抜錨

猫セミ

抜錨

 1

 冷える空気を肩で切って、やっと玄関前まで帰ってくる。


 坊主がスタートラインにつこうとする霜月下旬。相変わらず寂れた様子の職場を見上げてふとため息が出る。外階段前に取り付けられたポストの中身を確認する。特に期待したものはない。ポスト上部に貼られた手製のポスターは湿気で伸びてしまっている。何度見てもデザインが酷い。これで呼び込まれる依頼者はいないだろう。


 外階段を登り切って事務所に入る。電気のついていないその部屋を足早に突っ切って一階へ向かった。事務所の奥の奥、正面からの入口が閉め切りになっているせいでこんな遠回りをしなければならない場所に目的の部屋はある。


「おーい戻ったぞー」

「声がでかいんだよ! 聞こえてるっての!」


 呼びかけた扉の向こうから、尖った声がそう言い返す。それを何食わぬ聞き流しながら、富士ふじは扉を開けた。八畳ほどの部屋に、ぎっちりと詰め込まれた本棚とファイル。その中に埋もれるようにしてデスクトップに向かい合っている小柄な青年が一人。富士は用事を済ませるべく彼に近づく。


「ほいこれ、今日の巡回で遭遇したスペクターのデータな」

「あーはいはい、どうも」


 青年こと津和野つわの武治たけはるは差し出された紙を受け取って読み始める。


(もうちっとちゃんとすりゃあいいのに)


 手入れのされていない頭を眺めながら勝手なことを考える。当人がそちらに興味がないせいで、殊更にそう思ってしまう自分がいる。ふんふん、と言いながらメモ書きを読んでいた津和野は、不意に顔を上げた。


「これ写真ある?」

「ない。そんな余裕あるわけないだろ」


 即答すれば彼は若竹色の瞳を細めて文句を言う。


「はー、毎回そんなこと言ってぇ。死体残んねーんだから、写真ないと困るだろ」


 スペクターは基本死体を残さない。多くが魔力というエネルギーで構成されているからと聞くが詳しいことは富士も知らない。


「って言ってもお前、こっちはすぐ戦わなきゃやられちまうんだから」


 やれやれ、と気苦労を前面に出して言い返せば


「は? イケメンは死なないんだろ?」


 と、尖った声で言い返される。ここまではテンプレートだ。


「まぁおれはな。でも巻き添えがあっても困る」


 しかし今日は少しばかり意地悪を混ぜて返す。それに対して津和野は何も言い返さずにデスクトップの方へ向き直った。


(なんだ、張り合いのない)


 それを一緒に覗き込んで見る。何が書いてあるのかはよく分からない。随分と細かいことをしているということだけは分かった。


「データベースの方は充実してるか?」

「してねーよ。過去資料がねーし、お前が非協力的だし」

「……悪かったって」


 少し言い過ぎた、と思って小さく謝る。


「いいよ別に。俺は戦ってるわけじゃないし」


 目を伏せながら津和野はそう返す。あぁ、地雷だ。面倒な流れになる前に富士は話題を変えた。


「そういやちゃんと節電してるか? そろそろ月末だぜ?」

「…………一応やってるし。節約は」

「……こんだけ稼働させてたらあんま効果ないだろうけどな」


 ぐるりと部屋を見回して富士は言う。データベースを構築するために彼はサーバー一式を持ち込んだ。元々魔術に関する歴史を作る家の出らしく、こういう作業は十八番らしい。魔術史の完成を目的としている一族なのだと聞いたことがある。こちらも詳しいことは分からないが、電気代のほとんどはここが食っているらしい。金銭管理担当が激高していたのを富士は思い出す。


「んまぁ……てか何でこんな赤字なの?」

「援助打ち切りだよ。向こうさんも人の目は気になるだろ」

「はーあ、結局世間体かよ」


 仕方のないことと分かってはいても、文句が出てしまう。富士もその気持ちは分からなくもない。それを咎めることなく、返事代わりに小さくため息をついた。


 二人の所属する敷宮しきみや探偵事務所はここ最近ずっと赤字である。世情のせいもあって、依頼数は少ない。請け負う仕事も少しばかり癖が多い。探偵事務所を名乗っておきながらその実態がまるで違うのだから仕方のないことだろう。


「……足引っ張ってる、か」


 ぼそりと呟かれた言葉を富士は聞き逃す。


「あ? なんか言ったか?」

「何でもない」


 2

 作業がひと段落着く。


 埃を被った暖房を横目に、津和野はカントリーマアムを手に取った。十一月も後半だ。さすがに暖房なしで活動するのは無理があるんじゃないか。何度目かの文句は強い甘味と共に消えていく。この差し入れを持ってきた男はバニラが好きらしい。津和野の手元にあるカントリーマアムは全て赤い。


(別にこっちの方が好きだからいいけども)


 サクサクとそれを食べ進めながら机の上を片付けた。


 壁には書道用の半紙に勢いづいた筆文字で、『要節約殺すぞ』と書かれた紙が貼られている。


「しょうがないかぁ」


 一ミリも節約をする気はないが、そんな言葉を口にする。それっぽいことをやって、ダメだったら向こうも許してくれるだろう。ぼんやりと甘いことを考えていると、大きな声が思考を遮った。


「おーい、津和野―、いるんだろー」

「今度は何!」


 そんなに大きな声を出さなくても、狭いんだから聞こえている。少しばかりの苛立ちに任せて津和野は勢いよく立ち上がり、部屋のドアを開けた。


「……え?」


 しかし、ドアの前にいたのは見知らぬ女子高生だった。予想外の訪問者に津和野は目を丸くして硬直する。向こうも急にドアが開いたからだろう、唖然としている。


「あぁなんだ。寝てるかと思ったわ」


 硬直した津和野を覗き込むように大柄な男が顔を出した。


 たれ目が特徴的な落ち着いた雰囲気の男だ。いつも通りどこか洒落たベストを身にまとっている。津和野は彼を見たとたんあからさまに嫌そうな顔をして見せた。


「寝てるわけねーだろ、勤務中だし」

「当たり前だっての」


 大柄な男──こと富士ふじ龍生たつきは何食わぬ顔でそう言い返した。津和野の態度の悪さにいちいち文句をつけるほど、嫌味な男ではない。それは分かっているのだが、いつか一杯食らわせてやりたいという謎の負けず嫌いが顔を出す。


「……そんで? 何の用?」

「あぁ。新入りの紹介をしようと思ってな。今日からウチで働く永井(ながい)さんだ」


 そう言って富士はすっと手を挙げて女子高生をさして見せた。


「……え? いやいや、冗談でしょ」


 こんな厳しい状況で、新入りを雇えるはずがない。富士のおふざけかとも思ったが、この男はドッキリがあまり好きではない。


「なんでおれがお前に嘘つくんだよ」

「それは、そう」


 否定のしようがない。


 そう思って女子高生の方を見てみれば、彼女は少し目を泳がせたのちに自己紹介をする。


「……永井しのです。よろしくお願いします」

「えぇー⁉ いやいや、うちの人手は足りてるだろ!」

「知ってる。のっぴきならない理由があんの」

「んだよそれ」


 これ以上訊いても富士は言うつもりがないらしい。そんなごまかし方に再び苛ついた津和野だったが、ツッコミを入れるより早く富士が動く。


「まぁまぁ、とにかく! この津和野がな」


 そう言って富士は津和野の方を掴んで引き寄せる。津和野は抵抗空しく引きずられ、永井の前に差し出された。


「君の直属の先輩になるから。分からないことはコイツに聞いて。んじゃ、おれは巡回行くから」

「ちょ、ちょっと待てって」


 困惑する津和野を放って、富士は永井と話を進める。


「永井さん、ここの情報はこの黒いのが全部管理してる。それに一応……魔術師だしな。頼りにならんってこともない」

「……嫌味かよ」

「ちげーよ。んじゃよろしく」


 今度こそ、と言わんばかりに富士は手を振ってどこかへ行く。その場に二人が取り残されてしまう。酷い気まずさを覚えながら、津和野は永井の方を見る。


 改めて見てみれば、年齢よりも少し大人びているように見える。ぱちり、と蒼色の目と目が合った。それに気まずさを覚えて視線を落としてみればセーラーの襟が目に入った。


 白いリボンがカチューシャのように結わえられており、その結び目は首の後ろにあるらしい。ちょこっと見えるそれがいいアクセントになっている。そういえば、運動会で女子たちが鉢巻をああやって巻いていた。津和野の古い記憶が蘇る。


 そんな具合に姿かたちは可愛らしいが、そこから生まれるのは「触れがたい」という何とも言えない感想だけだった。


(プライド高くて冷たそう)


 津和野は少し失礼なことを思いながらも、彼女に話しかけてみる。



「……あのさ、えっと、永井さん、だっけ? 俺詳しく聞いてないんだけど、何が得意なの?」

「…………ここはどういう部署なんですか?」


 質問を質問で返される。後で考えてみれば失礼極まりないことに気づくのだが、この時の津和野は少しばかり緊張していた。質問に答えなければ、という考えに思考が支配されている。


「え……あー、スペクターのデータベース作成とか、報告書の整頓みたいなデスクワークが主、かな」

「……なるほど。ありがとうございます」


 津和野の答えを聞いた永井は目を細めた。


(え、何。超不満そうじゃん)


 その反応を見て津和野も彼女の心中を察してしまう。あまり分かりたくはなかったのだが。津和野の気を知らない永井は顔を上げた。


「お仕事……やるので指示をください」


 そう言って永井は手を差し出した。どこか暗い声に催促されるまま津和野は手を動かす。


(辛気くさ)


 思わず口から出そうになった悪態を飲み込んで、まだ整頓の終わっていない書類を手に取った。



 それから二、三時間ほどが経った。二人の間で会話が交わされることはなく、ただ黙々と作業を片していく。


「それ終わったら作業終わりだから。こっちにまとめて置いといて」

「はい。……あの」


 かかった声に反応して顔を上げてみれば、永井はじっと津和野の方を見つめていた。驚いて恐る恐る控えめにどうしたのかと訊いてみれば、彼女は津和野が開いているノートパソコンを指した。


「その猫は……」

「ああこれ。寂しいからかいたんだよね。オリジナルステッカーってヤツ」


 彼女が指した猫のステッカーを指でなぞる。自分の欲しいものがなかったから、作っただけのものだ。


 がさごそ、と近くに置いていた段ボールを漁れば、悲しいほどに余っている在庫がわらわらと出てきた。発注数を間違えてしまった、思い出の品カッコカリだ。


「ほら、こういう……欲しいならあげるけど?」

「いいんですか?」


 それを見た永井の声のトーンが若干上がった。しかし津和野はそれに気づかずに段ボールの中から比較的綺麗なものを選り分ける。


「いいよ別に。作りすぎて持て余してるし。こっちおいで」


 そう言って手招きをすれば、永井は津和野の元へやってくる。そんな彼女へ津和野はステッカーを渡した。それを永井は両手で受け取り一言添える。


「ありがとうございます……!」


 先ほど見たじめっぽい表情から一転、ふわりと彼女は笑った。


「あっ、うん」


 ──どすん。


 完全に落ちた。その笑顔に津和野は見とれていた。


 3

「ちょっと富士ィ!」


 勢いよく扉を開ければ富士は大きくその肩を揺らした。さすがの彼でも突然の音に驚いたらしい。


「何だよ」


 少し不機嫌そうな顔をしながら富士は振り返る。ちょうど休憩の時間だったのだろうか。手には山盛りにマシュマロが入ったマグカップを持っている。いつものだ。


「ってあれ? 永井さんは?」

「もう帰ったわ! 定時だからなぁ。あのさ、どういうこと?」

「何が? 何で?」

「あの子、魔術師じゃないじゃん!」


 文句をぶちまければ、富士は「なんだ」と言って小さく息をついた。


「ああそれ。どういうことも何も魔術師じゃないってだけ」


 当然のように返す富士に津和野は噛みつく。


「それはぁ、分かってんの。ウチは一応傭兵集団だろうがよ」


 そう、津和野が今務めているこの事務所は魔術師が所属している。仕事内容は主に市内で出現するスペクターの駆除。その仕事内容のせいか傭兵集団だの、民間警備会社だの言われている。法整備がきっちりされていないせいか、その分類は定かではない。例の事件以降、肩身が狭い魔術師連中の数少ない稼ぎの方法だ。


「……MA045だよ」

「あ?」

「お前も知ってるだろうが。今市内で確認されてるスペクターの群れだ」


 そう言いながら富士は津和野に対して紙を差し出す。


「……あー、これか」


 それを一目見て津和野は頷いた。なんて言ったって、自分が作った資料だ。ずっとその内容を覚えているわけではないが、そのものを見れば内容を思い出すことができる。


 機動性に富んでおり、本拠地を割り出すのも困難。結果的に毎月人的被害が増えていく一方らしい。


「この中に、唯一死者がいただろう」


 手渡された資料には、被害を受けた人物の名前や日付が書き込まれている。富士の言葉に従ってその名をなぞっていく。それに釣られて記憶が芋づる式に呼び起こされる。


「……ああ、小学生が一人死んでたような」

「それの姉だ」

「はぁ?」


 思わぬ答えに全身の力が抜ける。富士も何か思うところがあったのだろう、首を横にゆるゆると振りながらこう付け加えた。


「あの子は敵討ちがしたいってウチに来たんだよ」

「え? でも魔術師じゃないんでしょ? それで駆除は無理じゃん」


 スペクターは基本的に人が素手で対処できるものではない。もちろん、魔術を使わずとも火器やその他武器を使えば対処は可能だ。しかし、彼女がそういった武器類を扱えるようにはとても見えない。もしかしたら、という可能性もあるが、それを富士は否定した。


「だから実戦があるところには入れてないの。親御さんもそこは許可してねぇし。元は会計に振り分けるつもりだったんだが……岩代が嫌がってな」

「はー、だーから俺のところかよ。すげー不満そうな顔してたわけだ」


 あの時の永井の顔を思い出しながら、津和野はこめかみを押さえた。それと同時にどこかホッとする。


「ほーん」

「おい、興味なさそうな顔すんな! 普通に色々困ったんだからな! スペクターの説明だって俺がしたんだぜ?」

「……なんだ、それにしては満更でもなさそうだな」


 富士の指摘で、津和野は初めて自分の頬が緩んでいることに気が付く。それに妙な焦りを覚えながら彼は否定の言葉口にする。


「え、いや別に。気のせいじゃん」

「なんだぁ? 一目ぼれでもしたんか」


 富士はにやにやとしながらそう言う。思わず図星を突かれた津和野は何も言い返せなくなってしまった。それを見た富士は瞬きを繰り返す。


「え、嘘だろ」

「いや? 違うけど?」


 慌てて言い返すも時すでに遅し。がたり、と音を立てて富士は立ち上がった。


「あのパソコンと所長と魔術と魔術史と二次元とパソコンにしか興味ないお前が⁉ なぁ、マジ? なぁなぁ」


 目の前の恋愛話が大好物な甘党の男は、にやにやしながら寄ってたかって津和野をつつき始める。


「な、何だよ気持ち悪いな」

「いやー、お前がか。どこが好きなの」

「好きとは言ってねぇし。気になるだけだし」

「またまたぁ」


 何を言い返しても富士は拾って投げ返してくる。勝ち目がないことは理解しているが、それで津和野が丸くなるわけがない。適当な悪態と野次馬精神のしばき合いが何度か続いた後に津和野は踵を返す。


「しらん、もう寝る。お前にはもう相談しねぇ」


 それで富士も応戦するのを止めて、マシュマロを口に入れる。


「あーはいはい、悪かったって。拗ねんなよ。どうせ夜更かしするんだろ?」

「しねーし」

「可愛い後輩に迷惑かけんなよー」


 丸めた背に投げかけられた声を無視して宿直室に入る。その日の夜、何度もあの笑顔がちらついて、眠れなかったのは言うまでもない。


 4

 数日後。


「ねむい」


 そう言って津和野は大きなあくびをした。ここ数日、どうにも寝つきがよくない。そのせいで所かまわず大きなあくびが出てしまうようになった。それを見かねたのか、永井がおそるおそる口を開く。


「あの……大丈夫ですか?」

「だいじょばない」

「えぇ……またですか?」


 ここ数日何度か繰り返された会話を辿る。半分机に突っ伏しながら、ノートパソコンの画面を見上げた。強い眠気のせいで自分で書いたその内容すら頭に入ってこない。まさか自分のせいで先輩が寝不足になっているなんて思いもしないだろう。ちら、と永井の方を見ながら津和野は脱力する。


「昨日は何時に寝たんですか」

「昨日はー……四時かな」


 ぐるぐるぐるぐると、考え事をしながらベッドの上でごろごろしていた。それを三、四時間ずっとやっていた。寝ようにも思考が湧き、溢れて覚醒してしまう。日を追うごとによくない方向へ引きずられていく感覚がしている。


「それは、朝では?」


 その返答に生活時間の違いを感じさせられた。肩を落としながら津和野は顔を上げる。


「俺が寝るまでは今日だから、夜なの。夜更かしとかしないの?」

「しません、夜更かしなんて」

「あー、そう。それじゃ、今日も始めますかー」



 ※



 ちら、と覗き込んだ部屋では富士たちが例のスペクターについて話をしていた。


「これ以上のさばらせるのもよくないし、早いうちに始末したいんだけどなぁ」


 若干物騒なその話を聞きながら、津和野は部屋の前を通り過ぎる。自分は非戦闘要員だから、聞いてもしょうがない。暗い廊下から目を逸らすようにして外に出る。こんなことを考えるのは夜中だけで十分だ。寝不足の目を擦りながら津和野は肩を回す。


 目指すのは近くにある自販機だ。少し温かいものが欲しい。


「だから言ってるじゃん!」


 マイナス思考で鈍りかけた思考を、よく通る声が一喝する。ぎょっとして顔を上げてみれば、自販機の陰にセーラー服が見えた。永井だ。


(な、なにごと?)


 そう思って静かに自販機へ近づく。そっと覗き込めば、彼女は誰かと電話をしているらしかった。電話の相手の声が大きいのか、少し離れている津和野でもその声が聞こえる。


『だからじゃないの。そんなことしてないで、ちゃんと部活とかにも行きなさい。しかも魔術師だなんて、』


 電話の向こうの相手が主張をし終える前に永井は通話を切る。


「本当はこうしたいくせに……」


 小さく呟かれた言葉を津和野の耳はしっかりと拾った。少しだけ、申し訳ない気がして目を伏せる。


「あ、津和野さん」


 先程の感情的な声から一変、ひどく落ち着いた声で永井は津和野の名を呼んだ。津和野はびくりと肩を震わせて後ろに下がる。


「え、あっいや、これは」

「すみません、休憩終わりでしたか」


 ちょっとした罪悪感に踏みつぶされそうな津和野を他所に、永井は頭を下げる。


「あっ、いやいいんだけど……」


 そんな彼女についていけない津和野は慌てて両手を振って言い返す。


「その、親御さん?」


 そう問いかければ、永井の目が少しだけ揺らいだ。あ、やってしまった。そう思うよりも早く、彼女は頷く。


「…………そうです」

「そうかー」


 その返事に特別何を言うわけでもなく、津和野はただ頷いた。一応魔術師である津和野からすれば否定なんてできない。


(まぁ、危険人物扱いだしなぁ)


 そう思いながら自販機に五百円玉を入れる。


「まぁほら、危ないのは事実だし」


 魔術を使わない、もしくは使えない人からすれば魔術師はそこにいるだけで脅威となる。感覚的には拳銃を持った人が近いだろうか。「撃たない」とはいえ、それが壊れていない限りいつでも撃つことができる。そんな状態で生きているのが魔術師だ。それを危険視するのは当然のことだろう。


「やっぱあんまよくないよねぇ。ろくなことにならないからさぁ」


 のほほんとそう言えば、永井は視線を落とした。


「そうかもしれないですけど、やっぱり危ないのがダメ、って」

「そりゃー、そうでしょ。相手はバケモンだし。危ないのは確かだよ」

「そんなこと……分かってます」

「……うん」


 彼女の反応を見て初めて、津和野は自分の言葉が間違っていたことに気が付く。違う、ああ言うべきじゃなかったんだ。内で沸いて出た後悔は濃い影となって思考を覆う。


(でも、なんて言えばよかったんだよ)


 5

「うわ、びっくりした」


 業務終了後、派手な音を立てて津和野が事務室に転がり込んでくる。富士はそれに声だけ驚いてみせた。


「別に……なんでもない……」

「ははーん、さてはフラれたな?」


 その萎れた様子に思わず、原因を突き止めたくなってしまう。好奇心半分、心配が半分といったところだ。しかし津和野にそれは伝わっていない。彼は少しむっとした様子で顔を上げた。


「別に! フラれるようなことはしてないし」

「じゃあなんだよ」

「…………うん」


 聞き返せば萎れた様子のまま小さく頷いて見せた。もう限界らしい。富士としては悩みははっきりと言ってほしい。このまま倒れられても、困るのは富士だからだ。


「あー……、ここで聞いたことは誰にも言わないから」


 そう付け足せば、ようやく津和野は口を開こうとしてくれた。


「……何というか」


 ぽつり、と一つ。


「何で俺は戦えないんだろうって思って」


 二つ。


「──え?」


 思わぬ方向の話に富士はドキッとした。先日いじりすぎたのがよくなかったのだろうか。


「違うか、何で戦わないんだろうって」


(……ああ、そういうことか)


 彼の怒りはいつもそうだ。


 他の誰に向けられるわけでもなく、津和野自身に向けられる。それが優しさ故なのか、自己肯定感の低さ故なのか。あるいは両方か。


「永井さんの代わりに俺が戦えたら、よかったんだろうなって。危険な目に遭わなくて済むし」


 間違ってないない。ただ、富士は否定も肯定もせずに続きを促す。


「それができるのが一番いいのに、ていうか、俺は戦うの怖いし無理。だからせめて、何とかして励ましたいのに。言うこと全部が、本当に、全部全部──」


 溢れる言葉は留まるところを知らない。加速する思考と、合わさって何もかもを置き去りにする。


「綺麗ごとに聞こえて嫌だ」


 まだ口に出したわけではない。頭の中で浮かぶ言葉、その全てがそう見えてしまう。うわべだけを取り繕った、あまりに空虚な言葉。それが。


「全部気持ち悪く聞こえる。俺は……俺は大事な人を奪われたことはないし、代わりに敵討ちをすることだってできない」


 望んだことは全て、身の丈に合わない。だって自分は何もできやしないのだから。


「なーるほど……」


 泣き言を受け止めた富士は、顔を覆って天を仰いだ。


「いやー、まさかあの津和野がなぁ」

「笑いたきゃ笑えば」


 冷やかしだと思ったのだろう。今にも泣きそうな声で彼は返した。


「まぁな。でもそうだよな」


 そんな津和野を裏切って、富士は口を開く。


「そうなんだよ。お互いがお互いを想っていると解った上でしか成立しないことってあるんだよ。それが思いやりだし、優しさでもある」


 一方的な優しさは思いやりとは言わない。相手のことを思い、相手がそれに応えて初めて成立するのが思いやりだ。例え同じ自己満足であっても、前者は決して善行とは言えないだろう。一方通行では成り立たない。だから、難しい。


「お前がよく考えたっていうのは、今、話を聞いたおれは分かる。けど肝心の永井さんが分からないんじゃ確かに気持ち悪く聞こえるだろうな。ましてや会って一週間の相手だし」

「う……分かってるって。今の自分最高にキモイ」


 確かにこの男は少しばかりちょろいところがある。ただ、それで調子に乗って人を害することはない。それを解っているからこそ、富士もこう優しく言える。


「でもな、だからこそなんだよ」

「……?」

「いかにして自分の思いを伝えるかが大事、だろ? どうしてそう思ったのか。言わなきゃおれらは分かり合えない。だからちゃんと全部言う。確かに言い過ぎはよくないかもしれないが……今のお前に限っては大丈夫だろう」


 基本言葉が足りないことの方が多いのだ。考えすぎて一歩も動けなくなってしまう方が多い──津和野武治に関してはもっと突っ込んだ方がいい。そんな富士の意図が伝わったのか、彼はぽろぽろと小さな涙を零す。


「どんな形でもいい。伝えなきゃそれは無かったことになる。そんなの、魔術史を編纂するお前が一番分かってること、だろ?」


 資料がないという泣き言をよく聞かされた。


 噂で聞いても証拠がなければ話にならない。実際に話す人がいなければ価値のないものだと。身をもって理解しているはず、と。



 ※



「……富士、あれは大丈夫なんですか」

「は、お前いたのかよ⁉」


 ぬるりと出てきた眼鏡の男に、富士はぎょっとする。さすがに気が付かなかった。


「すみません。地獄耳なもので」


 真顔のままおどけて見せる彼を見て、富士は少し目を泳がせる。そうだった、なんだかんだ言って油断できないのだった。津和野には黙っておいてやろう、などと考える。


「それで、大丈夫そうですか?」

「あーまぁ、そうね。大丈夫だろ」


 すっかり冷えてしまったココアを飲みながら、富士は言う。


「錨はもう上がってるからな」


 6

「…………」


 何て話をすればいいのか。津和野はポケットの中で拳を握りしめる。


 あの後、適当に夕食をとり床に就いた。


『んじゃ、頑張れよ』


 若人を見守る老人の如く、生き生きとしながら富士は津和野を見送った。しかし、分かってはいても一歩踏み出すのは難しい。いつ話をしようかと手をこまねいていたら、あっという間に日没が差し迫っていた。


 これではまた何もできない。そう思った勢いのまま、気分転換を口実に散歩に出かけた。のはよかったのだが……何かを話すこともなく、湖畔に辿り着いてしまう。


「あ、あのさ」

「……なんですか?」


 この後される話の展開を察せるわけもない。永井はいつも通り真顔で反応して見せる。


「永井さんって、敵討ちでウチに来たんだよね」


 そう津和野が言えば、彼女は面白くないと思ったのだろう。


「だったら何ですか。何か文句でも?」


 足を速めながら刺々しくそう返した。それに怯みかけたが、負けじと言葉を紡ぐ。


「いや、文句はないよ。違うの。俺は──その、すごいなって思う」


 ばっと永井が振り返る。


 予想していた否定の言葉ではなく、純粋な賞賛の言葉に戸惑っているらしかった。


「な、何がですか⁉」


 困惑か怒りか、よく分からない感情に任せて言葉が飛び出す。


「あの時の私は何もできなかったのに⁉ だからここにいるのに、その私がすごい……⁉」


 確認するように向けられた視線に津和野は頷いて返す。言ったことを否定するつもりはない。


「は……? 毎晩毎晩、夢にも見るのに。ずっと、後悔しているのに」


 よくよく彼女の目元を見てみれば、薄っすらと隈ができていた。業務中も眠たかったのだろうに、彼女はあくび一つしなかった。


「少しでも、駆除に参加して時間を潰したいのに、暇な時間を作りたく……ない、のに。何が、分かるって言うんですか、あなたに」


 周囲の反対を押し切れるほど、彼女は強くない。


 対抗手段を持っていない人を化け物に差し出すことは、当然できない。富士のことだ。きっと察していたのだろう。しかし、彼も大人である。無駄に危険に晒して、死ぬようなことがあれば。最悪なのは死ぬこともできずに植物状態になることだろうか。とにもかくにも、それが容易に予想できた。彼女は戦いたがっている。しかし、その手段を持っていないのだ。


「……妹さんのことは知ってる。報告書も見たし」

「じゃあ何が言いたいんですか」

「本当に、純粋にすごいと思ってる。どういう理由であれ、俺はそこまでして戦おうとは思わないから」


 一方、戦う手段を持っていながらも頑なに戦おうとしない青年がいた。


「は……あなた、魔術師でしょう⁉ 戦えないとか」


 嘘に決まってる、永井の目はそう言いたげだった。


 間違ってはいない。戦う手段を持っていないとは言ったものの、苦手なだけだ。できなくはない。いくらでも、戦いようはある。


「まぁ、魔術師ではあるよ。でも俺はどっちかって言うとサポート系。後方支援が得意」

「何それ、そんなこと……」

「あるの。魔術師は全員、戦えるってわけじゃないの」


 知らないのは当然だ。それが分かっていてもなお、彼女の避難するような視線は痛く感じた。魔術師と言えば、戦えるものである。そんなイメージがこびりついているのは確かだ。そして、周りがそれで自分を推し量っているのも確かだった。戦おうと思えば、戦えなくはない。それは否定しない。


「でもそれに関係なく、俺は戦いたくない。だって死にたくないし」


 生粋の魔術師の家に生まれ、魔術と共に成長してきた。


 その危険性も、ロマンも知っている。ただそれよりも、怖くてしょうがないものがあった。


「自分が死んだ後、誰にも覚えられずに忘れられていくのが怖い。夜が怖くて泣いてた時期もある。眠ってこのまま目が覚めたらどうしようって、怖くて怖くて眠れなかった。保身に走って、戦いもしない自分が皆の足を引っ張ってるんじゃないかって。憎くてしょうがないって何度も自分を呪って」


 ぎゅっと胸が痛む。


 猫背をごまかそうとしてずっと地面にうつ伏せになっていた。誰よりも低く低く視点を構えて、その場から動かないでいた。ただ波間に揺蕩ってどこへも行かずにそこにいるだけ。そのはずなのに、足元はずぶずぶと暗闇に沈んでいく。こんな生まれ望んじゃいないんだという声が深海へと引きずり込もうとする。それと同時に被害者面するんじゃない、と自分を叱咤の声が聞こえ続けた。言うまでもないがその矛盾を僅かに上回っていたのは恐怖だった。


「だからほんとにすごいと思う。自分の命を顧みずに、立ち向かおうとしてるんだもん」

「…………っ」

「魔術師でないことに甘えないで、戦おうとする永井さんはすごいよ」


 その手段がないことに目を瞑って、津和野は言い切った。なぜなら、津和野はその気すら起きないからだ。起きたとしてもふと思うだけ。実際に行動へ移したことは一度だってない。


「だから応援したいって思ってる。俺は別に、永井さんの覚悟を否定したいわけじゃないんだよ」

「……どうして、そんなこと言えるんですか」

「えっ」

「なんでそんなこと言えるんですか」

「そ、それは……秘密。それで、それでさ! その覚悟とか、悩みとかちゃんと、ご両親に伝えたのかなって!」


 慌てて話を推し進める。そう、ここからが大事なのだ。


 津和野がしたいことは応援だけじゃなかった。


「こんなの言ったら、怒られます」

「そうだよ。だってご両親はもう失いたくないだろうし」

「……分かってます。だから言わないんです」

「でも本当に、そう言ってたの?」


 当然の疑問をぶつける。


「え?」


 永井は目を丸くした。目の端には涙がにじんでいる。それに少しばかり胸が痛んだ。内心で謝りながら言葉を継ぐ。


「永井さんまだ言ったこと無いんでしょ? なら、もしかしたら返事は違うかもしれない。決めつける前に伝えてみた方がいいと思う」


 辛くてしょうがないのは両親だって同じだろう。その気持ちは計り知れないが、『大切な人を失いたくない』気持ちだけは津和野も感じたことがある。これだけは胸張って分かると言えることだった。


「どうしてそうしたいのか、辛くてしょうがないんだってことをちゃんと言った方がいい」


 永井は何も言わない。それで少し、勢いが削がれて津和野は身を縮める。


「その……すれ違うことを望んでなければ、だけど」


 予防線を張ってしまう。そんな自分の弱さよりも、今はひたすらに永井を傷つけるのが怖い。


「でも……そんなの、恥ずかしいし言えないですよ」

「言えなくてもいいんだよ。方法はたくさんある。手紙とか、電話とか……メールでもいい。顔を合わせなくっても、伝える方法はたくさんあるよ」

「書けないよ。やっぱり恥ずかしいです」

「だったら俺が代筆するよ。語彙力には多少の自信があるから、ちゃんと伝えられるように書けると思う」

「ど、どうして、そこまでするんですか。変ですよ」


 そう言い返す永井の声は震えていた。


「う、あー……えーと」


 好きになってしまったから、なんて言えるはずもない。ちっぽけな恋心を隠して、いい先輩を取り繕う。


「別に、後輩が困ってるから助けたいだけ」

「……そう、なんですか」


 そう返す彼女の顔を、津和野は見ることができなかった。今日ばかりは自分の嘘に自信がない。


 7

「よし、よしよしよし! いいのできたんじゃない⁉」


 深夜テンションに任せて、津和野は腕を振り上げた。机の上にはたった今書きあがった手紙が置かれている。三枚に渡る超大作だ。


「できちゃった……」


 永井も永井で深夜テンションなのだろう。その顔はいつもより幾分か幼く見えた。口元や目元が緩んでいるせいだろうか。


「あとは渡すだけ、ですか」

「だねぇ。にしても、外泊よかったの? 俺が急かした感じはあるけどさ」

「大丈夫です。いざとなったら通報しようと思っていたので」


 そう言って永井はすっと携帯電話を取り出した。


(し、強かー)


 両親になんと文句をつけられるか、考えただけで腹が痛くなる。特にそんなつもりはなかったが、思ってみればよくない状況であった。宿直で同じ女であるあずまがいるとはいえ、だ。よくないことをした等と内々で一人、反省をする。


「と、とりあえず……大通りまでは送るよ」


 そう言って窓の外を見る。夜明け前だからだろう、随分と暗い。もう少しすれば明るくなってくるのだろう。しかしそこまで待っていたら、寝てしまいそうだ。永井もそうだったのだろう、頷いて片づけを始める。


「まぁ、直接渡さなくてもいいし。あれなら郵送で出しちゃいなよ」

「そうですね。その手もありました。……郵送、あまり使ったことが無いですけど」

「あ、それもそうか……」


 などと、軽い会話をしながら二人は外に出る。


 暗闇に沈む街は、いつも以上に静かだ。道路を走る車すらいない。それを見やった永井の視界に何かが映り込む。


「あ、あれ……!」

「えっ、何⁉」


 突然肩を掴まれた津和野はぎょっとして大きな声を出す。しかしそれを永井は気にも留めずに怪物の方を指した。


「あの時、化け物!」

「ウソでしょ⁉」

「お、追わないと。次どこで遭えるかも分からないのに!」


 そう思った次の瞬間には走り出していた。俊足は状況を理解しきっていない津和野を置き去りにする。


「え、嘘⁉ 早ぁ⁉」


 気が付けば、道端に一人津和野は置き去りにされていた。運動ができそうだとは思っていたが、ここまで足が速いとは思っていなかった。


「し、しょうがない……! やるっきゃないか」


 どうするかを考えながら懐から竹札を取り出す。緻密な魔術式が彫り込まれたそれに、魔力を込めて放り投げる。


「光符『五位の光』!」


 短い詠唱に合わせて竹札が光に包まれる。そこから現れたのは大きなサギを象った式神だ。


(どっちの追跡もまだ間に合う! なら、まず富士たちに連絡を……いや、永井さんの安全が先、だ!)


 暗い空でくるりと回って見せた式神は、永井が消えた方に向かって飛んでいく。その動作が問題ないことを確認してすぐに津和野はスマホを手に取った。


「永井さん、無事⁉」

『無事ですっ』

「……そ、れはよかった。けど! 今どこ?」

『塩見縄手です』

「早いな……なら、そのまま追跡して」

『い、いいんですか⁉』

「スペクターじゃない、いい? 光ってる鳥の追跡だからね! 空見てたら分かるから」

『は、はい』

「絶対本体に近づかないで。俺の指示通りに動いて、絶対に」


 作成したデータベースにもう一台のスマホで接続しながら、永井に強く言う。今までの行動からして、相手は酷く臆病で警戒心が高い。弱いものだと認知されたら最後、永井の安全は保障できないだろう。津和野の放った式神は追跡特化のものだ。戦闘に発展したら抵抗はできない。


『わ、分かりました』


 気圧される永井の返事を聞いてから、津和野は事務所員全体に連絡をする。


(怖い、けど。データは揃ってる。対策はできてる、から)


 ぐっと震える拳を解いて、鼓舞するように胸を叩く。


(俺だって、次に繋ぐくらいなら)



 ※



 東の空が白みだす。慎重に慎重を重ねて、永井はスペクターの追跡をしていた。


(群れって聞いてたけど……一匹しかいない)


 音を立ててはいけない。永井は静かに見たものをメッセージアプリに打ち込んでいく。津和野とは通話を繋いだままにしてある。何かあってもすぐに対応できるようにそうしてくれ、と彼が言ったのだ。


 光る大きな鳥はそれ以上遠くへ行くことはなく、上空で弧を描いている。


(ということは、この先に巣穴があるってこと……?)


 じわ、と汗が覗き込んだ先は普通の市街地である。何かがあるようには思えない。


『──入口の偽装だよ。ドアがあるって分かったら何かが入ってくるかもしれないし。ドアが無いように見せかけるのは当然だ』


 冷静な声にそう言われてハッとした。あのまま、何も考えずにスペクターを追いかけていたら、迷い込んでいたかもしれない。永井は顔を顰めた。考えの甘さで、また何かを失うところだった。


 ぱき、と背後で何かが鳴った。


(後ろ⁉)


 反射的に振り返ってみればそこに──化け物がいた。


 坊主頭のようにつるりとした頭部が目に付く。真っ黒で、特徴のある形はしていない。ただ一つ、ぽっかりと空いた黒い眼玉だけがそこにある。


 群れを成し、市街地を我が物顔で暴れまわるスペクター。その名はまだない。ぬらり、と永井を見下ろすその瞳は、黒く深い。


(嘘、あの時より大きい……!)


 以前遭遇した時は二メートルくらいだったのに対し、今目の前にいるソレは信号機を超えて立っている。全身を緊張感が駆ける。


(逃げなきゃ──!)


 何かを思いつくより早く、相手が動き出すより早くその足を動かす。しかし僅かに、スペクターの動きの方が早かった。伸ばされたその腕はまっすぐに永井を捉える。


「さ、せ、るか──ッ!」


 絶叫と共に、その場へ何かが放り込まれる。


 それは鈍い光を放った竹札だった。ふわ、と魔力を纏ったと思った次の瞬間、竹札を中心に派手な爆発が起きる。


「えっ、ちょっ」


 駆け出した永井の足元を掬うように爆風が走り抜けていく。さすがの永井でもそれに対応できずに、体勢を崩した。このまま地面に倒れこむかと思ったその時だった。


「え……」


 ぱっと飛び込んできた黒い影が彼女の身体を支える。


「つ、津和野さん……⁉」


 飛び込んできた人物を見上げれば、緊張した顔でスペクターを見つめている。その顔だけ見れば勇ましいものだが、情けないことに永井を支えるその手は震えていた。


(間に合った、やっぱり光に怯むんだ)


 富士たちの情報収集のおかげで『光に怯む』ということだけは分かっていた。昼間行動しないのも、大通りに出現しないのも全てこのせいだったのだろう。


(けど、ここからどうする!)


 手札はあるが、このスペクターに有効かは分からない。かといって、適当に殴り掛かって倒せる相手ではないことは理解している。津和野が叩いて倒せるなら、富士が倒せないはずがないのだから。


 永井を庇うためにスペクターの前へと躍り出る。この場で彼ができることなんてもう、たかが知れている。


「早く、光のあるところに、逃げて──!」


 悲鳴にも似た指示はしっかりと永井の耳に届く。大きな隙ができたと思ったのだろう。スペクターは大きく腕を振り上げた。津和野はそれを全身で受け止めに行く。しかし悲しいことかな、体重の軽い津和野の身体は思い切り遠くへと吹っ飛ばされた。全身が痛む。土のにおいがした。離れてしまっては、守れない。


(こうなったら、どうしようもないって、分かってただろ!)


 後悔時すでに遅し。


 吹っ飛ばされた津和野に目もくれず、スペクターは再びその手を永井に向かって伸ばす。


「黒符『山下白雨』!」


 銀の風が吹き荒ぶ。急速展開された魔術式は白雨のごとき弾幕を呼び起こす。


 スペクターは思わぬ強打に完全に怯んだ。


「待たせたな」


 颯爽と永井の前に立ち塞がるようにして割り込んだのは──富士だった。彼は手に持った複数の魔術式符を掲げながら不敵に笑う。


「後はおれらの仕事だ。鷦鷯ささき! こっちのお嬢さんを頼む。津和野は放っていい」

「了解した」


 スペクターが怯んでいる間に富士はてきぱきと指示を済ませる。そして、再び構え直してそちらを見やる。


あずま、サポート頼んだ。ここでぶちのめす」

「了解」


 魔術師たちが一斉に構える。それに呼応するように、スペクターもまた凶爪を突き立てた。



 ※※※



「お……遅くない⁉」

「いやいや、タイミング悪すぎだって」


 そう言い返す富士は、それなりに規模の大きな戦闘の後だというのにけろりとしている。相変わらず頑丈な男だ。少しくらい怪我をしていれば憎らしく思うことも無かっただろうに。


「おれ寝てたんだぜ?」

「それ前も言ってたじゃん」

「そうだっけ」

「鈍足がよ」

「お前が言うのか」

「二度ありゃ言うわ」

「あのなぁ……まぁ、いや、本当にタイミングが悪いんだって」


 富士も富士で申し訳ないと思っているのだろう。少しばかりテンションを下げてそう言い返す。とはいえ津和野からすれば本当に死ぬところだったのだ。今回ばかりは、などと考えながら言い返そうとする。しかし。


「つかお前らさぁ」

「あ?」

「よくもまぁ危険なことをしてくれたな」


 ゆらり、と立ち上がり富士は拳を握りこんだ。津和野はぎょっとして身を固める。


「金輪際二度としてくれるなよ」


 二人はそんな富士に気圧されて黙り込んでしまった。それをよく思わなかったらしい富士は、腰に手を当ててもう一度問う。


「返事は?」

「はい、すみませんでした」


 永井と津和野は口を揃えて返事をし、頭を下げる。


「とはいえ、だ。これで次の被害者はでない。ジリ貧だったのは事実だし、お前らの手柄であることは間違いない」


 もちろん許すわけじゃないけどな、と言って富士は腕を組む。


「頑張ったな」

「……!」


 思わぬ褒め言葉に津和野は顔を上げる。先ほどの威圧感ある表情から一転、穏やかな声でそう言われる。じわじわと胸の内で名の知らぬ感覚が滲みだす。しかし、それを噛みしめるより早く富士は爆弾を投下した。


「涙声で訴えてまでなぁ」

「っばか、黙れ」


 結局こうやって茶化さないと、お互いに落ち着かない。そんな二人がごたごたと言い合いをしている間、永井は静かにそれを見守っていた。


「……あ」


 ふと差し込んだ光に顔を上げる。見上げてみれば、東の方、霞んだ空に朝日が昇っていた。永井の声に反応した一同はそちらを見る。美しい夜明けが眼前に広がっている。緩やかに街が、人が動き出すのが見えた。


「わ……すごい」

「……たまには夜更かしもいいんじゃない? 朝焼け見れるって考えたらさ」


 目を細めながら津和野は言う。


「そう、ですね。たまには……いいですね」


 ふわりとほほ笑んだ永井の横顔に、津和野は釘付けになっていた。


 8

「んで? 結局上手くいったの?」


 富士は先日のアレソレが気になるのだろう。マシュマロでいっぱいになったコーヒーカップを傾けて津和野に問いかける。


「えー? 親御さんは裏方ならいいって言ってくれたみたいだけど?」

「ちげーよ」

「え?」

「告白だよ。してねーの?」


 富士に言葉に津和野はぽかんとする。それに対して富士が「どうなんだよ」と答えを急かせば、津和野はいつもの調子をようやく取り戻す。


「はぁ⁉ するわけないじゃん、馬鹿なの?」

「まあそうだな。優しい態度と笑顔に絆されて告白直行とかないわ。ちょろすぎてドン引きだぜ」


 うんうん、と言いながら頷く富士を他所に彼は静かにスマホを取り出して構える。


「……個人情報、ネットの海に葬ってやろうか」

「やめろって。おい、それはダメだろ!」


 いつものコントが展開される。波濤を超えた彼の笑顔はどこかすっきりとしていた。


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抜錨 猫セミ @tamako34

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