七、新秩序

 ツキノワグマは木々が開けた草地にうつ伏せで寝そべり、心地よさそうに月の光を浴びていた。春を迎え、若草が萌ゆる中での月光浴はとても心地が良いものだ。様々な草花の香りと、そして様々な色。冬のモノトーンとは打って変わった景色だ。

 少し強い風が草を揺らしながら山の斜面を滑り降りていく。どこかに山桜でも咲いていたのだろうか? 桜の花びらが、風と一緒になって斜面を舞う。

 森は、山は、とても平和だ。

 そしてこの平和は自分が作り出したという自負が、ツキノワグマにはあった。

 長い時間をかけ、動植物たちがそれぞれ協力し合い、調和を保てるよう導いてきた。

 平和を保つ秘訣は、人間と距離を置くことだ。

 彼らは動植物の調和など受け入れない。彼らに関われば、そこには必ず争いがある。

 彼らが山や森を切り開いて侵出してきたならば、そこからは距離をとることが肝要なのだ。

 人間がこの土地に現れてから、ツキノワグマはずっとそうしてきた。

 しかし人間は遠慮なく自分たちの領域に踏み込んでくる。そう思いながら片目を開けて、自分の前で琴の弦を張り直している少女を見つめた。

 年の頃は一四~五歳ぐらいか。着ているのは古めかしいが紫を基調にした美しい振り袖のような着物で、同じく鮮やかな黄色の帯は前で結ぶようになっている。

 少女は調律を済ますと、ぽーんと弦を一本強く弾いた。

 風のせいだろうか?

 夜の山に、よく響く。

 それから、ゆっくりとした調子で弾き始める。

 一弦一弦がしなやかに空気をゆらし、まるで桜の花びらに音がのるかのように、曲が流れていく。

 その音楽の風に吹かれながら、ツキノワグマは再び目を閉じた。

 心地よい。

 人のすることではあるが……と、心で注釈を付ける。

 平和な時間だ。

 だが、ツキノワグマにとっては関わりたくない人間でもあった。

 もっとも彼女は人間のなれの果て、ではあるが。

 冬の間、ひとときも離れなかったこの少女を、ツキノワグマは少し持て余していた。

 もちろん彼女はこの雄鶏山への出入りは自由だ。彼女は人間の怨霊の集合体であり、クマのテリトリーとは関係がない。彼女が荒らすのは人間だけだからだ。

 しかし、こうも常に一緒に居られると、さすがのツキノワグマもどうしたものかと考えあぐねているうちに、冬が過ぎ、春となってしまった。

 なぜ少女は雌鶏山に戻らないのか?

 それは一人の巫女によってあの山が浄化されてしまったからだ。

 風が少し強くなった。山からのゴォッという吹き下ろしの音が、さらに草花をゆらし周囲の木々の枝を打ち鳴らす。

 同時に、琴の音もまた鮮明となる。

 一瞬、風下から風の音とは異なる草の揺れる音が聞こえた……ような気がした。

 風のままに葉々がこすれる音ではなく、かき分けるような音。

 音は風の流れと共に伝播する。風上へは音は空に昇ってしまうので、よくわからなかった。

 あぁ、また聞こえた。でもまさかここに人はいまい。今は琴の音に、耳を傾けていたい。

 と少女の方に向き直ろうとした瞬間、何かが草むらの中から飛び出してきたかと思うと、それは寝そべるツキノワグマを飛び越え、その前で演奏していた少女に向かって行った。

 同時に琴の音が乱れ不協和音が響く。しかし、それは一瞬だった。

 目を開けると、風と共に舞う桜の花びらがツキノワグマを包み込む。

 その流れゆく花の向こうで……少女の身体が崩れていくのが見えた。

 二度と鳴らない琴のの代わりに、カチンという金属音。

 刀が鞘に収められた音だった。

 顔を上げると、倒れた少女の向こうに、一人の巫女の背中が見えた。

 そしてその手前には、少女の首が転がっている。

『ずいぶんと、遅かったな……』

 すこし悲しい目をしながら、ツキノワグマはゆっくりと起きあがった。

「いろいろと忙しかった」

 巫女がその首を拾い上げると、瞬く間に青い炎に包まれ、灰となってしまった。

 巫女が広げた腕から、吹き下ろしの風に乗って、舞っていく。

 サクラの花びらに混じって……。

 高く、遠く……。

 いつしか胴体も、灰となって舞っていってしまった。

「どうせ、ここにしか逃げ場はないと解っていたから……別に急ぐことはなかった」

『そうか……』

 ツキノワグマもまた空を見上げ、吸い込まれるように消えていく灰を目で追った。

『少し、残念だ』

 そして、ぽつりとそうつぶやく。

「どうして?」

『あの怨霊は、おまえたち人間が我々のテリトリーを奪う速度を、ほんの少しだけ遅らせてくれる存在だったからだ』

「あー」

 人間たちは霊や怨霊をすでに信じなくなったが、それでも不幸や不可解なことが連続すると、その中に意味を見いだそうとする。それが神や霊の仕業だと思わなかったとしても、運命とか縁とかそんな言葉で納得しようとする。

 曰く付きなんて言葉も、そうだ。

 だからそんな場所は少しの時間、手をつけられずに放置されたりする。

 それがツキノワグマにとって、そして動植物たちにとって、希望だったりするのだろう。

『おまえたち人間は、必要以上に残虐すぎる』

 ツキノワグマは空を見上げたまま、ため息をついた。

『だがその残虐性のおかげでおまえたち人間は、この地上にあまねく広まり繁栄できたことは理解しているつもりだ。他を押しのけてな』

「そうかも……?」

『おまえたちの殺戮はこれからも続く。だが、私は悲観していないし、おまえたちの残虐性を受け入れている』

「なぜ?」

『理由は二つある』

 ツキノワグマは巫女に向き直ると、爪を二本むき出しにした。

『一つはどんな種にせよ繁栄は永遠には続かないからだ。この地上を支配した種は過去にいくつもあったが、どれも次なる種に淘汰された。おまえたちが繁栄する時代も、いつかは終わると信じている』

「二つ目は?」

『おまえたちの残虐性は、おまえたち人間自身にも向けられている』

「う……」

『人間が人間を滅ぼしているのだ。残虐性を持って他を押しのける時代はうに終わっているというのにな』

 ツキノワグマはそう言って笑うと両腕を広げ、月明かりに照らされる山々を見渡した。

 調和の取れた彼のテリトリーを見ろ、と言いたいのだろう。彼のテリトリーの中で調和を乱す者は、人間だけだ。

『さぁ去れ。ここには二度と入ってくるな。おまえにならその言葉が通じることを信じている』

 ツキノワグマは強い口調でそう言うと、登山道のある方角を指し示す。

 巫女は深くお辞儀をすると、黙ってクマの指す方角へと消えていった。


*  *  *


 春のうららかな心地よい日差しの中で、ちあらは手を合わせていた。

 彼女の目の前には「布施家之墓ふせけのはか」と彫られた墓石があった。あの山岸に殺された山登りが趣味の県職員の墓だ。ほんのりと線香の香りが漂う。

 ちあらの隣には、もう一人の県職員もまた手を合わせていた。

 結局のところ、蘇生は一人もできなかった。雌鶏山の怨霊お千代は奪った魂をすべて妖怪たちに与えてしまっていたからだ。魂がなければ、どんな魔術や秘術があろうともどうすることもできない。

「布施さんと山岸さん、天国で和解してるといいな」

 県職員がふとそんなことをつぶやいた。

 もちろん二人は魂ごと亡くなってしまったため、天国はおろか地獄にすら行けてはいないのだが、そんなことは言っても始まらないことだ。残された者が自由に思いを馳せればそれでよい。それに、二人が天国にいることは、ちあらも同意したい気持ちだった。

「あ、オレ、四月からまた山で働き出したんだ」

 県職員は少し照れ笑いを浮かべながら、名刺を差し出した。

 あの事件で精神的に参ったらしく、職を辞したのは聞いていたが、山での仕事を諦められず、林業の会社に再就職したのだという。

「あの時のことはトラウマでしかないんだけど、誰でも経験できることでもない。山の本当の姿を見たような気がしたんだ。それを知っているオレが山で働くって意味があるよなって……」

 彼は登山などのアウトドアが趣味ではなかったが、山や林業に何らかの思いはあったらしい。

 県土整備課にいたのも、ただの偶然ではないようだ。

「かつては人も知覚していたこと」

「ああ、なんとなく解るよ」

 山や動植物の中に、人間も含まれていて、人間は彼らと生活を共にしていた。

「けれど、今は知覚しなくても済むようになった」

 しかし今はそれらとの共生は気にする必要がない。

「確かに」

「わたしはそれを、科学、と呼んでいる」

「それはまたどうしてだ?」

「科学は誰がやっても同じ結果が出せるようになっていて、神や霊がはさまる余地はない」

「ちょっとよくわからないな……」

「火をつければ燃える、水は重力にまかせて低い方に流れる。様々な法則を見つけ、その通りにすれば、その通りの結果になる。法則さえ解れば誰でも使えるのが科学で、神とか霊とかの意思は無視できる」

「なるほどね」

「だから」

「だから?」

「無視しすぎるとほころびが出る。例えば自然災害を招いたり、温暖化を招いたり」

「面白いなぁ」

「もしあなたが山で科学的に不可解なことに出会ったら……この事件のことが役に立つと思う」

「ああ、そうだな」

 県職員は嬉しそうに笑った。

「それにさ、科学も変わるさ」

 そして大きく頷く。

「科学も自然と共存することを考え始めてる。未来は暗いことだけじゃないさ。そのためにオレはまた山に戻ってきたんだ」

 県職員はそう言うと、満足そうに振り返って空を見上げた。その視線の向こうに、遠く山梨の山々があった。


*  *  *


 午前中の墓参りを終えると県職員と別れ、ちあらは雌鶏山に向かった。

 今度はタクシーの運転手と揉めることもなく、柳沢峠で下車する。

 雌鶏山はこの山全体を浄化するために何度か訪れているため、今や勝手知ったる他人の家状態だ。一時間ほどで山頂近くの神社まで登れるようになった。山岸にレクチャーされた登山のイロハはちあらの中で生きているのだ。

 神社に続く石段を登っていくと、真新しい灯籠とうろうと記念塔が奉納されていた。

 事前に発注して、設置してもらったものだ。けっこうなお金がかかった。

 記念塔はお千代を始め、あの坑道で生き埋めになった遊女たちを供養するものだ。

 灯籠はこの山の新しい神を迎えるために奉納したものだ。

 坑道は山梨県の教育委員会に報告され、今は考古学的な調査が行われている。武田の隠し金山の歴史に新たなページが刻まれることだろう。

 ちあらは拝殿の前で手を合わせ、軽く祈った後、袖元から持ってきた石ころを取り出した。

「今日からあなたはこの神社の祭神になる」

 そう言って、石に閉じ込めていた魂を神社に解き放った。坑道で見つけた、あの魂だ。

 依代よりしろとしてUFOキャッチャーでとってきたかわいらしい男の子の人形を本殿に置く。この人形も魂と相談してとってきたものだ。なんでもこの魂が好きなアニメのキャラクターなのだそう。とるのに三〇〇〇円もかかってしまった。

 お千代のテリトリーは今日からこの魂が引き継ぐことになった。お千代との違いは、怨霊ではなく神であることだ。とはいえ、今はまだ魂ある霊に過ぎない。神としての資質はこの子の成長にかかっている。神として成長すれば、自分自身や妖怪たちが必要とするかてを魂から得る必要はなくなる。

 もっともそれまでは妖怪たちにはひもじい思いをさせることになるが……。

 また登山者がこの神社を詣でることも重要だ。一時的な信心でも神の力となし、お供え物も力となる。

 魂はしばらくもじもじとしていたが、なんとなく状況を把握すると、依代の人形をぎゅーっと抱いて笑った。

「気負う必要はないから。ただ、登山者と妖怪たちを見守って欲しい」

 その言葉に、魂は深く頷いた。

「最初は心細いと思うけど、この山にはたくさんの動物たちが住んでいるし、妖怪たちもあなたを新しい主として迎えてくれる。困ったことがあったらわたしに相談してもいいし……」

 そこで言葉を切って、北西を向いて、雄鶏山のある方角を指さした。

「ツキノワグマに相談してもいい」

 この山の北側を通る青梅街道を隔てた向こうは、あのツキノワグマのテリトリーだ。

「大丈夫、彼は今は人間をうとんでいるけれど、人間が動植物たちと調和して欲しいと願っていることは間違いない。あなたがその架け橋になってほしい」

 人間が山の調和に参加するなら、ツキノワグマは拒まないはずだ。

「え? わたしと相談したいときは?」

 魂が不安そうにちあらの周りを回る。するとちあらは得意そうな笑みを浮かべて、何か呪文(プラント・ドア)を唱えた。

 すると一瞬でちあらの姿が消えてしまった。

 取り残された魂はオロオロ。ふらふらと周囲を探し回ったが、次の瞬間、再びちあらの姿が現れた。手には大きないよかんが二つ。浅草橋の自分の神社にあったものだ。それを得意げに拝殿にお供えする。

「この神社は私の神社とつながっている。だから心配はいらない」

 雌鶏山神社のご神木とちあらの神社のご神木が結ばれ、雌鶏山神社は分社となったのである。

 魂は驚きのあまり目をぱちくりさせたが、安心すると、今度はいよかんの周りをぐるぐると回った。

「うむ、一緒に食べよう」

 ちあらはいよかんの一つをとって、皮をむき始めた。

 が、途中で肉体のない魂はどうやって食うんだとか思う。

 そんなちあらの疑問もつゆ知らず、魂は期待の眼差しをちあらに送っている。

 あー、なんかアストラルがどーのこーの、アウタープレーンがどーのこーの。

 いやいや、そんな小難しいことはいらない。

 魂が抱いているこの依り代の人形のように、清めて、魂でも触れられるようにすればよいのである。もっともそれを食い物に対してやったことはないのだが……と思いつつやってみると、食えるらしい。

「よかった」

 おそらく世界初のマジックアイテムならぬマジックいよかん誕生の瞬間であった。

 甘くも少しの酸味が口の中に広がる。

 山の上で食べるのは、なかなかに心地よいものだとちあらは思った。今度はお弁当を作ってこようとかも思う。もうここには一瞬で来られるようになったのだから。

「そうだ、好きな食べ物はなに? 今度、お弁当を一緒に食べよう」

 その言葉に魂は瞳をキラキラさせる。

 それからいつの間にか話題は学校の話になり、推しメンの話になり、好きな人の話になり……そこにあるのは太陽をも統べる希代の巫女と怨霊にとらわれていた魂の殺伐とした会話はなく、ただの女子の他愛もない会話となっていた。

 でもそれで良いのだ。この魂に残虐性は必要ない。彼女は生前、同じ人間に虐げられてきたのだから、今は新しい世界を謳歌してほしいとちあらは願った。

 いつかツキノワグマも呼んで一緒に語り合える未来を夢見ながら……。

 二人の時間は、夜が更けるまで続いた。

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浅草橋祓鑑 宇奈月けやき @unacare

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