ある画家の思い出

佐伯 安奈

    ラリー・プーンズに捧ぐ


 その画家は「流れ」を表現することに画家としての人生を賭けていた。その画家が「流れ」に執着したのは、まだ小学生に上がる前の幼い頃だ。砂場で遊んでいたその画家は、盛り上げた砂山に上から下へと溝を作り、頂上からそろそろとバケツに溜めた水を落とすと、川のような「流れ」が発生することに気づいた。子どもの頃、誰もが一度は記憶にある遊びであり、試みたことがあるはずである。そして幼い時分の一コマとしていつしか忘れ去られてしまうはずである。だが、その画家にとっては、砂山に作ったささやかな「流れ」、言うなれば川の再現が、その後の生涯を決定づけたのである。学齢期に達し、誰もがなるとおり小学生となったその画家は、しかし黒板に先生が書き付ける学習の内容には全く興味を示さなかった。彼はただ、人の手が介在しなくともしばしば自然の中に発生する「流れ」に囚われていた。憑かれていたといってもいいだろう。例えば雨の日、窓ガラスを眺めていると、どこからともなくガラスに付着した雨粒が、勢いよく一本の筋を作って上から下へと走っていく。雨の降り続く間、そうした「流れ」は後から後から現れては消えていく。時には先にガラスに付着していた雨滴と融合して大きな水滴となり、速度を増して下降し桟に出来た水溜りの一部になる。その画家はしばしば、時間の経つのも忘れて窓ガラスをつたう雨の流れに見入っていた。やがて教室には人影がなくなり、夜になり、朝になって教師が教室のドアを開けても、まだ根が生えたようにガラスの前から動かないその画家の姿が発見されたりもした。さて、その逸話を最後としてしばらくその画家の消息は途絶える。次にその画家が人の口の端に上るのは、既に画家として認知され始めて後のことだ。その画家の表現とは、やはり画面の中に「流れ」を作ることだった。殊に、絵具をキャンヴァスの上部から下部に向かって幾重も重ねて垂らし込むという手法で彼は知られるようになった。彼はこの描き方であれば、自分自身の手で「流れ」を作り出せることに気づいたのである。彼にこの手法を示唆したのはあるアメリカ人の女性画家と男性画家であり、夫婦であった二人は後に性転換手術を受けて互いの性別をクロスさせたとのことだが、今私はその人たちの名前を忘れた。しかし、やがてその画家は自分の描き方に飽きを覚え始めた。なるほど、画面の上部から色を垂れ流すこの手法であれば、かつてその画家が時を忘れて眺めていた、あの雨の日の窓ガラス上の「流れ」に近い状態を再現することができるが、描き方としてはワンパターンで、色彩にバリエーションを持たせたとしても程なくしてマンネリズムに堕しそうである。画家の模索が始まった。他にどんなやり方があるだろうか?絵具を垂らし込むのはもうたくさんなのだ。ここで画家は自分に問い直す。結局自分のやりたいこととは、自分の手で画面に上に「流れ」を作り出し、それを永久にそのまま留めておくことだ。自然界のどんな「流れ」もいずれは停止する。雨がやめば、窓ガラス上の雨滴の流れが姿を消すように、黄河だってダニューヴ河だってナイル川だっていずれ枯れ尽くす日はやってくるのだ。その「流れ」を永遠のものとして留めることができるのは、人間だけではないか?いや、ひょっとしたら、この自分だけにその役割が与えられているのではないか?そうした内なる問いかけを繰り返しながら、画家は自分が手がけるべき手法を探り、方々へ旅した、と伝えられている。そうしたある日、それがどこの国のどの場所であったかは不明確であるようだが、画家は鍾乳洞へ降り立った。

 これこそが、彼の転機であった。

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