ここでこそ、「流れ」というものがその形のままで留められている。

 「流れ」が、その流れた形のまま、死してなお、おのれの流れた軌跡を残している。

 鍾乳洞とは、言わば「流れ」の堆積である。炭酸カルシウムが水を含有した二酸化炭素に溶けると重炭酸カルシウムとなり、その「流れ」が結晶化して鍾乳石を形作る。その過程が、目に見え手で触れられる強度を持って、いつまでもここにあるのだ。画家はこの自然のはからいに狂喜した。画家は石を穿った微細な「流れ」の一つ一つを、自分の作品として再現しなければならないと悟ったのだ。この思いは画家の心に深く打ち込まれた楔となり、それを歓喜をもって引き抜くことが画家の残りの生涯の指標となった。

 彼の画商はやがて、画家のアトリエに大量のポリエステルが運び込まれ、床を埋め尽くしているのを見出した。画家はそれに絵具をしみ込ませたり、あるいはそのままの状態でキャンヴァスに貼りつけ始めた、と画商は画家が失踪した後のインタビューで答えている。

 作品を撮影した写真から、接着剤に絵具を溶かした独特の溶液にポリエステルを浸し、それをキャンヴァスに重ねて貼っていったものと判断される。あるいは画家は、ただ軽く裏側に接着剤を塗布して表面は乾いた状態のままのポリエステルを幾重にも分厚く重ねてキャンヴァス上に定着させていく方法も取ったと画商は証言している。そしてその上から例の溶液を垂らし込むと、ポリエステルの上を流れる絵具の軌跡が、陰影を伴って立体的に形成されるというわけである。あるポリエステルの塊は川中の岩のように盛り上がっており、上から光が当たっているため、その下部には黒く影が差している。その影の下からまた別のポリエステルの塊が現れ、筋を伸ばして細長く垂れ下がったまま、次のポリエステルの上にかかっている。これは絵画作品ではなく、ほとんど彫刻と言った方がいいかもしれない。画家のこだわった「流れ」をそのままの形で封じ込める試みは、みごと成功していると思われる。画家は幼い頃の自身に戻ったかのように、その「流れ」の痕跡を飽かず眺めていたそうだ。そのようにして、一枚の大きなキャンヴァスには鍾乳洞の壁面を剥ぎ取ってきたかのような光景が出現した。ある意味でそれはグロテスクな画面であった。嵐の海を駆ける波頭の群れのような「鍾乳石」の流れは、キャンヴァス上でうねり狂う無数のニサミワラムシに見えたかもしれない。しかし画家はこの作品こそが、その生涯の総決算であると確信していたらしい。作品は完成後間もなく開催が予定されていた個展で発表される運びとなった。

 ところが。

 画商は作品搬入を控えたある夏の日、突然画家と連絡が取れなくなっていることに気づいた。あわてて画家が帰国以来使っていたアトリエへと向かう。ところがアトリエの賃貸契約は既に解除されており、さらに不可解なことに、管理人はそのような画家にあの部屋をアトリエとして貸したことはなく、アトリエとして機能していた記録も記憶もないと言う。画商のこの時の気持ちはまさに狐につままれたような、というのが適切であったろう。もちろん部屋の壁に立てかけてあった作品の類も全て消えているのである。画家が生涯を賭けて追求した「流れ」をようやく思うように再現できた、と熱く語っていたあのキャンヴァスも。とても大きい画面だったのに。

「わからないのです。」

 額に汗を浮かべながら、小太りだが実直そうな画商は、鳶色の目をむき出すようにして私に言った。

「一体あの人はどこへ行ってしまったのか。あれほど自信を持っていた作品とともに、霧に呑まれるようにしていなくなってしまった。もちろん個展を開くどころではありませんでした。それに不思議なことに、あの画家のファンだったはずの人たちも、あの人が失踪して以来、全くあの人の話題を口にしなくなってしまったんですよ。実はあの人の名前というのが、どうも覚えづらい、というか記憶に残らない類のものでして。一度耳にしても、なぜかその日のうちに忘れてしまうんですよ。誰もがそういう感覚を持つ名前のようですね。だからあの人の捜索願を出そうにも、名前が記憶にないので不可能なのです。恐らく、もうこの世であの人の名前を知っている人はいないのではないでしょうか。名前がなくなってしまったら、その人の存在を思い出せなくなっても仕方ないのかもしれません。かくいう私もいつまであの人のことを覚えていられるか、実に心もとないものです。」

 ところでその画家は、ついに自分の性別を自覚することがなかったという。どうやらそういうものには根本的に価値を認めていなかったそうである。従って私もこの文章の中で、「彼」や「彼女」と言い表すことなく、ただ「その画家」と呼び続けたのである。

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ある画家の思い出 佐伯 安奈 @saekian-na

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