シャルルマーニュ裁き
かくりよ
シャルルマーニュ裁き
ある昼下りだ。書斎の窓からは、赤い陽の光が木立を通して差している。しかしその光の届かぬところにある机に向かったまま、この屋敷の主は居眠りをしていた。
書きかけの原稿には、「Bernhard Prinz von Bülow」と署名がしてあった。ベルンハルト・フォン・ビューローというのが、この屋敷の主の名前である。
不意に、書斎の入り口の扉がノックされた。しかし部屋の主は今は眠りに落ちている。当然返事は無い。何回かノックが繰り返されると、「失礼しますわ」という言葉と共に、美しくも年嵩の女性が入って来た。手元の盆には湯気と香りの立つコーヒーカップが載せられている。彼女はビューローの居眠りしている机に近寄った。
「貴方……」
女性はビューローに声をかける。だがやはり返事は無い。彼女は耳を澄まして、ビューローの口元に耳を近づけた。
「――然し自分の……心底の確……信は……、吾人も亦より善き日、……即ち獨……逸に於て再び……民族的精神の……喚起……せらるる時代に……會すべしとの……とである――」
女性は盆を机に置くと、寝言を言っている彼を揺すった。
「貴方、起きてくださいまし。コーヒーをお持ちしましたわ」
すると低く唸りながら、ビューローがのっそりと顔を上げた。
「……マリア?」
眠気の残る目を擦りながら、マリアと呼んだ女性と、机に置かれたコーヒーカップを見比べた。「ああ」と声をあげる。
「コーヒーを持って来てくれたんだね、ありがとう、マリア」
ビューローは身体を起こし、ぐっと伸びをしてから、コーヒーカップに手を伸ばした。一口飲む。
マリア夫人は微笑んで訊ねた。
「ねえ、貴方。どんな夢をご覧になっていましたの?」
ビューローは突然の問いに、少し驚いた様子で答える。
「え? 見てないけど……」
「あら、そうですの?」
マリア夫人もまた驚いたようだった。
「わたくし、耳を澄ませて聴いていましたが、随分と難しいことを仰っているようでしたわ。きっと夢を見ていると思って、わたくしは貴方を起こしましたの」
「ぼくは寝言を言っていたのかい? 何を言っていたんだろう、ぼくは……分かるかい?」
「いいえ……」
本当に夢を見ていない様子のビューローを見て、夫人は溜息をついた。
「きっと日頃のお疲れが出たのですわ。原稿も近頃は大詰めのようですし。今日は早めにお休みになってくださいまし」
*
次の日、ビューローは夫人と共に、友人であるヘルベルト・フォン・ビスマルクを訪問していた。庭の花が綺麗に咲いたから見に来ないかと誘いを受けたのである。ビューロー夫妻は、なるほど庭の見えるバルコニーに通じる客間に通された。出迎えたのは主人であるヘルベルト・フォン・ビスマルクだ。
三人揃って卓を囲むと、いきなりマリア夫人が切り出した。
「ところで聴いてくださいな、ビスマルクさん!」
呼ばれたヘルベルトは目を丸くした。それにも構わず、夫人は続ける。
「この前、書斎で書き物をしている主人に飲み物をお持ちしたら、主人が寝言を言ってまして。わたくし、どんな夢を見ているのか気になって訊ねましたのに、主人ったら『見てない』って聴かせてくださいませんの」
ビューローはコーヒーを危うく口から吹き出しかけた。
「どうしたの、急に?! この前のこと、まだ気になっていたの?」
ヘルベルトはにこやかに言った。
「ほほう、そいつは気になるね」
「気になりますでしょう?」
マリア夫人は自分の夫のほうに向き直って言う。
「やっぱりビスマルクさんも気になるって仰ってますわ、貴方」
ビューローは困った様子でった。
「そんなこと言われても、夢は見ていないんだから、言いようがないんだよ」
夫人はビューローの顔を覗き込んだ。
「何でわたくしに隠し事をなさるの?」
夫は顔を近付ける夫人から遠ざかろうとする。
「隠し事なんてしてないし、夢は見てないんだよ」
夫人は不意に、悲しみに顔を歪めた。
「そんなこと仰らずに、どうか聴かせてくださいな。わたくし達は夫婦でしょう? それとも、前の夫を捨てて身ひとつでやって来たわたくしにはお教え頂けませんの?!」
ついに涙声になったマリア夫人を、ビューローがどう言い含めようか考え始めた矢先だ。バルコニーからビスマルク夫人が顔を出した。明るい声で呼びかける。
「ビューロー夫人、こちらでお話ししませんか? 庭のお花が綺麗に咲いているのが見えますわ!」
ヘルベルトがマリア夫人に向かって言う。
「ほら夫人。あそこでマーガレットが呼んでいるよ」
「ですが、わたくし、夢も気になりますわ」
「本人が見ていないと言っているんだから、見ていないんだよ」
涙ぐむマリア夫人に、ヘルベルトが言った。不服そうな夫人に向かって、彼は続ける。
「ほら、マーガレットも呼んでいるよ。彼女の作るクッキーは美味しいんだ」
ヘルベルトに促され、夫人は少々不満げにバルコニーへ向かった。
「大変だったな、ビューロー」
マリア夫人を見送りながら、羨ましげにヘルベルトが言う。
「仲がいいのもいいが、他人の家でいちゃつくのもほどほどにしておけよな」
「いや、それほどでもないよ」
ビューローが嬉しそうに言った。
「何だか悪いね」
「何が?」
一瞬、ビューローを見るヘルベルトの目が、ぎろりと光ったように見えた。ビューローが答える。
「夢のことだよ」
「ああ……なるほど」
ヘルベルトは安心した様子で呟くと、次にこんなことを言った。
「ところで、どんな夢を見たんだ?」
この言葉に、ビューローは今しがた飲みかかったコーヒーを吹き出した。噎せながら言う。
「またかい?! 夢は見てないって言っただろ?」
確信に満ち満ちた顔でヘルベルトは反論する。
「いや! 見たね。分かるぜ、男同士なんだから」
「見てないんだってば」
「見ただろ? 話せよ、俺ァ口堅えんだ。父上に泣かれて、喚いて怒られても言うもんか」
ヘルベルトの言葉に、ビューローは彼を指して反駁した。
「いやいや、信じないぞ。元首相に泣いて喚いて怒られたら、白状するに決まってる! 夢見てないけど!」
ヘルベルトはいよいよ意地になって言った。
「酷い! なんてこと言うんだ! 出世の恩人に向かってそういうことを言うのかよ?」
「出世の恩人?」
ビューローは、まるで心当たりの無いことに戸惑いを隠せない。ヘルベルトに問うた。
「どういうことだい、それは……?」
「言わなきゃわからねえか!」
ヘルベルトが感情的になって言い放つ。
「俺が君とホルシュタイン枢機卿を引き合わせてやったのが、君の出世の始めだっただろ? そんな重大な役目を担った俺に向かって、そういう口を聞くわけね!」
感情的なヘルベルトに比べて、ビューローはあくまで冷静だった。
「そんなことを恩着せがましく言われても、ぼくの地位は神と皇帝陛下の差配だと思ってるから……」
「何だと?!」
ヘルベルトが遂に怒りを露わにしたその時だった。
「何を騒いでいる?!」
ヘルベルトの声よりも太く、はっきりとした大きな音声が、部屋を満たした。言い争っていた二人は、驚愕して部屋の入り口を見る。そこにはヘルベルトの父でありドイツ帝国元首相でもあるオットー・フォン・ビスマルクが、車椅子に乗ってはいるが屈強な面影を残した姿でそこにいた。
ビスマルクは付添人も無しに自分で車椅子を動かしながら、二人のほうへ近寄って来る。
「何だヘルベルト。何をビューローと怒鳴り合っているのだ?」
ヘルベルトは声を掛けて来た父に、涙が滲む声で縋り付いた。
「聴いてくださいよ、父上! 今そこでビューロー夫人が数日前、書斎で書き物をしているビューローにコーヒーを持って行ったら、間抜けにも寝言を言っていたらしいんですよ」
「待って、ヘルベルト!」
ビューローは慌ててヘルベルトに反論する。
「いくら今喧嘩してるからって、他人のことを『間抜け』呼ばわりはないでしょう」
ヘルベルトは最早怒り心頭に発した様子で言い返した。
「こんな下らない夢の話題で喧嘩してるお前は充分間抜けだよ!」
「そんな……」
「夢?」
ビスマルクはヘルベルトの言葉を耳聡く聴き取った。
「夢とは何のことだ?」
「そう! 夢ですよ!!」
ビスマルクの問いに答えたのはヘルベルトだ。彼は勢い良く喋った。
「ビューローが寝言なんて言ってるから、夫人はビューローが夢を見ていると思ったんです」
ビスマルクはビューローのほうを向いて訊ねる。
「夢は見たのか?」
ビューローは首を横に振った。
「見てないんですよ」
ヘルベルトが説明を続ける。
「ずっとそれ一点張りで。夫人は夢を絶対に見ていたと言って泣くし、ビューローは見てないって言うし、とりあえず向こうでうちの奥さんが夫人を呼ぶから行かせてやって、二人きりになったところで『どんな夢を見た?』って訊いたら、ま〜だ『見てない』って言うんですよ。どう思います?」
酒でも入ったような饒舌さを発揮したヘルベルトを見て、ビスマルクは冷静に答えた。
「どう思うと訊かれたら、下らんことだとしか思えんな」
突き放すような父の言葉に、ヘルベルトは泣いた。声を絞り出して必死に弁明する。
「全然下らんことじゃないですよう……! これは、ビューロー家の夫婦仲とか元外務長官と現役長官の意地とかがかかって――」
「それが下らんというのだ」
ビスマルクは息子の言葉をきっぱりと切り捨てる。更に続けた。
「そんなことも分からんように育てた覚えはない!」
「そんなァ……!」
ビスマルクの言葉に、ヘルベルトの目からはぼろぼろと涙がこぼれた。父へ返す言葉も見つからないヘルベルトは、とうとう泣き喚きながら、走って部屋を出て行った。
「ヘルベルトめ……」
ヘルベルトの出て行った部屋の入り口を見ながら、ビスマルクが言う。
「あのように育てた覚えはないが、あのように愚かなところもまた可愛い……さすが自慢の息子、可愛い……そうは思わんか、ビューローよ」
「はあ……そうですね……」
ビスマルクの息子への惚気は、ビューローにはどうでも良かった。ただ、厄介な話題をやっと中断させてくれた元首相には感服し、感謝するばかりだが。
ビスマルクがひとり首肯しながら続ける。
「だが、無闇に他人の夢の内容を聞き出そうとするのはいかんな。それが外務長官の夢ともなれば尚更だ」
元首相はビューローに向き直って言った。
「一体どんな夢を見ていた?」
ビューローは、先程心の中でビスマルクに捧げた感謝を撤回した。もはや元首相には呆れと失望しかない。彼は溜息混じりに答える。
「やっぱり訊いてきましたね。いい加減にしてください。夢は見ていないんです」
ビスマルクは穏やかに目下の者を諭すような口調で言う。
「ビューローよ、夢とはアイデアの宝庫なのだ。それが外務長官の夢ともなれば、重要度は増す。今まで良く口を割らなかったと褒めてやりたいくらいだ。偉いぞ。どのくらい偉いかと言うと、息子と孫くらいしか褒めない儂が『偉い』と言うくらい偉いぞ」
ビューローは先程にも増して困った様子で返す。
「お褒めに預かり光栄なんですが、わたしは夢を見ていないんです」
「まァまァ」
ビスマルクはすっかり、後輩に構う先輩といった気分のようだ。
「外務長官の職はなかなか辛いだろう。皇帝からの期待もあり、下からの突き上げもありだ。そこで儂の出番だ。外務長官を務めたこともある元首相の儂が、貴様の夢から悩みを分析してやろう」
「そんな夢占いのようなことを仰って」
ビューローは先輩の言葉に不満を露わにする。
「貴方、わたしを出汁にして、自分を更迭した皇帝陛下を思い切り扱き下ろしたいだけでしょう?」
「良かろうが、そのくらい」
ビスマルクは開き直った。
「この歳になると、日々の楽しみは孫と共に愛犬達と戯れるか、ベルリン政界への愚痴しかないぞ。貴様もそのうち、このような身の上となるのだ。未来の自分を助けると思って、さあ、夢の話をせんかい!」
「ひたすら惨めで情けないですね。嫌です!」
「そんなに話しづらいことか? 余程、天下国家にまつわる大事の夢を見たと見える」
ビスマルクは嫌がるビューローにも構わず、尚も話を訊こうとしているようだった。周囲を見回し、卓の隅に置かれた紙の束とペンを見つける。
「そこに紙とペンがあるから、図に描いてみるか?」
ビューローはひたすらうんざりした。
「図にも描けませんよ。見てないんですから」
「そんなに口に出しづらいことか。なるほど」
ビスマルクは何か思いついた様子で、「仕方ない」と言った。
「それならば、悔しいが、ホルシュタインに話してみろ。手紙は書いてやろう」
ビューローには意味が分からなかった。何故、見てもいない夢の話を、外務省の枢機卿にまで話さなければならないのか。ビューローはビスマルクに弁明する。
「何故そうなるんですか? 夢は見ていないんですってば」
だがビスマルクは、彼の話には耳を貸さなかった。
「正直、儂を追い落とした男に手紙を書くのは癪だが……こんなことを頼めるのは奴しかおらんからな」
*
ところで読者諸氏はここまで付いて来て頂けているだろうか? 正直、飽きてしまってはいないだろうかと、危惧しながらペンを進めている。
我らがビューローもこの流れに落胆し、うんざりしていたし、ビスマルクからの手紙を受け取ったホルシュタインも呆れていた。「とうとう耄碌なされたか」と。
でも仕方がなかった。来てしまったのだから。
後日ビューローが外務省に顔を出すと、ホルシュタインから唐突に呼び出された。場所は当然、外務長官執務室の隣にある、ホルシュタインの自室だ。
「ビスマルク元首相から、『国家の大事に関わる重要な事柄を、ビューローが自分には一向に話そうともせぬ』という訴えが届いた」
ビューローからしてみればもううざったい話題だ。
眉間に皺を寄せるビューローの後ろには外交官のひとりであるキダーレンと、順番待ちらしき彼らの後輩のキュールマンが書類の束を両手に抱えて控えていた。
ホルシュタインが訊ねる。
「どういうことか話せ、ビューロー」
困り果てた様子のビューローは溜息混じりに答えた。
「元首相は考え違いをしていらっしゃるのです。ただ見てもいない夢を、その……国の大事に関わる重要なことだとか、そういうことに結びつけていらっしゃるだけで」
「夢、とは?」
ホルシュタインに重ねて問われ、ビューローはここ数日間で何度目か既に数え疲れた説明をする羽目になった。仕方ないからするのだが。
「数日前、わたしが書斎で居眠りをしていたら、うっかり寝言を言っていたらしくて、それを聞いた妻がわたしが夢を見たと勘違いをしているんです。皆それを真に受けてしまって、それで」
「何ですか、そのつまらない話は!」
そう言ったのは後ろにいたキダーレンだ。いつ会っても真面目そうに仕事してそうに見えないどころか、自分と反りが合いそうにもない男の登場に、ビューローは苛立ちを露わに訊ねた。
「キダーレン、なぜ君がここにいる?」
キダーレンはビューローからの刺々しい言葉を嘲るかのように陽気に答える。
「そりゃ、枢機卿に用があるに決まってますけど、面白そうな話になりそうなので、早めに入ってしまいました!」
そのかわいこぶった態度でビューローの神経を逆撫ですると、更に背後を振り向いてキュールマンに言った。
「君も長官の面白い夢の話、聴きたいだろ? キュールマンくん」
「ええと……そうですね」
「新人くんを巻き込むんじゃないよ」
新人を追従させたキダーレンに呆れ返って、ビューローは棘を零す。
その様子を尻目に、ホルシュタインは冷静に言う。
「ビューロー、夢とはアイデアの宝庫だ。貴殿のように国家を先導する立場の夢ともなれば、まさに国家の大事に関わるアイデアとなるだろう」
彼は先輩であるビスマルクが言った言葉と同じことを繰り返すと、
「一体どんな夢を見ていた?」
と、まさにここ数日間で何度目か既に数え疲れた展開をも繰り返した。ビューローの後ろで、汚い吹き出し笑いをする音がした。困惑したビューローが言う。
「話聴いてましたか? わたしは夢なんか見てないんです!」
ホルシュタインはビューローの訴えを無視する。
「そんな重大事項、よくビスマルクなぞに漏らさなかったな。それは褒められるべきところだ」
「褒められても嬉しくないです。夢は見てないので」
そう言うビューローに、ホルシュタインは言い返す。
「寝言を言っていたのが夢を見た証左だろう。つまり夢から覚めて起きたその瞬間に、夢の内容を忘れたのだ」
「なるほど一理ありますね」
「何が一理あるだよ」
便乗するキダーレンに一撃を加えるように、ビューローは毒づくと、続けてホルシュタインに向かって弁明する。
「枢機卿もしっかりしてください。酷い牽強付会じゃないですか。夢は見てないんですってば」
だがビューローは、この後に更なる追及をしようとホルシュタインが口を開こうとするのを見た。それをされまいと、ビューローは威嚇するように先に口を開いた。
「仕事あるので、戻っていいですよね!」
言い放つと、ビューローはホルシュタインの返答を待たずに、キダーレンとキュールマンを押しのけて退出した。
*
また他日、ビューローは外務省の面々と宮殿に参内していた。彼らが仕えるドイツ皇帝・ヴィルヘルム二世陛下と謁見し、日頃の業務について報告するためである。
皇帝陛下の座す玉座の側には侍従長と侍従武官が控えていたのだが、今日の謁見には驚くことに、ウィーンに駐在しているはずのオイレンブルク大使が、皇帝陛下の傍らに立っていた。
なぜ外交官の頭取たる外務長官のビューローを差し置いて、いち駐在大使たるオイレンブルクが皇帝陛下のお側にいるのか? そのことには誰もが――ホルシュタインですら――触れず、和やかに外務省の報告は進んだ。
だが、ホルシュタインの報告が終わった時、事は起こった。
「ああ、皇帝陛下」
と、思い出したように彼は閉じかけた口を再び開いたのだ。
「そういえば外務長官が、これからのドイツに関わる重要な予知夢を見たと仰っていたのを、すっかり忘れておりました」
「予知夢?」
ヴィルヘルム二世陛下は、中欧の大国たるドイツ帝国の主だというのに、この時だけは予知夢とかいう可笑しな話題に対しての食いつきが良かった。
「何と。それは聴きたいな。ビューロー外務長官、前へ出よ!」
陛下の命令に、呼ばれたビューローは渋々前へ足を踏み出す。後ろへ下がるホルシュタインとのすれ違いざまに、ビューローは彼がほくそ笑んだのを見た。小さく舌打ちする。
陛下がビューローに重ねて命じた。
「さあ聴かせてみよ、ビューロー。どのような夢を見たのだ?」
皇帝陛下の命令に、ビューローは少し演技掛かった困り顔をする。
「申し訳ありません、陛下。枢機卿は考え違いをしておいでです。わたしはそのような夢は見ていないのです」
そんなビューローの答えに、陛下は少し考え込むような顔をした後、何か思い付いた様子で、
「なるほど、分かった」
と仰った。何を閃かれたのか、陛下はお顔の横でわざとらしく手を叩いた。
「侍従長並びにモルトケ侍従武官、退席せよ」
まず御側用人達を退出させると、続けて外務省の面々を指し示し、
「ビューロー以外の外務省の者共、『良い』と言うまで入って来てはならぬ」
と言い放つ。最後に、
「オイレンブルク大使……」
陛下は傍らに立つ大使に呼びかけ、ウィンクをする。
これに笑顔で応えるオイレンブルクを見て、ビューローは、これは自分を問い詰めて話を訊き出した後、面白い話だったならそれをじっくり聴かせるという合図だと察した。
正面を向いて、ヴィルヘルム二世陛下は威厳をもって命令する。
「人払いだ。皆の者去れ!」
その言葉には、一同は従う他はない。仕方なく居残ったビューローは、キダーレンがこちらにつまらなさそうな表情を向けるのを見た。
一同が退去したところで、ヴィルヘルム二世陛下が改めて仰った。
「さあビューローよ、皆去ったぞ。これで少しは話しやすくなったろう? では話してみよ。その帝国の未来に関わる夢の話とやらを」
「ですから」
とビューローは窮した様子で言う。
「先程も申し上げましたように、わたしはそのような夢は見ていないのです」
ヴィルヘルム二世陛下は驚いた表情を見せた。
「なんとビューローよ。常に新航路を行くべきドイツ皇帝たる者、些細な事に気を取られる暇は無いということは、そなたも分かっているはず。それなのに我がビスマルクたるビューローよ。この余に貴重な時間を裂かせておきながら、何も収穫は無いと言うのか?」
その言葉に、ビューローは跪いて許しを乞う。
「平に申し訳ありません。どうかご容赦を……」
陛下も重ねて問うた。
「本当に何もないと申すか?」
ビューローは「はい」と言うしかない。陛下も「まことに?」と念を押す。「申し訳ございません」とビューローは再び言った。陛下の口からつまらなさそうに溜息が漏れる。
と、思ったのも束の間だった。ヴィルヘルム二世陛下がいきなり立ち上がり、
「ベルンハルト・フォン・ビューロー!」
の大きな呼びかけと共に、壇上から駆け下りていらっしゃったのだ! これにはビューローも驚いて立ち上がった。陛下は泣きつくように仰った。
「頼む! 聴かせてくれ、どのような夢を見たのだ?!」
ビューローは困惑した。
「い、いえ、ですから、夢は見ていないので、話はできないと何度も――」
ヴィルヘルム二世陛下は、尚もビューローに強く懇願する。
「良いではないか、聴かせてくれ、どのような面白い夢を見たのだ? フィリーとも久しぶりに逢ったのだ。面白い話のタネぐらい余も欲しい!」
オイレンブルクを、一応は外務省の報告の席であるにも関わらず〝フィリー〟と愛称で呼ぶ陛下に、ビューローは呆れながら言う。
「わたしは話題のタネではありませんし、夢は見ていないのです」
「褒美はいくらでも取らすぞ! 金か? 爵位か? いくら欲しい?」
陛下が褒美をチラつかせる。しかしビューローは冷静であった。
「金も爵位も要りませんので……」
「余は皇帝だぞ?!」
ドイツ皇帝の威を振りかざす陛下。ビューローは正直なところ、そんな皇帝陛下の相手をするのが若干面倒臭くなってきていた。
「そりゃ、陛下がドイツ皇帝以外の何かであられるはずはありませんし、いくら皇帝陛下であられましても、見ていない夢の話はできないのです」
すると、突然陛下の表情が変わった。今にも泣き出しそうであられたのに、眼光鋭く、怒りを露わにビューローを睨め付けられている。静かに低いお声で仰る。
「……時にビューローよ。皇帝である余に仕えるに一番必要な資質は何だと思う?」
この陛下の表情の変化に、ビューローは慄いた。次の答えを誤ったら大変なことになりかねない。そう思い、静かに、
「……何でございますか?」
と訊ね返した。ヴィルヘルム二世陛下が言われる。
「余に愛されることだ。貴殿の今までの言動は、それを大きく損ねるようなことだというのは、分かっているか?」
ビューローは大きく目を見開いた。思わず「あっ」と小さく声を漏らす。手遅れになった物事を取り繕おうと口を開いた。
「お待ちください陛下。いくらわたしの運命は陛下の御手にあるとは言え、このような仕打ちはあんまりです!」
言いながら、乞うように陛下に近付くビューローを、陛下は
「ええい、ビューロー寄るな、触るな!」
と拒んだ。重ねて叫ぶ。
「モルトケ侍従武官、者共、ビューローを取り押さえろ!」
その声に、部屋を退出していた面々がどやどやと再び入ってきた。陛下の命令に従い、侍従武官がビューローを羽交い締めにする。
「やめろモルトケ! 陛下、何卒、何卒ご容赦を……」
陛下は侍従武官の腕の中で藻掻くビューローを無視し、先程〝フィリー〟と呼んだオイレンブルクに縋り付いて、涙にむせんでいた。
「思えば、ビューローはフィリーの危機にも、余のデイリーテレグラフの時にも助けてくれなんだ」
陛下は鼻をすすりながら仰る。
「もうビューローへの信任は無いに等しい。今よりビューローの外務長官の職を解き――」
ビューローが叫んだ。
「えっ、そんなあ……ッ」
ヴィルヘルム二世陛下は続けて、
「代わりに、キダーレンを外務長官とする。正直気に入らないし、腹も立つが、しっかり務めよ」
その言葉に、部屋にいた一同――侍従長やビューローを取り押さえている侍従武官、ホルシュタインですら――皆が驚きの声をあげた。キダーレンだけが嬉しそうに、
「やった! ありがとうございます!!」
とガッツポーズをしている。
ビューローは尚も諦めず、陛下に向かって言った。
「無茶なご判断をなさいますな、陛下!」
彼はオイレンブルクの方を向いて訴える。
「フィリー、君からも陛下に何とか申し上げてくれ! 頼む!!」
すると一瞬、羽交い締めにされたビューローと、陛下に寄り添うオイレンブルクの視線が交わった。途端に、オイレンブルクが酷く不快そうな表情で目を反らす。そのわざとらしい仕草にビューローは泣き声になる。
「なんてことだ、フィリー! ぼくは君の分身だ。だのに君はぼくを見捨てるというのか?! 酷い、あんまりじゃないか!!」
いよいよ窮地に陥ったビューローに追い討ちをかけるように、ヴィルヘルム二世陛下は侍従武官に向かって命ずる。
「モルトケ、早くビューローを追い払え!」
それを聴いたビューローが絶叫した。
「こんなことなら、夢を見ておけば良かった!」
すると突然、陛下の玉座の背後から眩しい後光が差した。あまりの眩しさに、周囲が白く掻き消える。驚愕すべき出来事に、思わずビューローは叫んだ。
「うわ〜〜〜〜〜〜?!」
目を覚ますと、ビューローは自分が倒れていることに気が付いた。いつの間にやら羽交い締めは解かれている。きっと脱力して気絶していたのだろう。
彼は自分を呼ぶ声がするのを聞いた。
「……ビューロー……ビューロー……ベルンハルト・フォン・ビューロー……」
「はい……?」
ビューローは呆けたまま返事をすると、先程まで自分の置かれていた状態を思い出した。再び這いつくばって必死に言葉を紡ぐ。
「はい、すみませんでした! ごめんなさい! でも夢は見ていないのです。ですが長官解任・爵位剥奪・その他の罰則はご勘弁を――」
「何だ、その長官解任・爵位剥奪・その他の罰則とは? 朕はそのようなむごいことは一切せぬ」
自分を呼んだ声は、唐突な弁明に疑問符を投げた。声は「ははあ」と事情を察した様子で続ける。
「なるほど何だ、今度のドイツ皇帝はそのような馬鹿なことを平気ですると見える。愚かなことよ……」
ビューローは自分に投げかけられる少し甲高い声の調子と内容から、相手は先程まで話していたヴィルヘルム二世陛下とは違う人間だと感じた。彼は顔を上げる。
ビューローの目の前には玉座があった。そこには小太りではあるが長身の男が座っている。その男の銀髪の上には、かのローマ皇帝の帝冠が被せられていた。
ビューローは目を見開く。それを見て、声の主たる銀髪の男が声を発した。
「おお、ビューローよ。正気づいたか」
「カール大帝?!」
ビューローの叫びに、『カール大帝』と呼ばれた男は穏やかに答える。
「いかにも。朕はフランク王国国王ピピン三世の子、カールである」
「あれ? ということは、ここはどこなのですか? わたしはどうなったのです?」
ビューローの疑問に、カール大帝陛下は答える。
「ここは天上にある朕の御殿――」
「天上?!」
混乱と驚愕が入り混じった様子のビューローの言葉にも、カール大帝陛下はあくまで冷静に「まあ話を聴け、ビューローよ」と仰る。
「ここ数日のそなたの動向は、この御殿で見聞きしておったのだ。
初め家人が聴きたがり、友人が聴きたがり、その友人の父で元首相までもが聴きたがり、枢機卿ですら内容知りたさにドイツ皇帝を利用したその夢の話。白状せぬからと言って、何々、長官解任・爵位剥奪・その他の罰則とは、いやはやそんなことは臣民に行う行為ではない! よってビューローよ、朕がそなたを助けてやったというわけだ」
カール大帝陛下の慈悲に、ビューローは再び顔を伏して申し上げた。
「お気に留めて頂いただけでなく、わたしの名誉まで守って頂き、ありがとうございます」
「いやいや、礼には及ばん」
カール大帝はそう言われ、こう続けられた。
「初め家人が聴きたがり、友人が聴きたがり、その友人の父で元首相までもが聴きたがり、枢機卿ですら内容知りたさにドイツ皇帝を利用したその夢の話……この朕になら聴かせてくれるな?」
「ええっ……」
ビューローは思わず、嘆くように声を漏らした。まさか、こんな大人物に対して呆れの感情を抱くとは思わなかったのだ。仕方無く、彼は言う。
「申し訳ありませんが、わたしは夢は見ていないのです」
ビューローに向かって、カール大帝陛下は神妙な面持ちで、
「ここが天上の御殿というのは、先に言った通りだ」
と言われた。
「そなたが夢の話をせねば、無事に地上に戻れるかも分からん。そなたそれでも良いのか?」
「いいえ、嫌です!」
告げられた言葉に、即座にビューローが答えると、カール大帝陛下は彼を見据えて命じる。
「ならば話をせよ」
ビューローは困窮した。地に顔を伏し、顔を冷や汗が伝うのを感じる。このままでは、自分の名誉どころか、命運全てが危ういと思われた。なんとか地上に帰らねば、自分は本当の意味で生かされないのだ。彼は地上に帰れるように、しかもカール大帝に、あのカール大帝に喜んで頂けるように答えなくてはならない。
ビューローは震える声で言った。
「――先程の答えは撤回いたします。わたしは夢を見ました」
「見たか!」
とカール大帝陛下が喜びの声をあげた。
「果たしてどのような夢だったのだ?」
「はい! 夢を見たのでございます!」
ビューローははっきりと、大きな声で答える。
「カール大帝がその御威光で以て、この混沌としたドイツに再び栄光を齎されるのを!!」
言って、ビューローは自分が肩で息をしているのを感じた。間違いなく、彼はこの瞬間、この発言に、持てる全てをぶつけたのだ。
それを聴いて、カール大帝がどのような表情をされたかを、顔を伏せたままのビューローが見る術はない。しかし、次の大帝陛下のお言葉は非常に穏やかな様子だった。
「……そうか、ならばその夢、正夢にしてやろう」
すると、玉座の足元で地面を擦るような音が聞こえた。
「なるほど、そなたが今までこれを黙秘してきたのは、自分の願いを叶えるためであったのだな。願いは他人に話すと叶わぬと言うしな。賢い男よ」
ビューローは顔をあげた。カール大帝陛下が立ち上がり、自分を見下ろしているのが見える。カール大帝陛下が仰った。
「これよりこのカール、再び欧州を平定する! 付いて参れ、ビューロー! 現世の案内をせよ!」
ビューローは喜びで自分の胸が満たされるのを感じた。思わず顔がほころんで笑顔になる。彼は先導するカール大帝の背中に向かって言った。
「はい! 喜んでお供いたします! やはりドイツの帝位は唯一絶対の大帝陛下、貴方のものです!!」
彼は大興奮しながら、走って大帝の背中を追う。やはり自分が付いて行くべきは、カール大帝その人だったのだ――
*
陽は既に傾いて、書斎の窓からは陽の赤い光と、夜闇の境目がはっきりと見えた。しかしその風景の見えぬところにある机に向かったまま、この屋敷の主であるベルンハルト・フォン・ビューローは居眠りをしていた。
不意に、書斎の入り口の扉がノックされた。しかし部屋の主は今は眠りに落ちている。当然返事は無い。何回かノックが繰り返されると、「失礼しますわ」という言葉と共に、美しくも年嵩の女性が入って来た。手元の盆には湯気と香りの立つコーヒーカップが載せられている。彼女はビューローの居眠りしている机に近寄った。
「貴方……」
女性はビューローに声をかける。だがやはり返事は無い。彼女は耳を澄まして、ビューローの口元に耳を近づけた。
「――進めよ、撃てよ勇敢に、靑ざむな
神は汝を守るなる、――」
女性は盆を机に置くと、寝言を言っている彼を揺すった。
「貴方、起きてくださいまし。コーヒーをお持ちしましたわ」
すると低く唸りながら、ビューローがのっそりと顔を上げた。
「……マリア?」
眠気の残る目を擦りながら顔を上げる。周囲を見回して、先程とは様子の違うことを認めると、目の前の夫人に向かって問うた。
「あれ……? カール大帝は?」
「えっ? カール大帝? ですか?」
マリア夫人は唐突な夫の言葉に戸惑いを隠せない。しかし同じように、夫であるビューローも、周囲の環境の変化に驚いていた。何しろ、先程までいたはずの白く明るい天上の御殿でもなく、宮殿や外務省でもなく、ビスマルク家でもなく、薄暗い自宅の書斎にいるのだ。彼は重ねて訊ねる。
「あれ……? ビスマルク元首相は?」
「亡くなられていますわ」
「亡くなられている……?」
マリア夫人の冷静な回答に、更に彼は問い質す。
「ヘルベルトは?」
「亡くなられましたわ」
「ホルシュタイン枢機卿は? キダーレンもかい?」
夫人は繰り返し答える。
「皆さん、お亡くなりになられましたわ……」
「そう……」
ビューローはやっと目が覚めた心地がした。
「全部、夢だったんだな……」
途端に寂寥感が、彼の胸を押し潰さんとした。コーヒーをすする。夫人が言う。
「懐かしい方々の夢をご覧になってましたのね」
「そうだね」
感傷に浸るビューローを見て、夫人は溜息をついた。
「きっと日頃のお疲れが出たのですわ。原稿も近頃は大詰めのようですし。今日は早めにお休みになってくださいまし」
「そうだね」
そう言って、ビューローは部屋を出るマリア夫人を見送った。
ビューローはというと、机の上の明かりを灯して、原稿の続きを始めた。彼は万年筆を手に取ると、それを原稿用紙に走らせる。
「――然し自分は獨逸の爲に、必や斯る日の來るべききとを希望し、否實に確信して冥目せむとするものである――」
シャルルマーニュ裁き かくりよ @bskakuliyo
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