境界線上のレイクイエム(3)

 幾夜は途中で買ったホットドリンクを朝子に渡し、同じく買ったタオルをそっと朝子の頭にかぶせた。そのまま朝子は幾夜に手を引かれるまま移動して、ある家の前に立っていた。

 どこだろうと思った朝子が表札を見ると『清水』とあった。そうここは幾夜の家であった。ただいま~と玄関の扉を開ける幾夜に手を引かれて清水家の敷居をまたぐ。

「母さんただいま~、雨に降られたからお風呂湧かして欲しい、あと服乾かすのにどれくらいかかる?」

 パタパタと奥から誰かが出てくる気配がした、玄関に現れたのは幾夜の母親だった。

「あら、お客さん連れてきているの?どうぞ上がって、雨に降られて大変だったでしょう、すぐお風呂湧かすからね。」

「妹の服あったっけ?服乾くまで着る服用意してくれる?」

「はいはい、わかりましたよ」

「ほら、北浜上がって」

 雨でずぶ濡れのまま上がるのは申し訳なかったけれど、どうぞどうぞと清水親子に言われたので、お邪魔しますと言って家に上がらせてもらった。

 お風呂に先に入らせてもらって、妹さんの服を借りて自分の服が乾くまでと幾夜の部屋に通された。幾夜の母親があたたかい紅茶を持ってきてくれた。ごゆっくりと言った母親は幾夜によく似た柔らかい顔と声だった。

「落ち着いた?」

 何をしようとしていたのか聞かずにいてくれるのが心底ホッとした。もしかしたら察しているのかもしれない、察しているのであればなぜ朝子が死のうと思った事がわかったのだろうか、わからなかった。それでも今は幾夜の優しさに甘えていたかった。服が乾くまで今までどんな仕事をしていたのか、や趣味の話しなどをしていた。幾夜は製薬会社の営業職に就いていると言う事だった。営業で色んな土地に出張に行った話しを聞かせてもらった。朝子も過去に行った旅行の話しをした。とても穏やかに過ぎていく時間でいつまでも続けば良いのにと思ってしまった。しかしそうこうしている内に服が乾いた。着替えて清水親子にお礼を言って帰った。近くの駅まで幾夜が送ってくれた。駅に着きじゃあこれでと言う時だった。

「北浜、今度一緒に食事にでも行かないか」

「え?」

 朝子が戸惑っていると幾夜は重ねる様に言った。

「俺が会いたいんだ、駄目かな」

 朝子には断る理由が無かった。むしろ朝子も幾夜との関係をこれっきりにしたくなかった。

「わ、私も会いたい」

 そう言うと幾夜はホッとした様に笑って、よかったと言った。また後で連絡するからとその時は別れた。

 家に帰ってきた朝子は死ねなかったなと思ったが、また会いたいと言ってくれた幾夜を思い浮かべると自然に笑みがこぼれてきた。幾夜とまた会えるそう思うと嬉しかった、楽しみだった。もう少し生きてみて幾夜と過ごすのも悪くないと思えたのだった。

 それから、朝子と幾夜は食事だけで無く一緒に買い物や水族館にも行くようになった。朝子にとって幾夜と過ごす時間はかけがえのないものになり、朝子の中で幾夜の存在が大きくなっていくのは速かった。もっと幾夜と時を過ごしたい、この人の側が私の居場所かもしれない。迷子になっていた朝子が一つの拠り所を見つけ始めた瞬間だった。

 その日は朝子の方から食事に誘ってみた。自分の気持ちを伝えるためにだ。食事が終わり食後のお茶を飲んでいる時だった。朝子が話しを切り出そうとする前に幾夜がとある話しを持ち出してきた。

「北浜、どっかに旅行に行かないか」

 朝子は驚いた。旅行に一緒に行く、その意味を朝子は子供で無いのだからわかっている。

「もうそろそろ良いと思うんだ、俺の気持ちは固まっている。後は北浜次第だと思うんだ。もし、俺とこの先も一緒にいたいと思ってくれて、想ってくれているのであればこの旅行一緒に行こう?行けないのであれば、もうこれ以上会うのは止めよう」

 いつも落ち着いている幾夜だが、この時ばかりは緊張しているのだろう。穏やかな表情は硬くなり、でも何時も通り真っ直ぐ瞳は朝子を捕らえていた。朝子は柔らかく笑ってこう言った。

「一緒に行こう、清水君。これからも一緒にいたい。貴方の事が好きです、待たせてごめんなさい」

 朝子にとって精一杯の告白であった。

 朝子と幾夜の関係が友人から恋人に変わってからも、色んな所へ行った。今度はそこに旅行も含まれる様になった。朝子は仕事の面でも充実しており、ようやく前世へのこだわりを捨てて今を生きるようと思える様になってきた。初めて人生を前向きに考える事が出来た。


 順調に交際を続け、お互いの両親にも紹介を済ませた。幾夜の両親は穏やかで優しく、朝子の事を我が子の様に迎えてくれた。朝子の父親は厳しく、幾夜と対面した時も難しい顔ばかりしていたけど後で母がこっそりと、嬉しいやらで複雑なのよと教えてくれた。

 同棲を始めた頃には婚約も済ませて、次の年に結婚式を挙げる予定も立てていた。同棲をする事で初めて見えてくる相手の欠点があって喧嘩する事もあったが、その度に話し合い歩み寄ってきた。この人とこの先生きていく、朝子は幾夜の側にいる事が出来る事、幾夜と出会えた事が嬉しかった。

 ある日の夜、後は寝るだけとなった時だった。朝子はいつか聞いてみたかった事を幾夜に聞いてみた。

「ねえ、幾夜。もし過去にタイムスリップしたら何かしたい事ある?」

 朝子は自分が過去に戻ったとしても、今の状況に満足しているから、同じ道をたどるかもしれない。できれば元いた時間に戻りたいと話した。

「朝子がそんな非現実的な事を言うのは珍しいな」

 幾夜が驚いた様な表情で言った。

「良いじゃ無いたまには、で、何かしたい?」

「そうだな、大切な物を守りたいな。大切な物を無くして後悔する事は二度としたくないから」

 どこか遠くを見ている様な眼差しで幾夜は言った。

「なんだか、その話しを聞くと朝子が現在と未来の境界線を彷徨っているみたいだな」

 幾夜は少し笑って言ったが、朝子の手を握り、眼を合わせてこうも言った。

「例えば過去にタイムスリップしてきたとして、元の時間が良くても未来には戻れない、どれほどその時間が大切だったとしても。生きているのは過去でも未来でも無いんだ。今なんだよ、今を見て欲しい。俺が君の側にいる」

「大学生の時の君はいつもここではないどこかを見ていた。でも今は違う、それが俺には嬉しいよ」

 さ、もう寝ようかと幾夜が言い、その話はそれで終わりになった。幾夜は時々不思議な雰囲気になる時があるけれどそれが何かまでは朝子にはわからなかった。でも朝子にとって今は確実に幸せであった。

 朝子と幾夜が出会って何度目の春を迎えただろうか、もうすぐ両手では足りなくなる。そしてあと数ヶ月後に結婚式が迫ってきていた。式の準備で忙しい中、幾夜が体調を頻繁に崩す様になった。季節の変わり目だからなのだろうと本人も思っていた。そのまま体調不良を放って置いて無理に仕事をしていた。しかし、体調は悪化をたどる一方であった。朝子は不安だったし、周りも心配して大丈夫と言う本人を病院に受診させた。検査の結果が今日返ってくると言う事だった。朝子は大丈夫と言い聞かせた。病院から帰ってきた幾夜は、結果を聞いてくる朝子に大丈夫だった、季節の変わり目と疲れが溜っていたから少し体調を崩したのだと笑って言ってくれたので朝子はひとまずホッとした。

 それから幾夜の体調は一旦落ち着いていた。朝子はこれから季節の変わり目には幾夜の健康に注意しなければならないと思っていた。

 幾夜の体調が心配されたが、朝子と幾夜は周囲から祝福されて幸せな結婚式を迎えた。これからもずっとこの幸せが続いて行くのだと思っていた。


 結婚式から数ヶ月経ったある日の事であった。朝子の仕事中にとある病院から電話がかかってきた。幾夜が職場で倒れたという連絡だった。とるものもとらずに急いで病院に行った。朝子が病室についた時には幾夜の意識ははっきりとしており、起き上がっていた。幾夜は病室ですまなさそうに笑っていた。そして、病室で医師から聞いた事実にショックを受けるしか無かった。いつの間にか家に帰ってきた朝子は、自分が病院からどうやって帰ってきたかもわからなかった。

 病院で聞いた話も完全に理解できたかわからなかった、というか理解したくないという思いの方が強かった。

「幾夜さんは、半年前に癌が見つかっていました。進行が進んでおり手術ではどうにも出来ない状態でした。その時点で余命は一年もつかどうか。入院する事も勧めましたが、ご本人の強い希望で今までのままで、対症療法をとる形になりました。今では全身に転移しており、残された時間は僅かです。」

 確か半年前に病院に受診した時何も無かったと行っていたはずなのに。嘘をつかれていた事に対して何故と思った。心配させたくなかったのだろう、どこまでも優しい人だ。これからどうすれば良いのだろうか。また独りになるのだろうか。不安な気持ちで一杯だった。

 朝子はそれから頻繁に病院にお見舞いに行っていた。病室では話す時もあれば、何も話す事をせず五分ほどで帰る時もあった、幾夜が寝ている時もあった。朝子にとって、病院にお見舞いに行くそんな毎日が耐えられなくなった時があった。刻一刻と期限が迫ってきている。その事実を受け入れる事が出来なかった。ある日、幾夜と話しをしていた時だった。朝子が泣きそうな顔をしていたのだろう。幾夜は自分がいなくなった後の朝子の行く末を心配していた。幾夜は朝子の手をぎゅっと握って言った。

「初めて出会った頃の君は、ふとした瞬間にどこかに行ってしまいそうな感じがしたよ。でも君が生きてくれている、それだけで俺は嬉しいよ。俺はいつだって君の側にいる。だから諦めないで欲しい」

 そして、どこか遠くを見る様な眼差しで泣きそうな顔で言った。

「あの時君を止められた、その事で君がいなくなるその未来だけは避けられたよ、でも自分が死ぬ未来なんて予想出来なかった」

「どういう事?私が線路に飛び込むことがわかっていたみたい」

朝子はどういう事だろうと思った。そんな朝子に薄く笑いながら幾夜は言った。

「いつかの時も言ったよ。大切なものを無くして後悔することは二度としたくないから。君の手を今度は掴むことが出来た」

 まるで幾夜は朝子がいなくなった未来から戻ってきたような言い方だった。

 幾夜は最後まで朝子のこれからの事を心配していた。

それから一ヶ月後のある晴れた穏やかな日、幾夜は静かに還らぬ人となった。

 気がついたら幾夜の葬式は終わっており、朝子は泣く事すらできなかった。朝子はこれから自分がどうしていったら良いのかわからなくなっていた。唯一の拠り所を失ってしまったのだ。朝子の両親も、幾夜の両親も朝子の事を気にかけていた。朝子は家に帰り、久し振りにゆっくりと家の中を見て回る。色んな所に幾夜との思い出が染み込んでいる。出会った頃から一つ一つ思い出していった。大学で出合ったときのこと、一緒に執行委員会に入った事、死のうとしていた時にタイミング良く掬い上げてくれた事、それから色々な所に行って、思い出をつくった事。幸せだった、やっと自分の居場所を見つけられたのに。もう幾夜はいない。

「私の居場所は貴方の側なのに・・・・・・何故、貴方はここに居ないの?」

 幾夜が言っていた、側にいるから諦めないで欲しいと。でも朝子は幾夜のいないこの部屋に帰る事が出来ないと思った。幾夜がいたから生きてこられた。彼がいないこの世界には朝子の居場所はなかった。もうここには帰れない。朝子はふらふらと幾夜との住処を出た。幾夜は海が好きで、二人は海の近くに住んでいた。幾夜といつも海を見に行った。

 日が暮れて薄暗くなってきた浜辺、寒くなってきたので周囲に人はいなかった。波打ち際まで来た。海と空の境界線から朝子を呼ぶ声が聞こえた気がした。一歩踏み出すとひやりとした。もう一歩進める。どんどんと身体が沈んでいく。顔が浸るくらい深い所までやってきた。

「幾夜、貴方は怒るかな」

 朝子はごめんなさいと思いながら笑った。恐怖は感じなかった。貴方に会えたらなんて言おうか。幾夜は怒りながらも仕方がないなと笑って手を取ってくれるだろうか。

「ああ、これで貴方の元へ還れる」

 朝子は安心した様に、眼を閉じて幾夜が好きと言っていた海に沈んでいった。これで幾夜の側に行けるそう信じて。

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境界線上のレクイエム 東雲 @masashinonome

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