訣別の館
海の字
訣別の館
時というのは残酷なもので、どれほど互いに思い合った関係性だろうと、いつまでも持続するとは限らない。
恋には賞味期限がある。
火傷するほどの恋慕は、熱烈であるほど早く燃え尽き、薪をくべねば鎮火する。
あとに愛が残ればいいのだが、大概は空っぽの灰だろう。
恋愛は焼滅性をもつ。
問題なのは、一過性の『恋』で結婚し、その後『灰』になってしまった、私たち夫婦のような事例。
情熱的な大恋愛ののち、勢いにまかせて婚姻。互いのほとぼりが覚めると、私は仕事に没頭、妻は間男の元へ足繁く通う、という歪な、そしてよくある家庭のカタチができあがった。
どちらが悪いのかと言われれば、まぁ、私なのだろう。だが、妻が清廉潔白であるとはとても思えないのだ。変なプライドが邪魔して、修復の機会を逸した。
灰色の夫婦生活。
江戸時代においては灰ですら純度が高く、畑の肥やしになれたそうだが。かといって育む愛もないし。現代社会の風物詩、離婚裁判というドロドロの汚灰では、憎しみばかりが汚染する。
可愛いリス顔が、今は薄気味悪い宇宙人に見えて。
セックスレスが続くと、同じベッドで眠る妻に吐き気をもよおし始める。赤の他人が自分のテリトリーに土足で踏み込んできたような感慨に、抱く相手は嫌悪へ変わる。
だからだろう。
『デスゲーム』の招待状に従い、こうしてのこのこと、ゲームマスターの眼前に座ってしまったのは。
「ようこそ、訣別の館へ」
窓一つ無い窮屈な密室。大仰な口調のゲームマスターは、こちらをじっと見据えている。パブロ・ピカソの『泣く女』を模した仮面が、いやに不気味。
噂なら聞いていた。
闇の世界では日夜、残酷なデスゲームが繰り広げられている。
その模様はサブスクの動画配信で公開され、22世紀の陰鬱な時代にあって、もっとも世情を魅了する娯楽であると。
にわかには信じ難い噂だったが、今こうして現実になっているのだから、人生とはわからないものだ。
「大前提、このゲームは夫婦間の問題を解決するためのゲームである。そこにプレイヤーを貶めんとする悪意や、シナリオ、トラップの類は一切存在しない」
つまり『必ずしも死者が出るわけではない』らしい。
「あるのはただ、問題を解決せんとする『手段』だけだ」
その手段こそが、大衆を虜にするゲームの『ルール』であり、私が臨むべく修羅場である。
「ルールを説明しよう。ゲームマスターは白の盃と黒の盃を用意した」
テーブルに並べられた、数リットルは入ろうか豪奢が二つ。中には無色透明な水がいっぱいに注がれている。
「どちらか片方には、無味無臭の致死性毒を混入してある。これは完全にランダムであり、運営側も詳細を把握していない。素人が外的に悟れる要素はないため、あしからず」
なるほど、おおかたのゲーム性が見えてきた。
「妻は現在何も知らない状態で別室に隔離してある。そしてあなたの任意なタイミングで、妻にも同じ盃を提出する」
同じ盃、同じ毒。
二分の一の確率で必ず死ぬ劇薬。
「妻がどちらかの盃を飲み死亡。あるいは生き延び『終了』を宣言した時点で、ゲームはクリアとなる。生死に関わらず後日相応の報酬を振り込む」
「ただの運ゲー、というわけではないのですよね」
「あなたには選択肢がある。盃をあおるか、あおらないか。そしてもう一つ。どちらの盃が毒か、妻に伝えられる権利」
それこそがデスゲームのエンタメ性であり、死活問題。
私は決めなければいけない。盃を飲むか、飲まざるか。
妻に毒のありかを伝えるか、伝えないか。
「妻は私の状況を知っているのですか、知る機会はあるのですか」
「今はなにも。盃を提出した時点で、その詳細を伝える。が、君がどの盃を選んだか、あるいは選ばなかったかまでは、こちらの及ぶものでない」
「おありがたいこと」
私がどのような選択をしたのか、妻は知るすべがない。
つまり、嘘をつけてしまえる。
ひとまずは棚上に、今の情報を整理しよう。
『
例えば黒が毒として、白を選んだ私は生き延びられる。その旨を伝え、妻は黒を回避する。
ここで肝心なのは、妻が生き延びること自体でない。結果、『私が妻のために命をかけた』という事実を知らしめることだ。
今の夫婦生活に欠けている愛を、育むための土台を。今一度明確にすることで、荒療治的に家庭を修復させる。
あるいは、そう錯覚させる。
ゲームマスターの言葉の真意──。
私には『二者択一を選ばないまま、妻へどちらの盃が毒か』を伝えられる権利もある。
ようは盃を飲まず、あてずっぽうで毒のありかを伝え。リスクを妻に押し付けてしまおう、という外法。
もちろんその場合、私は毒のありかを知らず、私を盲信した妻は、無知にも二分の一の賭けに出る。
ぶじ無毒の盃を選び、妻が生存すれば。私は命をかけずして、『妻のために体を張った』という状況をでっち上げられる。
「ゲームマスター、私が毒を選んでしまったとき、死の直前に妻へ知らせることは可能ですか?」
「不可能だ。毒は即効性に優れ、瞬時に喉を焼き切る。発語はありえない」
なるほど。
このゲームは感情論を抜きにすると、確率論で語ることができる。
盃をあおらなかった場合、A。
私は確実に生き残り、妻は二分の一で死ぬ。
盃をあおった場合、B。
二分の一で私は死に、死んだとき妻も二分の一で死ぬ。
客観的に見て二人の命が同価値ならば。二人ともが生き残る確率は、AもBも同じ50%だ。
対して、BにはAに存在しない、二人とも死んでしまう確率が25%も含まれてしまう。
要約すると、二人が生き残る確率はどちらを取っても同じなのに。後者にのみ、二人とも死ぬ確率が発生。
AとBは一見リスクを誰が取るのか、と言う押し付けゲームに見えて。その実、Aの方がはるかに期待値の高い、Bを選ぶ理由がない破綻したゲームなのだ。
私の命よりも妻の命の方が高価値である、という状況にないのなら、私がBを採択する理由は一切なく。
結果妻が死んだとして。排斥される謂れも、非難される謂れも。ましてや私が罪悪感を抱く理由もない。
なぜならAのほうが確率論的に正しいから。トリアージは是正され、私は正義であれる。言い訳がつく。
「そして感情論においても、私がBをとる理由はない」
ここでAを選ぶことができる人間なら、はなからゲームに招待されることはなかっただろう。
すでに愛していない妻の命よりも、自分の命を守る。私はそれができる、ありふれた人間なのだ。
あとはどうAを実行するかだが…… 。
「ゲームマスター、質問いいですか」
「どうぞ」
「このゲーム、少しアンフェアに感じるのです」
「というと?」
「あまりにも私に『優位』すぎる。バランスに欠けている」
ゲームマスターは無言を返事とし、言葉を続ける。
「問題の原因は必ずしも妻にない。私だって妻に劣らず、悪辣な夫だったように思える。愛情に欠けていたし、家事の一切を妻に押し付けてきた。金銭面的な事情により、堕胎させたこともあった。苦しむ妻から目を背けるため、家庭から逃げ出すため、仕事へ邁進し。その結果妻が不貞を働くのは仕方がないように思う」
妻に原因の一端があるとしても、やはり全てではない。
「どうして私が選ぶ側になれるのです? 私は確実に生き残る。なのにどうして、妻は二分の一を一方的に背負わなければいけない?」
さらに言えば──。
「そこまで残酷にはなれないが。もし私が妻に殺意を持っていたのなら。リスクを取ることで、妻を確実に殺すことさえできてしまえるじゃないか」
妻を謀殺するため、50%の賭けにでて。幸運にも毒の盃をつきとめたなら。
『死の盃を飲むよう誘導する』ことが、理論上可能になってしまうのだ。
私が妻を殺めんとするとき、妻が生き残る確率はたった四分の一に。
やはりアンフェアだ。
「ひとつ勘違いしているようだが。妻があなたの言葉に疑問を抱き、指示した方と逆の盃を飲んだのなら、生き延びることができるだろう」
「机上の空論だ。妻にそれほどの行動を選ばせる理由が私にない。たしかに愛情は欠けていたかも知れないが、信用ならあるはずだ。ゲームマスター、質問には正確に答えていただきたい。なぜ私が選ぶ側なのです?」
「選考はランダムだ。妻が選ぶ側になった可能性も、十二分にありえるだろう。そしてデスゲームは、極めてフェアに行われている。立場の有利不利はない」
「……そうですか」
ゲームマスターのはぐらかすような言葉を受け、威勢も衰える。
どうしてこんなことが気になったのだろう。
いや、頭では理解している。私は第三者に、『お前は悪くない』と言ってほしかったのだ。悪いのはお前じゃなく、妻だから、お前が選ぶ側になったのだと。
だから迷うことなく、『Aをえらべ』と。
「最後の質問です。私はいつまで選択を保留にすることができますか? いつまでゲームを私のターンで保持することが可能ですか?」
「無制限だ。いつまでも考え続ければ良い。ただしその間、水分や食事の提供はない」
「具体的に言えば、三日ほど」
「あなたが耐えられるのなら。逆に質問するが、なぜ三日?」
「三日間妻を隔離状態にすることで、思考力を削ごうと思います。私はさきほど『ありえない』としましたが、人の気持ちなんて、本当のところは何も分かっちゃいない。万が一にも、妻が私を裏切るようなことがあれば、私は耐えられない。今になって怖くなってしまったんだ」
二分の一で妻は死ぬ。その可能性を無視していることは重々承知している。
矛盾していたとしても私は、生き延びたあとの『愛』を、強欲にも求めるのだ。
「裏切りという思考の余地を、妻に与えたくない」
私はこのゲームで、妻が私を真に信じていることを証明したい。
「あなたがどんな選択をしようと、あなたの自由だ。これはそういうデスゲームだ」
過酷な三日がすぎ、心身共に疲弊した頃、私はゲームマスターに、『白の盃』を妻に選べと宣言した。
白無垢の盃が、ウェディングドレス姿の美しい妻と重なってみえたから。
病める時も、健やかなる時も、悲しみの時も、喜びの時も、貧しい時も、富める時も。死が二人を分かつまで。
愛していると、誓いますか。
誓えますか?
誓え。
ゲームが妻のターンになって、半日が過ぎた。
いよいよおかしいと思った私は、渇きに苦しむ喉へむち打ち、ゲームマスターに疑問を呈した。
「どうして、ゲームが終わらない……」
「クリア条件は、『妻が毒により死亡するか、生き延び、終了を宣言した時点』である。ゲームが終わらないということは、妻がいまだ盃を選択していないか。盃をあおり生き延びてなお、『終了』を宣言していない場合だ」
「なぜ……?」
「そんなの、あなたを殺すためにきまっているだろう」
「は?」
「私は言った。このゲームは極めてフェアに行われていると。あなたは、『
ゾクリと身の毛がよだつ。その可能性に気づいてしまったから。
「ただし後手番には、選ぶ側にない確かなアドバンテージがある。生存率が前者より低くとも、あまりあるほどの」
考えてみれば、当たり前のことだった。
「後手番は、選ぶ側の生死を事前に知れる──」
どの盃が毒かを伝えられた時点で、飲む飲まざるに関わらず、妻視点で私が生きていることが確定する。
「もう一つが、あなたのように選ぶ側が飲まないを選択した場合、後手番は確実に先手番を殺せるということだ」
その方法は──。
「飲まない選択をしたあなたは、必然水分の補充が断たれることになる。一方妻はゲームをクリアするにあたって、確実に盃をあおらなければいけず。結果、無毒の引き当てに成功すれば、数リットル単位の継続的な水分補給が可能となる。あとはあなたの脱水死を待てばいい」
盃は生死をかけたギャンブルの小道具であると共に。貴重な水分補給の手段でもあった。
私が、妻は私を信じているという前提の上で、かつ自身もリスクを背負って初めて、四分の三でしか妻を殺せないのに対し。
生き延びた場合、妻は確実に私を殺害することができる。さらにいえば──。
「妻が生存を諦めたのなら、妻自身も飲まないことで。毒では死なず、なおかつ『終了』を宣言することもなく。道連れという形でこそあれ、100%、あなたを殺害することができる」
思い出す。このゲームは、デスゲームであり。
『死』に関しては、どこまでもフェアなのだと。
私であっても、飲まず食わず妻にターンを回さず、心中するという権利があって──。
「でも、どうして?」
どうして妻が、私を殺す? 理由がない。
「あなたは自分のことばかりだ。自分の立場、自分の罪、自分の感情。己が可愛さのあまり、他人を思いやる機能が欠落している。一度でも妻の気持ちを考えたことがあるか?」
「説教はいりません。理由を教えてください」
「理由ならある。理由なら今できた。あなたはこの三日間、状況を知ったうえで、のうのうと過ごしてきた。ただじっと、明確な終わりに向け空腹と渇きに耐えるだけでよかった。だが妻は、自分の状況を何も知らないのだ。何も知らないまま強制的に拉致監禁され。いつまで続くかも分からない密室のなか、三日三晩放置された気持ちを、あなたはすこし考えるべきだった」
想像力を走らせる。もし私が妻と同じ立場に陥ったのなら、どうなる?
とうぜん三日というゴールは存在せず、『このまま死ぬのだ』と涙を流し。喉が潰れるまで助けを叫び。壁を砕くため十の爪をはがしたことだろう。
「で、でも、妻目線私は命をかけて……」
「あなたが飲んだかどうかはこのさい関係がない。妻が怯え震えているというのに、三日三晩放置できた、腐れた性根を殺すのだ」
恋は燃え尽き、愛は涸れ、肥だめから殺意が咲いた。
デスゲームは、夫婦の問題を解決すると謳っている。
その方法が『死に別れ』であったとしても、解決には違いない。
私にはもう、妻がどの杯を選んだのか。あるいは死んだのかどうかさえ、知る権利がない。あとは終わりをじっと待つだけだ。
「毒のありかを伝えたことが、そもそもの間違いだったのか……」
私が死んだと妻に思わせられたなら、結果も変わっていただろう。
「その場合互いに生き延びたとしても、あなたは嫌われる」
この喜劇に視聴者がいるのなら、是非問いたい。
あなたならどんな選択をとる?
そして知ってほしい。
時というのは残酷なもので。
恋には賞味期限がある。
人には消費期限がある。
愛だとか、水だとか。
なにも与えないと、腐るだけだ。
訣別の館 海の字 @Umino777
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