第 14話 戦後
戦争が終わり、杉本と洋子は結婚をする。杉本は一念発起して夜学の高校に通い、大学受験資格を得ると大学医学部を受験し医学生になった。洋子は進駐軍のキャンプでピアノを弾き杉本の学資を稼いだ。
たまに即興で弾く数小節が評判を呼んだ。無論、これから世に出るヒット曲のエッセンスだ。受けない訳がない。
ある時、熱心に楽譜を写してる一人の兵隊が居た。名刺を見ると『英国陸軍軍曹 James・McCartney』とあった。あと三日で本国に帰るというので、洋子は、
「three melody presence ok」
と言うと、
「oh thank you」
マッカートニー軍曹は、ウインクで応えた。
洋子は、『オブラディ・オブラダ』『レッツ イッツ ビー』『イエスタデイ』の三曲のエッセンスを
そして、杉本は、松山で小さな医院を開業した。洋子は、遅ばせながら自らも音楽学校に通い、松山で高校の音楽の教師になった。三人の子供、孫は七人、曾孫もいる。
嶋田は飛行機乗りの夢捨てがたく民間航空のパイロットを30年続けた。憧れの水戸光子に似たスチュワーデスを妻にし、一人娘は松山全日空ホテルに勤めた。孫も二人いる。定年後、航空機のメンテナンス会社を立ち上げ、今は会長に収まっている。
「この人、口開けてアーンなんて仕事、日本男児の仕事じゃない、なんか言うとったんよ。それが、60年も口開けてアーンやったんやけん、お笑いよね」
杉本洋子は、そう言うと手を叩いて笑う。
玉音放送から70年の歳月が経っていた。三人共に90歳前後の齢を重ねている。現在、洋子がやっている小さなライブ喫茶に毎日やって来るのが三人の楽しみとなっている。
洋子は音楽教諭を定年退職後した後、30年ほど前に始めた『ジョルジュ』という名のライブ喫茶は、当時、地方都市松山では珍しく人気の店になった。『ジョルジュ』と言う名は嶋田が付けてくれた。米軍が紫電改に付けたコードネームの「ジョージ」をフランス語読みにしたのだ。
この店に二年ほど前から毎週やって来る松浦洋子と言う名の高校生がいる。今日も松浦洋子は店のピアノを弾いている。イエスタデイのメロディーが静かに流れていた。ジョルジュのグランドピアノはスタインウェイ製だ。定年退職金から、自分へのご褒美だと言って中古でも700万円かかった。松浦洋子という名の女子高生は、このスタインウェイのピアノの音色に飛び込んで来たのだ。
「スマホ、一か月先なんだって、中古だとあるそうだけど、それも安くて。中古にしとこうかな」
それを聞いていた杉本洋子は、
「ジョルジュのママに任せなさい。一か月待って新品にしなさい。足した分はママが出すわよ。よくピアノのお客さんも楽しんでもらってるし、アルバイト料だと思ってね」
「いいんですか。嬉しい。楽しみ」
松浦洋子が帰ると、杉本洋子は引き出しの中の黄ばんだスマートホンを出した。
それは半年ほど前だった。ライブ喫茶のジョルジュに杖を付いた一人の高齢の老人が訊ねてきた。出した名刺を読むと、「京都大学理学部 名誉教授、竹本浩一」とあった。
「遅くなって申し訳ない」
と言うと、黄ばんだスマホを出した。
「これ、もしかして、あのスマホ?」
「そうです。あのスマホです。修理はとうに終わっていたんですが、相手が分からないので途方に暮れてたんです。鴛淵は70年前に亡くなっているし。松山市と洋子と言う名前と紫電改だけで、何とかここまで探すことができました。申し訳なかったんですが、中の情報も見させてしまいました」
「いいえ、いいえ、そんなことはどうでも」
「鴛淵の動画も残ってますよ。若いってことはいいことだな。若い頃に死んでしまった奴らは、永遠に若いってことだ。90何歳になってしまった爺は、永遠に爺ってことだ。ハッハッハ」
「永遠に婆ですよ。私も。ホッホッホ」
二人で苦笑した。
洋子は、
「先生、二つほど質問してもいいですか?」
「分かるか分かりませんがいいですよ」
教授は同意した。
洋子が、指をさすと、
「そこでピアノを弾いているのは女学生なのですが?」
「分かってますよ。あなたですね。面影が同じだ」
教授が云う前に、
「同じ時間に同じ
洋子は妙に納得したようだ。
二番目の質問をした。
「あのう、あの新型爆弾も成功したんですか?」
「昭和20年8月12日に原爆実験がありました。今の北朝鮮辺りです。見ては無いですけど、関係者の話だと成功だったという事でした。これは、誰にも言っては無いのだけど、昭和20年8月9日の夕方に東芝の研究室の私に電話がありました。あの長崎原爆の日の夕方頃です。政府の鈴木という人からでした。新型爆弾の事を知りたいという依頼でした。そして、すぐに鈴木さんからもう一人の人に変わりました」
「誰でした?」
「分かりませんでしたが、
自分のある限りの知識を教えました。
「新型爆弾はウランの核分裂で爆発があるのですが、分裂するウランは天然ウランで非常に少ないのです。3発が限界でした。アメリカもおそらく10発あるか無いかです。もしかしたら、天然ウランの他に量産化ができる放射性元素ができたのかもしれません。量産となると恐ろしいことになります」
という話をしました。
そのもう一人の人は、「あっそう」「ありがとう」「じゃあまた」と三つの言葉で終わりました。
「それから数日して、玉音放送がありました。その人の甲高い声と玉音放送の声は似ているとも似てないとも……とりあえず人を殺さなくて良かったと思ってます。オッペンハイマーじゃなくて良かったです」
竹本教授はそう云うと少し笑みを漏らした。そして、
「スマホはすぐに消えるのですけど慌てないでください。たぶん新品のスマホが届いてきますので。物体は同時に二つではいけない。ですけど、私の学問も、物体が同時に有るか無いかなんて考えているような学問でして、人類にとって有っても無くてもよいような学問でして…」
ちょうど、杉本も嶋田もやって来た。鴛淵隊長のスマホの動画に三人は大騒ぎになったが、老人は知らぬうちに帰ったようだった。
客の一人が、
「量子物理学で、今年のノーベル賞の最有力の竹本先生だ」
と、言ってきた。
洋子は、色紙とマジックを持って急いで外に出たが、そこにはもう居なかった。
その夜、閉店後、洋子は、引き出しの中にあった黄ばんだスマートホンの画面をタッチした。鴛淵隊長の動画を見ると「隊長、やっぱイケメンだわ」と小さな声で言った。もう一度見たいと思った時、黄ばんだスマホは、紫の霧に包まれ、そして、消え去った。
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