第2話 第二章


「ところで、あなたは僕に一体何をお望みなのですか?」

 それが「七夕男」に一番聞きたいことだったが、なかなか切り出すことは難しかった。

「七夕男」が、時を経て一年後という区切りを全うし、克之の前に現れた。克之も男の存在を意識しながら、一年という時間に感覚がマヒしないようにしながら過ごしてきた。

 聞きたいことは、一年の間に山ほどできたはずだったが、一つの聞きたいことを頭に描くと、それまでに描いてきたことが、端の方から消えていくような気がしていた。

――頭の構造って意外と単純なものなのかも知れない――

 と、感じたが、それは思考能力の方ではなく、記憶装置の方の頭の構造の話だった。

 そんなことを思うようになったから、記憶力に欠陥を感じるようになったのではないかと思ったが、感覚をマヒさせてはいけないという思いが嵩じたことが、却って何が大切なことなのかが分からなくなり、むやみやたらに記憶しようとして、キャパをオーバーさせてしまったのではないだろうか。

 そんな克之が一人の女性を気になるようになったのが、電車の中のことだった。

 それまで女性と付き合ったこともなく、

――自分は女性とは縁がないんだ――

 と、思い込んでいたのは、無理にでも自分に思い込ませないと、まわりの彼女がいる連中に嫉妬してしまうことは分かっていたからだ。

 もし、彼女がほしいと思うとしたら、まわりに対しての嫉妬からだと思っていた。それは、自分では女性にモテるはずはないという意識からで、実際に、大学時代まで、彼女がほしいと思っても、その気配すら感じさせるシチュエーションも女性の視線も感じたことがなかった。

――自分からアピールしないといけないのか?

 と思ったが、自分から女性にアピールするなど、プライドが許さない。

――相手から気にされてこそ、男冥利に尽きるのだ――

 という感覚が克之の中にあった。その発想は、昔の、自分のおじいさんたちの「古き良き時代」の発想であることは、分かっていた。今の世の中に発想がそぐわないのだ。そう思っていると、今まで女性に気にされたことが一度もなかったことに気が付いた。

――僕はこのまま意地を張っていて、ずっと女性に気にされないまま過ごしていくのだろうか?

 と思っていた。このままプライドを重んじて彼女ができないのであれば、それはそれで仕方がないと克之は考えるようになっていた。それは、開き直りに近いもので、その発想が意地だと分かってしまうと、却って意固地になっていく。

「僕は他の人と同じでは嫌だ」

 という発想は、思考回路を精神が凌駕したと思っていたせいだったのだろう。それでも今は少しは丸くなってきたようで、意地を張らないようにしたいという発想から、感覚をマヒさせる方へと、思考能力が移行していた。

「七夕男」は、

「君は、最近自分のことを気にしている女性がいることに気付き始めていると思うのだが、その女性のことをどう思っている?」

「ん?」

 何を言いだすのかと思うと、「七夕男」とはまったく無関係である克之自身の問題、しかもプライバシーとしても、その人の秘めたる心境としても、なるべく他の人に知られたくないところをいきなり正面からグサリと一刀両断にされてしまったことを思うと、恥かしいという心境より、さらに自分の見られたくない部分も含めて、すべてを見透かされているようで、気持ち悪かった。

 この時克之は、「七夕男」と正対し、一番訝しい表情になったのではないだろうか? 精神的には敵対する表情になったことだろう。それまでは、信じられない話の連続で、話を聞いているだけで感覚がマヒしてきて、ほとんどが他人事のように聞いていたにも関わらず、いきなり他人の家に土足で入り込むような態度を取られてしまったのだから、嫌な気持ちになって当然だ。

 露骨に嫌な顔になったであろう克之に対して、「七夕男」の表情には、笑顔さえ見られる。その笑顔には余裕の色が感じられ、正直、憎らしかった。こちらは感覚をマヒさせられたり、土足で侵入されたりと、屈辱的な状況であるのに、相手はこちらの心境をすべて分かった上で、相手の気持ちを持て遊んでいるようにしか思えなかったからだ。

――僕のこの一年は何だったんだろう?

 もちろん、「七夕男」に遭うためだけに一年を過ごしていたわけではないが、経ってしまうと、過去の一年は、「七夕男」に対しての気持ちだけだったように思えてならない。

 今目の前にこの男が鎮座しているからそう思うだけであって、この男が目の前から消えれば、普段の生活に戻ることには違いないが、完全に忘れることができなければ、また我に返って過去を振り返った時、そこにあるのは「七夕男」に対しての思いだけだったなどと思うと、洒落になっていないに違いない。

「七夕男」は、克之にとって、マヒしていた感覚を活性化させるに十分な存在だと思っていたが、それだけにとどまらないようだ。

「ところで、あなたは僕に一体何をお望みなのですか?」

「七夕男」に聞きたかった一番の質問がこれだったというのも、今考えていることを照らし合わせると自然と理解できるものであった。

「七夕男」は、それについて、答えをはぐらかしている。その上で、プライバシーに侵入し、克之に屈辱的な感覚を植え付けようとしている。はぐらかす中で、あわやくば、忘れさせようという魂胆なのかも知れない。

「申し訳ないが、君のことを調べた中で、今まで女性に対して感情を持ったということがなかったことはリサーチ済みなんだ。そんな中、君に対してずっと意識している女性のことを君が意識し始めたのも分かっている」

 いくら今までの克之の過去をリサーチしたとしても、精神的な内部まで分かるものだろうか。そのことについて考えられることは二つある。一つは彼らの化学力は、プロファイリングだけで、人の気持ちをかなり高い確率で分析できる能力を持っているということ。そしてもう一つは、過去に行けるのであれば、未来にも行けるはずなので、彼らは前もって克之の将来を見てきたことから、忠告をしているのではないかということだ。

 後者においては、「パラドックス」という考え方もあることから、調べてきたことを、本人が自分の将来を悟るような話をしてはいけないという「禁断の法度」が存在していて、必要以上なことを言うことができないというものだ。

 だから、克之にとっては、納得のいく答えを求めることは元々無理ではないかと思えてきた。もし、「七夕男」が答えを躊躇するようなら、彼は確実に自分の未来を知っているという発想で間違いないように感じた。

――自分の未来を知っている男と話を続けるのは苦痛だ――

 相手が何を言いだすか分からないということと、中途半端に話をされて、消化不良と極度の不安感だけが残ってしまうことを必至だと感じた克之は、次第に「七夕男」のことを怖がるようになってきた。

 怖がっていると、どうしても相手に対して劣等感を感じるようになり、主導権を握られていることにマヒした感覚は、自分の内部から、それまでにない感覚を沸き起こさせることになるのを、克之はまだ知る由もなかった。

 克之は、彼女のことを聞きたい心境もあったが、

――もし、この男が僕の将来を知っているとすれば、これ以上この話題を続けていくことは恐ろしい――

 と感じた。

 意識はまたしても、感覚をマヒさせて、いろいろ考えている自分を他人事のように思わせることで、克之の内部からは、目の前の状況に左右されず、自分を意識している女性と、自分との世界に入って行く感覚に陥っていくのだった。

 克之はその女性を意識し始めた頃のことを思い出していた。

「七夕男」の存在が次第に大きくなっていったが、ある日突然、目が覚めると、「七夕男」のことが架空に感じられることがあった。

 今感じている「感覚がマヒした」という状態とは微妙に違っていた。

 明らかに夢を見ていた。それまでにも「七夕男」の夢は何度となく見てきたのだが、目が覚めると覚えていない。怖い夢だったという意識があり、今まで怖い夢であれば覚えていたくなくとも忘れることはなかったのに、その時は思い出そうとしても思い出せなかった。

――夢なんてこんなものなんだ――

 と克之は感じていたが、どうして目が覚めたのかを思い出してみると、目が覚めた瞬間に、身体に電流が走ったような気がしたのだが、それがどこから来るものなのかを考えていると、

――金縛りに遭っていて、目が覚めた瞬間に、金縛りから解放されたんだ――

 と感じた。

 そのことを感じたのは、身体から吹き出している汗の気持ち悪さに気付いた時だ。目が覚めた瞬間は、金縛りから解放された感覚しかなかったので、分からなかったが、

――こんなに汗を掻いていたなんて――

 と感じるほどで、今までにここまで汗を掻いたことがあったのかを、過去に遡って考えていた。

 起きてから、汗を掻いていたということは今までにも何度かあった。しかし、そのほとんどは、起きた瞬間に気持ち悪さを感じ、金縛りに遭ったような気がしたのだ。だが、今回は反対に金縛りから開放された。いつもと状況は違っていた。

 ただ、あれだけ汗を掻いているにも関わらず、それほど気持ち悪いとは思っていない。汗がすぐに乾いてしまう予感があり、さらに、乾いた汗からほのかな暖かさが身体の奥から醸し出されるのではないかとも感じていた。

 実際に身体がほのかな暖かさに包まれるまで、少し時間が掛かったが、それでも時計を見れば、目覚ましが鳴ったであろう時間から、二、三分しか経っていない。それを思うと、夢がどれほどの長さだったのか、想像することは難しいことが分かった。

 克之が「七夕男」のことを意識するピークがやってきたことをその時に感じた。

「今日からはあまり意識しないで済むかも知れないな」

 夢を覚えていないのもその証拠かも知れないと思った。

――「七夕男」との決裂――

 克之は、真剣にそう感じたが、今まであれだけ意識していた自分にとっての規格外の人間の存在をそう簡単に忘れられるものではないだろう。

 ちょうど、克之が自分を意識している女性の存在に気が付いたのが前の日のことだった。明らかに自分を意識している女性の登場は、今まで孤独が身体に沁みこんでいるとまで思ってきた克之に、「七夕男」の存在とは違う世界を感じさせた。

 それまでが「影」だとすると、目の前に広がるのは「光」である。

――一番最後に光を感じたのは、いつだったのだろう?

 同じ光でも種類が違っていた。

 克之は「光」というものを一種類だと思っていた。少なくとも「影」は一種類だと思っている。

――まわりの光を吸収しても、さらに闇を求めるものが「影」だ――

 と思っていた。

 もちろん、影は光がないと存在しない。しかし、克之の考える「影」は一旦自分の存在を光によって作らせて、その後、自立できるようになると、自分をこの世に産んでくれた恩も忘れて、「光」を食いつぶす。それが克之が感じている「七夕男」だった。

「七夕男」との約束の一年後までは、数日のことだった。克之が「光」を手に入れようとするならば、「影」を何とかしなければいけない。そういう意味でも「光」の存在を最高機密にする必要があった。

――それなのに――

 あの男は簡単に看破していた。

 確かにあの男の規格外な雰囲気は、克之のことを調べ上げていることは想像できたが、心の中までは見透かすことはできないだろうというのが、克之のささやかな抵抗でおあった。

 今まで自分の中にあった孤独の代償は、

――相手に自分の気持ちを看破させない――

 というところにあった。

 その優位性は、「七夕男」の前では通用しない。他の人にはまだ通用するかも知れないが、一度看破されてしまったことで、克之の中から自信が音を立てて崩れ始めたのだ。

 崩れた自信を取り戻すのは、最初に形成して、それを壊すに至るまでの時間よりも、さらに掛かるものだと思っている。ただ、開き直りができて、

「新しいものを作るには、一度古いものをぶっ潰して、一から作り直すしかないんだ」

 という考えを持つことができるかが大きな問題になってくる。

 主義や思想などの抽象的なものや、国家のような大きなものであれば、そこまでしないといけないかも知れないが、個人が抱えているものを、そこまで大げさに考える必要があるだろうか? と思っていたのは、開き直る必要のなかった時の話だ。「七夕男」の存在を、気になる女性の出現によって、新鮮な気持ちで新たに塗り替えることができるかがポイントになってくる。

 汗を掻いて目覚めたその日、克之は、ハッキリと夢の中で彼女の顔を見た気がした。

 確かに自分のことを気にしてくれている女性は存在する。しかし、こちらを見ている女性を探すと、それらしき女性はいない。

――気のせいだろうか?

 と思い、顔を戻すと、また視線を感じる。

 自分が見た瞬間に視線を切って、顔を戻した瞬間にまたこちらを見つめたわけではない。視線の強さに変わりはない。明らかにこちらを意識している女性は存在するのだ。

 克之は、以前にも同じような思いをしたことがあった。

 あれは、まだ小さかった頃のことだ。まだ幼稚園の頃だったかも知れない。

 最初はまったく意識していなかったのに、誰かに見られていると思った。ドキドキするというよりも気持ち悪かった。

「誰だよ。一体」

 と声に出して叫んだが、誰もがキョトンとしてこっちを見ている。

「どうしたの? 克之君」

 先生も驚いて克之に声を掛ける。

「いえ、何でもありません」

 と、言ったが、あの時の思い出がまるで昨日のことのように思い出す。

――あの時の視線とは違うはずなんだが――

 克之が今回自分を見ている視線の正体が分からないのに、相手が女性だと感じたのも不思議だった。

――女性から見つめられたこともないくせにどうして見つめているのが女性だと分かったのか?

 それがそもそも不思議だった。

 幼稚園の頃に感じた視線と同じであるとすれば、異性への意識がその時にあったことになる。それもおかしなことである。

「七夕男」の存在がなければ、

――気のせいなんだ――

 として、やり過ごしていたに違いない。

 その時に感じた視線が女の子だったのかどうか確信はないが、子供の思い込みとして、女の子だったということになる。思い込みは意外と、子供の間では信憑性があり、後で覚えていることとして、思い込みによるものが多かったりするのも偶然であろうか。

 学生の頃までは女の子から見つめられたりする経験は皆無だった。本当は見つめられているのに、子供の頃の思い込みの激しさから、見つめられていることに気付かなかったのかも知れない。

 克之にとって、学校にいる時はいつも孤独だったという印象だけが残っているのは、敢えてまわりからの影響を受けたくないという思いと、一人でいる時の方が、想像力も豊かであり、自分を客観的に見ることができるからだと考えていたからだった。

 克之のことを見つめる目だが、さすがに忘れていたと思われた、幼稚園の頃に見つめられていた目を思い出した。忘れていたことを思い出すということは、それだけ印象が深かったということと、酷似していたということになる。まったく同じものだということはありえないとしても、大別すると、同じ種別に当たることは間違いのないことである。

 克之が異性に興味を持ち始めたのは遅く、高校に入った頃だった。

 小学生時代までは、男性の方が女性に比べて、前に出ていて優位な体勢になっているように思っていたが、中学に入ると、急に女性の方が大人びて見えて、

「これは敵わない」

 と思うほどの女性も中にはいることに気が付いた。

 その女性は、小学生の頃のあどけなさがまるでウソのよう、化粧をそれほど施していないという話を後になって聞いたが、その時は、

「何てケバい化粧なんだ」

 と思った。

 明らかに最初は、化粧だと思っていた雰囲気に圧倒されたのだが、よく見ると、その中に可愛らしい素振りも見られたりした。

――どっちが本当の彼女なんだ?

 と思ったほどで、小学生の頃を知っている克之は、あどけない表情が本当の彼女であってほしいという願望から、どうしても贔屓目に見てしまう。

 だが、次に感じたのは、

「あどけなさなど見るんじゃなかった」

 ということだった。最初から高嶺の花として意識しておけば、声を掛けられなくても、

「どうせ僕なんか」

 と、高嶺の花であったら、自分に対して、声を掛けられないことへの言い訳になるのに、あどけなさなど見てしまえば、声を掛けられない理由を説明できない自分をもどかしく感じるからだ。

 しかし、本当はあどけない表情に対して、自分が臆してしまい、声を掛けられないことを自覚していながら、それを認めたくないという思いが心の奥にはあった。

「そんな気持ち、表に出せるわけないじゃないか」

 と、自分の気持ちの整理ができない理由を探そうとする。どうしても、

――まだまだ思春期だから仕方がない――

 という思いに落ち着いてしまう。

 思春期を言い訳にするのは、思春期であるがゆえの特権のようなものだが、後になって振り返った時、自分で納得ができるだろうか。

 思春期には、そんなことを考えたりしない。ちょうどその時期が与えられた時期だという意識があるからだ。与えられた時期は、どう使おうが本人の自由、これが克之の発想だった。

 だが、その発想でいる限り、自由というのが果てしない発想に繋がってしまい、整理することができない。

「実は自由にしていいということほど、難しいことはない」

 この言葉は、小学生の時に先生から聞いたものだ。

「夏休みの自由研究」

 この場合の「自由」というのはまさしくその通りだ。

 最初から、どういうことを研究材料にしようかということを考えていれば、至極発想は狭まってくる。焦点が絞れてくるし、狂ったりはしないだろう。

 しかし、最初から漠然としていたり、漠然としたものすらなかったりすれば、もし研究材料のようなものが見つかったとしても、どう整理していいか分からない。

「まずは、情報収集から始めよう」

 と、思っても、集めるものは闇雲であって、頭尾一貫しているわけではない。材料ばかりたくさんあっても、それがどのカテゴリーに帰属するかが分かっていないと、宝の持ち腐れである。

 克之は、子供の頃から整理整頓が苦手だった。それは、情報収集に関連性がなく、取捨選択がうまくいかない。しかも、何かを捨てる時も、

「これは後から使うかも知れない」

 というわずかな可能性を心配し、どうしても捨てることができない。頭の中はまるでピカソの絵のようだ。それでも、全体を見渡して何かの形を示していれば、まだ救いなのだろうが、どこから見ても一つとして同じものに見えないという中途半端なものに出来上がってしまっていた。

「僕は自由を穿き違えている」

 と、最近になって気が付くようになった。ちょうどそれが一年くらい前のことで、「七夕男」と出会った頃も、

――自分でも理由が分からないが、何か自分に対してむしゃくしゃする――

 と感じていた。

 その後「七夕男」に出会ってしまったことで、環境がガラッと変わってしまい、むしゃくしゃした気持ちを忘れがちになっていた。

「高嶺の花」だった女の子、その子とは、まるで腐れ縁のように幼稚園から高校卒業するまで、ずっと一緒だった。確かに中学の時に、彼女に大きな変化を感じたが、それでも慣れてくると、元が変わっているわけではないので、違和感なく一緒にいることができた。「高嶺の花」だと思い込み、自分などは、足元にも及ばないと思っていたのは、やはり思春期の迷いがそうさせたのかも知れない。

 高校を卒業すると、彼女は地元の企業に就職し、克之は大学に進学した。お互いに道を違えたのだ。それでも運命のいたずらというのは面白いもので、大学を卒業し就職した会社は、彼女のいる会社だった。

 最初は誰だか分からなかった。克之が大学に行っている間の四年間、すっかり彼女は社会人の顔となっていたからだ。

 ただ、彼女に対して、今まで感じたことのない違和感を、その時初めて感じた。それは社会人の顔になっていた彼女だが、その時々でまったく違う顔ができるようになっていたことだ。

 表情の違いというだけではなく、相手やシチュエーションの違いによっても違う顔になっている。克之の前に出ても、仕事をしている時と、プライベートで顔が違うというのであれば、違和感はない。しかし、それだけでなく、仕事中であっても、

――今とさっきとでは顔が違って見える――

 と、感じさせられるほどだった。

 きっとそれは女性特有なのかも知れない。男の人の場合は、緊張していても、余裕のある顔でも、商談で勝負時であっても、表情に違いこそ感じることはあっても、顔が違って見えるなどという感覚はない。

――異性だと思うからかな?

 と思ったところで、

――いや、それだけではないのかも知れない――

 と感じた。

 ただの異性ということであれば、大学時代までにも同じ感覚があってしかるべきだが、何か大切な感情がなければ、顔が変わって見えるところまで意識できるはずはないと思った。

――もう、恋愛感情しかないではないか――

 と克之は感じた。

 恋愛感情を今までに感じたことがなかったわけではないが、そのほとんどは、

――僕の相手になってくれるような相手ではない――

 と、早々に諦めることになる相手ばかりだった。

 望みが高いわけではない。むしろ、ハードルとしては低めだと思っている。意識して低めに設定しているわけではないが、普段から、

――自分の相手になってくれる女性はよほどしっかりした女性ではないと務まらない――

 と思っていた。

 今はまだ、自分の気持ちを伝えているわけではないが、ゆっくり温めていこうと思っているのが本音だった。それに彼女のことを考えている間、「七夕男」のことを頭の中から消すことができた。昔の新鮮な気持ちに戻ることができたのだ。

 ただ、彼女のことを少しでも頭から離すと、すかさず「七夕男」が侵入してくる。「七夕男」のことは忘れてはいけないと思いながらも、途中で女性のことを考えて新鮮な気持ちになった後に、「七夕男」のことが再度気持ちの中に戻ってくると、何とも言えないやるせない気持ちになるのだ。

 不安が頭を過ぎる。

 それは、「七夕男」のことだけを考えている時は感じなかった「恐ろしさ」がよみがえってくるのだ。

 よみがえってくるという感覚が、それまで感じなかったと思っていた恐怖心が、実は心の中に封印されて、その残り火が燻っていたような感覚だといえばいいのか、燻っていたものを再燃させないようにしなければいけないと思っていた端から、女性に対する新鮮な気持ちと切り離された時の精神状態が、自分では制御できないところまで来ていることを感じた時には、

「時すでに遅し」

 だったのだ。

 恐ろしさを払拭するまで、かなりの時間が掛かった。彼女のことを考えていた時期の倍かかることになったのだが、それは恐怖を払拭させる前に、女性への気持ちを一度リセットする必要があった。それに相手に対して考えていた時期と同じ期間を要することになり、

そして恐怖を払拭するのに、また同じだけの時間を必要とした。それを思うと、

――意外と一年というのは、いろいろなことがあるようでも、過ぎてしまえばあっという間だったという気持ちになることだってあるんだ――

 と感じたのだ。

 逆を感じることだってある。その時々によって考えは変わってくる。試行錯誤を繰り返しながらでも時というのは正確に刻んでいく。そのことに一切の違和感はない。感じてはいけない違和感なのだ。

 ちょうどそんな時、克之を見つめる女性の視線を感じた。それは、恐怖が襲ってくる中で、ホッとした気分になれるそんな感情だった。懐かしさの中にホッとした感覚まであるのだから、気にならないわけではない。その正体を確かめようと、まわりを気にしてみたが、プッツリと気配がなくなった。

――気のせいだろうか?

 とも思ったが、一度や二度のことではない。視線を感じた時は衝動的にその正体を確かめようとするのがいけないのかとも思ったが、一度も確認できないというのは、やはりおかしなことだった。

――気配というのは、意識した瞬間に消えるものだろうか?

 気になっても、確認のしようもなく、聞く相手もいない。意識しないようにすればいいのかとも思ったが、一度気になってしまったものを気にしないようにするなど難しい。

――どこかに共通点があるだろうか?

 と思ったが、視線を感じた時にふと我に返ってまわりを見ると、ほとんど誰もいないことの方が多い。人ごみの中を歩いていたはずなのに、視線に気が付いて我に返ると、まわりには誰もいない。違う世界に入りこんだわけではなく、目的地に向かっていく途中であることは間違いない。

 人がほとんどいないと、やはり背景が暗く感じられる。知っている場所であるにも関わらず、一瞬知らない世界に入りこんでしまった気分にさせられた。

 この感覚は「七夕男」を最初に見た時に感じたことだった。それも、あの男が消滅して、再度五分後に現れる前の、本当の第一印象である。

 克之は、自分を意識する視線が誰なのか、何度も確認できないのをおかしいと思いながらも、

――まあ、いいか――

 と、簡単に確認することを諦めた。

 ただこの時、将来において、もう一度同じように簡単に諦めてしまう感覚を味わうことを予感した。それも近い将来にである。

 それがいつのことになるのかということを想像するに、今は一つのことしか考えられない。

 そう、「七夕男」に関わることしか考えられないではないか。あの男が現れて、克之に何を言おうとも、自分には関係のないことである。

 克之はあの男が、

「住む世界が違う」

 ということは分かっていた。

 住む世界が違うということが、同じ世界であるとすれば、後は時間や時代が違うだけだとしか思えなかった。世界が違うとすれば「次元」が違うことである。

 ただ、次元が違っていたとしても、それが本当に世界が違うものなのかと考えた時、どこかに二つを結ぶ扉があって、カギを回せば入り込めるとすれば、繋がってしまった世界は、もはや「違う世界」ではないのではないだろうか。

 どこまでを違う世界として考えるかであるが、たとえば鏡の向こうにも世界が広がっているとすれば、それは違う世界だと言えるかどうか、こちらから見て同じ行動を取る鏡、あくまでも主導権はこちらにあって、こちらの意志で(左右対称ではあるが)まったく同じ、行動を取っている。ただ、それも本当にこちら主導なのかと言われると、

――そう思わされているだけなのかも知れない――

 と思えなくもない。

 しかし、それを考え始めると、キリがないことに気付く。たとえば、鏡は左右対称ではあるが、上下対称になることはない。当たり前のように左右対称を自然に受け止めているが、上下対称ではないことに疑問を感じる人がどれだけいるだろうか? そもそも鏡の中に世界があるなど、誰も考えないだろう。元々、普段からボーっとしているように見えて、そんな時はいつも何か超自然現象について考えていることが多かった克之だが、鏡の上下対称の考えまでは及ばなかった。そこまで考えるようになったのは、「七夕男」と一年前に出会ってからのことだった。

――今までの自分の発想が中途半端だったのかも知れないな――

 と、「七夕男」の存在に半信半疑の自分を顧みた。

 もし、「七夕男」の存在に半信半疑でなければ、一年後にもう一度目の前に現れると言ったあの男の言葉が信じられなかったに違いない。存在を全面的に信じていたのなら、あの男が、自分になど構うはずはないと思ったからである。

 克之が女性の視線を意識し始めて、「七夕男」との再会を数日後に控えていたある日、まるでその前哨戦のような出来事に遭遇した。それは、まるでデジャブであり、「七夕男」と出会ったあの日の最初に不思議に感じたことが、再度目の前で繰り広げられた。

 一年前のあの日は「七夕男」の存在が大きくて、克之はそれ以前に見た「追いかけられていたもう一人の男」の存在を忘れていた。

 忘れていたわけではなく、記憶に封印されていただけのことなのだが、思い出すことのない記憶だったような気がする。

――以前にも見たような光景――

 と思いながらも、逃げている男の顔を見てもピンと来なかった。しかし、後ろからサングラスに黒ずくめの男たちが走ってくるのを見て、

――あの時の――

 と思い出したのだ。

 同じ場所ではなかったので、柳の木があったわけではないが、そこには街路樹が植わっていた。今回は追いかけられている男が消えてしまったりすることはなかったが、目で追っているうちに、自分が今いつのどこにいるのか、分からなくなった感覚だった。急にまわりが暗くなり、人も他には誰もいなくなっていた。

――僕を意識している女性を確かめようとした時のようだ――

 こちらも感覚的なデジャブである。だが、こちらの感覚の方がつい最近であるにも関わらず、幼い頃の思い出に近いものがあった。

――ということは、最近感じる女性の視線を感じた時に、子供の頃の懐かしさを感じたのだが、同じ感覚のように思うが、見方によってはまったく違ったものなのかも知れないな――

 と、感じるようになっていた。


「七夕男」との再会より数日が経ってから、克之は自分を見つめる女性の正体を知ることになった。

「七夕男」との再会の翌日から、克之はまるで魂が抜けたようになっていた。あまりにも男の話が突飛であったこともその原因だが、自分がその時に話を理解していたのかどうかも分からないまま、日が経つにつれて、「七夕男」の話はおろか、その存在まで次第に薄れてきているように感じたからだ。

――本当のことだったのだろうか?

 あの男の存在自体が、都市伝説の類に感じられた。

 都市伝説というのは、迷信のようなものであるが、信じる人はどこまでも信じている。克之はそこまで信仰深いわけではない。ほとぼりが冷めると忘れていくものだ。しかも、それが恐ろしい話で、あまり自分に対して密接な問題でなければ、忘れてしまった方がいいと感じるのも人の性というべきであろう。克之は目の前の現実から突飛な話は切り離してしまわなければ、自分が先に進めないことを感じていた。

 会社に戻って仕事をしていると、集中している時に限って、「七夕男」のことを思い出す。

――今度は、いつ僕の前に現れるのだろう?

 また会うという確約はなかった。なかったのは当然のことで、「七夕男」は、何の前兆もなく、克之の目の前から姿を消したのだ。

 消えてなくなったという方が正解かも知れない。徐々に薄くなっていき、身体が透明になっていく姿を、テレビの特撮などでは見たことがあったが、若干雰囲気が違っていた。消えていく瞬間には、白い粉のようなものが身体から剥がれていくのを感じていた。

 男は、最後まで表情を変えない。無表情であるだけに、男が消えていくことに克之は感情を込めることができなかった。それとも、また必ず自分の前に現れる予感めいたものがあることから、消えてなくなることへの未練はなかった。

「こんな不可解な男が消えてなくなったりするものか」

 と、心の中で呟いた。

「七夕男」は話の途中で消え始めた。本人には消えていくことの自覚がなかったのか、次第に声が消えていくのを感じた。まったく消えてなくなってから、この状況をまったく把握できないことで、どうしていいのか分からなかったが、考えてみれば、「七夕男」が、本当に自分の目の前に存在していたのかということへの疑問に変わってくる。

 克之はその時、

――あの男は幻影だったのかも知れない――

 と感じた。

 幻影と言っても、幻ではなく、蜃気楼のように、本体が別にあり、映像だけが映写機のようなもので映し出されていたのではないかと感じた。

 見えない映写機に映し出された相手だったのかも知れないと思うと、影を確認しておけばよかったと感じた。もし影がなければ、本当に幻影だったと言えるかも知れないからである。

 もちろん、話は途中だったし、もっと聞きたいこともあったのだが、消えてしまったものは仕方がない。今度また現れるのを待つばかりだった。

 それからしばらくして克之に一人の女性が話しかけてきた。最初は初対面かと思ったが、以前にどこかで会ったことがあるような気が次第にしてくるから不思議だった。

「新田克之さんですよね?」

「ええ、そうですが。私に何かご用ですが?」

 相手がいくら女性だとしても、いきなり人の名前を聞くのは失礼ではないか。そう思うと、

――この人は一体何者なのだ――

 と、上から目線に少し苛立ちを覚えたのだった。

「用というわけではないんですが、最近、あなたのことを話に聞いたものですから」

「話に聞いたというのは、誰から何ですか?」

「私の弟が、以前不思議なことを言っていたんですが、弟は殺されかけたことがあったらしいんですよ」

「穏やかではないですね」

「ええ、その時、普通ならまわりのことが目に見えないほど、視界が狭まっていたはずなんですよ。その時に、あなたのことが目に入ったと言っていました」

「弟さんは私のことを知っていたということですか?」

「ええ」

「それよりも、殺されかけたというのは、どういうことなんでしょう? 殺されかけたのにお姉さんはその時の話を聞いているということは、その時に弟さんは助かったということですよね?」

「ええ、そうです。どうして弟が殺されかけたのか、理由は話してくれませんでしたが、どうやら、弟も理由に関しては分からないようでした。私にそのことを話さなかったのは、きっとあまりにも突然だったので、頭が混乱していたような感じだったのか、確証がなければ、滅多なことは言わない子だからですね。助かったことに関しては、これも不思議な話なんだけど、弟がいうには、『姉ちゃん、俺いきなり消えて、気が付けば、時間を飛び越して、元の場所に戻ってたんだよ』なんていうんですよ。おかしなことを言うでしょう?」

 克之は驚愕した。それは、一年前に「七夕男」そして、彼の前に見たもう一人の男のことを思い出させるに十分なインパクトだった。

――もう一人の男のことなのかな? それとも、この二人以外にも同じような人がいるのだろうか?

 その時に思い出したのが、この間の「七夕男」の話の中で、パラレルワールドのたくさんある中の一つの世界にいるもう一人の自分を殺そうという都市伝説があったというではないか。どこまで信じていいのか分からなかったが、彼女の話を聞く限りでは、これで話が繋がった。

 お姉さんの話は突飛だったが、「七夕男」との話がワンクッションあったことで、話が繋がったのも自然だったのかも知れない。

 彼女が、「七夕男」とどこかで繋がっているのではないかという疑念も捨てきれない。話を聞いていて、彼女の後ろに「七夕男」の影を感じないわけにはいかなかった。

 ただ、それは「影」であって、「存在」ではない。影とは、必ず光を伴ったものであり、「七夕男」は一人で存在することはできるが、彼女は、「七夕男」からの何かの恩恵がなければ存在できないような雰囲気だ。やはり、弟が「七夕男」と何らかの関係があると思えることが、克之の発想をそちらの方に導いているに違いない。

「弟さんがどうして殺されかけたのか、お姉さんはその理由をご存じなんですか?」

「いいえ、私には分かりません。多分、弟の話を聞いていて、本人にも分かっていないと思います」

「じゃあ、お姉さんは、弟さんの話をどこまで信じられますか?」

「正直、まったく信じていませんでした。さっきまでは……」

「さっきまで?」

「ええ、弟の話をほとんど信じられないとすれば、あなたの存在も疑わしい。あなたが存在しないのだとすれば、あの話は弟の妄想でしかないとして片づけられるんですが、あなたが存在しているということが分かると、弟の話をまったく無視もできなくなってしまったんです」

 どうやら、消去法の中から答えを見つけ出そうとしているようだ。一つずつ潰していって最後に何も残らなければ、それは妄想でしかない。しかし、彼女の消去法は少なくとも、克之の存在がウソではなかった時点で崩壊してしまった。もちろん、偶然克之のことを知っていただけなのかも知れないが、ただの偶然だけで、克之の存在を否定できない。それはその場を見ていた克之が一番よく分かっている。

「新田さんは、弟の話を信じられると思いますか?」

「私は正直信じられます。その時にいたのが、本当に弟さんだったのかは分かりませんが、弟さんの話と同じような光景をこの目で見ました。これは疑いようのない事実なので、僕も少し戸惑っているというのが心境でしょうか?」

「そうなんですね。今の話を聞いて、私は少し複雑です。弟がウソを言っていたわけではないことにホッとはしましたが、すぐには信じられないような話をどうやって自分の中で消化していけばいいのか考えていると、なかなか先に進めません」

 克之は、「七夕男」に関わる話は一切せずに、それ以外の話を見たままに話した。それだけでも彼女はかなりの驚きの中にいる。

「でも、不思議ですね」

「何がですか?」

「新田さんのお話を伺っていると、弟の話がウソではなかったというよりも、そのことを新田さんの口からお聞きすることができたのが、私にはよかった気がするからです」

「僕は正直にお話しただけですよ」

 というと、少し顔を上気させた彼女が、上目使いにこちらを見て、

「はい、新田さんはそれでいいんですよ」

 と答えてくれた。

「実は、このお話を聞いて新田さんを探すのを戸惑っていたんです。あまりにもウソっぽいじゃないですか。新田さんという人物はいないということを自分の中で納得させることで、弟がどうしてそんなウソをついたのか。そして、どうしてそんな大それたウソを思いつくことができたのかを考えようと思ったんです。だって、弟にはそんなウソをつかなければいけない理由も、ウソをつくことでのメリットなど何もないからですね。それでも、ウソだということが分かれば。妄想として浮かんだ弟の精神状態に対し、どのように対応していけばいいか、それを考えることに徹すればいいんですよね。病院に連れていくこともできますし、一方からだけ見ていればいいので、難しいことではないと思っていたんです」

「お姉さんは、結構頭の中がテンパっていたんですね」

「そうですね。何事も悩みにしてもそうですが、結構私は一つのことに集中すると、突き詰める方なので、弟のことに関しても、私としては必死でした」

 この二人の姉弟の名前は、姉を、篠原マリ、弟を、篠原誠という。

 マリの話では、マリは現在二十八歳、弟の誠は二十歳だという。マリが小さい頃、両親が離婚し、母親が一年もしないうちに新しい父親を連れてきたのだが、その時に、誠が一緒だったのだという。要するに、父親の連れ子だったのだ。

「それじゃあ、血の繋がりはないんですね?」

「ええ、でも、ずっと一緒にいたので、血の繋がりがなくとも、私は本当の弟のように思っています」

「今、弟さんはどうですか? 落ち着いているんですか?」

 と聞くと、マリの表情が少し暗くなった。

「実は、弟は最近いなくなったんです」

 この言葉には、さすがに克之も驚いた。マリが弟の話を信じるか信じないか以前の問題として、弟を探さなければいけない立場になってしまったことで、克之の元を訪ねなければいけなくなったのは必然のことのようだ。

 しかし、いきなりいなくなったことを告げてしまっては、克之の口から、本音が聞けないと思ったのか、マリはいなくなったことを自分から言い出そうとは思わなかったのだろう。

「いなくなったというのは、いきなり何も言わずにどこかに行ってしまったということですか?」

「そうです」

「心当たりは?」

「もちろん、分かっている範囲はすべて探しました。弟が急にいなくなるなんて今までになかったことなので、ビックリしています。気になったことと言えば、以前に殺され掛かったということを口にしていたことだったんです。そこで、ひょっとすると、新田さんなら、何かご存じではないかと思ってお尋ねしました。最初から弟がいなくなったことを告げるのを控えていたのは、新田さんが実際に弟を見たのだとすれば、その時の様子を、贔屓目なしに教えていただけるかと思ったからです」

「マリさんが、弟の話を聞いて、私を探すのを戸惑ったと言われましたが、それは弟さんがいなくなる前の話で、いなくなったことに対してマリさんは、自分が弟さんの話を信じなかったことにあるのか、それとも、もっと切羽詰っていて、弟さんを以前殺そうとしていた連中が、また現れたのではないかということのどちらかなのではないかと思われたのではないですか?」

「その通りです。でも、今は弟を殺そうとしていた連中が現れたという感覚は薄れています。弟の話を聞いたのは一年以上も前のことでしたし、その話を聞いた時、弟は確かに少しおかしかったのだけど、その時のおかしかった雰囲気も、それから一度も感じることはありませんでした」

「ということは、弟さんがいなくなったというのは、本当に青天の霹靂のような感じだったということでしょうか?」

「そうですね。まさかいなくなるなど想像もしていませんでしたし、いなくなって最初の二日くらいは、お友達のところにでも行っているだけじゃないかって思っていたんですよ」

「今まで友達のところに行っていて、帰ってこないこともありましたか?」

「ええ、もう大学生ですし、それをあれこれ説教するつもりもありません。その時にお互いにどうしても遠慮してしまうんでしょうね。弟も時々私に話しにくいこともあったようで、友達のところに泊まってくることも少し増えてきました」

「それは血が繋がっていないことでの遠慮になるんでしょうか?」

「私はずっとそうだと思っていたんですが、最近は少し違って感じるんですよ。どうも、弟は私のことを『女』として見ているんじゃないかって思うことがあって、私自身も戸惑っています」

 お互いに血の繋がりのないことを、今まで意識していないつもりでも意識せざるおえなかった環境の中で、弟の心境が成長するに当たって、少し変わってきたとすれば、同じ男として分からなくもない。特に年齢が離れているのだから、弟の気持ちを分かる部分もあれば、理解しがたいところもある。

「弟さんは、マリさんのことをずっと血の繋がりがなかったということをご存じだったんですか?」

「いえ、そうではなかったです。弟が私を本当の姉ではないと知ったのは、弟が中学に入ってからですね。義父が話したようです」

「中学に入学する頃というと、思春期に入る頃ですよね、お父さんとすれば、そろそろ状況を理解できる年齢だと思ったのかも知れないけど、複雑な精神状態、つまり不安定な精神状態であることに気付いていなかったんでしょうかね」

「そうかも知れません。弟はそれでもそれまでと変わりなく私を慕ってくれましたが、私も大学生だったので、弟以外にもまわりが気になる年齢だったので、本当に弟のことを考えていたのかどうか、自分でも分かっていないところでした」

 一度、呼吸を切って、マリは続けた。

「ただ、そういえば私も大学時代に、何か夜道で私のことを追いかけている人を感じたことがありました。不気味な黒い影を感じたといいますか、ただそれが女性だったので、その時は気持ち悪かったんですが、二、三度見かけただけで、すぐに感じなくなりましたので、意識しなくなり、忘れてしまっていました。その時のことを、弟の話を聞いた時、一瞬だけ頭を過ぎった気がしたのですが、一瞬だったのですぐに忘れてしまったようでした」

「その時のことをすぐには思い出さなかったんですか?」

「思い出しませんでした。弟の話を聞くのに集中していましたし、聞いていると、不思議なことが多かったりしたので、なかなか話が繋がりませんでした。そういえば、弟の話で、本人は一生懸命に逃げているのに、思ったよりも先に進んでいないことに途中で気付いたと言っていました。四歩進んだはずなのに、三歩しか進んでいないって、進んでいても、気が付けば後戻りしているような気がすると言っていました」

 克之は、その話を聞いて、七夕男と遭った時のことを思い出した。

――誠という男は、七夕男と何か関係があるのだろうか?

 それとも、ただの偶然なのだろうかと思ったが、偶然で片づけてしまうには、あまりにも自分の感じた感覚がリアルだったのを思い出した。もし、あの場に誠がいたのであれば、あの時間のあの場所全体が、不思議な世界の空気に包まれてしまっていたのかも知れない。

 それにしても、誠はどこに行ってしまったというのだろう?

 彼が言うように、殺されそうになったのが事実で、一年前に見た七夕男ともう一人、黒づくめの男たちに追われていたあの男が誠だったとするならば、実際にその現場を目の当たりにした克之にとって、最悪の考えが頭を過ぎる。

 いくらなんでも、最悪の考えを姉に話すわけにはいかず、とりあえず、姉から得られるだけの情報を得たいと思った。得たとして、誠がどこに行ってしまったのか、想像もつくはずもないのだが、このままでは克之自身、納得がいかない。

 七夕男が消滅してしまったのも気になるところだ。あの男がいたという世界は、どんな世界だというのだろう。話だけを聞いていると、想像を絶するものだった。

 克之は、最近読んだ本を思い出していた。

 その本は、七夕男を彷彿させる人物が出てくるSF小説だった。七夕男のように時空を超える男が登場するのだが、彼はサイボーグで、彼がいうには、

「普通の人間では、タイムスリップには耐えられない」

 という話だった。

 実際に存在する人間とそっくりなサイボーグを作り出し、それを時空の旅へと送り出す。さらに化学が発達すれば、サイボーグではなく、クローン人間がその役を引き受ける。

 ただ、クローン人間の生成に関しては、法律で禁止されているようで、罪を犯してまでクローン人間を時空の旅へを送り出す人もいるにはいた。そのほとんどが科学者で、人の感情というよりも、自分の研究成果の達成が最優先。タイムトラベルは、人間の感情の左右によらない一種の実験のためのルートになってしまった。そのせいもあってか、時空の歪みが現れてくるというような話だったのだ。

 そして、そのうちに一人の科学者が生身の人間でタイムスリップの実験を考えた。他の人を犠牲にするわけにはいかないので、実験台は、科学者本人だ。実験の日が決まってから実際に実行されるまでの科学者の心情も、小説の大きなテーマになっていた。

「考えてみれば恐ろしい話だ」

 その時の男の顔を確認できなかったのは残念だった。

 克之は、目の前にいるマリを見て、

――この女性も、その時々でまったく違った顔になるんだろな――

 と感じた。

 そう思うと、今日初対面のはずのマリに、

――初めて会ったような気がしない――

 という思いを感じた。

――時々、僕に向けられる女性の視線――

 ふと思い出したその視線がマリだったのではないかと思ったが、今目の前にいるマリを見ていて、感じた視線の強さというものが、今のマリから発散されるエネルギーからは、とても想像できるものではなかった。

 見つめられた視線は、相手を確認できないにも関わらず、女であることを感じさせた。それほど鋭い視線だったのに、マリにはそこまでの視線は感じられない。むしろ、その視線には弱弱しさが感じられ、何かに怯えているようであった。

――何に怯えているのだろう?

 誠を探していると、今まで想像もしていなかったことにぶつかったのかも知れない。そう思うと、

――マリは、まだ肝心なことを僕に隠しているのではないだろうか?

 と感じた。

 それは確証がないことなので、口にできないのか、口にしてしまったら、まずいことが起こると思ってのことなのか、どちらにしても、マリの怯えは、隠しているであろうことと何か関係があるのかも知れない。

 克之は、以前から、まわりの人が自分に対しての隠し事には敏感な方だった。どのような隠し事なのか分からなくても、隠し事をしているという事実を感じることができただけでも、相手に対して見方が変わってきて、優位性を感じることもあるほどだ。時には相手が隠そうとするのであれば、敢えてそれを詮索することはせず、

――僕に隠し事をしてもダメさ――

 と感じることで、相手に対して優位性を確立させようと考えていた。

 ただ、マリがまだ何かを隠しているとして、それがどのように怯えに繋がっていくか、気になるところである。

 マリが隠していることがあるという意識が、克之も一年前の続きとして、七夕男がしていた話をマリに話せないと思っていた。確証としてはごく少ないものなので、迂闊に話せないというのは当然のことなのだが、マリが隠していることの真髄に触れてしまったら、そこから先、マリは自分に心を開いてはくれないだろうという思いがあった。

――ひょっとして、マリは誠の行方について、心当たりがあるのではいだろうか?

 ただ、確証がないだけで、何となく気になる場所がある。今は疑念でしかないが、それが確証に変わるには、確証を与えてくれる他の人の証言が必要だ。その証言を与えてくれる相手に克之が選ばれた。そう思うと、それこそ克之も迂闊なことを口走ることができなくなってしまったような気がした。

 克之の頭の中で、七夕男が消滅した時のことが記憶として過ぎった。

――幻だったのだろうか?

 七夕男という男の存在自体が幻で、自分の心の中にある何かが、作り出した幻影ではないだろうか。

 七夕男が消えていく瞬間を見た時、

――これは人間ではない――

 と感じた。

 以前に読んだ本、つまり、

「普通の人間では、タイムスリップには耐えられない」

 という言葉を思い出したが、七夕男は、本当にサイボーグだったのだろうか?

 そこまで考えてくると、違う発想も生まれてきた。

 七夕男は、生身の人間であり、綺麗に消滅したのも、人間だからこそのことではないかと考えた。

 では、なぜあのように消えなければならなかったかということだが、

――消滅するには、それなりに理由がある――

 という考え方である。

 七夕男は、別世界から来たパラレルワールドの人間であるということであったが、時空を超えたのだとすれば、タイムスリップの時に言われるような「パラドックス」が存在するのかも知れない。そこにはいくつもの、「破ってはいけない約束事」が存在し、それが自然の摂理のように当たり前に存在しているとすれば、

――七夕男は、破ってはいけない約束事のどれかに接触してしまったのではないか――

 と考えられる。

 タブーを犯してしまうと、パラドックスがこの世界にどのような歪みをもたらすか想像もできない。それを引き戻そうとして、さらに別の歪みが生じる。歪みを生じさせた元凶である者を処罰するのは、当然のこと。消滅してしまったのは、元凶を葬ろうとした自然現象によるものだったのではないか。元凶を葬ったところで、歪みが戻るとは限らないが、目の当たりにした現象をいかに説明するかということになれば、それ以外に説明のしようがないではないか。

 マリの弟の誠も、誰かに追いかけられていた。まるで殺そうとしているかのような形相の男たちに追いかけられ、マリに話したという、

「俺殺されそうになったんだ」

 という話も、なまじ大げさなものでもないと思う。

 マリは誠を探している。どこに行ったか分からないと言っているが、ひょっとすると、誠がどこにいるのか想像が付いているのかも知れない。

 厳密に言えば、

「どこにいるか」

 ではなく、

「どうなってしまったか」

 ということであろう。

 克之の想像が正しければ、

――マリは、誠は誰かに殺されていて、もうこの世にはいない――

 と考えているのではないかと思えていた。

 克之の考えは、半分マリの考えに似ていた。

 半分というのは、

「誠がこの世にはいない」

 というところである。

 残りの半分は、

「殺されている」

 ということだが、殺されているという発想には、克之は意義を唱えたいと思っている。

 誠は、確かにこの世にはいないが、別の世界で生きているのではないかという発想である。その別世界とは他ならぬ七夕男のいうところの、パラレルワールドで、そこに時空を飛び越えるという発想が生まれるべきなのかは、難しいところだった。

 一年前に殺されるかの勢いで追いかけてくる連中を、一度消えて五分後に現れるという芸当を見せたことで、そう簡単に葬り去られることはないのではないかと思うからだ。ただ追いかけている連中にも同じような力が備わっていれば別だが、どうもそこまでの力はないようだ。誠は自分の力をフルに使って、うまく殺されずに立ち回っているのではないかと思えてならない。

 ただ、気になるのは、姉のマリに対して、自分が殺されかけたことを口にしたことだった。もし、それが口にしてはいけないタブーに接触していたら、自然の力で誠も、抹殺されてしまうかも知れないと思うのは、突飛な発想であろうか。七夕男の出現から、少々の不思議な話には慣れてきている。突飛な発想も十分にありではないかと思うようになっていた。

 誠に関して、殺されているという発想は、克之の中では半信半疑だった。どちらとも言えないと思っているところにマリはどうやら、自分の中で、一つの仮説が生まれているようだ。

――マリの心の中を覗いてみたい――

 という発想を克之は抱いていた。

――きっと藁をも掴む気持ちだったのだろう。本心は生きていると思っているんだ――

 克之の想像にしか過ぎないが、マリの中で、誠には「強い味方」がついていてくれるという感覚があるのではないだろうか。克之と話をしている時、思ったよりも冷静になっているのを感じたので、しっかりしている女性だと思ったが、急に上の空になっている時があった。

 それも、何かに気付いて上の空になっている様子でもなさそうで、気が付けばボーっとしているのだ。まさに心ここにあらずと言ったところで、ボーっとしていながらも、見ている方向に対しては、しっかりとした意識を持っているに違いない。

 マリは、そんな話を表に出そうとしない。あくまでも弟がいなくなって、探している姉を冷静に演じているだけだ。

 だが、何かの根拠がなければ、いくら信じているとはいえ、どこまで気持ちを持続できるかが問題である。マリが克之を訪れたのは、ひょっとして、そのことを確かめようと思ったからなのかも知れない。マリ自身も自分の中で、時々精神状態が変わっていくのに気付いていたことだろう。

 最初、克之が誠の強い味方だと思っているのではないかと思った。マリの様子がおかしいことに気付く前から、マリは克之と誠が面識を持っているのではないかと思っているふしを感じていた。

 もちろん、いきなりその話をマリにぶつけるわけにはいかない。マリとしては、初対面の相手に対して自分が抱いている思いを悟られないようにしようとしていると思っているからだ。

 ただ、マリの精神状態は「一枚岩」ではないようだ。心の一方で、

「強い味方に守られて生きているんだ」

 という思いと、

「やはり、今まで連絡らしい連絡もないことから、すでに殺されているんだわ」

 という思いとが、頭の中で交錯しているようだ。

 マリの中には、誠に対して、姉であるだけではなく、母親のような感覚が芽生えているのかも知れない。マリと誠は血の繋がらない兄弟だ。血が繋がっていれば、兄弟として納得し、それ以外の関係を想像することもないだろう。血が繋がっていないという思いが、マリの中で遠慮に繋がってしまい、自分を誠から一定の距離に保とうとする気持ちが芽生えたに違いない。

「弟の夢を、弟がいなくなってから、ずっと見ていたんですけど、最近になって急に見なくなったんです」

「どうしてですか?」

「最近まで弟の顔が、起きている時でもハッキリと頭に浮かんできたんですが、ある日を境に急に浮かんでこなくなったんです。あれだけクッキリと浮かんでいた顔が、まったく浮かんでくることがなくなったのが気になってきました」

「マリさんは、それを弟さんが死んでしまったからではないかと思うようになったんですね?」

「そうです」

「でも、生きている可能性を考えているから、僕を訪ねてきた?」

「その気持ちもあります。私は今の中途半端な気持ちが嫌なんです。何かの結論を得ないと、私が私ではなくなってしまいそうな気がしているんです」

 マリの中にある中途半端な気持ちは、生活に大きな影響を与えていることだろう。今まではマリの努力もあったのだろうが、さほどまわりから精神的に大きな影響を受けることがなかったのかも知れない。そういう意味ではしっかりとした女性である。

 しっかりとしているだけに、一度リズムを崩すと、どうしていいのか分からなくなる。それがマリという女性なのかも知れない。中途半端な気持ちを払拭したいという思いは分かるが、中途半端という言葉を聞いた時点で、マリの考えが分からなくなった。

――果たしてマリは、誠が死んでいると本当に思っているのだろうか?

 もし、誠がどこかで生きているとして、生きていることを手放しに喜べないのではないかという思いもあった。いくら中途半端な気持ちでいたくないと言って、ここまで性急に弟を探し回ろうとするというのもおかしな気がしたからだ。

 マリと誠の間に何があったのかを想像していると、克之はそこに男女の関係を想像していた。二人は血が繋がっていない。姉弟だとはいえ、血が繋がっていないのだから、そこに男女の関係が芽生えたとしてもおかしくはない。克之はその可能性が高いと思い、シチュエーションを思い浮かべていた。

 誠を知っているわけではないので、本当に想像にしかならないが、マリを見ていると、そこから逆に辿って行くのがよさそうな気がした。何かを想像する時というのは、手がかりから手繰っていく場合、特に一方から見てしまうこと、さらにはそこに自分の贔屓目が存在してしまうことで、どこまで真実に近づけるか怪しいものだ。そこでも想像してしまうのは、マリの中にある本当は表に曝け出したいのだが、性格的に自分の中に押し込めてしまうところがある性格を見てしまったからだ。

――見てほしいのなら、見てあげないといけない――

 勝手な思い込みだが、それが相手のためになると思えばこそ、克之は想像を膨らませようとする。

 今のマリはしっかりしているように見えて、情緒不安定だ。克之が見ていても、

――癒してあげたい――

 という感覚に襲われる。

 今は弟の誠を探しているのを見ているので、そこまでの感情は湧いてこないが、もし、普通に知り合っていれば、好きになったかも知れない相手に思えた。

 誠は、そんなマリとずっと一緒にいたのである。ひょっとすると、もっと自分を曝け出している、いわゆる「無防備」なマリも見ているかも知れない。誠という青年は思春期の頃、どんな少年だったのだろう? 異性に抱く興味がいかほどのものだったのかを想像することは難しいが、マリに対してのイメージは想像できる。

 マリのことだから、血の繋がりがないだけに、誠の姉として、実の姉よりも、姉らしくなりたいと思っていたはずだ。

 もし、克之が誠の立場だったらどうだろう? マリから姉のように接せられたらどう感じるだろう?

 最初はまだいいとして、途中からウザく感じるに違いない。

――実の姉でもないのに、姉貴風を吹かせて――

 と、感じるはずだ。

 そうなってくると、意地でも姉として見ることができなくなってしまう。姉として見ることができなくなると、実際に血の繋がっていない姉なので、感情は「女」として見ることに繋がってくるだろう。

 ここからが、その人の性格なのだろうが、克之なら、自分の中で葛藤が渦巻いてくるはずだった。

 今まで姉として見ていた相手を、ウザいというだけの感情で、すぐに女として見ることができるだろうか? 見ることができるようになったとしても、今度は、自分の中の男としての部分が、マリとの今まで保ってきた距離に、果たして我慢することができるというのだろうか? 克之は自分に女兄弟がいないので何とも言えないが、自分の理性をいずれ抑えられなくなるのではないかと思うようになった。

――まさか?

 今、マリが語ったことが表面上の事実だとすると、誠という人間を知らないだけに、想像を膨らませることができる。

 その中で克之の頭の中でピンときたことは、それまでマリを中心に考えていたので、気付かなかったことだった。

 誠という男が殻に閉じこもりやすく、まわりを気にするタイプではないとすれば、いなくなった理由に、マリへの想いが隠されているのではないかと思った。

 マリへの女としての気持ちを抑えることができなくなりそうだと思った誠は、マリの前から姿を消すことで、自分の気持ちを整理しようと考えたのだろう。

「俺、殺されるところだったんだ」

 というような話をしたというのも、本当にそうだったのか疑わしい。

 克之も、マリの話を聞いて、あまりにも似たような記憶が頭の中にあったことで、その時の男を誠だと勝手に思いこんだのだ。誠という男をまったく知らないくせに、想像などありえるはずもない。そんな単純なことを忘れてしまっていたのは、ここ最近、いや、正確には一年前のあの日からであるが、ずっと続いているこの一年間の記憶は、明らかに普段の克之とは少し違っていた。今から思い返すと、

――本当に誠だったと言いきれるわけではない――

 と思えてきた。

 自分が誠になったつもりで途中から話を聞いていたのも事実だし、そのうちに、誠という青年は、克之とは明らかに違っているところがあるということにも気が付いてきた。しかし、どこが違うのかと言われると、ハッキリと想像できるものではない。なぜなら、誠という青年を知らないからだ。

――誠という青年は、本当に存在したのだろうか?

 そこまで想像が飛躍してしまった。マリの話をまるで信用していないような発想はしてはいけないと思いながら、自分が誠の気持ちになろうとすると、どうして越えられないものを感じた。それは結界のように力があり、さらに重たいものに感じられた。

――では、そんな結界は誰が作るんだ?

 と言われると、目の前にいるマリしかいないではないか。

 マリが、まだ何かを隠していると感じたのもそのあたりからで、

――マリを全面的に信用してはいけない――

 と思うようにもなっていた。

 マリは言ったではないか、

「中途半端では嫌だ」

 と……。

 中途半端というのはどういうことなのだろう? 確かにハッキリしないのは気持ちの悪いことだ。しかし、姉というのは、いつまでも弟の安否を気遣うものなのではないだろうか?

 親子の間では、行方不明になってしまった子供がいつ帰ってきてもいいように、部屋をそのままにしておいたり、どんなに細かいことであっても、最後まで生存を信じて疑わないものだという話を聞く。実際に克之は自分に子供がいるわけではないし、両親も健在なので、そんなことを考えたことはないが、同じような立場に追い込まれるとどうなるか、人の話になれる自信は、正直に言ってない。それでもマリの様子を見ていると、それ以前の問題ではないかと思わせる。

「生きているのか、死んでいるのかハッキリしてよ。このままでは私は落ち着かないわ」

 と、明らかに行方不明になった弟に対して怒りを覚えている。

 その証拠にマリを見ていて、焦りのようなものは感じない。それどころか、なるべく自分の気持ちを相手に悟られないようにしたいという気持ちが前面に出ている。だからこそ余計にマリの考えていることがよく分かる、

 表情を見ていると、まるで自分が被害者で、

「どうして、こんなに気を揉まなければいけないの」

 と言いたげで、誠についての話を聞いていると、どこか他人事のようだ。

 二人の生い立ちの話など、

――義理であっても、弟だろうに――

 と、感じるほどのこともあり、ひょっとすると、マリに対して露骨に嫌な表情をしたように思う。

 しかし、マリはそんなことに気付く様子もなく、淡々と話し始める。とにかく自分が落ち着きたい一心なのだろう。

 誠がいなくなって相当時間が経つというのに、今頃になっても克之を訪ねてきた時点で、まさに他人事なのだ。

 次第に誠という男が可愛そうになってきた。

――彼は姉と一緒にいる時、どんな気持ちだったのだろう?

 克之は、誠がマリを女として意識していたのではないかと思う。そのことをマリも分かっている。

 克之がそう感じたのは、マリが弟がいなくなってしばらくは弟の夢を見ていたと言ったからだ。最初はマリの方が、やはり弟の安否を気にしていたからだと思ったのだが、途中から、マリの様子がおかしいのを感じてから、夢に見るほど気にしているとは思えないと感じた。

 そこで思ったのが、心配していたから意識したわけではなく、いなくなったことが自分の中に何か後ろめたさを感じたことで、それが気になって夢に見たということだった。しかし、いくら弟を他人事だと思っていたとしても、そこまで後ろめたさを感じることもないはずだ。きっと他に何か気になることがあると思った時、今度は誠の方の気持ちを考えてみた。

 誠がもし姉のことを女として意識しているとすれば、それはもちろん、誠の一方通行の片想いということだ。しかし、それをマリがどのように対処したかである。

 マリのように中途半端が嫌で、ハッキリしてしまおうとする女性は、露骨に誠を遠ざけようとするか、あるいは姉に徹して、姉の立場を利用して、弟を自分の中で拘束してしまおうと考えるのではあるまいか。克之は、根拠のようなものはないのだが、後者ではないかと思っている。

 マリはどこか考えすぎるくらいのところがありそうだ。それが冷静に見せていることで、「大人の女」を感じさせるのだろう。

 もっとも、誠はそんなマリを好きになったのかも知れない。そう思えば、マリとしては一石二鳥である。誠を弟として自分のいいように扱える。しかも、自分に対して女を感じることはないようにもできる。

 マリのような姉に育てられた誠は、実際に見たことはないが、姉に逆らうことのできない性格になってしまっていたのだろう。そうなると、マリの手の平の上で踊らされる傀儡人形のようではないか。

 そんなことを考えていると、

――血が繋がっていないことが悲劇を生んだのだろうか?

 と考えてしまう。

 血の繋がりがないというだけでここまでにはならないのかも知れないが、可能性としては、大きなものではなかったかと思う。

――映画やドラマのような、理想論だけでは理解できないことって、この世にはたくさんあるんだ――

 と感じた。

――もし、僕が誠の立場だったら?

 つい、そんな思いに至ってしまう。

 それもマリや誠の気持ちに少しでも触れることができたり、想像できる範囲内のところまで来た時に、感じることだった。

 それはマリを自分が意識しているからだということに気が付いたからだ。最初は気付かなかったが、マリが誠に対して他人事のように思っているということを感じた時からだった。

 克之は最近、自分のことを見つめている視線を思い出した。マリの話によれば、誠から克之の話を聞いた時よりも以前から視線を感じていた。

 ということは、あの視線はマリであるはずはない。

 それなのに克之は、

――あの視線は、ずっと同じものだった――

 と、今でも信じて疑わない。

 しかし、あの視線にはマリに感じているどこか冷静で、いや冷たさまでも秘められていたのを思い出した。

――やはりマリではなかったのだろうか?

 マリに聞いてみることはできない。それだけはどうしてもできない気がした。違うと言われるのが怖いのか、それともマリだったとした時に、自分がどう対応すればいいのかが思い浮かばないからなのか。後者だとすれば、マリが誠に感じている気持ちが分かってくるような気がしたが、正直、マリの誠に対しての気持ちを知りたいとは思わない。冷え切った感情を、今の自分に耐えられるかと思うと、疑問だったからである。

 克之は、誠の気持ちを考えると、確かに姉のことを女として見てはいたが、それは一時期のことであって、今ではそんなことはないのではないかと思っている。そう思ってしまうと、マリが考えていることは思い込みであり、自意識過剰ではないかと思えてくる。

 マリのような女性に自意識過剰な人が多いのは分かる気がする。何とか気丈でいなければ弟との関係も、ひょっとすると、男女の関係に入っていたかも知れないからである。もしそうなれば、どちらかがのめりこんでしまって、気が付いた時には相手の方が抜けれなくなり、いずれは二人だけの問題だけではなく、数人を巻き込んだ愛憎絵図を描く形になりそうな予感がしたのだ。

 克之は、誠の目から見たマリを見ていたが、次第に、誠の失踪について考えるようになっていた。そのためには、一旦意識の中から、マリの存在を消さないと想像することは不可能な気がした。

「今の私が弟さんについて分かっていることはすべてお話しました。もし、何か分かりましたらご連絡しますので、それでよろしいでしょうか?」

 自分でもゾッとするほど冷静で、事務的に話ができた。

「いいですよ。それでお願いします」

 と、言ってその日は別れた。

 マリの後ろ姿を見つめていたが、マリは一切振り返ることもなく、図ったような歩幅で歩いていた。ただ、後ろ姿から伺えたのは、マリがずっと何かを考えているということである。

――一体何を考えているんだろう?

 と思ったが、マリという女性の後ろ姿を見ていると、後ろ姿の方が、正直に気持ちを表しているように見えた。

「もっとその後ろ姿を見ていたい」

 と呟いたが、その言葉は吹いてきた風に吹かれて、破壊されたように、四方八方に散っていった……。

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