やがて死に至る病

間川 レイ

第1話

「10代後半までに自殺を考えたことのない人間は、真剣に人生を送っているとは言えない」


 そう言ったのは一体誰だったか。ゲーテだったような気もするし、キルケゴールかも知れないし、古代の哲学者だったかも。何なら私の創作かも知れない、なんて。そんな事をアルコールの残る頭でぼんやりと考える。アルコールを摂取した次の日はいつだってこうだ。気持ちの良い酩酊は遥か彼方、手足は誰かがのしかかっているように重く、頭は霧がかったように霞む。お腹は空いているけれど朝食の支度をするのは面倒で、なんなら布団から出るのも、部屋の電気をつけることも億劫だ。煙草どこだっけと暗闇の中サイドテーブルを弄り、やっと見つけた煙草に胡座をかいて火を灯す。真っ暗ななか銀色の煙だけが揺れていて、私の肺と壁紙を汚していく。残ったアルコールのせいかあまり美味しくない。


 いつから私は死にたかったんだっけ。揺れる煙を見ながらそんな事を考える。それこそ、10代前半には死にたかったような思いがある。私立中学に入るための勉強が大変で。あるいははたまた親との仲が悪かったことが原因か。成績、日常態度、言葉遣いから箸の持ち方に至るまで。様々な事で両親を激怒させ、日常的に怒鳴られ殴られていた記憶がある。私の思い出にある両親の顔は常に憤怒に引き攣っていて、私を殴り倒すために腕はギリギリと振り絞られている。そんな思い出しかない。あるいは屑、ゴミという耳をつんざくような罵声と。


 とは言っても、その頃の記憶はあまり残っていない。学校でどんなことがあった、塾でどんなことがあったかはまだまだ鮮明に覚えているのに。家でどんな会話をしていたか、どんな風に生きていたかという記憶だけがすっぽり抜け落ちている。覚えているのは学校で成績表が返って来たときの、ああ、また滅茶苦茶に殴られるんだろうなあという心に冷たい水を流し込まれているような深い恐怖だとか、滅茶苦茶に殴られている時の痛み、あるいはお前は本当に頭が悪いなと言った罵り文句のみ。馬鹿みたいに殴りやがってと憎々しげに睨んでしまい、なんだその目はと余分に殴られたことは覚えていても、どんな風に毎日実家で過ごしていたかはまるで記憶がない。


 覚えているのはたった一つの感情。ただ早く死にたいということだけだった。だって死ねば、もう殴られなくて済むから。傷つくような事を言われなくて済むから。毎日毎日馬鹿だの屑だの言われていれば流石に心にくるし、何より痛いのは嫌いだ。それに実の両親から親の仇でも見るような憎々しげな目で見られることほど心をヤスリがけされるような心地になるものはない。何も私は悪い事をしてないのに、ただ普通に生きているだけなのにどうしてここまで憎まれなければいけないのか、なんて。理由のわからない憤怒を向けられるのは嫌だった。理由のわからない暴力はもっと嫌だった。だから私は死にたかった。死ねば、もう痛くない。身体も心も。それがわかっていたから。そんな気持ちで毎日を送っている中高生だった。そしてその癖手首を切る勇気すらなくて、お願いだから誰か私を殺してくれという願いと、こんなに苦しいのなら親を殺して私も死ぬという溢れんばかりの殺意のごった煮みたいな性格をしている学生だった。


 そう思うと、大学に入って一人暮らしを始めてからの死にたさはベクトルが違う気がする。親に殴られる事はなくなって、電話越しに怒鳴られることも随分減った。成績を理由に仕送りの減額をちらつかされることはあっても、直接的な苦痛は減った。


 なのに死にたさは全然減らなかった。むしろ増えた。理由。それは、私の夢に届かない不甲斐なさ。私にはどうしても叶えたい夢があるのに、その夢を叶えるには圧倒的に実力が足りない。どれだけ頑張っても頑張っても、むしろ頑張れば頑張るほど夢を叶えるハードルの高さを思い知らされた。一日中勉強しても、ストレスで髪の毛が抜けても、夜寝れなくなっても、それでも夢には届かない。どうして私はこんなにも頭が悪いんだと何度も泣いた。どうしてこんなにも頑張っているのに実力がつかないのだと何度も吐いた。だけど吐こうが泣こうが実力は上がらない。夢を叶えられないなら今後どうやって生きていけばいいと苦悩した。どうやってお金を稼ぐ、どうやって残りの人生食い繋いでいく。実家に頼るのは嫌だった。というか無理だった。どたい無理な夢を追った愚か者と笑われるのは目に見えていたし、現に笑われていたから。


 だから私は死にたかった。夢を叶えられないならこんな人生に意味はないと思って。それに、夢を叶えられなれないならどうせ生きていけまい。そう思って。死ぬためにいろんな方法を試みた。洗剤を飲んだ。手首を切った。首を吊った。電車に飛び込もうとした。自分で死ねないならいっそ誰かに殺されようと思った。親友に、パートナーに殺してよ、お願いだからと泣きながら夜遅くに電話をかけた。


 なのに私はまだずるずると生きている。なんとかこうにか生きている。煙草とお酒にたよりながら。それは惰性とでも言えるかも知れない。お酒を飲めば幸せな気持ちになって、世界が輝いて見えて、まだ生きていようと思う。


 でもお酒を飲んだ後の空虚な気持ちの時にはまた死にたくなる。手首を切り裂き洗剤を飲み込みたくなる。どうしてこんな人間失格みたいな人間が生きているんだ。こんな人間未満な生物が生きていていい筈がないなんて気分になる。


 そうは言っても私は一人暮らし。私が死んでも直ぐには気づかれまい。きっとドロドロのグチャグチャになった、腐乱死体となって異臭でようやく見つかるに違いない。元がどんなだったか見分けのつかないような姿になって。あるいはドロドロの液体となって。それはちょっと嫌だな、なんて思う。私は尊厳を持って死にたい。誰にも看取られず、ひとりぼっちで寂しく死ぬのなんて嫌だ。私は人として死にたい。そんな贅沢なことを考える。看取ってくれる人なんて居ないくせに。


 だから私は暗闇の中、煙草を吹かすのだ。ああ、死にたいなあ。なんて気持ちに蓋をして。

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やがて死に至る病 間川 レイ @tsuyomasu0418

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