最終話:狼の眉毛

 宍野ししの功俊こうとしは、日辻川家の前に立っていた。

 思えば随分と久しぶりに見る、日辻川家の大きな表門。数年前は依緒を迎えに、数十年前は解治かいじを訪ねて、何度となくこの門を通った。

 解治の両親が亡くなって、人付き合いが悪いと言うかひどい将人が家を継いで以来、すっかりご無沙汰していたが。


 インターホンを鳴らすと、洋子ようこが応対してくれた。良太に会いたいと告げると、連絡しますと快い返事が返って来る。

 やがて、すぐに帰って来るから中で待つように言われ、門の鍵が開いた。


 古いのはデザインだけらしい。遠隔操作で開けられた門をくぐり、広い庭を抜けて玄関へ向かう。

 以前は芝も庭木も丁寧に刈り揃えられた美しい庭園だったと記憶しているが、今は随分と荒々しい。

 いや、荒れているというわけではない。歩きにくくも見苦しくもない。自然味があるというか野生味があるというか…… 何だろう。住宅街の屋敷というより、山奥の神社のような……


 知らず、背筋せすじを伸ばして歩いているうちに、玄関にたどり着いた。

インターホンを鳴らすと、どうぞ、と返事。


「こんばんは。いらっしゃいませ。ご無沙汰しております」


 洋子が出迎えてくれた。

 大きくなったな、と功俊は思った。一年ばかり見かけなかっただけのはずだが、子供の成長は早いものだ。簡素だが丁寧で上品なお辞儀の所作は、今は亡き解治の母を思い起こさせた。


「宍野の小父おっちゃん。いらっしゃい。久しぶりだな。依緒の奴はいい子にしてる?」


 その後ろから、良太が姿を現した。


「やぁ、久しぶり、洋子ちゃん、良太くん。今日は、その依緒について話があってね」


 挨拶を返しながら、功俊は一瞬、違和感を感じた。良太は外出していたはずでは?

 その違和感はぐに消えた。大方、表門からではなく裏口の方から帰って来ていたのだろう。今でも裏山で動植物を観察しているのだろうか。

 そんな些細なことより、良太の鮮やかな蒼白い髪に目を奪われた。

 直感的に、地毛だと思った。自然すぎるし、美しすぎる。

 だが、功俊の理性と経験がそれを否定した。地毛の色がこんな変わり方をするはずがない。良太も今時の子供なのだから、中学生になれば髪のひとつも染めるだろう。


「そっか。飯どうする? 洋子が作ったんだぜ。食べながら話そうか?」

「へぇ、それは是非ご馳走になろう。洋子ちゃん、成長したなぁ」

「ありがとうございます。お口に合えばいいのですが」

「じゃあ、今日はこれで上がりにするか。俺、姉ちゃん連れて来るわ」

「はーい。それじゃあ小父さん、どうぞこちらへ」


 洋子に案内されて、功俊は日辻川屋敷の食堂へと向かう。

 歩き方が若干、不自然に感じる。そう言えば大怪我をしたのではなかったか。大丈夫だろうか。




 ……ところで、 さっきまで其処にいた良太君は、いつの間にいなくなった?




******




「いただきます!」


 テーブルに並んだ、山菜のサラダと大きな肉塊の前で、4人は手を合わせた。


 両親は仕事らしい。あの将人とあの瞳子が、と思うと感慨深い。悪い噂しか聞いていなかったから安心した。


 良太が豪快に肉を切り分けてくれる。かぶりつくと肉の脂が溢れ出して旨いこと美味いこと。さすが日辻川家、いいものを食っている。


 翔子にも久し振りに会う。以前見かけた時は随分派手な格好をしていたが、今は随分小ざっぱりした居ずまいだ。

 スプーンを握って茶碗から米を掬っている。そうだ、翔子も大怪我をしたはずだ。箸が使えないほどの後遺症が指に残ってしまったのか? いずれ治ると良いのだが……


 気付くこと、分からないことが多すぎる。忙しさにかまけて、近所付き合いをおろそかにしていたことを思い知る。


 ひとつひとつ埋め合わせていくしか無いだろう。功俊は覚悟を決めて、良太に話を切り出した。


「良太くん、依緒の怪我について何か知らないかい? 何が有ったのか聞いても、依緒は教えてくれなくてね」

「あー、人間・・にどこまで話していいもんかなあ」


 ぞぶぞぶと肉を平らげていた良太は、手を止めて思案顔になる。

 ごく自然体で、とくに後ろめたそうな様子もない。やましいことはしていないのだろう。功俊の緊張がわずかに緩み……


「へー、小父おじさん、人間なんですか?」

「ああ、こんだけ完全に人間なのは珍しいな。姉ちゃんもすぐ犬が混ざっちゃったし」

「あぅ、ごめんね良ちゃん」

「いーよいーよ。全然普通。動物だからダメってこたないし、人間ならいいのかってのもよく分からないしな。本当にダメなヤツはデザイン自体に悪意感じるから」


 ……なんだ、この会話?


 功俊は姉弟妹きょうだいたちの言葉の端々はしばしに言い知れぬ感情を覚えた。

 違和感? 疎外感? 薄気味悪さ? 恐怖? 畏怖?

 とにかく、自分が異物であるというか、場違いというか、まるで獣の群れの中にでも迷い込んだかのような……


「別に、良太くんを、疑ってかかっているとか、そう言うわけじゃ、ないんだ。依緒も、君は関係ないと、言っていたし…… とにかく、何でもいいから、何か知らないかと、思って、ね」


 声が上擦るのを抑えながら、功俊は質問を続ける。

 絶対に何かある。娘を理解するために避けて通れない何かが。本能的な忌避感をこらえながら、功俊は良太を見つめる。




小父おっちゃん。依緒の脚を折って、目を潰したのは俺だよ」




 ああ、やはり。

 まさか、なぜ。


 相反する感情。功俊は努めて冷静を保ちながら言葉を続ける。


「依緒が、良太くんに何をしてきたか、本人から聞いている。本当のことなのかい? 依緒が、君を虐めていたというのは」

「ああ、虐められてたのは俺だけじゃない。あいつは犯罪者だよ」


 犯罪者。


 良太にしてみれば、功俊にんげんから見た事実を伝えただけで、そこに深い意味も特別な感情も無い。

 だが、功俊に取っては視界が歪む程に衝撃的な一言だった。幼馴染を容赦なく一刀両断する良太に、気が遠くなる。

 いや、幼馴染だからこそか…… ヤクザのせいとはいえ、幼い頃からの長い付き合いを裏切られた形になったのだ。彼の痛みはどれ程のものだったか。

 例えばもしも、自分が妻に裏切られたなら…… と想像すると、功俊はとても良太を責める気になどなれなかった。


「済まなかった」

小父おっちゃんは悪くねーだろ。頭なんか下げないでくれよ」

「被害届は出さない。依緒もそれを望んでないんだ。あの子なりに反省しているんだと思う」

「あぁ、被害届は出さない方がいいな。警察が困るだろうし、下手すりゃ小父おっちゃんも困る」


 もう一回警察の人に説明しとくか、などと、良太は苦笑を浮かべてそう言った。


 警察沙汰を匂わされて、この余裕…… いくら依緒に落度おちどが有るとは言え、自分のしたことの重大さが分かっていないのか?

 そもそも、娘の目を抉られた親の前で何ら殊勝な態度を見せないのが信じがたい。日辻川良太はそんな人間ではなかっただろう……


 頭を上げた功俊は、一度大きく息を吸って、吐く。

 犯罪者の親だとしても、犯罪者の親だからこそ。大人として、社会人として、彼に言わなければならないことがある。


「良太くん。悪いのは依緒だ。依緒には相応の罰を与えるつもりだし、元凶を差し置いて君を責める気なんて無い」




――今、この街を支配してるのは、良くんだから――




 ふと、依緒の言葉を思い出す。

 急に込み上げる、得体の知れない恐怖。喉が詰まる。


 それでも功俊は、自分の責任を果たそうとした。


「それでも……それでもだ、良太くん。人に暴力を振るうのは良くない。第三者には細かい事情も、君の気持ちも分からないんだ。客観的に見れば、君は個人的な理由で人を傷つけた危険な人物、と言うことになってしまう…… 君なら分かるだろう? 正義は悪用されないように、複数の立場から複数の手で扱われなければならないんだ。今後は、どうか一人で早まったことをせずに、周りの人達を頼ってほしい」


 言い切って、功俊は唾を飲み込む。

 周りの大人達が頼りないから、こんなことになってしまったのは百も承知だ。そんな頼りない大人の一人である自分が、こんな説教をしても説得力は無いだろう。

 だが、彼はさとい子だ。きっと分かってくれる……




「俺は人間に暴力を振るったことなんて無いよ」




 返ってきた答えは、同意でも反発でもない、想像もしないものだった。


「い、いや、そうだね。暴力なんて言い方をして、悪かった。でも、正当防衛は過剰防衛がなければ簡単に悪用されてしまう。とにかく、人に手を上げるのは……」

「だから、俺は人に手を上げたことなんて無いって」


 まさか、足でやりましたなんて、くだらないことを言っている訳ではあるまい。

 不可解が頂点に達する。さっきから何だ? 良太は何を言っているのだ!?


「依緒の目を潰したのは君だと、さっき自分で言っただろう!?」

「そうだよなぁ。小父おっちゃんには分かんないんだよなぁ」


 うーむ、と考え込む良太。同意するようにうなずく翔子と洋子。

 背筋せすじが寒くなる。文脈から察するに、彼らはこう言いたいのではないか?




 宍野依緒は、功俊の娘は、人間ではない・・・・・・と。


 それは、どれほどの怒りと失望から来る言葉なのか。




「ああ、そうか。こうすりゃいいんだ」


 言葉を失った功俊に、良太は自分の眉毛を1本、引き抜いて、渡した。


 神々しいほど蒼々と輝く、1本の眉毛……こんなに長かったか? 15センチくらい有りそうだが。そんな眉毛ある?

 話の流れをブッた切って手渡されたそれを、功俊は魅入られたように凝視する。何故だか持つ手が震えた。


「そいつをかざして、人や動物、木や石、壁や障子……いろんなものを見てみな。結構面白いぜ。何かイヤなモノを見ても、人生の修行だと思うしかないけど」




――狼は、我は人など食わぬと答え、己の眉毛をちょいと1本切って夫婦に渡した――


――これをかざして村人を見てみれば分かる、と言う――




 思い出す、御伽噺の一節。

 何故、あの昔話はあんなにも凄惨なのか。狼に眉毛や睫毛を貰う民話は岩手や広島など各地に伝わっているが、その多くは貧乏人が長者に認められたり、働き者が意地悪な連れ合いと縁を切ったりといった穏便な内容だ。物語の中で、狼は誰も殺さない。

 なのに、この地の伝承は、なんであんなに血生臭い?




 功俊は操られるように、自らの目の上に狼の眉毛を翳した。








「う、わ」


 洋子がいる。右の後足に義足を嵌めた子犬が、行儀よく椅子の上にお座りしている。


「う、あ」


 翔子がいる。頭に犬の耳を生やした幼女が、傷だらけの手でスプーンを握っている。


「うわあああああああ!?」


 良太が…… なんだ? なんだ、コレは!?






 蒼、蒼、蒼、蒼、蒼白く輝く何か。途方もなく巨大な蒼が空の果てから地の果てまで続いている。ここは屋内じゃなかったか?


 デカい。デカ過ぎる。地球よりデカい。宇宙を覆い尽くし、星々を喰らい尽くす、巨大な……巨大過ぎて、形も把握できない、何か。














































「うお、危ねぇ、大丈夫?」


 気付けば、椅子ごと仰向けにひっくり返りそうになったところを、良太に支えられていた。

 眉毛は食卓に取り落としていた。目の前にいるのは、ただの良太だ。

 ただの洋子と、ただの翔子が、心配そうに見ている。


「あ…… あぁ、ありがとう」


 それ以上、言葉が出てこなかった。






 それからは、和やかに姉弟妹きょうだい達が談笑を交わす食卓を、ただ見ていた。


 料理が上手になったと、兄が妹を撫でる。妹は嬉しそうに目を細める。


 仕事はどうだ、と弟が姉を気遣う。大分慣れて来たよ、今日も送り迎えありがとうね、と姉が弟をねぎらう。


 平和な家族の食卓を眺め、やたら旨い肉をたらふく食べて、功俊は礼を言って日辻川家を辞した。




******




 月が蒼白く照らす夜道。

 功俊は家路を辿りながら、手の中の神器を見る。

 糸のようにしなやかで、ひごのように丈夫な、狼の眉毛。


 これを翳して、娘を見れば、何が見えるのだろうか?


 自身を見れば、何が見えるのだろうか………………






 投げ棄てるのも畏れ多く、功俊はそっと長財布にそれを挟んで、鞄に収めた。


 これは、妻の仏壇にでも仕舞っておこう。


 間違いなく、人間には過ぎた代物しろものだから。




 娘には、人として罪を償わせよう。

 そして自分も、人として保護者の責任を取るのだ。








(完)

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新説・狼の眉毛 ~俺は人間は殴らないけどお前ら人間じゃねぇ! 俺に手を出す奴は幼馴染だろうが妹だろうが二度と暴力が振るえない体にしてやる~ 地空月照_チカラツキテル @Tsukiteru

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