第4話 第四章

 誠は、克之と遭ってしまったことを後悔していた。自分から現れたのだから、遭ったというよりも、会ったというべきなのかも知れないが、克之のいるこの世界に、あと半年はとどまらなければいけなくなってしまった。

 理由は、浄化に失敗したからだ。

 誠は、克之に会うことで、自分も浄化することができるのではないかと思った。破壊と殺戮が繰り返される今までいた世界に、本当はもう戻りたくはない。ここまでは殺されずに済んでいるだけで儲けものというべきで、向こうの世界に住んでいると、生きていることがすべてだった。

 つまりは死なないことを目指しているだけで、それ以上何も考えられない。

――一体、何がどうなって、破壊と殺戮だけが繰り返される世の中になってしまったのだろう?

 一発で世界を葬り去るだけの兵器を持っているのに、その兵器はさすがに使わない。一つの都市を破壊しつくすことはできても、それ以上の危険は冒さない。そこまでしてしまうと、政治家たちの野望はすべてが無に帰してしまうことが分かっているからだ。

――それなら、小さな犠牲の積み重ねくらいはどうでもいいことなのか?

 元々の平和が、倫理や道徳の上に成り立っていたものではないことが、今さらながらに浮き彫りにされていく。

 誠は、今まで一人の男性を師として仰いで来た。克之には話をしていないが、克之が話していた男、克之には「スナッツ」と名乗った、克之が言うところの、いわゆる「七夕男」である。

 彼が克之にスナッツと名乗ったことは知られていないが、こちらの世界での彼は、砂津と呼ばれていた。彼は克之の前から消滅して見せたが、もちろん死んだわけではなく、こちらの世界に戻ってくる手段であった。

「砂津さん、どうして、あの男にこちらに戻る手段を見せたんですか?」

「それは、彼に俺がこちらの世界の人間であることを知らしめるためさ。いくら口でどんなに話したとしても、口だけでは信じられない。特にあの男の場合は、向こうの他のどんな人間とも違って、簡単には信じないようにしようという無意識な思いがあるはずだからね」

「そうなんですか?」

「新田という男は、本当は人を疑うことのない男なんだよ。でも、疑わない代わりに、簡単に信用もしない。つまりは、自分が信じられると思った相手以外のことには、耳を貸したとしても、決して自分の結界を開こうとはしないのさ」

「よくご存じなんですね」

「彼は、話せば分かる人間だと、彼と話をした人間は誰もが思うんだ。だけど、実際には自分の中に結界があって、簡単に交わろうとしない。そう、それはまるで、まったく同じ青さの空と海が、どんなに同化して見えても、交わることができないのと似ているのかも知れないな」

「空と、海ですか?」

「そう、こちらの世界のようにね」

 と、言いながら、二人はモニターに映し出されたまったく同じ色の海と空を見ていた。そこには水平線は存在せず、空と海という違う世界でありながら、完全に同化していた。

「本当は、あんな空と海は、偽物なんだよ」

 砂津と誠は、それほど年齢的に違っているようには思えないのに、なぜか砂津の方がいろいろと知っているようだ。それは二人の育った環境にも影響しているのだった。

 二人の住む世界は、育ち方には大きく二つに別れていた。

 政治家や国を動かす重要な機関に着手している職にある人間は、家族全体が一つのテクノポリスに住んでいた。そこは首都機能が凝縮されていて、決して表に出ることはない。表に出ると、余計な世界を見せられて、せっかくの考えに邪念が入ってしまう。

 いわゆる身分制度というものが存在し、テクノポリスに住んでいる人は、階級が一番上になるのだ。

 すべてが世襲となっていて、それだけに、教育もすべて世襲主義になる。克之の世界で言えば、昔の殿さまのように、お城暮らしで、将軍や大名になる人は、一生お城を出ることがないというのと似ている。

 ただ、教育は、閉鎖的なものではなく、いいことも悪いことも教えられる。それだけ革新的ではあるが、それがこの世界を支えてきたのも事実である。

 そして、テクノポリス以外のところに住んでいる人は、いわゆる「生産者」たちである。いわゆる庶民と言われるもので、身分制度でテクノポリスの中にいる支配者階級とは一線を画しているが、彼らにも同じような教育が施された。

 ただ、教育といっても、洗脳に近い、映像で教えられることも、プロパガンダ色が濃いものになっていて、克之の世界の人間からは、理解できないものであった。

 いや、克之のいる世界の人間から見れば、

――時代遅れ――

 に見えるに違いない。

 明らかに身分制度であったり。テクノポリスと言いながら、完全なお城の殿さまそのままの世界は、歴史で習った「封建制度」の中の世界のようだからだ。

 そういう意味では、克之には破壊と殺戮に至るまでの、こちらの世界がどういう制度や慣習で成り立っていたかを説明するには忍びなかった。ただ、科学力の発達が目覚ましかったのは、「生産者側」の方に素晴らしい頭脳の持ち主がたくさんいて、さらに、支配階級の人たちにも、理解者がいたことが、科学の発達に大いに貢献した。しかし、時代が流れていくうちに、支配階級の中には、平和を勘違いし、一触即発の、薄氷を踏むような平和な世の中を作ってしまうことに一役買う人が現れた。一人がそんな状態に持っていくと、他の人は止めることができない。

――いかに一触即発の状態をこのまま維持して、平和を持続させるか――

 ということだけが、平和への選択肢として残らないような世界。そんな世界を誰が望むというのだろう。

 世の中は緊張の糸がピンと張り巡らされていて、ちっとでも引っかかって切ってしまえば、そこから先は、悲惨な世の中しか残らない。

――戦争は、始めるよりも、終わらせることの方が数倍難しい――

 という格言は、こちらの世界でも存在する。

 一触即発の状態では、始めることすら、破滅を意味する。だから均衡が保たれていて、そこに平和が存在している。

 それを本当の平和だと思っている人が、テクノポリスの中には、たくさんいた。最初は、そんなものは平和ではないと思っていたので、危機感を皆が共有できたが、世襲により、時代がどんどん変わってくると、この世界が、

――当たり前――

 として見られてしまう。

 本当の恐ろしさは、そこにあるのだ。

 波風を立てないように時代が流れているのではなく、時代の流れに波風が立っていないと、最初から波風というもの時代を知らないで育った人だけになってしまう。誠のように、空と海の境が存在したことを知らない人間に、どんなに話をしても分からないだろう。それがこちらの世界が破壊と殺戮の世界になってしまった一番の原因なのかも知れない。

 砂津と誠が話をしている部屋は、通信機器やコンピュータが壁に埋め込まれたような部屋だった。それはまさに克之の世界で、半世紀前に流行した特撮ものによく出てきた「防衛軍基地」そのままだった。

 実は防衛軍基地のイメージは、まったくの架空ではなかった。当時の特撮プロダクションの中心にいた人の夢に、こちらの世界が映し出されたのだ。それも偶然ではなく、時空を超えて、夢という世界から記憶を植え付けたのだ。

 そこに何らかの意図はあったのだろう。ひょっとすると、こちらの世界と少しでも共通点を意識として植え付けようという意図があったのかも知れない。ただ、それを公然と行うことは、時空のルールに牴触してしまうのではないかという発想から、夢で見せるという形を取ったに違いない。彼らにはパラレルワールドの発想がある。世界が二つだけだという意識はないのだ。

 克之の世界から見て、向こうからこちらへの行き来は彼らの科学力が可能にしているのかも知れないが、逆というのは、いくら克之の世界の科学力が劣らぬものであったとしても、不可能なのかも知れない。鏡の世界をイメージした克之の発想が、そう物語っている。

 その考えは、砂津と誠にもあった。

「新田さんの発想は、向こうの世界の発想ではないようですね」

 と、誠がいうと、砂津は少し考えて、

「そうだね」

 と答えた。

 そして、二人はまた沈黙に入る。砂津が、コンピュータの前に座り、いろいろと操作し始めたからだ。

 誠は、砂津の横顔をじっと見ていた。

――この人は、まだ俺の知らない何かをたくさん知っているのかも知れない――

 二人のいる世界では、世界が乱れるまでは、話をすることなどありえない仲だった。砂津はテクノポリスに住む、世襲の階級、つまりは支配階級であり、誠は生産者側の人間である。

 この二人は、世界が乱れる前から、実は交流があった。

 砂津は、以前から克之のいる世界に興味を持っていた。たくさんあるパラレルワールドの中のほとんどは、時代が若干違っているだけで、まるで鏡の中のような世界であった。しかし、克之の世界とは同じところはまったく同じなのに、違うところはまったく違っている。同じところというのは、こちらの世界に存在する人間は、克之の世界にも存在しているということだ。他のパラレルワールドでは、同じ世界であっても、人はまったく違っている。なぜ同じ道を繰り返しているのか分からなかったが、鏡の中という視界の中だけで存在しているからではないかとしか思えない。

 誠の方も、砂津と同じような考えを持っていた。誠には砂津のような調べるためのコンピュータは持ち合わせていなかったが、彼のそばに一人の老人がいて、その人の影響を強く受けたのだ。

 その老人は、他の住民からは、

「あのじいさん、本当に変わってるな。誰も近づくんじゃないぞ」

 と言われていた。

 生産者仲間では、支配階級から搾取されているという感覚があるので、自分たちの結束力と仲間意識が強いことをずっと意識してきた。その意識は支配階級の世襲にも勝るとも劣らないもので、いわゆる意地のようなものなのかも知れない。

 また、この世界では、男性と女性の比率を見れば、男性の方が圧倒的に多い。子孫を残すためには、女性からすれば、相手が誰であれ、子供を残すのが女性の一番の役目だった。比率が少ない女性の地位は、男性に比べればかなり低い。それこそ、愛情のない性行が静かに繰り広げられるだけである。

「あっちの世界とこの世界の一番の違いは、愛があるかないかなのかも知れないな」

 ボソッと誠に砂津が語ったことがあった。

 父親が誰であるかなど関係なく、子供は生まれる。そこに親の愛が存在するかどうかなど、口にする以前の問題であろう。克之の世界の人間には、考えられないに違いない。

 世襲を制度としている支配階級は、生産者階級のように、簡単に女性と性行することを許されない。きちんと結婚して、血の純潔を目指さなければいけない。したがって、支配階級の男女の比率は一対一なのだ。

 この世界の身分制度は、このあたりから成立している。どちらにしても愛のない性行ではあるが、血の純潔と混在の違いは、愛があるかないかということよりも大きな問題なのだろう。

 もちろん、どうして女性がこんなに少ないのか、科学的に証明もされている。労働力を重んじる生産者階級ではあったが、身分制度ができた時はまだ、比率としては、均衡していた。

 ある支配階級の科学者が、遺伝子の研究において、男子を多く出産するという薬を発明した。それは国家において秘密裏に研究されていて、実際の国家予算も多くつぎ込まれていた。

「労働力を増すには、少しでも男子を多く出産するのが一番」

 という考えであった。

 しかし、さすがに、ここまで極端に女子が減ってしまうとは思っていなかったのか、一度使ってしまった薬の効果を抑える方の薬はまだ開発されていなかった。

 開発が形になりかけた時はすでに遅く、比率は決定的なものになっていた。

「薬というのは、副作用が付きものだ。だから、本当なら、そこまで考えて抗副作用の薬も一緒に開発してから使うべきだったんだ。それをしなかったのが、結果的に今の世の中を作るきっかけになったのかも知れないな」

 これが、砂津の考え方だった。

 砂津にはある程度のことを予見するだけの力があった。予知能力というほど大げさなものではない。きちんとした理論の元に弾き出された予見だったからである。誠が砂津についている理由もそこにあった。

 世界がこのようになってしまっては、後はどのように生き残るかだけがすべてであった。しかし、そのためには浄化が必要だというのが、世間一般に言われている。

 この件に関しては、砂津も否定はしない。

「新しく生まれ変わるには、一度全部壊して、再度作り直すしかない」

 という考えは、砂津の中の根底にある考え方だ。

 ただ、それをするためには、

――選ばれた人間――

 が必要である。

 今の破壊と殺戮の世界を作ったのは、少なくとも「選ばれた人間」ではない。元々、一触即発の状況にあり、いつ破裂するか分からない状況にあったのだから、無理もないことだが、起こってしまったことを今生き残った人間が、どう考えているかである。

 ほとんどの人間は、まわりに疑心暗鬼、そして、他人事なところがある。ただ自分が生きていくためだけに生きている。

 それも、生きるためにどうすればいいかと言っても、他人事の考えであることは否めない。そのせいもあってか、いい悪いの別はあるかも知れないが、「やる気」のある人間が太く生き残っていく。闇市などの流行は、克之の世界での戦後の混乱にも見られると、まさにその通りだ。

 一般庶民のほとんどは、パラレルワールドの存在など知る由もない。それは克之の世界の人間も同じだが、克之の世界との大きな違いは、こちらの世界での教育はほとんど皆無だということだ。

 思想的なプロパガンダは存在しても、学問という考え方は、支配階級にしか存在しない。モラルすら、教育されていないのだから、破壊と殺戮の中で、他人事なのは当然だ。

 それでも、彼らにはそれを補いだけの本能が存在した。生き抜くことへの本能は執念のようなものでもあり、克之の世界の人間からすれば、想像を絶するものであろう。

 逆に教育を受けていると、思考が頭の中にあるために、本能が活躍するだけの力を抑えている。そういう意味では砂津の世界の人間たちは、克之の世界の人間から見ると、「超能力」というものが使えるように思えるのではないだろうか。

 中には、科学の力を使わずとも、自力で、克之の世界にやってこれるだけの能力を有した人物もいるかも知れない。

 実際にいるのを砂津は知っていたが、そのことは誠にさえ話していない。誠は自分が浄化しなければいけないという固定観念に捉われていたことを後悔してはいるが、まだ浄化に至っていないことで事なきを得た自分にホッとしていた。そして、それを教えてくれた砂津の存在が、その時に「絶対なもの」となったのだった。

 砂津も、誠という助手を得たことに満足していた。

 助手というよりも、パートナーと言ってもいいかも知れない。立場的には砂津が上だが、誠には砂津にはない何かを持っていることを知っていた。だが、さすがの砂津にも、それが何なのか、今まだ分かっていない。

「俺にも分からないことは結構あるんだな」

 と、自信過剰になりかけていた自分を戒めるかのように言い聞かせていた。

 砂津は、克之と遭う時は、誠と一緒の時は避けようと思っていた。誠にはその話はしていないが、誠にもそのことは分かっていて、自分の中で、暗黙の了解として理解していたのだ。

「砂津さん、僕は浄化なんてものは止めてしまいたいと思っているんですが、もし止めてしまったら、何か弊害があるんでしょうか?」

「俺も本当は浄化なんてやめさせたいんだが、浄化をしようとして途中でやめると、その人は、今度は自分が追いかける立場に変わってしまうんだよ」

「それが弊害なんですか?」

「もし、一度でも浄化しようと思った人が思い留まったりやめてしまうと、他に浄化しようとする人を追いかけることになる。それは終わりのない果てしないもので、死ぬこともできず、それだけのために生き続けなければいけないことになるんだよ」

「生き続けなければいけない?」

「死ぬこともできない。つまりは、浄化しようとしている人間を追いかける立場の人間は、永遠に同じことを繰り返すだけの苦しみを味わうことになるんだ。君も追いかけられた経験があるだろう?」

 誠は自分を追いかけてきた人のことを思い出していた。

 さらに誠は、一年前に砂津が、自分が追いかけられているところを克之に見せたことを知っていた。砂津は気付いていないかも知れないが、砂津のことを尊敬するがゆえに砂津の行動を監視してしまうという気持ちに捉われていた。そして一年という歳月を区切って、再度克之の前に現れた。

 この世界で、砂津のいうような一年という区切りが何かを意味しているわけではない。それではなぜ砂津は一年という期間を区切ったのだろう。それ以前に砂津が克之に遭う理由がどこにあるのか分からなかった。何かを伝えたいという気持ちがあったのだろうか?

 もし、一年という期間に意味があるのだとすれば、それは克之の存在に関係があることなのだろうか? 誠には砂津の考えていることが分からなかった。

 誠はマリのことを考えていた。

――ずっと、お姉さんだったんだ――

 記憶がすべてマリを姉だと示している。しかし、誠の中にマリに対して姉だという感覚よりも、一人の女性として見ている自分の感情の方が強い。

――こっちの世界に、愛情など存在するはずがないのに――

 誠が、こちらの世界を離れ、克之の住んでいる世界に憧れを持ったのは、

――我々が忘れてしまった何かを、あちらの世界では感じることができる――

 と思ったからだ。

 それが恋愛感情であることは間違いないようだ。

 マリは誠に対して厳しかった。誠は、本当にマリの弟だったら、ここまで厳しくされないと思った。

――マリに対して、弟の役を演じるのは辛かった――

 と感じていた。

 しかし、それ以上に、まわりの人から自分がマリの中に女性を見ていて、そして好きになってしまったことに気付かれるのは辛いことだった。

 マリのことを今さら気にするというのはどういうことだろう?

 誠は、マリのいる世界の記憶を背負っている。砂津と出会う前までは、三年以上前の記憶が実はまったくなかったのだ。最初は記憶のないことを別に気にもしていなかったが、砂津と出会って、砂津の様子を見ていると、自分に記憶がないことが、辛いと思うようになっていた。

「僕は浄化しようとして、向こうの世界に行ったはずなのに」

 と、砂津に告白すると、

「心配することはない、記憶はすぐに戻ってくる」

 と言って、誠を自分の研究室に連れていって、そこにある暗室のようなところで砂津と二人きりになって、どうやら催眠状態にさせられたようだった。

 誠はその時の記憶がまったくないわけではなかった。催眠状態にさせられたという意識と、記憶とが交錯する中、それまで失ってしまっていたと思っていた記憶がよみがえってくる気がした。しかし、その記憶はこの世界のものではない。マリと暮らしてきた昔からの記憶だった。

 おかしいと思いながらも砂津に逆らうことはできなかった。強迫観念からではなく、それだけ砂津に全面的な信頼をおいていたからだ。

 砂津は誠を洗脳していた。誠は自分が洗脳されたということを意識していない。もっとも、意識されてしまったら、洗脳という言葉は使えないだろう。どうして誠を洗脳したのかは分からないが、砂津は自分の仲間を求めていたことには違いない。

「俺にも以前、仲間がいたんだ」

 と砂津は、誠に語った。

「その人は、元々俺とは考え方が違ったんだけど、話をしているうちに、俺の考え方に賛同してくれて、話が合うようになったんだ」

 それが誰なのか、ハッキリとしたことは言わなかったが、誠には何となく分かった気がした。

――この人は、人を洗脳することに長けた人なんだ――

 洗脳という言葉を聞くと、独裁者が自分の意見に従わせるために、相手の意志を抹殺し、ただ自分のためだけに動く人間の育成を目的としているように思える。

 確かに砂津にはカリスマ性が備わっていた。そして、カリスマ性の効果は、荒廃して、無政府状態になったこの世界には必要なものなのだ。

 誠は、自分がすでに浄化された状態なのではないかと思うようになっていた。マリという女性がその役目を担ってくれた。つまりは、マリも向こうの人間ではなく、自分と同じこちら側の世界の人間、そして、マリとの間にある記憶も、向こうの世界の者ではなく、こちらの世界の記憶なのだ。

 そう思うと、少し自分のことが分かってきた気がした。

 女性の数が少ないことで、こちらの世界は子孫を残すために、一人の女性がたくさんの男性を相手にすることになる。恋愛感情など持っていてはとってもではないが、身体がもつわけもない、精神的にも苦しさだけが残ってしまい、ただの生殖器の役目だけをすることに身体も精神もついてこれないに違いない。

 誠がマリを好きになってしまったことで、二人の間に恋愛感情が生まれる。それはこちらの世界ではタブーであり、持ってしまったら最後、お互いに苦しみだけを前面に押し出してしまい、まわりからは、

――気の毒な姉妹――

 としてしか映らないだろう。

 マリの方は、完全に向こうの世界で生まれ育ったという記憶だけがインプットされている。向こうの世界で生きていた人の記憶を借りることで、マリは自分がこちらの世の中にしか存在していなかったことを悟る。ただ、ウスウス、かつての記憶だけが残っているのだが、ふとしたことでよみがえってくるほど簡単なものではなかった。それこそが、砂津の手による結界の集大成。マリの方は完全に、向こうの記憶になってしまった。

 誠の場合も、同じように掛けられた。しかし、完全に向こうの人間になってしまかった。彼のような男は、少し門を開けておくことで、そちらに神経を集中させると、他に目が行かなくなってしまう。そんな彼を洗脳するのは難しいことではなかった。少しでも仲間を増やす必要があった砂津には、誠のような男を洗脳することは、さほど難しいものではないようだ。

 こちらの世界で恋愛感情はタブーであることは、男女の比率という、どうすることもできない事実から導き出された発想だった。

 意識さえ持たなければ、恋愛感情を持つことに歯止めを掛けることができるのがこの世界、それだけ淡白な世界なのだ。

 淡白ではあるが単純ではない。それを単純だと考えてしまうと、それこそ、この世界の持っている雰囲気に、まんまと嵌ってしまうだろう。

――この世界の特性は、世界の中に大きな溝があり、水が絶えず流れている。そこには、意志を持った「水の精」が存在し、意識はおろか、感情すら持っているのだ――

 その考えは、少なくとも砂津は持っている。世界の流れに感情があるなど信じられるものではないが、これがマリと誠が育った世界と、パラレルワールドとしての違いを思い知らされるのではないだろうか。

 その考えを、誠も次第に感じるようになっていた。

 そのことを砂津はおぼろげながら気が付いている。

 本当は、この考えを誠の中で確立させたくはない。もし、誠の頭の中で、妄想が次第に現実味を帯びてきて、確信などに変われば、砂津はこの世界から誠を葬り去る必要に駆られてくる。

 誠は、砂津がそこまで考えているなどということは想像もしていないだろう。絶えず砂津は誠が考えている先にいるのだ。単純に考えて、諍いが砂津と誠の間で起こり、袂を分かち合ったとしても、結果は砂津の思うがままだということに変わりはない。

――俺は、砂津さんに追いつき、追い越すことができないだろうか?

 それは年齢が近づいたり遠ざかったり、ましてや追い越すことなど絶対にありえないことと同じだと誠は思っている。

 思考回路は砂津に限りなく近くなっていたが、感情は逆に遠ざかっている。誠が少しずつ疑問を感じ始めたのだ。それをまだ砂津には分かっていない。分かったとしても、砂津は誠に、特別な何かをすることはないだろう。

 誠は、本当はあのままマリと一緒にずっと過ごして行きたかった。しかし、それを続けるには、砂津を敵に回すわけにはいかない。それを感じた時、自分はこのまま砂津から離れることはできないと思い、姉と離れて、こちらの世界に戻ってくるしかないと思っただ。

 こちらの世界に戻ってきて、まわりには一切恋愛感情を感じない世界に懐かしさを感じながら、自分の恋愛感情が静かに記憶の奥に封印されていくのを感じていた。

「姉さん」

 と、呟いた誠は姉として自分をずっと見守ってくれていた姉に対して、恋愛感情を持っていたことを打ち消すかのように、名前で呼ぶことは控えた。

「そんなにお姉さんが好きだったのかい?」

 砂津は、いろいろなことを知っていて、そして分かっている。相手の感情もある程度まで理解できるようなのだが、恋愛感情までは分からないだろう。恋愛感情を持っているという点でだけでも、砂津に対して自分の優位を示すことができたようで、少し安堵感がある。そうでもなければ、あまりにも雲の上のような相手にしか見えないからだ。もし、砂津がいなければ、誠は自分の浄化をしていたかも知れない。

 浄化させる相手を密かにこちらの世界に連れてきて、一時期、誠の目から遠ざけておいた後、砂津の手によって、向こうの世界の誠を、今の誠の中に記憶だけを移植することに成功した砂津だったが、そんなことは誠は知る由もなかった。

 向こうの世界の誠は、砂津の手によって、永久的に冷凍保存されることになっていた。命だけは残っていて、そしていずれ、誠が死ねば、向こうの世界に返してあげる、ただ、問題はその時に誰の記憶を戻してから生き返らせるかというのが残ったが、それよりも、誠が浄化しなければいけないと感じていることだ。

 誠の頭から、浄化のことは忘れさせてしまわないと、彼が浄化させる相手はすでにどこにもいないのだ。もし、浄化に失敗したり、やめたということが公にでもなると、誠は永遠に死ぬことはなく、彷徨うことになる。それも、こちらの世界ではなく、向こうの世界でだ。

 そうなると、向こうの世界の誠をせっかく連れてきて、誠が死んだ時に、向こうに戻してあげられるような細工もできるのに、誠が永遠に死なずに彷徨うことになると、向こうの世界でいくらこちらの世界の誠が彷徨うことになるとはいえ、一緒に存在できないことになっているはずなので、そこからが問題になってくる。

 誠の頭の中にある恋愛感情は、紛れもなく、向こうの世界の誠の記憶の奥にあるものだった。

 しかも、姉妹という禁断の関係なので、誰にも相談できず、一人で悶々としていたことだろう。

 人間は、一人悶々としていても、その思いは誰かに伝わったり、体調に現れたりする。そのことを当の本人であるマリには、今のところ分かっていないようだ。

 ただ、実はマリの方も、誠に対して恋愛感情を持っているらしい。その恋愛感情は、硬い殻に閉じこもっていて、その奥を見たものは誰もいない。もし見たことがある人がいるとすれば、砂津に連れ去られて冷凍保存されている向こうの世界の誠だったのではないだろうか。

 マリは自分の気持ちに気付いてはいるが、その気持ちを知っている人は、どこにもいるはずはないと思っている。

 誠はマリの弟であることを複雑な心境でいた。

 優しいマリのおかげで、最初はマリの弟になれたことを嬉しく思っていたが、そのうちに好きになってしまうなど想像もつかなかった。ただ、好きになるという感情がこれほど爽快で、それでいて切ないと言われるような複雑な思いだったとは、まるでむず痒さを感じるくらいだった。

 浄化できなかったことで、一度は追いかけられたが、それでももう二度と追いかけられることもなく、自分が誰かを追いかける立場になることもなかった。それは砂津のおかげで、砂津にとっては、誠が自分の構想のモデルとなってくれたことをありがたく思えた。

 ただ、今回のようなケースをずっと繰り返すわけにもいかない。浄化対象の人をすべて同じようにこちらに連れてきて冷凍保存などありえないからだ。しかし。一人でもこれまでの定説を破ることができれば、そこから今までの話はすべて伝説ということになり、新しい秩序が生まれることを、砂津は画策したのだ。

 これは砂津にとって二つ目の構想パターンだ。実は砂津の中にはいくつかの構想が入っている。最初は、それぞれの単独したパターンだったが、そのうちに段階に変わっていった。

 誠については、二段階目ということになる。

 では、一段階目は何だったのだろうか?

 それが、克之だったことを、当の砂津以外では、誠が今少しずつ気が付き始めていたのだ。


 克之は最初からずっと今の世界の人間だった。しかも、克之と同じ人間は、砂津の世界には存在しない。

 そんな人間は、今までにはいなかった。

 それは、鏡に自分の姿を映しても、克之の側から見ることはできるが、それは虚像でしかないということである。他の人間は、鏡に写った自分を、

――ただ写っているだけ――

 と、思いながらも、微妙な違いに気付いていた。しかし、それを口にするのがタブーだと思い、誰にも言っていない。そんな状況の中、克之だけは、鏡に写った自分に、疑問を一切感じずに育ってきたのだ。

 そんな、克之は、皮肉なことに、パラレルワールドの存在を、信じているタイプの青年だった。

――無数に広がった世界には、自分と同じ人間がいて、その人は、きっと今の自分と同じようなことを考えているに違いない――

 と思っていた。

 しかし、実際にはそんな人物はいない。少なくとも、砂津の世界にはいないのだ。

 そのことを知っているのは砂津だけだった。

 克之が、今の世界でもまわりに友達はいたとしても、ほとんど精神的には孤独だった。それくらいのことは、砂津の手にかかればすぐに分かるというものだったが、砂津には克之のことを調べれば調べるほど、奥が深いことに気が付いていた。

「この男、記憶の奥に、大きな溝を持っている」

 それは、どんなものでも吸い込んでしまうようなブラックホールを感じさせるものだった。ブラックホールと違うところは、自分から吸い寄せる力を持っているわけではなく、ただ無意味に広い世界が広がっているだけだった。

 砂津は、初めて克之の恐ろしさを知った気がした。

「この男は想定外のスケールを持っている」

 最初に現れてから再度一年後に現れると言ったのは、実際に克之に遭ってみて、彼のスケールの大きさを考えると、一年後でないと、彼のことを調べるのは難しいと考えたからだ。ちょうどその時、誠のこともあったので、一年は必要だった。

 誠の姉のマリが、克之を訪ねた時、マリは克之のことを弟から聞いて知っていたわけではなく、本当は以前から克之のことを知っていたのだ。

 それをマリに教えたのは、砂津だった。

 マリという女性も、克之と同じように、砂津の世界には存在しない。克之だけだと思っていたが、こんな身近にもう一人いるということは、克之の世界のことをもう少し探ってみる必要があったのだ。

 しばらくの間、砂津はこちらの世界を徹底的に調べた。砂津の中では分かりきっていたつもりでいたことも、実際に調べてみれば、もっと奥が深かったり、奥を見ていなかったために、まったく違った発想になっていることもあった。

――調べてみて正解だった――

 と、ホッと胸をなでおろした。

 砂津は、向こう側の人間である。まずは、向こう側の利益を優先する。破壊と殺戮という切羽詰った状況では仕方のないことだが、自分だけでも、感覚をマヒさせないようにしないといけないと思っている。

 克之の世界の人間たちは、正直平和ボケしていて、何が起こっても、それはある意味他人事、砂津の世界の人たちから見れば、

――何て甘えた人種なんだ――

 と思われても仕方のないことだった。

 ただ、克之と、マリは違っていた。

 二人の心の奥底には、最初に克之に感じた記憶の奥にある暗黒の果てしない世界、無限に広がっているように思えた。そして、砂津は見た。

「この二人の暗黒は、奥の方で繋がっていて、そのまま俺たちの世界にまで入り込んでいるように思える」

 二人は無意識な潜在意識を絶えず持っている。その中に、本人たちの意識しないところで広がる世界が、砂津の考えを理解できるだけの大きな視野を持てるだけの余裕をもたらしているのだ。

 ただ、実際には、この二人ほど「人間臭い」ところのある人は他にはいないように思えた。表から見ると、弱弱しさを感じる。それでも奥にある暗黒の世界が、お互いを結びつける。いずれは二人に覚醒が訪れることを、砂津は予感していた。

「この二人がいれば、浄化の必要性をこちらで排除することもできるかも知れない」

 砂津の中では、こちらの世界の定説になっている浄化というものを何とか廃止したい。それがあるせいで、破壊と殺戮がいつまで経っても収まらないのだと、砂津は考えていた。それはだいぶ前から考えていたことであって、そのために克之に近づいたのだ。

――浄化は悪であって、決して継続させてはいけないことなのだ――

 砂津の根本にある考えだった。

 克之やマリの、もう一人の自分は、本当は存在していた。

 ただ、二人がもう一人の自分を浄化したわけではない。克之には、砂津に勝るとも劣らない頭脳があった。彼の頭脳が卓越していた原因は、

――想定外のことが起こった時、最初から信じられないと思うのではなく、自分の中に取り込んで、それを解析しながら理解して行く――

 ということであった。

 それを、克之は自分の中で浄化と呼んでいたのだ。

 世間一般に言われている浄化は、異世界にいるもう一人の自分を抹殺することだという伝説にどうしてなってしまったのか分からないが、しいて言えば克之の中にいるもう一人の自分を覚醒させることで、想定外の出来事を解釈できる発想が身につくというものであった。だから、克之の中で、こちらの世界にもう一人の自分がいるのを見た時はビックリした。

 それは存在自体にビックリしたわけではない。まったく同じ考えを持っていたからだ。

――この人を殺したところで、何のメリットがあるんだ――

 異世界にもう一人の自分がいることがまるで悪のように言われ、それを抹殺することを浄化と言って、正当化していた元の世界に、克之は完全に失望してしまった。

 そのことを向こうの世界の克之は感づいた。

 もう一人の克之は、考え方や性格は似ていたが、頭脳を生かすための環境がまわりにはなかった。異世界の自分が話すことには理解できても、彼が持つ苦悩をどうしていいのかまではすぐに分からなかった。

 だが、出てきた一つの結論として、

「あなたの力で、僕たちが一つになることはできませんか? 一人になってこちらで一緒に暮らしましょう」

 最初から思っていたことであったが、この方法はあまりにも安直すぎる。他にもっといい考えが浮かばないかと思って頭の中で試行錯誤を繰り返していたが、しょせんは堂々巡りを繰り返すばかり。

 実はそれも予想していたことだった。だから、最初の考えを忘れることなく、基本として試行錯誤を繰り返したのだが、結論が出ることはなかった。

 この提案に対し、

「できなくはないが、それは僕の記憶をあなたの中にある記憶に収める必要があるということを示している。今の君の記憶能力は、そこまで持ちこたえられる領域ではないんだ」

「ということは、無理だということですか?」

「そういうわけではないが、君の中に大きな記憶領域を作り、そこに僕の記憶を収めるということは、僕という人間を、意識としても、記憶としても封印することになる。君からすれば、僕を抹殺することになるんだが、そのことに君は耐えられるかね?」

 言われてハッとした男は考え込んでしまった。

 同じ考えを持っている相手、しかもそれは世界が違っても自分なのだ。彼の苦悩は手に取るように分かる。

「しばらく時間をあげよう」

 彼が悩んでいるのは、この世界にやってきたもう一人の自分が、浄化しなければいけないと思っていること。そして彼は元の自分の世界が、いずれ破壊と殺戮の世界に変わることを予感できたことであった。

 このことは誰に話しても信じてくれないだろう。

 世界が冷たい均衡で成り立っていることは、向こうの世界では、一部の人間しか知らない。すべてが平和な世界だと誰もが信じていた。

――そう、今のこっちの世界のように――

 そして、そのことに気付いた時は、時すでに遅し、生き残った人たちは、伝説に乗っ取って、浄化に走るのも分かりきっていることだった。

 克之は、その状況から逃れようという思いがあるわけではない。自分がまず生き残ることで、いずれ向こうの世界から、同じ考えの人が現れて、自分を再度覚醒してくれると思っていた。それが、砂津だったというわけだ。

 今はまだ、そこまで行っていないが、克之の中で次第に覚醒し始めているのも事実だ。そして、同じ考えの元、克之についてきたのが、マリだった。マリも同じようにもう一人の自分の記憶の中に封印されている。

 誠のことで訪ねてきたのは、本当の偶然なのかも知れないが、そこに誠が絡んでいることで、砂津は次第に克之とマリのことが分かるようになっていったのも事実だった。

 最初から、克之の計算だったのかも知れない。そこまで計算しているとすれば、すごいことだが、それよりも必ず自分の封印を解いてくれる人が現れることを確信しているところは、克之にしかできないことだ。それも克之の頭脳が卓越している原因に違いない。

 克之を巡る展開が、今までは砂津を中心に進んできたように思えたが、実はすべては克之がこの世界に先んじて来たこと。そして何よりも、自分の世界の行く末を、誰よりも先に予見することができたことで、考えられたシナリオだった。

 ただ、シナリオはできがっても、悲しいかな、段階を持って達成されるべきことがいつになるのかまで、さすがに克之にも予見できなかった。元々いた世界が破壊と殺戮に明け暮れるようになっても、まだ克之には覚醒するだけの準備が整っていなかった。

 そのため、砂津は一年という期間を切って、再度現れた。しつこくすることはこの場合ではタブーだったのだ。

 封印した克之の考えが分からない限り、無理は禁物である。下手に無理してしまうと、うまく行くことを曲げてしまったり、覚醒するスピードを鈍らせる。そういえば、克之が見た追手の動きも、少し進んで後ずさりするようなぎこちないものだったではないか。

 さらに、克之に対して、最後に背中を向けることも大切であった。じっと相手の顔ばかり見ているのではなく、途中で引くことも大切だ。そのことを砂津は分かっていて、わざとそのような演出で、記憶の奥に格納されている克之の覚醒を引き出そうとしたのだ。

 克之は、次第に覚醒しようとしていた。

 向こうの世界からやってきた身体は、密かに隠してある。その場所が、最初に克之が砂津を見かけた柳の木のそばであった。

 ただ、克之には一つの心残りがあった。

 他ならぬマリのことである。

 マリはこの世界で幸せに暮らしている。そのマリを連れていくかどうか、克之には結論として出せるものではなかった。

 だが、克之が覚醒することをマリにも分かっていたようだ。

 マリの方は、この世界でのマリの方が、考え方はしっかりしていた。その理由は、向こうの世界からやってきたマリの心に克之がいることだった。好きな人が心の中にいれば、覚悟や決心を付けるために開き直ることができるが、その分、オンナとしての弱さを露呈してしまう。そのことを封印されたマリは分かっていなかった。

 表に出ているマリの方は、自分の中にもう一人の自分がいること、そしてそれが異世界の女性であることは何となく分かっていた。それは誠がそばにいたから悟ることができたのだ。

――中にいるマリを、開放してはいけない――

 というのが、この世界のマリの考え方だった。

「あなたは、ここで生きていくの」

 こちらの世界のマリは自分の心にそう言い聞かせ、心の中から覚醒したもう一人の自分がいなくなった克之に近づくことを選んだのだ。

――これが私の決着――

 マリは、もう心配ない。

 覚醒した克之が、自分の世界に戻っていった時、向こうの世界の平和が取り戻せたのかどうかはっきりとは分からない、しかし、それから砂津も誠もこちらに来ることはなかった。克之も同じである。

 克之の心の中を覗くことはできないが、彼の心の中にはいつもマリがいたことは間違いない。浄化という伝説があくまで都市伝説としてのデマであり、本当の意味での浄化とはどういうことか、それを元の世界に帰った克之は、自分の手で広げていっていることだろう。

 しばらくして、異世界との扉が次第に閉じていくのをこちらの世界の克之は分かっていた。

 空と海の境目が水平線として見え始めた時、克之は水平線に向かって、

「頑張るんだぞ」

 と、声にならない声で、語り掛けているのを感じた。

 そこに見える後ろ姿を自分以外に見えなかった克之だったが、その時、自分とは明らかに違う自分の背中を見たのを感じていたのだった……。


                 (  完  )

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浄化 森本 晃次 @kakku

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