でも、その病気は必ず治る病気なのよ。それが夢だから治るのか、それとも本当に病気になった時、それが正夢となって、必ず治るものなのか分からなかった。毎日が怖かったわ」

「治るんだよね?」

「ええ、先生から必ず治ると言われたわ。ただし、療養には時間が掛かるって。だから、その間、精神的なケアをしないと、きつくなると言われたわ。私は一人で悩んでいた時の恐怖に比べれば、今の方がだいぶ精神的に楽なのよ。そんな時、あなたが歩いていたの。声を掛けることができたことを、私は嬉しく思うの」

 記憶の欠落の中に、

「ひょっとすると、病気のことがあったのではないか?」

 と、修平は思った。

 病気の不安を抱えていた弥生は、本能的に記憶を欠落させたのかも知れない。しかし、りほになってその裏側を見つめようとした時、弥生の本能に触れようとして、言い知れぬ不安に苛まれ、結局、また弥生に戻って、やっとりほは楽になれたのではないかと修平は感じた。

 弥生を哀れに感じた修平は、りほから弥生に戻ったのを好機に、りほが、弥生の不幸な部分を一身に背負ってくれればいいと感じた。そうすれば、弥生は助かるだろうし、自分も弥生と改めて向き合うことができる。

 まるで子供が考えそうな発想だが、それは病を患っている弥生には、

「背に腹は代えられぬ状況」

 と言えるのではないだろうか。

 神頼みの類であるが、神頼みの何が悪いというのだ。お百度参りをする気分で、祈りをりほに捧げてみた。すると、修平の心の中に、弥生に対しての恋心があることに気が付いた。

「何をいまさら」

 というべきなのだろう。りほとしては再会になるのだが、弥生としては初対面。弥生への気持ちが定まっていなくても当然のことだった。

 下心を持ちながらの神頼みに対しては、修平の中で躊躇いがあった。それは、裕子と付き合っている時にも感じた躊躇いに似ていた。

――そうだ、あの時の俺は、裕子よりもさつきの方を好きになりかけていたんだ。そのことを二人に悟られないようにしていると、次第に裕子との間がぎこちなくなっていったんだ――

 さつきと裕子、どちらに悟られても、二人が友達である以上、同じことなのだろうが、その時の修平の中では、さつきの方に悟られたくないという思いが強かった。だから、裕子との間がぎこちなくなっていき、次第に別れることになった。

 しかし、いざ別れてみると、さつきへのそれまでの思いは、どこに行ってしまったのか、好きだったという気持ちを封印してしまった。裕子と別れたことで、少し気まずくはなったが、自分の気持ちに正直になることはできるはずだった。それなのに、正直になったはずの気持ちの中に、さつきはいなかった。

――友達として――

 という気持ちも、その時にはなかった。

 友達という気持ちは、次第に戻ってきたが、あの時に感じていたさつきへの思いは、なくなっていた。それから今までに、さつきのことを好きになるということはなかったのである。

 そんな時、気になったのが、さおりだった。

 旅行から帰ってきてから、会ったりしたことはない。裕子の口から近況は聞いていたが、それも。差し障りのないことだけだった。

 さおりが誰かと結婚することばかりを想像して、想像してしまったことを、いつも後悔していた。今までに、何かを想像して、我に返った後、これほど後悔するということのないほど、さおりのことを想像すると、いつも後悔してしまう。

 さおりが流産したことが、頭の中に引っかかっている。その子供が生まれてくるげき子供だったのだという思いがあるからだろうか。不思議な気持ちだった。

 修平は、妊娠した子供が必ずしも生を受けなければいけないとは思っていない。生まれてきたことで、その人の運命は、薄幸のまま、長く生きられずに一生を終えることもあるだろう。そんな時、

――何のために生まれてきたんだろう?

 と、まわりの人は感じるに違いない。

 まわりの人から、どんなに不幸であっても、生まれてきたことを疑問に思われてしまっては、どうしようもない。修平は、そんな人こそ、生まれてくるべきではなかったと思うのだ。

 だが、もし、その人が生まれ変われるのだとどうだろう? 今回生まれてきたことで、来世の運命がバラ色であるとすれば、今回生まれたことは、決して無駄なことではない。

「人間は、生まれることも死ぬことも選ぶことはできない」

 という人がいるが、まさにその通りだ。

 生と死をいくら本人であると言って選んでしまうことができるのだとすると、前世から来世へと続いていく一つの命の運命は、歯車が狂ってしまうことになる。まるで自分で自分の首を絞めるようなものではないか。

 弥生は、自分の中で故意にりほという人間を作り出した。

 弥生が自分の運命を知っていたかどうかは別にして、りほという人間を自分の運命を受け止めてもらうという、

「呪いの藁人形」

 のような発想であろうか。

 ただ、弥生がりほをそんな風に利用していたとは思えない。弥生の中の記憶としてりほが存在はしているようだが、本当のりほを理解しているのかどうか、疑問だった。

 もちろん、弥生が今の自分の運命をりほに託すなどという気持ちでいるとは思えないが、人間の本能的なところで、りほをまるで人身御供にしてしまえばいいという、気持ちがあるのかも知れない。

 それは、本人の意志としてではなく、客観的に見ていることで、他人事として見てしまえば、罪悪感という意味では、少しは薄れてくるだろう。

 しかし、弥生に他人事という意識は感じられない。自分の中にある本能が考えたことを自分のこととして受け止めているのは事実のようだ。

 それでも、本能には逆らえないという気持ちがあるからなのか、それ以上、何かを考えるということはできなかった。

 さっきまで、弥生のことばかりを考えていて、りほに弥生の身代わりをさせればいいと思っていた自分が恥ずかしくなった。それは、りほこそが、弥生の本当の魂であり、今の弥生に宿っている魂は、彼女の前世から繋がっている「本性」ではないかと思えてきた。

 つまり、弥生が死ぬということは、りほも死ぬということだ。

 さつきの話では、さおりの容態は落ち着いているということだったのに、どうして修平は、弥生が死んでしまうという前提で考えてしまっているのだろう。それは、修平の心の中に語り掛けてくるものを感じたからだ。それがりほであることは、修平にはすぐに分かった。

――俺は、りほを中心に見ていたんだ。りほの後ろに弥生がいても、その存在だけは感じていたが、弥生の後ろにりほがいる時、りほは弥生と重なって見える。りほを感じた時点で、弥生はりほになってしまっているのだ――

 と思った。

 今修平は、弥生の後ろにもう一人誰かを感じる。そこにいるのは、赤ん坊だった。それが修平には、さおりが流産した赤ん坊に思えてならない。りほは、赤ん坊の生まれ変わりになるのだ。

 赤ん坊が見えると、今度は弥生を正面から見ることができた。

 弥生の後ろにも誰かがいる。その人がさおりであることは修平には分かった。

――弥生の中で、さおりは生き直しているんだ――

 さおりは死んだわけではない。しかし、子供を流産したこと、そして子供の父親をバイク事故で亡くしたこと、それらを忘れて新たな人生を歩もうとしている。それまでのさおりは、どこかで生き直すことができるのだろう。それが、弥生ではないのだろうか。

 生まれ変わりと生き直し、人間はどちらかを選ぶことができるのだろうか? 少なくとも、修平は、人間はどちらかに進むことができるのだと思いたかった。

 弥生は、修平を正面から見つめていたが、そのうち修平の後ろを気にしているようだった。

――俺も、誰かの人生を生き直しているのではないか?

 と思い、修平は恐る恐る後ろを振り返ってみるのだった……。


                  (  完  )

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「生まれ変わり」と「生き直し」 森本 晃次 @kakku

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