第3話 第三章
一人になって風の強さを感じると、七夕男との一年後を思い出した。
あの日の鈍色の空に、重苦しい空気が風となって押し出されているように感じたその時、風の違いを感じていた。
――あの日とは、何か明らかに違う――
それは、風に匂いを感じたからだ。
まるで石をかじった時のような鼻につく臭い。それは今までに何度も感じた臭いだった。嫌いな匂いというわけではないが、別に好きなわけではない。ただ、この匂いを感じた時に、
――もうすぐ、雨が降ってくる――
というのが分かることだ。
雨は嫌いだった。濡れるのも嫌だし、濡れないようにしようと思えば、行動範囲が限りなく制限されてしまう。何よりも湿気というのは、克之の体調に直接影響してくる。
「僕は湿気が多いと、肩が痛くなって、頭痛がしてくるんだ」
「何を年寄りのようなことを言うんだよ」
「年を取るから肩が痛むというわけではない。これは病院に行って聞いてきたんだが、若い人にだってある症状らしいぞ」
「そういえば、雨が降ると、休講にする教授もいたが、まんざらでもないということか?」
「あっ、そうか」
今まで雨の日に決まって休講にする教授がいたのを、これ幸いということで、深く理由を突き詰めたことはなかったが、それならば納得がいく。教授も年齢的にはまだ四十くらいだろうか。まだまだ老け込む年というわけではない。
雨が降るから体調が悪くなるということは、逆も真なりで、
「体調が悪くなると、雨が降るということも分かるんだ。ちょっとした天気予報よりも当たるかも知れないぞ」
「そういえば、俺の知っている人も、雨が近づくと、体調が悪くなると言っていた人がいたな。その人は、交通事故に遭ってからそんな風になったらしく、どうやら、後ろから追突されたらしい。その時はむち打ちになったらしいんだけど、治ってからも、雨が降るのが分かるようになったって言ってたっけ」
「そういう話なら、僕も結構聞いたことがある。思ったよりそういう人は多いのかも知れないな」
そんな会話を大学時代にしたことがあった。克之が湿気に敏感だったピークはちょうどその時だった。今はそこまで酷くはないが、雨が降る時は分かるのだった。
「今日は、雨が降るかどうか、微妙なところだな」
マリの背中を見送って、店を出た克之は、空を見上げながらそう感じた。
空を意識しながら歩いていたからだろうか、気が付けば、この間七夕男と遭った場所に来ていた。
川を挟んだ向こう側の柳の木の枝は揺れていた。ただ、湿気を感じているせいか、心なしかゆっくりと動いている。それは、スローモーションのように見えて、それは時間がゆっくりと流れているからなのか、それとも普通のスピードで進行した後に、目にも見えないスピードで、一瞬前に戻ってしまったことに気が付かないだけなのか、どっちなのだろうかと考えていた。
その思いは、七夕男と別れてから、意識の中から消えていたはずだった。それなのに今さら思い出したのか。
誠のことを意識していたからなのか、それとも、この場所には、それを意識させる何かが存在しているからなのか、ハッキリとは分からないが、そのどちらも理由としては、中途半端な気もするが、十分にも思える。
――中途半端?
さっき、マリが言っていた言葉を思い出した。
――中途半端という言葉、何とも曖昧で、それだけにどうとでも取れる言葉に思えてならない――
と、克之は感じていた。
柳の木の揺れ方は、最初、一本の柳の木を意識していたので分からなかったが、一定間隔に刻まれた柳の木に合わせて、揺れていくのを感じた。つまりは、一本の風に煽られるように、時間差がそこには生じているのだ。
――そんなに一本の風に力があるのだろうか?
普通なら感じることのできない力強さだが、この場所であれば、ありえないこともない気がしてた。
――少々のことがあっても驚かない――
その気持ちは、ここに来て思い知らされた。
一年前、ここで不思議な光景を目撃し、一年間、そのことを忘れずにいながら、想像力を逞しくしていった。それを思うと、
――一年間は長かったのではなく、短かったのだ――
と思えてならない。
今、目を瞑ると思い浮かんでくる顔、それは七夕男ではない。一年前に同じように逃げていた男の顔だった。遠くから見ただけでハッキリとは覚えていないが、目を瞑って想像すれば、浮かんでくるのだ。
それが今では誠だったと思っている。あれから誠は一年間何事もなく過ごしていた。いや、姉との間に何かがあったのだろうが、ここでのことは意識することなく過ごしてきたはずだ。
そう思って、目を瞑ってしばらく誠のことを思い浮かべていた。
――一体、どんな男なんだろう?
マリとの会話では一方的すぎて判断できない。しかも、マリには客観的に見ているところがあるように見えるが、明らかな偏見も含まれている。ハッキリ言って当てになるものではない。
さっきまでは、マリの目から誠を見る気持ちにしかならなかった。それだけ目の前にいたマリの存在が大きかったのだ。しかし、今はマリがいるわけではないし、奇しくも誠だと思える人のいた場所に来てしまったこともあり、想像するには絶好ではないだろうか。
ただ、一年という歳月は、思い起すには時間が掛かる。その時に思いを集中させて、思い出そうとするには、長いのではないかと思えた。
確かに、
「あっという間だった」
という感覚は存在する。しかし、それは過ぎ去ってしまったものを一つ一つ顧みて、ふと気が付いた時に感じる時に限られている。そうではなく、遡るという意識があるわけでもなく、ピンポイントで意識させようとすると、そう簡単に思い浮かんでくるものではない。時間とは、それほど薄いものではないということを、今、克之は感じているのだった。
しばらくして克之は目を開けてみた。
じっと目を瞑っていて目を開けると、まるで霧に包まれたような気がすることがある。それは、目を瞑った時に、上下の瞼が涙腺を刺激するのか、それとも目を瞑った時に潤んでいる瞳から、潤みが溢れ出そうとするからなのか、潤みを帯びた目は、すぐには前を的確に捉えることはできない。
それは目を覚ました時、目を開けようとしている時の感覚だろう。目を開けようとしてなかなか開かないのは、夢から現実に引き戻されるのを、無意識に抵抗しているからだと思っていたが、もっと実際的に身体が反応している自然の摂理に左右されているのかも知れない。
そう思うと、
――今見えているのは、幻ではないか――
と、感じるのも無理のないことだ。
実際その時克之は、目の前のことを幻だと思った。それは視界がしっかりしてきて、もはや錯覚だという言い訳は利かないところまで来ているのにである。
目の前にいたのは、今まで想像していた一年前に目の前に現れたあの男、誠だと思っている青年が、柳の木の下にいて、こちらを見ている。
ただ、見ていると言っても、誠は克之を意識しているわけではない。どこを見ているのか、焦点が合っていないかのようにも思えるが、こちらには他に誰もいない。しかも、ボーっとして自分を見ている男性を不審には思わないのだろうか? 自分なら意識しないわけには行かないと思えた。
ということは、誠と思しき男は、克之の存在に気が付いていないということになる。それよりも、克之が目を瞑っていた時間は、しばらくという曖昧な時間だったが、視界に入らないところから現れて、柳の木の下からこちらを見つめているシチュエーションに陥るまで気がつかなかったというのも、不思議な気がした。
――一体、どこから現れたのだろう? まさか、最初からそこにいたのに、僕が気付かなかっただけということもないだろうに――
と、頭を傾げ、気持ち的には訝しい感覚になっていた。
克之がいるその場所のすぐ近くに、柳の木が植わっている向こう岸に抜けることのできる橋が架かっていた。克之は、柳の下にいる男を目で追いながら、橋を渡って向こう岸に抜けることを考えた。
目で追っていたのは、消えてしまった七夕男を思い出してしまったからだ。七夕男は目の前にいて消滅してしまった。
あの時、七夕男は、消滅することを自分で分かっていたような気がする。身体が小刻みに震えていた。それも恐怖から来る震えではなかったように思う。
――自分が消滅することを、この男は分かっていたのではないか――
と感じたその思いは今でも変わらない。
なぜ七夕男が震えていたのか分からない。消滅したわけではなく、自分の世界に戻っていったと思う方が自然だった。それならば、最初から分かっていたことも納得がいく。震えていたのは、時空や空間を飛び越えるために避けては通れない道の一つなのかも知れない。
誠だと思しき男は、遠くから見ているので、雰囲気は分からないが、この男も時空を飛び越えることができるのではないかと思う。どれほどの力なのか分からないが、少なくとも一年前に、目の前で五分を飛び越えたではないか。あれは幻や錯覚ではなかったような気がする。
――この男と話をしてみたい――
という思いは、最初からあったわけではない。最初に見たのは、いきなり数人に追われていて、しかも逃げきれないと思ったところ、突然消えて、五分後に何事もなかったかのように目の前に現れた。こんな不気味な男とは、なるべくなら関わりたくないと思うのは克之に限ったことではないだろう。
ただ、気になる存在であり、頭の中から消えなかったのは事実で、しかも、そこに克之を訪ねてマリが現れた。これはただの偶然で片づけてもいいのだろうか?
克之が橋を渡りきるまで、その男は身動き一つしなかった。視線があらぬ方向を向いている。まるで人間の剥製のように見える。
――そういえば、血の気が通っている気配がしないぞ――
前にこの男を見た時も、どこか血の気が薄い、まるで病気なのではないかと思ったほどだったが、改めて今日見ると、血の気どころか、人形のようにしか見えないのは実に不思議だった。
さっきまでは橋の上を普通に歩けているつもりだったが、男の様子に違和感を覚えた時、歩が進んでいないのに気が付いた、
――僕はこの男を恐れているのか?
不思議な感覚だった。七夕男には最初恐怖を感じたが、話をしてから、恐怖は感じなくなった。この男とも話をすることができれば、七夕男のように恐怖を感じなくなりそうな気がして、本当なら関わりたくないと思っていたはずなのに、近づいていくことを選択したのだ。
ただ、最初にこの男に恐怖心を抱いた原因が何だったのか、その時にも分からなかった。それなのに、今回は分かっている。それは、その男がまったく違う世界の人間だという思いだけなら、それほど恐怖は続かなかっただろう。しかし、姉と名乗る女性が現れて、無理やりにでも、自分と関係づけられてしまったのだ。まったく関係のない人物ではなくなった瞬間に、再び恐怖に襲われたのも、無理のないことだった。
――その恐怖を払拭しようと思っていたはずなのに――
男に近づいたため、血の気のなさから、さらに人形のような表情に恐怖を感じずにはいられない。
克之は今までに見た一番怖い夢が何であったのか、分かっているつもりである。子供の頃には何度か見た経験があるが、最近ではほとんどない。
それは、「もう一人の自分」が出てくる夢だった。夢を見ている自分は主役でありながら、実際には客観的な目で夢を見ている。だから、まるで映画を見ているような、どこか他人事のようなところがあるから、少々の怖い夢でも、本当に恐ろしいと感じることはなかった。
しかし、もう一人自分が出てくると話は変わってくる。その「もう一人の自分」は、夢に出てくる主人公である自分にも、客観的な感覚で夢を見ている自分にも、その男の存在は、完全に寝耳に水だからである。
――自分であって自分ではない男――
顔は自分だ。しかし、本当に自分があんな表情をするなど信じられないと思うほど、完全に違う人間として登場するのだ。
これほど怖い夢はない。子供の頃は、さすがに表情の豊かさを知っているわけではないので、そこまで本当の恐怖を感じるほどではなかったが、そこから成長した自分を思い浮かべていたのかも知れない。
――もう一人の自分の恐ろしさは、成長してみないと分からない――
と考えていた。
そして、実際に大学生になって、久しぶりに自分が出てくる夢を見た時、それまで掻いたことのない寝汗で濡れていたのだった。
寝汗の量は、半端ではなかった。シャツの上からパジャマを着て寝るのだが、シャツ、パジャマともに、絞れば洗面器に軽く水を溜めることができるほどで、手に持ってみると、ずっしりと重かった。
敷布団はそのまま使うことができず、風呂場から、大きなバスタオルを持ってきて、背中に敷き、そのまま上半身何も着らずに朝まで眠らなければならない羽目になった。そのせいか、翌日には風邪を引いてしまい、二、三日体調が悪かったのを覚えている。
「あの時は、踏んだり蹴ったりだったな」
と、苦笑いをせずにはいられない。
克之は、どうしてそんなに夢の中に出てくるもう一人の自分が怖いのか、冷静に考えてみた。最初は分からなかったが、考えてみれば当然のことだ。
――目を合わせてしまったんだ――
というのが、本音だった。
――あんな恐ろしい目は初めてみた。ひょっとすると、僕が他の人に見せているのは、本当はあの顔なのかも知れない――
と感じた。
克之は、この頃一番分からないのが自分だということを自覚していた。大学生になってから、大学の放送部にインタビューを受けたことがあり、その声が大学内で放送されたことがあったが、その時に感じたのが、
「これ、僕の声なのか?」
と、思わず声に出して言ってしまったことだった。
「そうだよ、自分じゃ分からないものだろう?」
「ああ、確かにその通りだな」
と言ってみたが、自分で感じている声は喉にビブラートが掛かっているのだが、テープで聞く声は、鼻にかかったような声になっている。明らかに違う人の声を聞いているようだ。
夢の中に出てくるもう一人の自分、それは表情もなく、血の気の引いた顔は、オカルト映画に出てくるゾンビのようではないか、最初は、
――ゾンビのような顔――
にビックリさせられたが、次第に自分の顔を意識し始めると、本当の恐怖は、自分の顔を酷似していることから来るのだということに気付くと、背筋に寒気を感じた。
克之は、それほど自分が臆病ではないと思っていた。実際に七夕男の存在を恐怖に感じないなど、他の人ではありえないことではないだろうか、
七夕男の存在を怖いとは感じないのに、夢の中の自分や、今目の前にいる男の存在を怖いと思うのはどういうことだろう? やはり、実際に会話をした人間であれば、どこかに気持ちが通じ合えるものがあるというのだろうか? 克之が怖くても目の前の男に近づいているのは、
――話をしてみたい――
という意識が強いからに違いない。
だが、目の前の男の血色の悪さに恐怖心を抱いている間、本当に会話などできるのだろうか? 相手も当然、自分が相手に恐怖を感じていることくらい分かりそうなものだ。訝しいと思うのではないだろうか?
いろいろなことを考えていると、目の前の男の顔に、気のせいか血色が戻ってきているように思えた。距離が離れているにも関わらず、男の息遣いも感じられる。
――明らかにこの男は生きているんだ――
表情は相変わらずの無表情だが、男の顔から凍り付いているものが氷解していくのを感じることができる。
克之は、後数歩で橋を渡りきれると思った時、今度は、前に進んでいるはずなのに、思ったよりももたもたしていることに気が付いた。
――この感覚、以前にもあったような――
あの時は、近づきたくないという思いが嵩じて、近づけないものだと思っていたが、
――実際には逆ではないのだろうか?
と感じるようになっていた。
一年前のことは、詳しくは覚えていない。ピンポイントでの記憶はあっても、それが時系列として結びつくわけではなかった。時系列で結びつかないと、記憶として成立しないのではないかと思っている克之は、前に進む時に障害を感じるのは、本当は近づきたいという意識になったためではないかと思うと、それまでの疑問も少しずつ繋がってくる。それでも、一年前の記憶と、この間の七夕男との再会には克之にとっての記憶の糸を一本につなげるには、まだまだ不十分に感じられた。どうしても、そこには越えられない何かがあるのではないかと、克之は感じた。
何とか橋を渡りきった克之は、男に話し掛けた。
「あの、私のことを覚えていますか?」
男は、訝しげに克之を見て、
「いいえ、覚えていませんが」
と答えた。
「篠原誠さんですよね?」
と聞くと、さらに男は訝しそうに、
「ええ、そうですが、どこかでお会いしましたか?」
「昨年、やはりこの場所で」
と答えると、誠は一息溜息をついた。
普段なら、こんな態度を取られると、さすがに克之もイラつくのだが、今目の前にいる誠には、不思議と怒りはこみ上げてこない。
「ここで私は何をしていましたか?」
「あなたは、謎の男たちから追いかけられていました。黒ずくめのサングラスをした、怪しげな男たちです。必死で逃げていましたが、柳の木を通りすぎると、あなたの姿は急に見えなくなり、私はその場で少し待っていると、あなたは五分後にここに現れたんですよ」
頭を垂れて、誠は聞いていたが、
「そうですか、見てしまいましたか。でも、あなたは、どうして私の名前までご存じなんですか? ひょっとして、あなたが、新田克之さん?」
「ええ、そうです。あなたが、お姉さんのマリさんに私のことを話したとかで、あなたが行方不明になったことで、あなたの消息を訪ねようと私のところにやってきました」
「そうですか、姉が来たんですね……」
「でも、あなたはどうして私のことをお姉さんに話せたのに、私を見て、新田克之だと分からなかったんですか?」
「実は、私も後になってあなたの存在を聞かされたんです。私のことを見ていた人がいたとね。でも、その人にはまだ話はできないので、少し話ができるようになるまで待ってほしいと言われました。同じように私の姉にも話をしてくれたんでしょうね」
「その話をしたと言う人は?」
「あなたもご存じのはずですよ。あれから一年経っているので、あなたは、彼から話は聞いたはずです」
七夕男のことを言っているのだろう。
「ええ、私に、なぜか一年後にここに来てくれと言われて、やってきたら、事情は話してくれました。ただ、あまりにも突飛な話だったので、ほとんど他人事で聞いていたような気がします。今はその話を信じているのかと聞かれると、正直、信じられないとしか答えようがないですがね」
「そうでしょうね。別の世界からやってきた人間がいるなど、普通は考えられないでしょうね。でも、その世界が未曾有の悪夢に見舞われていて、正直、こちらの世界も一歩間違えると同じような運命をたどることになるんですよ。私は今のこの世界の平和は、偶然が重なっただけの綱渡りに過ぎないと思っています。すべてはバランス、見えない無数の糸の上に乗って、安定しているだけの世界なんですよ」
「じゃあ、どこかの糸が切れたりすれば、いつどうなるか分からないと?」
「一本や二本では、そんなに簡単に崩れはしません。でも、大きな山もアリの穴から崩れるという話もあるじゃないですか。偶然が重なってできた安定なら、ちょっとした地震のようなものが来れば、そこから、崩れるには簡単だということを、少なくとも誰も意識していない。平和が安定で保たれているという当たり前の摂理を、平和ボケしている連中に分かるはずもないんでしょうがね」
誠のいうことは、至極当然な話だった。七夕男の話は突飛だったが、事実を伝えようという思いがあったようだ。誠の話は、克之が七夕男から話を聞いているという前提で、自分の意見、あるいは、彼らの住む世界の人間としては常識的な話しをしてくれているのかも知れない。
もっとも、彼の話している内容は、彼らの世界にだけ通用するものではない。こちらの世界にも共通の平和への摂理なのだろう。ただ、それを分かる人間があまりにも少なすぎることは、克之にも驚愕に近いものがあった。きっと、彼らから見ると、致命的に見えているに違いない。
「浄化なんですよ」
誠はふと、口にした。
「浄化?」
「ええ、浄化という言葉には二つの解釈がある。それは、人間一人の浄化という解釈と、自分のいる世界全体を浄化するという考え方ですね」
誠は、続ける。
「一度腐ってしまったものは、一度壊してから、再度作り直さなければ、元には戻らない。それは心身ともに同じで、社会全体においても同じことなんですよ」
「誠さん、あなたは、生まれ変わったんですか?」
「そう、生まれ変わったといえば、そうかも知れない。肉体が生まれ変わるには、私ではまだ難しいが、精神が生まれ変わることには成功したと思う。別の世界からやってきたもう一人の自分、その存在を信じるか信じないかで、その人の浄化の成否が決まると言っても過言ではないです」
「ということは、誠さんは、自分の浄化に成功したので、今度はこの世界の浄化を考えているということですか?」
「私だけではなく、他にも浄化に成功した同じような人がたくさんいると思っています。しかし、今はどうしてなのか、その人たちに出会うことができない。私は今、その人たちを探しているところです」
「あなたは、他の人に出会えないことを、おかしいとは気付かないんですか?」
「それはどういうことですか?」
「他にも同じような人がいるって、どうして分かるんです? 私はそれが不思議で仕方がない」
「私は、ある人に教えられたんです。今まで私はこの世界でずっと過ごしていたつもりでしたが、本当は別の世界の人間で、ここには、必ずもう一人の自分がいて、その人を浄化することで、自分を元に戻せると教えてもらいました」
「浄化というのは?」
「抹殺と言えば聞こえは悪いですが、もう一人の自分の存在を同じ存在にして、浄化してしまえば、いずれ世界が統一された時、私は生き残れるんです」
「世界が統一されるというのは、どちらかの歪んでしまった世界が元に戻ろうとする世界のことですか?」
「そうです。私はそれを、浄化だと思っています」
誠の話は何となく分かる気がしていた。克之も、今までに見た夢で一番怖かった夢は、「もう一人の自分」という存在を見せられた時だ。それは本当は信じられないわけではないのに、もう一人の存在を信じてしまうと、彼の言うように浄化という理念の元、自分が抹殺されるのではないかという恐怖を、知らず知らずのうちに意識させられていたのかも知れないと感じたからだ。
克之は、誠の話の中に、一つの真実があるのではないかと感じていた。それが何なのか分からない。
「真実は一つだ」
と、言われるが、それは全体的な真実であり、ここにもそれぞれ真実が存在するのではないかと思っている。
つまりは、世の中に存在するものには、対になるものがどこかに存在している。克之はそう思って考えると、鏡の中に写った自分を思い出していた。
鏡の中の世界がひょっとすると、一番身近なパラレルワールドではないかと思っていたのだが、鏡の世界はすべてこちら主導になっていて、向こうからこちらを見ることができない。
しかし、確かに向こう側にも世界が存在するのだとすると、向こうの世界にも鏡が存在し、そこに写っている世界は、我々のいる世界ではない。そうやって世界が広がっているのだとすれば、七夕男の言っていたパラレルワールドという世界観も分かりにくいわけではない。
一つではない真実。それは一人一人に存在しているものではないだろうか。七夕男や目の前にいる誠のように、こちらの世界と彼らの世界を行き来することのできる人間の存在は、人間一人一人の存在の中に、一つの真実を見つけ出そうとしているのではないだろうか。誠の言う浄化という言葉が、そのまま抹殺に繋がっているのだと考えると、簡単に理解できるものではないのかも知れないが、まずは彼らの考え方を理解することが大切である。
鏡の世界を例にとって考えると分かりやすい。彼らの世界にある鏡の向こう側が我々の世界なのだ。彼らは、我々の想像も絶するような科学力で、こちらの世界と行き来することができるものを発明したのかも知れない。
克之がここまで頭にスムーズな想像をもたらすことができるなど、今までにはなかったことだ。しかし、誠と話をしていると、今までになかった想像力を一気に加速させて、ありえないと思っていた垣根を一気に超えることができるようだ。
――七夕男に対しては、ここまでなかったのに――
相手が誠だから、理解できたのだろう。
――いや、七夕男は、ここまで僕に知られたくないと思っていたのかな?
いずれは知らせるつもりだったのだろうが、彼からすれば、まだ時期尚早だと思っていたのかも知れない。そう思うと、七夕男と誠の間に、若干の考え方にずれがあるように思えてならない。
「あなたは、浄化に成功したのですか?」
「浄化の効果は、そんなにすぐには現れません。とりあえず、浄化のために自分ができることは行いました。後は、運を天に任せるだけです」
遅かったことを悟った。この男がどのようにしてこの世界のもう一人の自分を抹殺したのか分からないが、少なくとも、この男がここにいるということは、本来のもう一人の自分は、この世界にはいないことを示していた。
克之は、いつもは他人事のように聞いているような話なのに、この話に関しては、身体が反応してしまうほど、身近に感じながら話を聞いている。
――怖い――
という感覚が迫ってくる。すぐに死を意識させられるわけではないが、その恐ろしさは、夢の中でもう一人の自分を見た時に似ていた。あれは正夢だったというのだろうか? それとも、予感めいたものが見せた「予知夢」というべきであろうか。
予感というには、あまりにも以前に見た夢だったような気がする。予知夢というには、少なくともここ一月ほどの間のことでなければいけないのではないかと思う。ただ、一年前に見た光景、七夕男の存在、そして誠の出現、それぞれ話が繋がっているのを考えると、以前に見たもう一人の自分の夢を鮮明に思い出す。
――あの夢を見ることができた自分だから、七夕男や、誠と出会ったのだろうか?
という考えも頭を過ぎる。潜在意識の中にもう一人の自分がいることで、異世界の人間が、克之に目を付けたとも考えられる。ただ、もしそうなのだとすれば、
――何のために?
という疑問が残る。
事は秘密裏に、隠密で行った方がいいに決まっているのに、なぜこの世界の、それも克之に対して接近する必要があったのだろう。
逆に、克之が知っていることを、克之だけしか知らないというのも、克之の考え方にしか過ぎない。ひょっとすると、他にも知っている人がいて、その人もあまりにも発想が突飛すぎて、誰にも話せずにいるのかも知れない。
――あるいは、脅迫を受けて、口止めされているのだろうか?
そういえば、一年前のあの日も、普段通る道ではなく、体調の悪さなどあって、偶然通っただけだと思っていたが、偶然ではなく、最初から克之があの場所に現れるのを察知して、舞台を演出したのではないかと思うこともできるだろう。
――何しろ、彼らは僕の想像をはるかに超えた科学力を持っているのだ。異世界から超えてくるだけの力があるのだから、時間を超えることも難しくないはずだ――
と、七夕男と出会った時に感じたではないか。それに、七夕男は、かなり克之のことを調べたと言っていた。行動パターンを読まれていたとしても、それはそれで不思議なことでもない。
――僕に何を悟らせたいというのだろう?
確かに、七夕男の話、誠の話を聞いていると、異世界の話もまんざら夢物語ではない気もしてきた。
――あっちの世界の僕は、どんな人物なのだろう?
克之は、昨年聞いた七夕男の話を思い出していた。
――やつらの世界は、悲惨な世界だと言っていた。破壊や殺戮が横行していて、どうにもならないようになっているって言っていたっけ――
と、そこまで考えると、克之は少し不思議に感じた。何か思い当たるところを感じたとでも言えばいいのか、克之にはその話に疑問があった。
克之は、歴史が好きだった。戦国時代、明治維新、好きな時代には詳しかった。大学時代には、対外戦争について興味を持ち、世界大戦などの、帝国主義時代の文献などを結構読み漁ったものだ。
「国家ぐるみの殺戮と破壊の時代」
それが、帝国主義の定義と思っていた。
克之が七夕男の話を聞いた時、帝国主義を感じていたが、その時どこか違和感があった。まるで自分が、その時代に存在していたかのような感覚になったのだが、どこに違和感があるのかをずっと考えていたが、答えが見つからなかった。
――七夕男が消えてしまったので、永遠の謎になってしまったかな?
と思っていたが、ふと考えると、
――どうしてこんな簡単なことに気付かなかったのだろう?
という思いを感じた。逆の発想すればいいだけのことだった。
帝国主義は、国家ぐるみだったではないか。克之の潜在意識の中にある「破壊と殺戮」は、国家ぐるみというわけではなく、組織よりも狭い範囲。下手をすると、個人レベルでの問題だったということである。
七夕男の話を聞いていて、気付いたはずだったのに、今から思えば、七夕男の消滅は、克之の記憶装置の中から、若干の記憶を消す効果があったようだ。すべてを消すことは不可能だが、消去しなければいけない記憶を消してしまっていたのだ。
――今の僕の疑問は、消滅した記憶の中に真実が存在しているに違いない――
と思った。
本当は消滅さえしなければ、七夕男は、克之にすべての事情を話していたかも知れない。一人の男の消滅がどれほど克之に大きな影響を与えたのか、まだ他にあるかも知れないと思うと恐ろしかった。
ただ、どうして七夕男は消滅してしまったのだろう? 向こうの世界の話を克之に話したからであろうか? 昔話や言い伝えなどでは、別世界が存在し、そこからエージェントとしてやってきた人間は、自分の世界の話をしてはいけないという暗黙のルールが存在し、話してしまったがゆえに、元の世界に戻れなくなったり、記憶を消されたりして、最悪、命を落とすことになるのが、定説のようになっている。
それが一つではなくいくつも存在し、定説のようになっているのであれば、本当に別世界が存在するのだとすれば、定説として十分成立する。
「火のないところに煙は立たぬ」
というではないか。
七夕男が克之に話したことで、時空間の約束事が崩れたと思われても仕方がない。いや、元々七夕男や、もう一人の誠が、こちらの世界をウロウロすることの方が、十分約束事を破っていることではあるが……。
克之がそう思えば思うほど、まるで自分が言い訳をしているように思えてならない。
――七夕男とは、本当に一年前が初対面だったのだろうか?
それ以前にも遭っているのはないかと、今になって思えば、そう思えなくもない。それも一度だけではない、何度か会っている。日常的に会っていたといっても過言ではないくらいだ。
克之は、自分の記憶の中に、ポッカリと空いた部分があることを、以前から意識していた。
しかし、それは、
――僕だけではなく誰にでもあることなんじゃないだろうか――
と思っていたことだった。
記憶力の低下を気にしていた時期があったが、それも、最初から記憶が欠落しているのであれば、思い出そうとしても思い出せるものではない。子供の頃の記憶はいつ頃から残っているかというのは、個人差があって人それぞれ、ただ、時々前世の記憶ではないかと思うようなものすらあった。記憶の欠落が、前世の記憶を残す隙間になっているのかも知れないと思っていた。
前世の記憶があるのは、前世も自分が人間だったからだ。同じように男であり、違うのは、記憶の中の自分は、いつも誰かの指示だけで動く、まるで操り人形のようだったからだ。
指示をしている人間が誰なのか、おぼろげでしかなかったが、逆らうことなどできないことがすぐに分かるほどの身体の大きな男だった。
ただ、そんな自分も恋をした。その人の言うことも聞きたいのに、大男の存在が邪魔だった。
「僕はその時、逃げ出したんじゃなかったのかな?」
逃げても追いつかれてしまうことは分かっていたが、どうしようもない。好きになった女性と手に手を取って、どこに逃げようとしたのかも覚えていないが、彼女と二人、確かに逃げた。
その女性のことを今思い出してみると、
――マリという女性に似ていた気がする――
マリを初めて見た時、どこかで会ったことがあると思ったのではなかったか、その時の一瞬の思いに、今の発想が結びついたのだ。マリを初めてみた時に、そこまで感じなかったのは、マリ自身の中に、克之のことをまったく知らないという感情を、今まで感じたことがなかったからだ。前世と思しき夢の中に出てきた女性とは、初対面の時から、お互いに結ばれることを予感していた仲だった。それは前世の人間が、皆運命を最初から分かっている世界に住んでいたからなのかも知れない。
身体の大きな男が、今から思えば七夕男、そして、自分の運命から逃げようとした原因を作った女が、マリだとすれば、マリの弟は、克之とはどういう関係になるというのだろう? 前世でマリは弟などいなかった。やはり、前世だと思っていた世界は、自分が夢の中で勝手に作り出した妄想の世界でしかないのかも知れない。
妄想の世界は、傀儡の世界でもあった。
克之は、七夕男を傀儡とし、他の人も、表に出ている人間と、裏から操っている人間の二通りがある世界。そう思うと、マリと弟というのも、克之の妄想の世界では、どちらかが表に出ていて。どちらかが、傀儡だったと考えられる。克之は、傀儡は弟だったのではないかと思っている。
「篠原さん、あなたには姉がいるようですが、お姉さんが心配していましたよ」
と、克之が言うと、誠は少し訝しそうな表情を克之に向けた。そして、何か気だるそうな雰囲気は、投げやりな感覚にも見て取れた。
「姉と会ったんですか?」
「ええ、お姉さんが私を訪ねてきたんですよ」
というと、驚いていた表情が、諦めの表情に変わり、フッと溜息をついているのが分かった。
――姉に対して、余計なことをしたとでも思っているのだろうか?
何も知らない克之は、姉妹にありがちな、姉の心配をおせっかいだと思っているのだと感じた。
だが、諦めのような表情をする前に、なぜ驚きの表情になったのか、そこが納得の行かないところだった。
「新田さんは、どうやら何も分かっていないようですね」
ムッとした表情を相手が察したのか、
「自分はすべて分かっているんだ」
と言いたげであったが、だからと言って、それをひけらかしているわけでもない。憐みに似た溜息に、克之は完全に相手から優越感を持たれていることに憤慨していた。それは、こちらに対してなるべく感情をあらわにしないようにするためではないかと思える溜息の尽き方に、克之は劣等感を抱かぬわけにはいかなかった。
それにしても、誠は何を分かっていないと言いたいのだろう?
やはり、最初に感じたように、マリとは初対面ではなかったということだろうか?
さらに誠を見ていると、姉のところに帰ろうとせず、じっと影に収まっているところをみると、自分の妄想の世界を誠が証明してくれそうな気がして仕方がない。
――誠は、一体自分にどのような関係があるというのだろうか?
それは誠に対して思うというよりも、その後ろに控えている姉のマリに対してのことの方が強い。
――マリと誠は一体どんな姉弟なのだろうか?
と考えさせられる。弟のことを心配する姉、しかし、弟は心配されることを快く思っていない。マリが表にいて、誠が裏に控えている方が、自然に思えてきた。
「君は、僕が何も分かっていないというが、君はそんなに何もかも分かっているというのかね? 確かにいろいろ分からないことが多いし、不思議なことをいう男が現れたりとかで、これで分かれという方が、どうかしていると思うけどね」
と、ムッとした勢いで、誠に突っかかっていった。
すると、誠は今度は首を傾げるような表情で、しばし考えていた。だが、すぐに何かしらの考えが頭の中で統一されたのか、表情に開き直りのようなものがあった。
「やはり、あなたは何も覚えていないようですね。ただ、それが突発的なことなのか、誰かの手によるものなのか、判断がつかない」
「それはどういうことなんだい?」
誠は申し訳なさそうな表情になり、
「先ほどは失礼なことを口にして、申し訳ございませんでした。どうやら、私の考えていることが、半分は的中しているようですね。あなたは、記憶の大部分が欠落しているようだ。本当は大事な部分だけでもお教えしなければいけないんでしょうが、それはもう少し待っていただけないでしょうか? 今お話しても、多分、あなたにはご理解いただけないと思います」
「それは、この間、不思議な男がやってきて、話をしてくれたことと関係があるのかな?」
「不思議な男とは?」
「一年前に、実は私はあなたが黒づくめの男たちから追われていて、殺されそうになっているところを偶然見かけた。そして、あなたが、一瞬消えて、五分後に姿を見せるところも見てしまった。ちょうどその時に、同じように追われている男を見かけた。その男が一年経ったら、ここで話すと言って、どこかに行ってしまった。そして一年後、約束通りここに現れて、彼が住んでいる別世界の話をしてくれたんだ」
「どんな世界だって?」
「そこは、荒廃した世界で、こちらにいるもう一人の自分を殺すことが伝説になっているような話だった」
「なるほど。新田さんは、その話を信じたわけだ」
「ええ」
「あなたが信じてしまったことで、記憶が戻るのがまた遅れてしまったんだな。その男の目的の一つは、新田さんの記憶が戻るのを恐れているため、少しでも記憶が戻るのを遅らせようとしているんだ」
「消すことのできない記憶ということですか?」
「いや、記憶というもの自体、消すことはできないのさ。封印することはできても、決して抹消することはできない。だから、死を覚悟した時、俺たちの世界では、他の人の脳に、その記憶を移すことも許されている。ただ、それは誰にでもというわけではない。血の繋がりのある人でなければ、してはいけない法律があるんだ」
「じゃあ、記憶を他の人に移すというのは、あなたの世界では、合法的なことなんですか?」
「ええ、そうです」
「信じられない」
「それはそうでしょうね。自分の身体に他の人の記憶を公然と移すんだから、どうなってしまうかを考えると、信じられるものではない」
ないはずの記憶が格納される。格納されて、表に出すことはないのだろうが、ふとしたことで、飛び出してこないとも限らないだろう。
それはまるで「デジャブ」のようだ。こちらの人間にだってデジャブというものがある。本当に自分の記憶なのかと疑いたくなるような記憶を、一つくらいは誰でも持っているものではないだろうか。誠は話を続けた。
「新田さんはデジャブのことを考えているんでしょうが、今の話、信じられないというのは、露骨に記憶を移植するという大胆さばかりが目に映っているのでしょうが、考えてみてください。人間は輸血だってするんですよ」
「輸血と、記憶の移植とが関係あるんですか?」
「それはあるでしょう。血液の中には人間の成分が含まれている。その中には、意識や記憶だって微量ですが含まれているんですよ。デジャブという現象だって、輸血で血を貰った人が、提供者の記憶を引き継いだと言いきれないわけではない。本当に微々たるものだということと、まったく本人の意識していない内容を映し出しているということで、デジャブというのを頻繁に感じながらも、信じようとしない。これって人間のエゴのようなものなのかも知れませんね」
「意識はしていなくても、人間という誇りのようなものが存在し、自分が判断できること以外は、ありえないという考えが強く意識されているんだろうね」
「正直、今私が考えているのは、あなたの中に複数の人格が宿っている気がするんだ。今話をしているあなたと、中に隠れているあなた。普段は、それが時々入れ替わっている状態。私の話を聞いて、反発しているあなたは、本当のあなたの人格ではないと思っているんだ」
「僕が二重人格だとでも言いたいのかい?」
「二重人格という、こっちの世界での定義とは少し違っている。ただ、同じところは、一つの身体には、表に出ている性格が一つしかないということだね」
誠の話は、次第に今の克之の考えを凌駕しているようだった。まったく信じられないと思っていた話が次第に頭の中に浸透し始めていた。それは洗脳という言葉を彷彿させるもので、人からマインドコントロールを受けている人間が、次第に人数が増えていくと、どれほどの力になるかということを、思い知らされるような気がしてきた。
ただ、誠がいうように、確かに自分の中にもう一つの人格が隠れていることには気付いていた。もう一つの人格が表に出てきた時、今考えている人格の存在を知っているかどうか分からないが、その性格とはどんなものなのだろう。まったくの正反対だとでもいうのだろうか。
「人は誰でも一つや二つ、何かを隠しているものさ。隠しているという言葉は適切ではないかも知れないが、それは相手に対していうことで、本人が隠しているという意識がない場合、隠しているものに対しての自覚がないことがほとんどだと思うよ」
という話を大学時代の友達から聞いたことがあった。
その時は、二重人格の話だと思っていたが、今考えてみると、誠の話に近いことなのかも知れない。誠は、自分の中にもう一つの人格が隠れているとは思っているが、それがどんなものなのか分かっていない。
なぜなら、今の人格が表に出ている時、もう一つの人格はじっと黙って眠っている。
「まるでジキル博士とハイド氏のようじゃないか」
というと、
「そうだね、ほとんどの場合は、もう一つの人格を分かっていないことが多い。だから、この世で生きていけるのさ。もし、他に世界が広がっているとすれば。今の性格だけで生き残っていけるかどうか、それを考えると、怖い気がするな」
その友達は、別世界の存在を示唆していた。
「一年前私に、あなたたちの世界のことを教えてくれた人が、この間、私の目の前から消えてしまったんですが、あの人は、どうなったんですか?」
克之は、人物を確定まではしていないが、一年前というキーワードは出しておいた。確証というハッキリとしたものがあるわけではないが、その男が誠に関わっていような気がしたからだ。すると、誠は少し考えてから、
「彼は死んだわけではないです。その状況を見ていないのでハッキリとは言えないけど、この世界から向こうの世界に戻る時の様子に似ているようだ」
「あの人の浄化は終わったのだろうか?」
「その人は、きっと浄化はしないと思います。向こうの世界でも、浄化に関しては、賛否両論あるんですよ。こちらの世界でも思想の違いってあるでしょう? ただ、それが過激になると、人は疑心暗鬼にかかってしまう。一人が疑心暗鬼にかかってしまうと伝染するもののようで、誰か一人の考えが分からないと、一つの集団のバランスが崩れてしまう。次第にまわりに伝染してくると、大きなバランスを保つことはできない。世の中の安定を支えているのは、バランスなんだと思うんですよ。バランスが崩れると、それがアリの穴になって、次第に大きな山を崩してしまう」
「今までそこにあったものが、なくなっていることがあったりすると、バランスが崩れたんだって思うことがありますよ」
「それも、一つの見方ですね。我々の世界では、今までほとんど闘争らしいものってなかったんですよ。だから、いちどタガが外れると、あとは果てしない疑心暗鬼に繋がってしまう。しかも、科学はこちらの世界に比べて飛躍的に発達した。闘争がないのは、兵器製造技術によって世界の破滅を政治家や軍部が感じていたからさ。こちらの世界でも同じでしょう?」
「そうですね。一触即発でありながら、核兵器による平和の均衡という冷たい時代が続いていましたね」
「こっちの世界では、そこまでは至っていない。それは、今まで幾たびかの戦争を繰り返しての教訓からでしょうね。歴史を正しく認識すれば分かってくることもあると思います。だが、向こうの世界はそうはいかない。最初から冷たい均衡だけが支えだった。実際に戦争になった場合のノウハウは一切ないんですよ。一人でもバランスを崩す人が現れて、それが大きな影響をまわりに与えてしまったら……。それが、我々の世界の現実なんですよ」
克之は、黙って聞いているしかなかった。しかし、話さなければいけないと思っていることは頭の中にたくさんあった。
「バランスもそうなんでしょうけど、戦争というものは、始めるよりも、終わらせることの方が数倍難しいと言います」
「まさしくその通りなんですよ。始めるまでには、何かの大義名分というものがあれば、それで足りる、でも終わらせるには、始める時から終わらせることを頭に入れておかないと、ただでさえ状況は、最初に考えていたことと同じように推移するとは限らない。まず間違いなく、想定外のことが起こるもので、そうなると、状況に応じた終わらせ方を、絶えず模索しておかないといけない。それを全体で考えるのではなく、個人個人の中で自覚していないといけないということに、我々は今になって気が付いた。それがバランスによる均衡なんですよ」
「あなたの世界は、今どうなっていますか?」
「無政府状態の無秩序、治安なんてまったくなくて、殺戮と破壊の限りを尽くしています」
「まるで小説や漫画の世界のようだ」
「こちらの世界を僕たちも結構研究しましたが、向こうの世界を見てきたような小説を書いている人がいたんですよ。その人も、あなたのように、我々の世界の人間と接触して、話を聞いたんでしょうね。小説家のところに現れたのは偶然ではなく、この人ならきっと我々の世界のことを描いてくれるという思いがあったのかも知れない」
「とうことは、あなたやこの間目の前から消滅した人が私の前に現れたというのは、何か根拠があるということですか?」
「根拠はあるが、それはあなた本人に思い出してもらうのが一番だと思っています。今は私の口からは言えません」
克之は、そう言われてもまだピンとは来なかったが、この人とは話が合うという実感はあった。彼は続けた。
「ただ一つ言えることは、僕は一人の人間を探しに来たということだけですね」
というと、話は煮詰まって気がした。
克之が、今日はこれ以上会話しても、新しい発想は出てこないことを感じていると、誠も同じことを考えているのか、
「今日は、そろそろお暇させていただこう」
というと、克之を残して踵を返すと、ゆっくりと歩き始めた。
それは、本当に異世界の人間なのだろうかと思わせるほど、自然な歩き方だった。ただあまりにも自然すぎて、却って機械的な歩き方に見えなくもない。もし、このまま七夕男のように、粒子が剥がれていくように消滅してしまっても、違和感がないのではないかと思えるほどだった。
だが、消滅することもなく、彼は真っ直ぐ歩いていくと、そのまま角を曲がっていった。それを見届けると、やっと身体が動かせる気がした克之は、自分が金縛りに遭っていたことに気付いていないようだった。
次の日の克之は仕事が休みだった。朝起きて、前の日に出会った誠のことを思い出していたが、彼の顔が頭の中から離れないのを感じていた。人の顔を覚えるのが苦手な克之なのに、ここまで執着して人の顔を覚えているというのも珍しいことだった。
彼が、正面から昨日の話をしてくれているのをイメージしていた。
歴史が好きで、自分では歴史認識があると思っていた帝国主義時代、昨日の話に賛同できたのは、やはり自分の歴史認識と合致していたからだろう。特に、
「戦争は始める時よりも、終わらせる時の方が、数倍難しい」
という話に関しては、まさしくその通り、不運にも戦争に突入したとしても、いかに被害を最小限に留めながら止めることができるかという問題である。
今までに何度となく本を読んできた。
「もう一度、読んでみよう」
一度読んだ本を読み返してみた。戦争についての意見を書いた本もあれば、シュミレーションに近い話もあった。
歴史に「もしも」ということはないが、シュミレーションを試みることで、先の時代を模索することができる。そういう意味で、克之はシュミレーション小説が好きだった。
中には、エンターテイメント性が強い作品もあり、歴史認識というよりも、娯楽小説になっているが、そんな小説でも、読み込むことで作者の意図であったり、主人公の心境を覗き見ることができる。エンターテイメントを、面白おかしくしか見れないのであれば、そもそも歴史認識が間違っている証拠である。
自分の歴史認識に自信がある克之は、その確証を昨日の誠との話で確信できたような気がしてきた。彼らが克之の前に現れたのは、それが理由の一つだったのかも知れない。
その日の克之は、シュミレーション小説を読むというよりも、もっと人の気持ちを感じることのできるものを読んでみたいと思っていた。
日本海軍の将校が著者である本を、何冊か持っている。
空母から爆撃機に乗って出撃する時の心境。そして、その時に頭に浮かぶ光景、実際に見た水平線の向こうから昇ってくる朝日の美しさ。読んでいるうちに、まるで自分が主人公になって、操縦桿を握っている感覚になれるのは、不思議だった。
――操縦桿なんて握ったこともないくせに――
と思うのだが、カタパルトから発艦する瞬間、身体がフッと浮く感覚が自分の中にあった。
海に落ちてしまっても不思議のないほど、目の前に水面が見えた時、一気に身体が宙に浮いた。そのまま急上昇して、先に飛び立った爆撃機に追いついて、何事もなかったかのように、編隊の中の一部に組み込まれる。
――それまでの間にいくつのことを考えることができるんだろう?
それまで考えたこともなかった、
「なぜ、俺たちはここから出撃しなければいけないんだ?」
敵を殲滅し、日本に勝利をもたらすためというのは分かっているが、それは理屈でしかない。自分自身が本当に納得できるものではないからだ。
「家族のため? 自分のため?」
その当時当たり前とされたことが、出撃し、一人になった瞬間、急に自分に問い直すのだ。
その時、何らかの結論が自分の中で出ていたはずだ。結論が出ているからこそ、他のことも考えられる。しかし、何を考えたのか、あとからでは思い出すことができない。それは出撃のたびに、感じることだった。
――ひょっとして、出撃の瞬間こそ、本当の自分に戻れるのかも知れない――
それまで、正直に言えば、死ぬのは怖い。出撃の瞬間に、一人になると、そのことを痛切に感じさせられる。
だが、どんなことであれ、直面したことから逃げることができないことを悟ると、こちらも正面から向き合うものだ。そして、そこで何かしらの結論を得て、死というものに対しての恐怖を払拭できるのかも知れない。人間が死を迎える前には、きっと必ずこんな瞬間が訪れるのだろう。
しかし、本当に不思議なのは、何度も出撃して、何度も死と直面していることになるのに、そう何度も緊張感というものが続くものなのだろうか?
克之は、本を読んでいるだけで、そこまで考えられるようになっていた。
それはまるで自分の欠落した記憶がそこにあるのではないかと思わせるほどのものであり、記憶とは自分に何を感じさせるのかを考えさせられるものだった。
本を読んでいると、実際の時間とかなり違っていることを感じていた。
克之は、その本を今までに何度か読んでいるので、著者の気持ちになれたのだと思っていた。初めて読む本にそこまで感情移入などできるはずもないと思っているからだったが、ただ、初めて読んだ時から、作者の気持ちというよりも、時代背景に対して、まったくの他人事のように思えなかったのも事実だった。
実際の時間と違うという感覚は、自分が本の中に入りこんで、主人公になりきっているからなのかも知れない。頭の中は、十数年前の戦争中になっていた。
――知らないはずの時代なのに――
本を読んでいるだけで、ここまで入れ込むことができるのだろうかと不思議な思いだった。もちろん、「死」というものに直面していることも頭の中で分かっている。それなのに、時代に馴染んでいく自分を感じていた。
ただ、意識があるのは、空母から飛び立って、操縦桿を思い切り引き上げると、上昇していくところまでである。そこから先の記憶は、一切ない。記憶の中の封印なのかとも思ったが、続いている内容の意識が途中から封印されるということは考えにくかった。
夢を見ていて、どうしてもそれ以上先を見ることができないという境界線のようなものがあるのは意識していたが、上昇してから先も、同じ感覚なのかも知れない。
そういえば、彼らの世界は、今まで紛争や戦争などない世界だと言っていた。それも、科学の発展において、「冷たい均衡」が守られることの一触即発の状態だったという。彼らの世界が、我々の世界の正反対の世界であるとすれば、こちらは、これから恒久平和が実現されるということであろうか?
「いやいや、そんなことはありえない」
平和を望みながらも、ありえないと思っているその感情も、今の世の中だけしか知らないからだった。
彼らの話していた浄化という言葉、自分を浄化するのか、世の中を浄化するのかで事情も変わってくるが、まずは、自分を浄化することから始まるはずだ。
何度も出撃し、そのたびに、命を捨てる覚悟をする。何度も覚悟を重ねていくうちに、死に対しての感覚がマヒしてくる。自分の死に対しての感覚がマヒしてくるのだから、人の死に対して、いちいち感情を持ったりすることもなくなる。
――すべてが他人事のように思う感情が本当なのか、それとも、死を覚悟した感情が本当なのか、それぞれが共存できるものだとは思えない――
そんなことを感じながら本を読み進んでいった。
今度は、以前に読んだ時に比べて、思ったよりも時間が掛かっている。忘れてしまったことを思い出そうとするかのように、読みながら考えているのだ。そのわりに、客観的に主人公を見るわけではなく、自分が主人公になりきって読んでいることが、時間の掛かる要因となっている。
昨日の誠との話を思い出していた。話の内容をさっきまで覚えていたはずなのに、本を読み始めると、その内容が頭の中に浮かんでこない。似たような話だったと思って、本を読もうと思ったはずなのに、似ていると思ったのは、表面上のことだけで、本を読みながら、自分が主人公に置き換わってみると、その違いの大きさに、気付いていくような気がしていた。
本を、ほぼ一日掛かって読み終わると、すでに日は西に傾きかけていた、その時間になると、目の疲れとともに、普段ではここまで疲れることはないと思いながら本を閉じ、自分も目も閉じて、少し深呼吸してみた。
物覚えの悪さはどこから来たのかを、今さらのように考えていた。
――人の顔を覚えるのが、本当に苦手だったな――
ということを思い知らされた。
学生時代、覚えていなければいけない人の顔を覚えていなくて嫌な思いをした。それも好きになった人だっただけに、
――僕は好きになった人であっても、その顔を覚えていないのか――
と、自分の記憶力のなさに、屈辱感を感じたものだ。
屈辱感が敗北感に繋がり、「それから女の子を好きになっても、自分に自信がないことで、告白もできず、悶々とした気持ちだったこともあった。何とも嫌な思い出である。
その日、本を最後まで読み終わって、そのまま本を閉じればいいものを、最後のページを読み終わり、本を閉じようとしたところで、思わず手が止まった。
――どこかで見た顔だ――
最後の見開きのカバーのところに、筆者の顔写真が乗せられていた。
――前に読んだ時、確か見た記憶はあるが、その時は何も感じなかったはずなのに――
その顔には思い出があった。
確かに以前どこかで見た顔なのだが、思い出せない。しかも、ずっと昔だったような気がする。
そう思うと、ふと違和感を感じた。
――そんなに昔であるはずがない――
という思いがあったが。そこには二つの意味が隠されていた。
一つは、
――今考えているような昔の意識が残っているはずがない――
という思いと、
――見たような気がする相手の顔は、ここ数日くらいのものだったはずだ。それを覚えていないなんて――
というものだった。
前者は、自分にとっておじいさんくらいの年の人の意識が、今よみがえるはずがないというものである。七十年も前の感覚、いや、本当がこの世での感覚ではなく、誠のいた世界の感覚なのかも知れない。あちらの世界では、今が戦争の真っ最中だというではないか、ただ、科学力はまるっきり違っているというが、「生きていたい」という感情は、どの時代であっても、どの世界であっても同じであろう。彼らの世界にだって、生と死の狭間で苦しんでいる人がたくさんいるはずだ。それを思うと、殺戮と破壊は、何も残さない。彼らの言う「浄化」というものは、皆を苦しみから救ってくれるものなのだろうか? 克之は「生きていたい」と感じた相手の顔を思い浮かべた時、著者の顔が浮かんできたような気がしてきた。
後者のここ数日の意識だが、ここ数日の間で出会った人で印象に深く残っているといえば、誠だけだ。著者の顔が誠に似ていたのかと言われれば、どちらかというと似ていない。
ここ数日の感覚だというのは、錯覚かも知れないと思った。著者の顔を見ていると、
――いつも見ているようで、実際には意識したことのない顔。つまりこれほど身近な人はいない――
と、そこまで考えてくると、思いつくのはたった一人。
とは言え、一番認めたくない事実だった。なぜなら、その顔というのは、克之自身の顔だったからである。
服装も違えば髪型も違う。写真は海軍の正装である。
軍服を着たことなどあろうはずもなく、ただ、本を読んでいると、本の世界に入りこんでしまう自分を感じるのだが、あくまで部分的に感じているだけで、最後まで感じることはできない。
――あの時の誠の表情――
軍服を来た著者の表情は、無表情だ。正面をカッと見つめて、その顔には覚悟が滲みでている。きっと、何度目かの出撃の時に撮った写真なのかも知れない。
顔自体は似ていないが、表情はこの間の誠によく似ていた。
――あの人にも覚悟のようなものがあったんだ――
と、著者の写真を見て思い出した誠の顔に対して感じたことだった。
このタイミングで誠のことを思い出すというのも、自分が誠と会った時、
――この人が自分の前に現れて、話をすることの意味がどこにあるというのだろう?
と感じた疑問が、やっと今晴れた気がした。
――誠は、向こうの世界では兵士だったのかも知れない――
彼の目には確かに死ぬことを恐れない覚悟のようなものがあった。しかし、その眼は明らかに死んでいたように思う。何かを言いたくて克之のところに現れたのだろうが、あの時、彼は本当に言いたいことを、克之に話したのだろうか?
「この人なら俺の気持ちが分かってくれる」
という思いで、自分の前に現れたのだと思った克之だったが、本当にそうなのだろうか?
姉のマリの顔を思い出していた。
マリの表情には、覚悟は感じられなかったが、弟が何か覚悟をしているという意識はあったのかも知れない。
「弟さんは死にました」
と、もしマリに告げたとしても、彼女は泣き崩れるようなことはなく、まるで銃後で戦死した軍人の奥さんのように、毅然とした態度を取り続けるのではないだろうか。克之の頭の中には、毅然とした態度を取る女性が、一人になって泣き崩れる姿が目に浮かび、その時に、
――男の覚悟って、一体何なんだ――
と感じるであろうと思った。
「筆者のこの顔は、僕なんだ」
克之は、普段は見ることのない鏡に向かって、語り掛けた。自分に自覚はないのに、鏡の中の自分は、無表情で、何らかの覚悟を秘めた顔をしていたのだ……。
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