第 15 話 紫電改再び

「明日よね。あなたがやって来るの」

 杉本洋子が訊く。

「ああ、そうだ」

「手術の準備は大丈夫なんだろうな?」

 嶋田が訊く。

「当たり前よ。腕のいいのそろえたし。なにしろ自分の命がかかってるんだからな」

 杉本は答える。

「会えるのね。あの若かったあなたに」

「そうだ」

「楽しみだわ」

「イケメンだからって、いい婆さんが惚れるんじゃないぞ」

「ハハハ、惚れちゃうかも」

「俺は、もうあの子に惚れてるがな」

 杉本はピアノを弾いている女子高生を見ると、にやりと笑った。

「まあ、このエロ爺!」

 86歳の老婆は、そう言うとまた手を叩いて笑う。


「いずれにせよ。歴史の流れは俺たちではどうすることもできなかったな。明日、お前が紫電改でやって来るのも歴史の一つだ。だが、しゃかりきになって歴史を変えようとした若かりし俺たちを今になって褒めてやりたい気持ちだぜ」

 嶋田は、遠くを見るような目でささやくように言った。


「嶋田さん、そうでもありませんよ。テレビ見てごらんなさいよ。ほら、あの人」

 洋子は、テレビの画面を指さした。

 テレビには『てっちゃんのとびら』が流れていた。

「今日のお客様は、森武志監督です。この度、『わが青春に悔いあり』で、カンヌ映画祭二度目のグランプリを受賞なさいました。森監督は、特攻隊の隊員だったという経歴もございます。世界の巨匠をお迎えしまして、私くし少々緊張しております」

 黒柳徹子の甲高い声が聞こえてくる。

「森か、あの時、大村基地で終戦を迎えた俺たち戦闘機乗りの中の出世頭だな」

 杉本は、あの暴力沙汰を思い出したのか、そう言うと自嘲気味に言った。

「これ、初めて言うけど、この森武志という名の映画監督、私が居た時代には居なかったのよ。映画が好きで古い映画もDVDでよく見たけど、この監督の作品なんてなかったわ。そう、あなたが森さんを殴って歴史は変わったのよ。そして、彼の手できら星の様な名作がたくさん生まれたのよ」

 洋子が事もなげに言い放った。

「『てっちゃんの扉』も無かったわ。『徹子の部屋』はあったけどね」

洋子は笑って云った。

 てっちゃんの扉では、

 森監督は、「特攻隊で出撃前に暴行事件があって出撃延長したんですね。炊事班の女学生が居たんですが、その尻を触ったとかで喧嘩になって、此処にいる訳です。その女学生が、ローマの休日とかオードリー・ヘップバーンを云ったんですが、それは、キャサリン・ヘップバーンの事じゃないかと云ったんです。戦後になって、初めてローマの休日を映画館で見た時、鳥肌が立ちました。今でも不思議な事ですね」


 あくる日、三人は松山空港に居た。

「そろそろだな」

 杉本が言う。

「大丈夫なんやろな。にちも時間も合うてんのか? お前相当ボケ進んでるようやしな」

 嶋田がからかう。

「なにおう、お前ほどじゃないぜ」

 三人は西の空を見続ける。

「それ、あれ見ろ、来た来た」

 夕焼けに染まる西の空から、白い煙を吐きながらふらふらと飛んでくる一機の旧式の戦闘機が見えた。

「紫電改だ!」

 二人の老人は叫んだ。


 一か月後、紫電改の若い搭乗員は、完全にオーバーホールされ、ハイオクタンの燃料を積んだ紫電改に松浦洋子を乗せて西の空に飛び立った。

 杉本洋子は、その日の夕方、ライブ喫茶にやって来た松浦洋子の友人の女子高生に一枚の楽譜を手渡した。

「これ、洋子ちゃんからあなたに手渡して欲しいと言われてね」

 楽譜には、作詞:松浦洋子、作曲:鴛淵孝と書かれてあった。


                                完


                       作 かわごえ ともぞう

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悠久の紫電改 かわごえともぞう @kwagoe

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