浄化

森本 晃次

第1話 第一章

 その日は風の強い朝だった。

 鈍色の空は、雲を下に押し広げるように迫ってくると、風というのは、空と雲の隙間から、忍び込んでくるのはないかと思わせるような感覚に、

「どこまで広がっているのだろうか?」

 と、青天の時にはないミステリアスな部分を感じさせる。

 二月も下旬ともなると、そろそろ春が恋しくなってくる頃だが、一度それを乗り越えると、感覚がマヒしてしまい、

「春はまだまだ遠きこと」

 と、当然のことのように感じている。

 新田克之は、その日は朝から少し体調が悪く、会社には少し遅れると連絡して、病院で治療を受けて会社に向かうと連絡していた。

 本当は体調が悪くなくとも仮病を使うつもりだった。場合によっては、

「病院に行きましたが、よくならないので、今日はお休みします」

 と連絡をするつもりだった。

 さすがに最初の一年目は、仮病を使うなどおこがましくてできなかったが、二年目となると、少々のことは許される気がしていた。

「あの日もこんな日だったな」

 と克之は独りごちた。

 あれはちょうど一年前のことだった。克之がまだ新入社員一年目で、そろそろ仕事に慣れてきたかも知れないと思い始めた頃のことだった。考えてみれば、あれが初めて欠勤した日だった。体調が悪かったわけでも最初から用事があったわけでもない。しいて言えば「唐突の事故」だといってもいいだろう。だが、会社を欠勤してもいいという理由になるものではなく、仮病とまではいかないが、克之の中で、納得のいく欠勤というわけではなかたった。

 最初から空を気にしていたのは、一年前の思い出が頭の中にあったからだろう。

 ただ、一年も前のことなので、詳細に覚えているわけではない。しかも、詳細に覚えられるほど、自分で納得のいくものではなかった。ただ、何かのきっかけがあれば思い出すことではあった。もっとも覚えていないことであったとしても、どうしても気になることであることに違いない。だからこそ、仮病まで使って、その思いを確かめようとしているのではないか。

 きっかけというのは、意外と簡単に近くに存在しているもので、それを偶然という言葉だけで表現してもいいものだろうか?

 一年前のその日もそうだったように、いつも通勤している道を少し離れて歩いていた。駅に向かうには、かなり遠回りになるが、確かあの日も体調が悪く、病院にいくつもりだった。だから、遠回りにはなるが、この道を歩いていたのだ。

 その道は大通りとは少し違い、道の真ん中を川が流れている。昔から変化のほとんどないところで、料亭などの裏口に当たっているので、人通りは極端に少ない。車が通れないわけではないが、一度入り込んでしまうと、大通りと違い一方通行が多いので、本当にこのあたりに用事のある人でなければ、立ち入ることはない。

 川に面した路側には柳の木が植えられていて、一定の距離をおいて、川の側面に船着き場が設けられていた。

――いかにも、芸者さんの置屋のようだ――

 と、思うと、時代を感じさせられる。

 ここからは見えないが、船で直接店に入る客のための入り口もあるかも知れない。いわゆる「お忍び」というやつだろう。

 体調が悪く、頭がボーっとする中で、意識が朦朧としてくると、この佇まいが余計に神秘的に感じられた。身体の痺れや立ちくらみは、そのまま自分を目の前に似合う過去の世界へと誘うのではないかと思うのだった。

「あの時は、もう少し遅い時間だったな」

 その日、克之はあの場所に三十分前にはついていようと思った。早すぎるとは思っていない。待っている間の三十分というのは、その日の克之にとってはあっという間に過ぎてしまうことのように思えたのと、もう一つ目的があった。もう一つの方が大きな理由なのだが、克之がもう一つの理由を思い浮かべていると、喧騒とした雰囲気が迫ってくるのを感じた。

 前兆があったわけではない、ただ、克之が一年前のことを思い出していなければ、これから起こることを想像もできなかっただろう。そう思うと、克之はこれから目の前で繰り広げられる光景は、デジャブであることを、前もって知ることができる要因になったのだ。

 一年前のあの日、今まであまり体調を崩したことのない克之は、会社を休むこと自体に後ろめたさを感じていた。さらに、眩暈や立ちくらみのせいで、震えや寒気があることで、何か普段と違う自分を感じていた。

 川がやけに深く、覗き込んでいると、そのまま突っ込んでしまいそうなほど平衡感覚を失っていた。しかも昔の佇まいを見ていると、体調が悪くなければ癒しに感じるはずのものでも、吐き気を催してくるほどであった。

 体調が悪い時に普段と違うことに遭遇すれば、どれほど自分を追いつめてしまう光景を見てしまうかということを、身を持って知った。

 その時のことをふと思い出していると、またしても、熱っぽくなってくるのを感じた。

「ここを通る時は、熱っぽさを避けて通ることができないようだ」

 あの時と同じで、握られた手の平には、ぐっしょりと汗を掻いていた。前を向くと、そこには、あの時と同じ、柳の木が揺れているのが見えた。

「あの時と同じだ」

 柳の木の枝が、不規則に揺れた。急に風を切ったかと思うと、一瞬、柳の枝をものともせず、走り抜けていく一人の男性が見えた。

 さらにその後ろから、その男を追いかける一団があった。五、六人はいるだろうか。一人の逃げる男を、黒ずくめにサングラスといった、いかにも怪しげな男たちが、柳の木を避けながら迫っている。

 男は後ろを気にしながら走っているためか、追いかけてくる男たちと距離がどんどん縮まってくるようだった。

「まさしく、同じ光景を見ているようだ」

 前にも見た光景を見ることをデジャブということは知っていた。

「デジャブというのは、特定の人にだけ起こるものではなく、誰の身にも起こることだ」

 と聞いたことがあるが、克之も同じ意見だった。

 そう、あの時も一人の男が怪しげな男たちに追いかけられていて、万事休すの状態まで来ていたが、克之にはどうすることもできず、見ているだけしかない自分に苛立ちを覚えながら、

――何とかなってほしい――

 という願いを込めていると、不思議と追いかけられていた男はどこへともなく消えていた。追いかけている方は、男がいなくなったのを知らずに、どんどん遠ざかっていく。明らかに追いかけられている男は克之の目の前から消えた。そこまでは、一年前のあの時と同じ光景だったのだ。

 一年前に、同じように消えた男は、その時間違いなく消えたはずなのに、克之が五分間歩いている間に、何と克之の前に現れたのだ。彼の消えた場所から、克之のいる場所までを五分間で移動しようとすると、走ったとしても無理だろう。キョトンと男の顔を見つめていると、

「脅かしてごめん」

 といって、彼は含み笑いの表情を浮かべた。彼も少し戸惑っているようだ。

「この光景を見てしまえば、不思議だよね」

 と彼がいうので、克之は思わず頭を下げた。

「でも、今は君にその話をしてあげることはできないんだ。僕はこれから行かなければいけないところがあるし、さっきの男たちが、何かに気付いて戻ってくるかも知れない。一年後の今日、もう一度ここに来てくれたら、話をしよう」

 と言った。

 何となく分かっているような気がしたが、自分の考えを事実として、自ら認めるわけにはいかない。少なくとも、彼に証明してもらわない限り、承服はできないのだ。

 克之とその男がした結束が昨年の今日だったのだ。

――あの男、ちゃんと覚えているかな?

 と、感じたが、それ以前に、もっと切羽詰った問題があった。去年のあの状況を見て、

――まさか、この世にいないとかないよな――

 今も追いかけられ続けているのだろうか?

 それにしても、あの怪しげな連中は一体何なのだろう? 一人の普通の少年が、怪しげな男たちに追いかけられている。克之の想像では計り知れない感覚だ。

 それと、彼がどうして、今日という日を指定したというのだろう? 一年も経っていれば、ほとぼりが冷めているとでも思ったのだろうか。一年という月日は思っているよりも長い。克之が覚えていなければどうするつもりだったのだ。

 あの時に、話してはいけないことを言わなければいけないような状況に陥ったことで、何とかその場を逃れようとして、一年という適当な時期を口にしたかも知れない。克之にとって、その男が口にした言葉すべてが、怪しく感じられ、それでいて、言葉にすれば、一番説得力のある話し方をする男だと思った。

 ちょうど、一年が経った。そして、この一年間、克之はここに立ち寄らなかった。立ち寄る必要はなかったからだが、ここに来るのはその時の男と約束した一年後だと心に決めていたからだ。

 一年というのは、普通に生活していると長いものだが、約束に限って言えば、あっという間に過ぎてしまったかのように思える。それでも一年ぶりに来たこの場所は、確かに何も変わっていないように見えるが、本当に一年しか経っていないのかを疑問に感じさせるほど、今にも変化が起こりそうな雰囲気が感じられ、不思議だった。

 春から夏、秋を経てまた冬がやってきた。同じ日だとはいえ、少しは違っていてもよさそうなのに、まったく記憶の中にあった光景そのものだ。

――少しは変わっていてほしい――

 という願望があったのだが、拍子抜けした。それは、変わっていてもいいという曖昧な気持ちがあったからだ。

 去年の今日は、これほど風が強くはなかった。風の強さも何かの変化の前兆という意味では十分な気がした。

――あの男はどこから現れるというのだろう?

 三十分も早く来たのは、ギリギリに来て、あの男の不思議な行動を目の当りにして、戸惑うことのないように、まずは環境に慣れておこうという考えがあったからだ。あの男が克之の想像通りの行動を示してくれるかどうかが疑問だが、心の準備は怠らないようにしておこうと考えたのだ。

 あまり早く来てしまったことで克之は、

――見てはいけないものを見てしまった?

 一年前の今日と同じ光景を目にした。

 一人の男が逃げている。

 その男を五、六人のサングラスを掛けた黒ずくめの男たちが追いかけている。

 追いかけられる男は、目の前から忽然と消え、追いかける男たちは、消えたことに気付かず、さらに先を追いかける。

 五分すると、消えたはずの追いかけられていた男が現れ、やっと落ち着いて、その場に佇んでいる……。

 まるで昨年の今日と同じではないか。

 克之は、ここに来るのはこれまでで二度目だった。一度目はあの男と出会った時で、まったく同じ光景。まるでビデオテープを再生して見ているようだ。

 今度の男も、やはり五分後に同じ場所に現れた。

「これでよし、普通人間というのは、一度探したところを、もう一度探そうとは思わないものだからな」

 と独り言を言っていたが、確かにその通りだった。

 一度探して見つからなかったところは、何かを隠すには一番いい。まさか、相手も同じところにいるとは思わないからだ。

 今度の男は、一年前の男とは違い、克之に気付くことなく、その場を立ち去った。別に慌てるわけではなく、男たちが追いかけた方向とは逆、つまりは、最初に来た道を戻っていった。さらに、男は何本目かの柳の木を通りすぎたかと思うと、姿が見えなくなった。またしても、忽然と消えてしまったのだ。

 だが、今度は五分経っても、十分経っても現れる気配はない。まるでそんな男など、最初から存在しかなかったかのようであった。

 その男が消えてから、もう戻ってくるはずもないと感じた時、頭の中にその男が残るようなことはなかった。記憶から完全に消えたわけではないが、自分とは関係ない人間として意識の外に置かれたのだ。

 克之は時計を見てみた。目の前で繰り広げられた「デジャブ」に結構時間が経っているはずだったのに、よく見ると、まだ十分ほどしか経っていなかった。

「おかしいな」

 少なくとも、男が最初に消えてから五分して現れたので、そこで五分。そして、男が消えてから十分は気にしていたはずである。それなのに十分しか経っていないというのは、辻褄が合わない。

――自分の中で、十分待ってみたつもりで、実際にはもっと短かったのかも知れない――

 と思ったが、ここで十分しか経っていなかったということは、まだここから相当待たなければいけないということである。十五分が十分になった感覚は、最初の意識の中にあった三十分を意識しすぎたことが原因なのかも知れない。

 消えてしまった男同様に、一年前の男も、忽然と消えてしまったのだろう。消えるところを直接見たわけではない。下手に男を追いかけて、見てはいけないものを見てしまったということで、得体の知れない男を怒らせるようなことはしたくなかった。一歩間違えれば、命に関わることだと思ったからだ。

 一年前の男は、その時、克之を見つけた。

 克之は、その男と目が遭った時、思わず後ずさりしてしまった。その男はこちらを睨んでいたが、取って食おうというような形相ではなかった。

 シチュエーションから考えると、

「見たな。このままでは済まさぬ。生かしてはおけぬ」

 という状況に至ったとしても、不思議のない状態だった。

――見てはいけないものを見てしまった――

 という感覚は、克之にもあり、見つかってしまったことで、何をされるか、まるでまな板の鯉の状態だった。

 男は、最初からまわりを気にしていた。

「誰かに見られたら、容赦しない」

 という気持ちだったのだろうか? まわりを見渡しているところの視界に引っかかってきたのが、克之だったというわけだ。

 克之は、ヘビに睨まれたカエルのごとく、身動きが取れなくなった。しかも、その男からの距離は、視力のいい克之から見て、顔の表情が見えるギリギリのところだったにも関わらず、まるで瞬間移動してきたかのように、あっという間に、目の前に来ていたのだ。

 先ほど消えたことといい、一瞬にして目の前に現れたことといい、この男には不思議な力が備わっていることが分かった。下手に逆らうと、本当に命がない。まずは彼が何を欲しているのか、そして、何か目的があるのであれば、それを知らなければいけないと思った。

「何も、そんなに驚くことはない。といってもまあ無理なことかも知れないけどね」

 と、男は表情を変えずに話し始めた。

「あなたは、僕をどうするつもりですか?」

 順序立てて話を聞かなければいけないと思っていたのに、いきなり目の前にやってきて、無表情で、

「驚くことはない」

 などと言われたら、恐怖がじわじわと襲ってくる。自分でも震えながら汗を掻いているのが分かる。

「そんなにたくさん汗を掻いてしまっているけど、汗を掻くと気持ちいいですか?」

 この男は何をおかしなことを言うのだろう? まるで自分は汗を掻いたことがないような言い草ではないか。

「あなたは、汗を掻いたことないんですか?」

 と、驚いて聞き返すと、

「聞いているのは、こっちだ」

 と、威嚇するように答えた。確かにこの男の言うように、聞いてきたことに応えなかったのだから、相手が怒るのは仕方のないことかも知れないが、それにしても、おかしなことを聞いてきたのは、そっちの方ではないか。克之は一瞬訝しそうな表情をした。

「そんなに、俺のことが怖いか? 怖がる必要はない。俺は聞きたいことを聞いているだけだ。別に取って食ったりなんかしないから、安心すればいい」

 この男を見ていると、本当に容赦がなさそうだ。こんな男にいつまでも関わっているわけには行かない。この場を何とか無事に逃れることだけを考えなければいけない状況だった。

 しかし、次第にこの男に興味を持ち始めたのも事実だった。取って食われることは本当にないという確信があったわけではないが、無表情な中に、この男が本当に悪い男ではないという証拠が隠されているように思えてならなかった。

「汗を掻くということは、人によってそれぞれなので、何とも言えないけど、少なくとも僕は気持ち悪いという感覚以外の何物でもないよ」

 と、本音で答えた。

 すると、男の表情が少し崩れ、

「ほう、だったら、どうして汗なんか掻くんだい?」

 またおかしなことを言う人だ。

「汗は、身体が本能で掻くものじゃないのかい? 汗を掻くのを止めてしまうと、身体に熱が籠ってしまって、熱で身体がやられてしまうだろう? そんなことをしたら、人間は生きていけないじゃないか」

「そうなんだ」

 と言って、男は自分の手の平を見つめた。

「俺は汗を掻いたという記憶がほとんどない。ひょっとしたら掻いているのかも知れないが、それが君たちが掻いている汗とは違うものなのかも知れないな」

「何を言っているんだい? 君だって、僕たちと同じ人間だろう?」

「そうだな。ごめん、俺が変なことを聞いてしまったんだな。忘れてくれ」

 思わず、

「大丈夫か?」

 と、聞いてみたくなったが、それはできない。彼が何を思って克之に話しかけてきたのか分からないが、少なくとも克之から、何か情報を得ようと思ったのは間違いないことだろう。

 まずは、彼の話を、

――馬鹿げた話だ――

 として、聞かないようにしようと思った。最初から疑ってかかってしまっては、話が先に進まないからだ。

 ただ、少し彼の話し方には棘があるように感じた。上から目線であるのは明らかで、普段であれば、自分が遜るような態度を取るようにしているが、この人に対して遜る必要はないと相手の目が言っているように思え、対等に話をする気になっていた。

「本当は、聞きたいことがいろいろあるんだが、今日はこれ以上ここに留まっていられない。一年後の今日になるんだが、もし君が俺のことを覚えてくれていたら、もう一度同じ時間にここに来てほしい。俺も絶対に来るから、それでいいかい?」

「一年後とは、また気が遠くなるような話だな」

 呆れたような気になった。もし、他の人なら一年後などと言われれば、相手にする気も失せるに違いない。だが、克之はそれでもよかった。

「よし、分かった。なるべく来れるようにしよう。僕も君の話をいろいろ聞きたいからね」

「ありがとう。君はどうやら信用してもいい人のようだ」

 そう言って、男はやっと笑った。その表情がなければ、一年後などと言われれば、その時は、真剣に考えていたとしても、時が流れていくうちに気持ちも変わってくる。一年というのは、気持ちを変えるに十分な期間である。

 男のことを一日として忘れることはなかった。しかし、一年間というのは、精神的に何もなかったというには、長すぎる期間である。特に会社に入ったばかりで、仕事のことだけでも、毎日が一日として同じ日があるわけもない。急に、

――何日か前に戻ったような気がする――

 と感じることもあったが、前ばかりを見ている自分には、さほど気になることではなかった。

 ただ、この一年間というのは、あっという間に過ぎたような気がしていたが、いざ一年経ってしまうと、一年前がまるで、遠い昔のように思えてくるから不思議だ。一度通り超えてしまった過去を思い出そうとすると、実際の距離は短くとも、相当遠く感じる時もある。それは特に前ばかりしか見ていなかった時で、後ろを見るという感覚がないからだ。首だけを後ろに向けて後方を見る時、すぐそばにあるものでも、遠くに感じたりするものである。克之は今、そのことを実感していた。

 この場所に来た以前にも同じことを感じたのだが、この場所はどうも、撮影現場を感じさせる佇まいである。ずっと静かで、人が通った気配を感じさせない雰囲気に、突如現れる不可思議な行動を取る連中。それはまるで映画の一シーンのようだ。自分にここで待ち合わせようと言った男も、どこか芝居がかっていた。

――僕は担がれたんだろうか?

 と思えてくるのも無理のない話で、もしこれが映画の撮影で、柳の木に何かトリックでもあるとすれば、納得がいかないわけではない。

 だからと言って、一年前の男が、なぜ見知らぬ克之に、しかも一年後という長いのか短いのか分からないような時期を指定してここに来るように言ったのだろうか? 翌日でなくとも、一週間先でもいいではないか。克之は考えれば考えるほど、考えることに集中しないわけにはいかなかった。

 一年というのは、やはり何かを忘れるには十分な期間である。失恋がどんなに激しくとも、一年も尾を引くというのはよほどのことであり、普通に考えても長いと思っている期間を指定してきた男の心境を思い図るのは困難なことだった。

――一年に一回などというと、まるで牽牛と織姫が天の川で逢う七夕の夜のようではないか。そうだ、僕だけでもあの男のことを「七夕男」と呼ぼう――

 と思った。

 命名としては、もっとメルヘンチックな呼び名があってもよさそうだが、名前を知らないので、とりあえずそう呼ぶことにした。

「七夕男」と出会ったその場所に近づいてくると、すでに彼はやってきていた。

――まだ、二十分近くもあるのに――

 と思ったが、「七夕男」は、克之に気付いていないようだった。

 克之は「七夕男」に近づこうとして、少し歩みを早めた。

――あれ? おかしいな――

 目の前に見えているはずなのに、「七夕男」に近づいているという感覚がしない。

――よし、もう一度――

 そう思ってさらに近づいてみた。最初は確かに近づいていた。

 一歩、二歩、確実に近づいている。しかし、三歩目を過ぎてさらに前を見た時、最初に「七夕男」を見たところに舞い戻っていた。

 今度は、横の位置を覚えていた。左右を真横に見て、それぞれの景色を覚えておくことで、近づいたかどうか分かるはずだからである。

 一歩、二歩と、また近づいてみた。左右の位置も一歩ずつ、確実に前進していた。三歩目を踏み出した時も、一切の違和感もなく、確実に近づいている。もちろん、左右の位置も当然のごとく、近づいていた。

 問題の四歩目、やはり最初の位置に戻ってしまっている。本能的に克之は左右の位置を見た。

――一体、どういうことなんだ?

 左右の位置は自分が四歩目を踏み出したことを、序実に物語っていた。

 ということは、自分が元の位置に戻っているわけではなく、相手が離れて行っているということになる。そんなバカなことはありえない。

 なぜなら、人が遠ざかっていくだけなら、まだ分からなくもない。しかし、目の前の光景から、「七夕男」の位置はまったく変わっていない。自分の視界は決まっている。その視界に少しだけ小さくなり、まわりが広がって見えるのだ。遠近感から考えると、遠ざかってしまっていると考えるのが当然であり、自然なことなのだ。

――僕の目がおかしくなってしまったのかな?

 克之は、一瞬ここに来てしまったことを後悔した。それは、自分が元に戻れない別の世界に入り込んでしまったかのような不安を覚えたからだ。そんなことはありえるはずがないのに、そこまで考えるのは、克之が普段から、考え始めると悪い方にばかり考えてしまうからだった。

 まずは、この状況を自分に納得させなければいけない。しかし、考えてみれば、それができれば、不安に苛まれることもないし、後悔も消えるだろう。いきなり結論を考えてしまったことに気付くと、

――それではどうすればいいんだ?

 と、これから何かを考えるとすれば、堂々巡りの発想とは切っても切り離せない感覚になってしまうことを感じた。

 最初は、声を出して、相手に自分の存在を知らしめることが一番だと思った。だが、声を出そうとするのだが、どうやら、発声ができないようだ。

――ようだ――

 という曖昧な感覚は、自分の耳には声が出ているのを感じているのだが、まわりにその声が響いていないのが分かったからだ。自分に聞こえるのに、まわりに響かないことが分かるというのもおかしな話だが、その場所にいると、空気の振動を感じることができない。いつの間にかさっきまであれほど強い風が吹いていたにも関わらず、まったくの無風になっていた。

――そういえば、一年前のあの日も、最初はあれだけ風が強かったのに、「七夕男」と話をしている時、完全に無風状態だったな――

 その時に感じたのは、空気の「濃さ」だった。

――空気の濃さ?

 そうだ、今発声ができないと感じたその時、空気の濃さを感じたような気がした。最初は空気が薄いように感じたが、実際には濃いのではないか。空気が濃いために、風がなくなってしまい、まるで水の中にいるような感覚なのかも知れない。

 そう思うと、前に進んでいるようで進めないのは、空気の抵抗があるからなのかも知れないと感じた。元々この空間には、最初から何か自分で理解できない空気が漂っているのを感じていた。何が起こるか分からないといってもよかった。それでも実際に理解できないことに陥ると、何とか自分の考えられる範囲で理解しようと試みる。

 無理だと感じると、そこで発想の堂々巡りが繰り返される。そこから焦りが始めるのではないかと克之は感じていた。

 普通、焦りを感じると、自分の身体が思うように動かなくなる。しかも、まるで水の中にいるかのような「濃い空気」の中、克之は「七夕男」から目が離せなくなっているのだった。

 だが、どこかで視線を切らないと、このまま動けなくなってしまいそうな気がした。目の前に目指す相手がいるのに、近づくことができない。いや、そんなことはどうでもいい。ここまでくれば、自分がいかにして、この状況から逃れることができるかということが問題になるのだ。

 相変わらず「七夕男」はこちらに気付かない。

 この場所から逃れるにはどうすればいいか? まず一刻も早くこの場から立ち去ることを考えるしかないのだが、前に進むことができなければ。後ろに下がればいいことだ。そんな簡単なことに最初から気付かなかったのは、こちらに気付かないまでも、目の前にいる「七夕男」から視線を逸らすことができなかったからだ。

 努力はしてみたが、踵を返すことができなかった。何とか身体の向きを変えると、後ろを向くことができそうな気がしたのだが、後ろに見えている光景が、さっきまでとはまったく違うものになっていた。

「僕は夢を見ているのか?」

 そこは、断崖絶壁の先端に立っていた。その向こうには果てしない海が広がっているはずなのに、確認することができなかった。

 しかし、克之には分かっていた。それは、今朝見た夢と同じだったからである。

 さっきまでは、今朝見た夢の記憶はまったくなかった。夢を見たという意識すら忘れていたほどだ。

――しかし、これだけのショッキングな映像を夢に見て、夢に見たことを忘れていなたんて、今までにはなかったのではないか?

 と感じていた。

 夢の内容を少しずつ思い出してきたが、それは今までに何度か見た夢だった。今日覚えていなかったというのは、今までにも見た夢だったことなので、それほどショッキングだったというイメージとしてはなかったのかも知れない。しかし、却ってそれを今ここで思い出したことが不気味だったのだ。

――忘れてしまったことへの戒めのようなものなのかも知れない――

 と克之は感じ、まさか、それが一年後という今日に関係しているのだとすれば、克之の夢のことなど何も知るはずもない「七夕男」が克之と、本当はどこかで繋がっているのではないのかと思わせられた。

「何かを覚えておくにしても、忘れてしまうにしても、それなりに事情や理由があるものさ」

 と言っていた人のことを思い出した。

「覚えておくことと、忘れてしまうこと、どちらが難しいんですかね?」

 と聞くと、

「その時々で違うだろうが、忘れてしまうことの方が、俺は難しいと思う。覚えておくというのは、人間が自然な考えに基づいての思考なのだろうが、忘れてしまうことというのは、思考ということから考えると、逆向きの発想に思えるんだ」

「なるほど、言われてみればそうですよね」

 その人と話をしている時、克之は感心して聞いた。しかし、話が終わって違うことを考え始めると、その話は頭の中からスッポリと消えていた。

 しかし、不思議なことに、心の中にポッカリと穴が空いてしまったことを意識はしていたが、それがさっきまでの話だという意識はなかったのだ。ひょっとすると、その時に克之は、無意識に、

――忘れること――

 を敢えて選択したのかも知れない。

 克之が今朝、断崖絶壁の夢を見たというのも、意味深ではないか。忘れてしまっているという普段とは違う。しかも、エネルギーを必要とすることを、わざとしていたというのも、そこに自分だけではない、何かの力が働いていたとしか思えないではないか。

 では、今この場所でのこの状況は、自分以外の何者かによる見えない何かの力によって引き出されているものだとすれば、実に恐ろしいことだ。

 考えてみれば、一年前に男が消えたり、一年後にここに来るように伝えられたことだって、現実離れした話ではないか。それをノコノコやってくるのだから、不思議な力を信じていて、力を確認しなければいけないという義務感のようなものがあったからだ。

 放っておけばいいものを放っておけないのは、力を確認することで、自分に納得させなければいけないことが分かっているからだ。

――自分に納得できずに先に進むことはできない――

 これが、克之の信念だった。

「待てよ」

 ここに来たことが自分を納得させるためで、さらにその目的は先に進むことである。いまだ自分に納得できないことが渦巻いている中、まるで敵地とも言える場所に無防備で単身乗り込んできたのだ。前に進めなくなるくらいのことは、想像できたのではないだろうか。

 克之は、後ろに下がってみることにした。

 それは、最初に感じたような「逃げ」の感覚ではない。

――後ろに下がることで、一歩下がった時にどう見えるかを感じてみたい――

 という思いだった。

 思い切って後ろに下がると、そこに見えていた断崖絶壁は消えていた。

――目が覚めた時のような感覚だ――

 最初から覚めている目が、クッキリと開いたような感覚を覚えた。

 後ろにばかり視界を捉えていたが、後ろの憂いが消えたのを感じると、今度は、再度前を向き直った。

――おや?

 今度はさっきのように遠く感じることはなかった。もう一度踵を返し「七夕男」に正対すると、さっきまで遠くに感じていた光景が、一気に狭まって、数歩は進んだように思えた。

 さっきまでの呪縛が取れた克之は、今までのことは何でもなかったかのように、前に進み始めた。

 今度は「七夕男」も気づいてくれたようだ。

 こちらを向いている「七夕男」の表情は、相変わらず無表情である。もっとも、最初から表情を崩したような「七夕男」を想像することなどできるはずもなく、克之はさらに前進を続けた。

「約束通り来てくれたんだな」

 と、やはり無表情で「七夕男」が声を掛けてきた。

「ええ」

 数歩歩いただけで、普通に会話できるくらいまでに近づけた克之は、一年という年月が本当に長かったのか短かったのかを、再度考えていた。

「どうだい? 一年、長かったかい?」

――この男、相手の考えていることが分かるのか?

 と、「七夕男」の底知れぬ力を、いきなり見せつけられた気がした。

 しかし、さっきまでの呪縛に入り込んでいた時間があったことで、いきなり「七夕男」との間の会話にならなかったことが、微妙な力としての緩和剤になっていることを感じていた。

「長かったといえば、長かったですね。でも、それは一年が経ってから思い返した時に感じたことです」

「ほう、普通なら反対なんだろうけどな」

 確かに、「七夕男」の言う通りだった。過去を振り返る時、その間は長くとも、振り返ってしまうと、

「結構あっという間だった」

 というのが、今までのパターンだった。

 ドラマなどで、同じような会話を聞いても、過去を振り返った時があっという間だったという発想を一番よく聞く。克之は自分がさっきまで普段と違う発想だったことに驚いているということよりも、そのことに言われるまで気付かなかったことに、ビックリしていた。

 しかも、それをまるで看破したかのような「七夕男」にも驚きを覚えながら、敬意を表していると言っても過言ではなかった。

――この「七夕男」の秘めた力というのはどういうものなのだろう?

 克之は、穴が空くほどに相手を見つめていたことだろう。

 その気持ちを知ってか知らずか「七夕男」、今度はそのことに触れようとはしない。

「今日はわざわざ来てくれてありがとう。きっと来てくれるとは思っていたよ」

「どうして、そう感じたんだい?」

「君は気になることを放ってはおけない性格であるのと、そのことに結構尾を引いてしまうからじゃないかな?」

「当たっていますね」

「一年という期間は、忘れるには十分な期間だ。だけど、忘れられないことを覚えているよりも、忘れたいことを忘れられないことの方が難しいんじゃないかって君は思っているだろう? その気持ちを察することができたんだ」

「でも、忘れられないことを覚えているのって、結構難しいことですよ」

「そんなことはない。君は忘れてしまっていると思っているかも知れないが、忘れられないことは、必ず記憶の中に残っているものさ。それを封印してしまうかどうか、それは本人だけの力によるものとは限らないからね」

「本人の力だけに限らない?」

「ああ、その力が本人にまだ培われていなければ、何かの力が働くものさ。たとえば、君たちの考え方であれば、守護霊など、そのいい例かも知れないね。その人によって、それぞれなので、何とも言えない。中には、生きている人の意識だけが影響していることもあるからね」

「七夕男」の発想は、まだ克之の中には備わっていないものを秘めているようだった。

――これだけいろいろ考えているのに――

 この発想が、ひょっとするとさっきの錯覚を呼び込んだのかも知れないと思った。

「三十分も前に来てくれていたようだが、そこが君のいいところでもあり、欠点でもある」

「七夕男」はいきなり鋭いところをついてきた。

「分かっていたんですか?」

「君は、そのせいで見たくないものや、見てはいけないものを見てしまったと思っているだろう?」

 実際にはそこまで感じていなかったはずなのに、この男に指摘されると、そうでもないと思っていたことを完全に掘り返され、確信にまで近づけられているようで、癪に障るのだった。

――この男は、僕を怒らせるのが目的なのか?

 せっかく一年間忘れずにいてやって、しかも三十分も前にやってきて、さらに見たくもないものを見せられて、本当であれば、散々な目に遭わされているのに、それでもこの男に逆らうことができないと思っている自分に苛立ちを覚えている。

――「七夕男」に対しての苛立ちと、自分に対しての苛立ち、どっちが強いんだ?

 どう考えても同じにしか見えない。それをさらに探求することは滑稽なことであり、素直に同じものだとして納得することにした。

――あれ? この男の前では、今までであれば、到底承服できないことでも簡単にできてしまうような気がする――

 今まで納得いかなかったことでも、この男といれば納得できるかも知れないと思うと、ここに来た意義を自分の中で納得できるようになるのではないかと思うのだった。

 克之は、海を見に行くのが好きだった。

 特に夕日を見るのが好きで、

――夕日の向こうには何かが見えているように思える――

 と考えていた。

 一度光が眩しすぎたために、目をやられてしまったようで、海を見るのが怖くなった。

 それが三年前のことだった。

 大学三年生の時で、当時付き合っている女の子がいたのだが、彼女に、

「一緒に夕日を見に行こう」

 という約束をしたのに、目をやられてしまったのが、その直後だったこともあり、彼女との約束を果たすことができなかった。

 まさか、それが原因ではなかったのだろうが、ちょうどその頃から克之の歯車がうまく回らなくなった。

――好きなことだったはずなのに、リズムがうまく回らなくなることに繋がるなど、想像もしていなかった――

 目が見えない時期はそれほど長くはなかったが、本当にタイミングが悪かったのだろう。車に轢かれてしまうという運のなさまで露呈してしまった。

「光と影さ」

「七夕男」がそう呟いた。そう呟いたことで、克之は自分の運のなさを今さらながらに思い出していた。今ではすでにそんな悪かった時期は通り過ぎたのだが、一言言われたくらいで即座に思い出すのだから、やはり忘れられないことを覚えていた証拠だろう。

 それなのに、「七夕男」は、

「忘れられないことを覚えていることが難しい」

 と言った。彼がわざわざ口に出すことなのだから、何か根拠があってのことなのだろう。それも、世の中の人全体に対して言っているように見えて、実際には克之に話をしていることである。

「七夕男」に言われた、

「光と影」

 という言葉、この言葉を聞いて克之は目からうろこが落ちた気がした。

――そうだ、あの時、眩しさを感じたのは、光が目を差しつける前に、少しの間、影があった。それがどうしてなのかと考えているうちに一瞬にして目に突き刺さり、今度は影だけではなく、光さえも失われたんだ――

 確かに、光が差し込んだその日は、病院に行った時、

「何とも言えません」

 と、重症であるかを匂わせる発言をされた。

 それこそ、目の前が真っ暗になってしまった。

――僕はどうすればいいんだ?

 翌日になると、

「もう、大丈夫です」

 と、言われて、事なきを得たのだが、その時に受けたショックは酷いものだった。しばらくの間、光を見るのが恐ろしくなり、ずっとサングラスを掛けていた。大学の講義中も掛けていたので、教授に注意をされたが。外すのが怖かったくらいだ。実際にサングラスを外して前を見ると、目が痛くなった。ただ、それはずっとサングラスに守られていたことで、急に外すと目が痛くなるのは当然のことである。

――そんな簡単な理屈すら分からなくなっていたんだ――

 と後から思えば、感じたほどだ。

 克之は、リズムの悪さをすべて、

――あの時の閃光のせいだ――

 元々、夕日の色も特殊なものだと思っていた。そこに何らかの偶然が重なったのか、スパークが発生したとしても、不思議のないことなのかも知れないが、誰に聞いても、

「そんな話は聞いたことはない」

 と、言われてしまい、

――僕は本当に運がないんだ――

 と思わざる負えないだろう。

 偶然がいい方に重なれば、いいことが続くのかも知れない。夕日に写る光であっても、見える色によっては、

「幸せになれる」

 というではないか。克之はその時の色を覚えていない。少なくとも、緑でなかったことは間違いない。

 就職活動もなかなか順調にはいかなかった。何社受けても、面接官の表情は無表情で、さらに平気で痛烈なことを言う。面接官たる者、そこで相手の顔色を見るというのも作戦なのだろうが、精神的に参っている人間には、

「強迫観念」

 以外の何物でもない。

 ただ、その中で、何度か立ち直るチャンスがあったのではないかという思いがあった。それは、格子柄のようなもので、オセロゲームの盤を見ているかのようだった。

 最初は、

――信号機のようなものでは?

 と思っていたが、前後にだけしか進まないものではなく、前後左右に道が開けていたのではないかと思えた。

 ただ、そうなると、あまりにも選択肢が広がりすぎる。間違えて、元に戻ったりするかも知れない。克之は一歩進むということは、アリジゴクの穴から這い上がるのを想像していた。一歩前に進んだとしても、油断していると、砂が崩れて、何歩も戻ってしまうのではないかという感覚が頭の中にある。

――だからこそ、油断していてはいけないんだ――

 と思うようになり、選択肢が広すぎると、却ってアリジゴクの罠に嵌りこんでしまうのではないかと思うようになっていた。

――それにしても、「七夕男」って何者なのだろう?

 一言でこちらの気持ちを看破しているように思える。だが、逆を言うと、彼の一言が、自分の中にある忘れられないと思っている記憶の封印を解いているのかも知れない。そう考えると、さらにこの男の末恐ろしさが身に沁みて考えられるようになっていった。

「一体、あなたはどうして、僕に一年後と言ったんですか?」

 すると、男は案外と単純な答えを返して来た。

「一年後じゃないと、君に遭うことができないからさ」

 単純に「あう」という言葉を考えた時、出会うという意味なのか、遭遇という意味なのかということまで考える人はまずいないだろう。「出会う」ということしか想像しないからだ。

 ということは、遭遇するということは想定外のことである。だが、この男を見ていると、遭遇するということも想定内に含めるしかないと思った。

 考えてみれば、一年前のあの日の出来事は、「出会った」わけではない。お互いに会いたいと思ったわけではない。「遭ってしまった」のだ。遭遇だと思えば、彼が消えたのがなぜなのかを考えれば分からなくもない。

――きっと彼は別世界の人間なんだ――

 彼の存在は、この一年間、忘れたことはなかったが、それ以上に、必要以上なことを考えないようにしていた。一度、歯車が狂ってしまった人間は、

「石橋を叩いても渡らない」

 ようになるものだ。

 克之もそうだった。そのせいからか、

――必要以上のことは考えないようにしよう――

 と思うようになった。ここが微妙に違うのだが、普通であれば、

――余計なことは考えないようにしよう――

 と思うはずなのだが、克之は違った。

 余計なことよりも、必要以上のことというのは、いわゆる「遊びの部分」もないことを示していた。

――ニュートラルなんてありえないんだ――

 これが、克之の考え方だった。

「七夕男」としても、克之との遭遇は想定外のことだったのだろう。そのため、その時では説明ができないが、いつかは説明しないといけないと思った。

 説明をしておかず、下手に誤解を受けたままでは、知られたくないことを、他の人に間違って伝わるかも知れない。それだけは避けたかった。

 その説明がどうして一年後になるのかは分からないが、その一年の間に、もし克之が他の人に何か言おうとしたとすればどうだったであろうか?

「七夕男」には、想像もつかないような不思議な力を備えている。克之の考えていることなどお見通しなのかも知れない。もし、危ないと思えばすぐにでも飛んできて、克之を抹殺していたかも知れない。

 そもそも彼がどこから来たのか、そのあたりが一番の謎であり、そこから次第に雪が解けるように分かってくるのであろう。今の話はすべてが克之の想像であり、別に根拠があるわけではない。簡単に否定することはできるが、逆に簡単に否定することもできない。どちらが難しいかというと、否定できない方が重たいように思えた。

「一年というと、きっかりとしているようだけど、何か根拠がなければ、一年という月日も、ただの一日の蓄積に過ぎないと思うんだけど、どうなんだい?」

 克之は考えていることを話した。

「確かにそうだね。昔の人が季節や、天体の動きを見て、自分たちの標識として暦というのを作った。俺たちはそれを当たり前のように使っているが、考えてみれば、それはすごいことだよな」

「僕もそう思います。でも、一年というのは、季節や天体という自然の力があってこそ成立しているものでしょう? あなたはその一年をどのように考えて区切ったのですか?」

「俺たちの世界の一年は、この世界の一年間とは、少し違っている。元々は確かに同じ季節や天体を元に作られたものなのだが、今ではそれも伝説でしかない」

「どういうことなんですか?」

「我々の世界には、季節はおろか、天体の情報は皆無になっている。確かに空は見えて、星や月、太陽はあるにはあるが、それが季節や方角を導いてくれることはなくなった。きっとこの世界の人間からすれば、『歪んだ世界』だと思うんだろうな。だが、それでも時間を刻むのは、同じなんだ。季節感がない分、我々は時間を大切にする。ただ、この世界とは違っているので、君たちにとっての一年を、俺は使わせてもらった。これから話す話を信じる信じないは、君の自由なので、信じてほしいとは言い難いが、それでも説明するしかないんだろうと思う」

 その男は、そこまで言うと、息が切れていた。必死になって話をしているのは分かるが、ここまで息切れしているのを見ていると、少し心配になってくる。

「大丈夫ですか? ゆっくりでいいですよ」

「ありがとう。とりあえず言わなければいけないことだけは話しておこう」

 今までの高圧的な態度から、「七夕男」の体調などを気にしていると、

「余計なことだ」

 と言われるかと思ったが、そんなことはなかった。

「さっきも言ったように、俺はこの世界とはまったく違った世界からやってきた。もちろん、そこか地球であり、日本でもある。君はパラレルワールドという言葉を知ってるかな?」

「聞いたことはありますが、説明しろと言われると難しいです」

「俺も正確には説明できないが、厳密にいうと、パラレルワールドとも少し違っている。パラレルワールドというのは、例えば、過去に遡ると、人生のターニングポイントは無数にあるんだ。たとえば、普段通る道が決まっているとして、急に違う道を通ると、まったく違う世界が見える気がするだろう? その瞬間に違った世界に入りこんでいる。逆にいつもの道を歩いた自分とその日は違う自分が存在することになる。そして一度違う道に入ってしまうと、元の道に戻ろうとしても、二度と戻ることはできない。なぜなら、その道にはもう一人の自分がいるからさ」

「同じ次元で同じ人間が存在するなど許されないという考え方は、何となく分かる気がします。それを『パラドックス』というんですよね?」

「その通りだ。パラドックス自体も無数に存在していると俺は思っている。だから、パラレルワールドが一種のパラドックスなら、君たちの目から見れば、俺たちの世界も一種のパラドックスなんだ。パラレルワールドと何が違うかというと、俺たちの世界には君たちの住むこの世界にいる人間も存在している。しかし、彼らは皆、他の世界にも同じ自分がいることを知っている。そして、その無数にあるパラレルワールドの中から、もう一人の自分を殺さなければいけないと思っているんだ。ただ、もちろん、無数にいる自分を全員殺すなどできるはずもない。だから、自分たちが任意に選んだ世界に赴いて、もう一人の自分を殺そうと画策するんだ」

「簡単には、納得できない」

「もちろん、そうだろう。何のために殺さなければいけないのかということも当然問題だし、殺すことによって、どうなるかという問題もある。そして、そもそもどうしてそんな発想が生まれたかということも、大きな問題だよね。どれ一つ取っても、今の君には簡単に理解できることではない」

「一つの都市伝説のようなものなのかも知れないですね」

 根拠のない噂話だけが、一人歩きをしているように思えてならない。

「確かに我々の住んでいるところでは、曖昧で根拠のない噂が絶えない。それも、しっかりとした根拠を説明できる人がいないからだ。そして、実際に政府のようなものはあっても、力はないし、行政力も拘束力をほとんど持たない」

「それだったら、ないのと同じじゃないですか」

「もちろん、最初はあったんだが、政治や行政に比べ、科学の発展は目覚ましく、科学者が我々の世界ではたくさんいるんだ。人々は、政府よりも、科学者を信用するようになる。まるで昔の僧侶や予言者を信じたような感覚だね。元々我々の世界も君たちの世界と酷似していたんだよ。もっというと、平和が続くいい世界だったんだ。それなのに、科学者が幅を利かせることで、次第に科学者の中から、世の中を征服したいというような輩まで出てきた」

「そんなことになったら……」

「そうだ。平和なんて、あっという間に壊れてしまって、科学者に人がつくようになって、それがこちらの世界の国のようになってしまった。それぞれの兵器での応酬さ。それこそ小競り合いが戦争に発展し、そうなると、皆平和だった頃を忘れてしまった。元々、野蛮な人種だったのか、平和というのに飽き飽きしていたのか、兵士はイキイキしているから困ったものだ。しかも、兵士が科学者の開発した薬によって、少々の兵器では死ななくなった。そうなると自然形態までおかしくなってくる。自然への冒涜まで犯してしまっては、我々の世界だけでは、どうすることもできなくなった。元々、他の世界にパラレルワールドが広がっていることは知られていたが、『パラドックスを犯してはいけない』という伝説があるので、誰もそれに触れることはなかったのだが、どこかの学者が、パラドックスを否定するような説を唱えると、誰もがその意見に賛同し、『無数に広がるパラレルワールドにいるもう一人の自分を一人だけでいいので、殺すのだ』という伝説を信じるようになった。そこまでくればもやは伝説ではなく、信念に変わってしまう。恐ろしいことだと俺は思う」

「他の人は誰も、そのことに対して疑問を感じる人はいないんでしょうね」

「そうなんだ。俺は逆に昔から言われていた伝説で、いくらパラレルワールドと言っても、他の世界の歴史を変えてしまうということは、同じ時代の過去の自分を抹殺するのと同じことになりそうな気がして恐ろしいんだ。世界が違うと言っても、行き来できるんだから、どこかで繋がっているような気がする。もっとも、こんなことを君に話してどこまで信用してくれるかというのは疑問なんだけどな」

 男は、そう言って、うな垂れた。

 確かに、男の言っていることは、信じろという方が無理がある。しかし、男の立場から話を聞けば、決して無理なことではない。克之がもし、男の立場なら、何とかしようと思うだろう。

 それにしても、信じられないことが多すぎる。違う世界が存在するというのは、パラレルワールドという意味では信じられないことではない。しかし、男も言っていたではないか、

「パラドックスというものが存在している」

 と……。

 つまりは、同じ人間が別の世界にもいるというのが分かっているのなら、しかも相手の世界を壊してはいけないということが分かっているのなら、いくら科学者が移動することが可能な機械を開発できたとしても、理論的なものだけで、倫理的に大きな反動があるのではないかと思うのは克之だけであろうか。この世界でも過去や未来に行けるためのタイムマシンの開発は、永遠のテーマのように開発している人もいるであろうに、誰一人として完成させていないではないか。

 ひょっとして開発させた人がいるかも知れない。だが、実際には表に出ていない。表に出すことができないのか、それとも実験段階で、まるで神への冒涜として、科学者自身、見えない力に抹殺されたのかも知れない。

 このような研究を個人でできるなど、今の世界では考えられない。少なくとも国家レベルの大きなプロジェクトが存在していることだろう。しかも、最高国家機密に違いない。成功しても簡単に発表もできないだろう。そういう意味では誰かが成功しているかも知れない。

 ただ、だからと言って、何か大きな事件が起きているわけではない。やはり都市伝説のようなものだと思う方が、はるかに信憑性がある。

――「七夕男」は、何のために、そしてなぜこの僕にこんな話をしてくれるのだろう?

 克之は、この男から選ばれた人間ではないかと思うようになってきた。それはあまり気持ちのいいものではない。一歩間違えれば、この世界の運命を自分が握っているのではないかとさえ思えてくるからだ。

 そこまで来ると、もう自分の頭の感覚がマヒしてくるのが分かってくる。

「七夕男」は、冷静沈着だが、それは、彼が今までいた自分の世界がそんな性格にさせたのか、それとも、冷静沈着でいなければ、生きて来れなかったのか、そのどちらでもあるような気がしてきた。もし克之が想像もできないような修羅場にいきなり放り込まれると、果たしてどれだけもつか、考えただけで恐ろしい。

――瞬殺されてしまうか、それとも気が狂ってしまうか――

 どちらにしても、あっという間に正常ではいられなくなることに違いはない。

「あなたの世界の人間は、それが正しいと思っているのだとすると、いくら話をしても同じだということになりますね」

「その通りだね。だから余計に、時間が問題になってくる。早く何とかしないといけないと思うんだが、だからと言って、事を焦ってしまっては、すべての歴史を変えてしまうことになりかねない」

「どうして、あなた一人がそんな大切な問題に関わっているんですか?」

「いや、俺だけではない。同じ考えを持っている同士もいる。しかし、少数派でしかないので、なかなか認められない。君たちの世界でもそうだと思うが、少数派というのは、『悪』に分類されたりしないかい? 多数決で行かれてしまうと、こちらは一溜りもない」

「僕たちの世界では、多数決は民主主義の基本ですからね。しかも、今の社会では民主主義が『正義』とされている」

「だから、困るんだ。こちらは、何とかまわりを引き留めようとプロパガンダ映像を作ったりして、まわりの人たちを少しでも『洗脳』していくしかないんだ。きっと君たちの世界では、そのことが悲劇を生んだのだろうが、我々はパラレルワールドなんだよ」

「つまりは、こちらの歴史も分かっていて、その上、その失敗を繰り返さないようにしようということですね」

「その通りなんだ。そのためには、文献だけではいけない。実際にこの世界のその時代にも実際には行ってみた。本当に悲惨な時代だったが、逆にその歴史を分かっていれば、いくらでもやりようがあるということだよ」

「でも、一歩間違えれば、悲惨な歴史を繰り返しませんが?」

「今だって、似たようなものさ。騒乱の時代だし、いろいろな噂話が都市伝説のごとく蔓延っている。そんな世界を君たちは想像もできないだろうね」

 想像することはできないこともないかも知れない。しかし、想像することが克之には恐ろしかった。

「想像はできないけど、あなたたちが今しているであろうことだけで、果たして向こうの世界がよくなるかと言われれば、難しい気がします」

「分かっているようだね。もちろん、いくつもの段階を踏むことが必要だと思っているんだ」

 克之の発言は、当然のごとく事情が分かっていないだけに適当だ。それでも話を聞いてくれるということは、自分たちだけの考えでは、どこかに偏りがあると思っているからなのかも知れない。

「ところで、あなたはさっき、こちらの世界の過去を見てきたと言われましたが、あなたたちは、タイムマシンも持っているんですか?」

「持ってるよ。君の言いたいことは分かる。過去に戻って歴史を変えてしまうと困るというんだろう? その心配はない。我々はあくまでもパラレルワールドの世界の人間なんだ。行った過去というのはすでに君たちの過去になっていて、我々の過去とはすでに別れた後だったんだ。世界が違えば、過去に戻っても、歴史を変えることにはならないんだ」

 完全には承服できないが、

「君たちは、我々と同じ時代のパラレルワールドなのかい?」

「いや、厳密に言えば、未来から来たんだ」

「今の話に矛盾していないかい? 違う世界の過去を変えても、時代は変わらないんだろう?」

「そこが少し違う。人を殺してしまうのは、抹消してしまうことなので、できるんだ。食い止める方がよほど難しい」

「あなたの言うことをどこまで信じていいのか分からないが、何となく分かってきた気がします」

 克之は最初ほど、おたおたしていない。話を聞いているうちに落ち着いてきたのだ。だが信じられないことや、確かめておくべきことが少なくないことも分かってきた。まずは「七夕男」が自分に近づいた理由を確かめるしかない。

「あなたは、僕に出会ったのは、偶然なんですか?」

「そこも気づいていたかな? 実は偶然ではないんだ。我々にもこの世界の情報をもたらしてくれるルートがあって、それをコンピュータに掛けたら、俺に対して、君という人物が現れた。もちろん、こちらでも君のことを調べて、我々の話を信用してくれる人だと思ったから、こんな形にはなったが、近づいたわけだ。君が気付いてくれてよかったよ。これでいろいろと話しやすくなったというものだ」

 彼がどこまで克之のことを調べたのか分からないが、少なくとも思考回路までは分からないだろう。せめて行動パターンから、どのような人間かをプロファイルすることができるくらいではないかと思えた。

 しかし、それもこちらの勝手な思い込みである。彼の言うように、本当にタイムマシンを保有しているほどの科学力の発達した世界からやってきたのだとすれば、簡単にあなどることはできない。

「七夕男」にもう一つ聞きたかった。

「あなたたちは、個人で時間を飛び越えることができるような文明を持っているんですか?」

 一年前に五分間を飛び越えて、また同じ場所に戻ってきたのを見てビックリしたが、あの時、黒ずくめにサングラスの男たちは、誰もが「七夕男」が戻ってくる、つまりはタイムスリップに気付いていない。一人くらいは気付いてもよさそうに思えたからだ。

 克之の考えを分かっているのか、

「俺たちは文明の中でも優れた科学者を内輪に置いている。他の連中にはできないようなことを、開発してくれたりしている。個人レベルでタイムスリップできるのは、我々だけなんだ。だが、それも限られた短い時間だけで、それが、一年前に君が俺を見た時に感じた時間移動の正体さ」

「じゃあ、他の人たちには知られていないわけですね?」

「そうだね。知られてしまうと、せっかくこちらの優位性がなくなってしまい、相手に対して対抗できなくなる。これは我々にとって、最高機密に値することだな」

 克之は、相手の弱点を握ったかのような気分になっていた。しかし、彼らが自分の敵でなければここでの優位性は発揮できない。彼らの化学には到底及ばないのだから、知ったとしても、それをどう利用すればいいのか、分かるはずもない。

「そういえば、あなたのお名前を聞いてなかったですね。何とお呼びすればいいのでしょう?」

「スナッツと呼んでください」

「コードネームのようなものですか?」

「そう思ってもらって結構です」

 男は、そう言いながら、少しまわりが気になっているようだった。

「どうかしたんですか?」

「いや、ここで話をしてもいいのだが、ちょっと落ち着かない。喫茶店のようなところに行こうではないか」

 と言って、「七夕男」は、腰を上げた。寒さが本格的な中、よく寒さに耐えながら、表のベンチで話が聞けたものだ。時計を見ると、約束の時間から三十分は経っている。元々早く来ていたので、実際にここにいた時間はもっと長かっただろう。

 それよりも、彼は狙われているはずではなかったか。一度見つかってしまったところに、再度姿を現すことはないというのが、彼らの考えのようだが、同じ組織の他の連中が、偶然見つけないとも限らない。そのことを聞いてみると、

「彼らは、それぞれに役割がある。俺を狙っているやつが他にいて、俺をここで見つけたとしても、攻撃はしてこない。それだけの規律が守られていないと、あっちの世界では生きていけないんだ」

 完全に概念が違っているようだ。

「この世界も似たような人たちもいますが、基本的には、敵が目の前にいて、それを見逃すのは、いわゆる『敵前逃亡』だと言われて、極悪なことになってしまうんですよ。やはり考え方の違いですかね?」

「我々も昔はそうだったらしい。しかし、化学が発展するうちに、次第に発想も変わっていって、一口に言えば、『冷たくなってしまった』とでも言えばいいんだろうな」

「こっちの世界でも、まだ規模は小さいけど、その傾向はありますよ。気を付けておかないと、危ないかも知れないですね」

「君たちには、我々の世界がどんな世界なのか、想像もつかないかも知れないが、確かに存在しているんだ。信じられないと思うけどね」

「まるで地獄絵図の世界に感じられます」

「我々の世界は、こちらのような民主制ではなく、帝政なんだ」

「じゃあ、皇帝のような絶対君主がいるということですか?」

「最初は我々の国も民主政治が長く続いていて、平和な世界だったんだが、平和というものが、一触即発の状態でずっと推移してきたことを、誰も気づかなかった」

「本当に気付いていた人はいなかったんですか?」

「いたよ。それが一部の政治家たちだったんだが、民主主義の一番の骨格でありながら、一番の致命傷でもあった『多数決』という考え方が、彼らの意見を黙殺した。少数意見は、民主主義では通らないだろう? よくよく考えれば、一部の人間の意見にも耳を貸すのが民主主義のはずだったのに、いつの間にか大勢の意見しか通らなくなった。どうしても選挙などで『過半数』を取れば勝ちだという考えが蔓延ってしまうと、それがすべての正義になってしまう。それが本当の民主主義の危機だったはずなのに、そこを難なくスルーするものだから、結果的に反乱分子を成長させてしまった。一種の自業自得というものだよ」

「なるほど」

「反乱分子が密かに計画を立てているなど、誰も知る由もない。民主主義の中では、小規模なテロが起こっただけでも、その時は大きな問題になる。マスコミの力が増大なので、ちょっとしたテロなら、それ以降、簡単に行動できなくなる。しかし、マスコミが沈静化すると、今度は民衆もそれまでのことを忘れてしまうんだ。『のど元過ぎれば熱さ忘れる』とでもいうのかな? そうなってしまうと、今度は少し規模の大きなテロが起こっても最初ほど誰も意識を深めない。『またか』って感じになるんだろうな。慣れとは恐ろしいものだ。君たちの世界で言う『オオカミ少年』という童話のような感じだ」

「せっかく政治家たちが、危機感を持っていたのに、民衆がそれでは、どうしようもないということか……」

「黙殺された政治家の意見は、意見書を添えて提出されたが、最初に反乱分子が狙ったのは、実はその書類だったんだ。そこには彼らにとって致命的なことが書かれていたのかも知れない。早々に抹殺されてしまうと、今度は、それを作成した政治家たちを、手中に収めようとした。それも脅迫のような手段ではなく、合法的にだ。せっかく人民のために命を掛けたというのに、黙殺されて、彼らは民主主義では生きる場所がなくなった。これから樹立される新体制の方がよほど彼らを受け入れてくれると思ったんだろうな。簡単に彼らを取り込むことに、反乱分子は成功した」

「科学者たちは?」

「科学者たちはもっと簡単さ。民主主義の世界では、どうしても予算というものが組まれて、どんなに開発する頭を持っていても、予算がなければ、実現どころか、実験すらおぼつかない。それを反乱分子は、金に糸目をつけず、自分たちの兵器になるものをどんどん作らせた。科学者にとっては、これほどありがたいことはない。大手を振って、自分たちの実験開発ができるんだからな」

「そのお金は?」

「もちろん、最初から反乱目的で自分たちで溜めていたものもあっただろうが、反乱が起こると、銀行や金融機関などを襲撃して、金を奪うくらい、彼らには自分たちの正義を全うするための一手段として認められているという考えがあるから、彼らには自分たちの正義があるんだ」

「一見、反乱分子が悪いように聞こえるけど、スナッツさんの話を聞いていると、簡単にどちらがいい悪いと、判断できないところがあるような気がしてきて、仕方がない」

 スナッツは、少し考えてから、返答している。頭の中に、いろいろと言いたいことがあるのだろうが、順序立てて話をしないと、途中が空いたりして、相手を違う道に誘って、せっかく話をしている内容が、大きな誤解の元に成立してしまうことになるのを恐れているのだろう。

「反乱やクーデターというものは、暴力の中から生まれるもので、それを悪いと考えるのは、民主主義ならではなのかも知れない。平和を保つには、一度できてしまった体制を、根本からひっくり返すことが不可欠なこともあるんだ。世の中一筋縄ではいかないということは、君にだって分かるだろう?」

「民主主義の時代には、確かに平和と呼ばれるものが根底にあって、それがなければ、民主主義とは言えない気がします。でも、そんな世の中では、無数に小さな規模で、争いや、上下関係を決定させようとする力が蠢いている。それが平衡感覚を保っていたりして、一人が潤えば、必ず影で誰かが損な役回りを演じる。すべての人間が平等だなんて、そんなものは理想郷にだってありはしないんですよ。だから、民主主義の世界の人間は、無気力な人が多いのかも知れない」

 克之は、今までにも民主主義のことを憂いたことが何度もあった。その時々で、我を見直してみたが、それ以上幅を広げられない。世の中というのは、表の顔は、「まわりのため」と言いながら、実際には、自分だけのことしか考えていない人ばかりである。そんな魔物のような世界に、個人の不満が燻っているのだから、一触即発であったとしても、当然と言える。

 克之は「七夕男」の世界だけではないような気がしていた。

――まるで自分たちの未来のようだ――

 SF映画などでよくあるではないか。将来核戦争が起こって、世の中が廃墟と化し、無政府状態になった世の中に、救世主が現れるのを待っているようなシチュエーション、「七夕男」のやってきた世界はまさにその世界のようだ。

――男はパラレルワールドだと言っているが、本当は我々の未来なのではないか?

 と感じた。

 将来に大きな政変が起こり、男は過去に戻って、未来のために過去を変えてしまおうと考えているのではないかと思うと、恐ろしくなった。

「君の考えていることは分かっているよ」

「七夕男」は、克之が考えを一瞬ためらった瞬間を狙って、声を掛けてきた。あまりにもタイミングが良すぎることで、まさに神業のように思えてきた。今度は自分の怯えが「七夕男」の来た世界に対してのものなのか、それとも「七夕男」本人に対してのものなのか分からなくなった。

 怯えが一つではなく複数になってくると、自分が何を考えているのか分からなくなってくる。特に共通点が存在すると、その気持ちは余計である。

 最近、克之は自分の記憶力が低下してきたことを気にしていた。

――いろいろなことを考えすぎるからなのかな?

 とも思ったが、何かを考えているとすれば、学生時代の方がたくさんあった。絶えず何かを考えていた学生時代。本もたくさん読んだし、「七夕男」の出現に対して、さほどショックを感じなかったのは、学生時代に読んだ本の中に、似たような主人公がいたのを思い出したからだ。だが、それがどの本のどんな内容だったのか、ハッキリとは覚えていない、それが克之にはもどかしかった。

 記憶力の低下は、毎日の生活を惰性に変えた。惰性は集中力の低下を招き、慢心だけが残ってしまい、それが油断へと移行して、失敗に繋がってしまう。

 こんな簡単なことが分からない克之ではなかったはずなのに、やはり、記憶力と思考力は比例しているのだろうか?

「どうして、あなたには、そんなに分かるんですか?」

 と、「七夕男」に聞いてみた。

「君は、自分の記憶力を気にしているだろう? その分、自分の中にばかり気が入ってしまっていて、まわりに対しての気持ちが薄れているんだよ。君自身はそのことに気付いていないんだろうけどね。それが、見る人から見れば、隙だらけなのさ。だから、人の心を読むことに長けている人間なら、結構分かってしまうんじゃないかな?」

「あなたは、そんなに人の気持ちを看破できるんですか?」

「さっき、言っただろう。君のことは結構調べているって。君の生い立ちや環境を知っていれば、今の君が考えていることくらいなら、俺にでも分かるというものだよ。だからと言って、君はそんなにショックを受けることはない。この世界ではそれで通用するんだからね。でも、君は心の中では、それで構わないと思っているはずだよ」

「どういうことですか?」

「君は、正直者は損をすると思っていても、正直なことが正義であり、自分そのものだと思っているんじゃないかい? 君の性格は自分の中の正義が絶対だと思うところがある。だから、人に看破されても、それはそれで仕方がないと思っているように思えるが?」

 まさしくその通りだった。

「七夕男」はどこまで分かっているというのだろう。

――この男も正直者なのかも知れない――

 克之の性格を看破した時、一瞬だけだが、してやったりの表情が浮かんだ気がした。だが、すぐに冷静に戻ったが、一瞬の表情を見逃さなかったことに対して、克之は、

――俺にもまだ「七夕男」に対抗できる手段が残っているのかも知れない――

 と、感じた。

 だが、それも「七夕男」の作戦だったりする可能性もある。完璧な看破をしておいて、その中で油断を誘うことで、さらに深層心理の奥深くにまで侵入することができるようになることを、最初から考えていたとすれば、本当に恐ろしいことだ。

「正直はいいことなんだが、損をするとよく言われるだろう?」

「そうですね」

「でも、損をするわけではなく、自業自得なのさ。正直というのは基本的に『自分に対して』のことだろう? つまりはまわりを考えていないということさ。正直者というのは、ある意味、自己満足に過ぎないということになるのさ。きっと君はそのことくらいは分かっていると思うんだが、自分が育ってきた環境から生まれた感情は、そう簡単に拭い去ることができるものではない。それが君の致命的なところに繋がっていかなければいいと思うんだ」

――この男、いちいちセンターをぶち抜いてくるような話し方をする――

 間違っていないだけに、癪に障るが、反論などできるはずもない。

 致命的と言われると、ムキになって反論してしまいたくなる。確かに正直者と言われると、思わずほくそ笑んでしまうことが多かった。克之は、そんな自分に今まで何ら疑問を持つことなくここまで来た。そのことを今回「七夕男」と話をすることによって思い知らされたのだ。

 克之は「七夕男」の話を全面的に信じたわけではない。むしろ、本当ならこんな話信じられないと思って、

――夢ではないだろうか?

 と思うべきなのだろう。

 正直に言うと、この一年間も半信半疑であり、今までならこんな半信半疑な状態であれば、「七夕男」の存在も、一年という月日も、長いようで短かったことを思うと、忘れなかったのは、年月というよりも男へのイメージの方が強かったということであろう。

 時間の長さは感覚のマヒを促しているような気がする。克之にとって、この一年は仕事に明け暮れていたつもりだったが、ここ一か月ほどは、仕事だけではなかった。本人は、「七夕男」のことが気になって、それどころではなかったつもりだが、克之のことを気に掛けている女性がいることに気が付いたのは、ここ数日のことだった。

 それまでは、「七夕男」のことしか気になっていなかったのに、自分を気にしている女性の存在を意識するようになると、急に「七夕男」の存在が億劫になってきた。億劫というよりは、煩わしさと恐ろしさが渦巻くようになってきた。特に自分を気にしてくれている人が今までは誰もいないと思っていたことで、謎の男への好奇心がそれまでの克之の気持ちを支配していた。

 克之はそんな自分に対して、なるべくその女性のことを意識しないようにしていたが、実際に「七夕男」と遭遇し、話をしてみると、完全に男のペースに巻き込まれていた。

 だが、男と話をしているうちに、ふと落ち着いた気分になった時間が存在した。男の話があまりにも突飛すぎて、SF映画を見ているようで、現実離れしていたことで、一瞬我に返ったのだろう。

 そうなると、克之の中で、自分のことを気にしてくれていた女性のイメージがよみがえってきた。

 その女性は、それまで意識したことがない人だった。同じ会社だというわけでもなく、たまに同じ電車に乗り合わせていて、いつから一緒の車両に乗っていたのかということすら分からない相手だった。

 視線の鋭さを感じた時、最初は、

――なんかややこしそうな視線だな――

 と感じた。それは、自分に熱い視線を浴びせてはいたが、恋愛感情というよりも、好奇の目に見えたからだ。時々なら本当に好奇の目だけで、気にしてくれているというよりもその視線を気にしなければいけないことが鬱陶しいだけにしか感じなかっただろう。だが、絶えず浴びせられると、こちらも気になってくる。最初とは次第に見方が変わっていき、

――僕に気があるのかな?

 と思えるほどになり、彼女のことを気にしていると、それまで頭を支配していた「七夕男」をまったく気にしない時間が存在するようになった。本来ならそこで男のことを忘れてしまってもいいのだろうが、克之は逆に男のことが気になってしまったのだ。

――この男は、僕にとっての、後方の憂いなんだ――

 と感じた。

 自分のことを気にしてくれている女性の存在を感じたことで、今度は「七夕男」が自分にとっての憂いになった。

 しかし、簡単に忘れることができない。それは自分が約束したわけではないが、遭う約束をしたことで、男の正体を知ることができると思ったからで、男の正体を知ることもなくこのままでいることが許されないと感じたからだ。

 克之にとって、

――避けては通れない関門――

 であることを、自分を気にしている女の子がいることで、再認識したのだが、「七夕男」と話をしている中で、

――彼女は、まさか「七夕男」と何か関係があるのではないだろうか?

 とさえ思うようになった、

 それを思い過ごしだとして簡単に一蹴してしまうことができない自分を、克之は憂いている。今の段階では、完全に主導権は「七夕男」に握られていた。

「七夕男」との会話の間、思い出すことのないと思った彼女のことが、頭の中で輪郭として浮かんできたのを感じると、

――僕は、今何を求めているんだろう?

 と、時間の感覚に、感情がいかに絡んでくるのか、克之はとりあえず、気持ちに身を任せているしかなかった。

 自分を気にしてくれている女性、そして一年ぶりに遭った「七夕男」との会話。それぞれを頭の中に抱きながら、克之は、今自分が何を考えないといけないのか、模索の最中にいることを感じていたのだった……。

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