人生リタイア

@h1b1ne_kao7

第1話

   人生リタイア


 『電車が通過します。危険ですので黄色点字ブロックの内側までお下がりください。』

ホームのアナウンスに久遠 知沙希(ひさとお ちさき)の身は震え上がった。それはほんの少しだけ周囲の空気を硬直させて固く握りしめた拳がぴくんと反応して見せた。覚悟を決めた面持ちで知沙希は点字ブロックの向こう側へとゆっくりと足を踏み出していく。耳には遠くから近づいてくる車列が空気を引き裂いて迫ってくる音が届いていた。いつも電車が通過するたびにタイミングは測っていた、間違えるはずがない。丁寧なシミュレーションを重ねた。家を出るときはいつも右足から出ている。どのタイミングで左足を出せば右足で確実に電車に飛び込めると体がもう知っていた。汽笛の音が鳴り響いて電車が駅を通過する瞬間には私はこの優美な世界とお別れを告げることになる。絶望しかしなかったはずの世界なのに、走馬灯を感じる時間の流れが遅くなる感覚の時にはあらゆる人の顔が思い出される。中にはインターネット上であったことがない人まで浮かんでいた。それなりに、残すものがあった人生だと振り返っていると、いつまでも自分の意識が残っていることに気が付く。失敗したのか。それにしても痛みはなく、体の四肢の感覚はすっかりと残っている。汽笛が鳴り終わり電車は遥か彼方の方向へと去っていくのが視線の端に捉えられてる。緊急停車はなかった。

「危ないよ。」

背中から声を掛けられて、やっと自分の手が捕まれていることに気が付いた。知沙希の体は右足を出す直前に、だらしなくシャツを着こなした男に右手を掴まれてホームに体を残していた。


 知沙希はそのまま力なく点字ブロックの内側へと体を戻した。居心地が悪くうつ向いていると一陣の風が吹き抜けておかっぱ頭を優しく撫でた。

「……なんで止めたんですか。」

どうして聞いたのだろうとすぐに思った。逃げてしまいたいと思ったのに、誰かに繋ぎとめてもらえたと言う事実が知沙希の体を包んでいた。身を投げ出そうとした理由には他者との繋がりを寂しく思ったなどというくだらないことはないつもりでいた。あくまで世界は美しいまま、私はこの世界に終わりを告げる覚悟を存分に決めたはずでいた。そこに未練という感情は誕生しえないし、私も認めることはできない。ただ、事実がそこに残るのだ。久遠知沙希という人物が生まれた証を確かにこの世に刻み込み、自らの手でその幕を下ろしたという有終の美を飾るつもりだった。この質問の意図があるとするのならば、そのままの意味だ。他意などあってはいけないのだ、そう思いつつも抗えずに口は簡単に滑った。

「人身事故が起きたら家に帰るのが遅くなる。」

「え?」

耳を疑った。果てしなく利己的な理由で知沙希の決意は一瞬にして絶たれてしまったこと。そしてそれに少しでも希望のような感情を見いだしてしまったことを悔やんだ。私の名誉ある行動がただの帰巣本能によって阻まれたことは知沙希の歴史をお菊傷つけた。

「よした方がいい。自分勝手な行動は。ほかの人に迷惑が掛からない方法ならほかにいくらでもある。」

男はずっと知沙希の隣に立っていた。風貌は二十代後半ほどで線が細く、ふわふわとしたマッシュの髪型が印象だった。柔らかい雰囲気をしているのにごつい黒縁の眼鏡をしているのが全体の印象を引き締めている。彼はスマートフォンを操作したままこちらに目を向けないで言った。無表情なのに、どこか明るみのある声で凡その人が聞けば好印象に思われる声だと知沙希は思った。

「お節介じゃありませんか。」

「どうして?」

「だって見ず知らずの人にこんなことするって、そう以外に考えられないでしょう。普通周りのことなんてみんな見向きもしてないです。」

「だから言ったじゃん。電車止まって帰るのが遅くなったら嫌だって。」

またもそっけなく男が答えるとまたホームにアナウンスが鳴り渡る。次の電車は駅に止まる電車だ。男はスマートフォンをしまってホームに入ってくる電車を眺めて話を終わらせようとしている。

「あの!こういうのってなんか座って話聞いてくれたりそういう展開じゃないんですか?」

「あのさぁ。」

男が言いかけた言葉は電車の停車音でかき消された。扉があくと中から数人が降りて去っていく。それを待ってから男は電車に乗り込みながら知沙希に向けて一言だけ放った。

「そんなことしてたら家に帰るのが遅くなって本末転倒でしょ。」

気が付くと知沙希は扉が閉まる直前に、知沙希は電車へ駆け込んだ。


「乗る電車これであってるの。」

「……三つ目の駅です。」

二人は電車中ほどまで移動して並んでつり革に掴まる。窓の外の景色は次第に速度を上げて高架の上から住宅街を見下ろしている。

「俺は二つ目。短い付き合いだったね。」

「私もそこで降ります。」

「なんでそんなに俺に執着するの。」

「計画を破綻させられたからです。」

「そういう計画は周りに及ぼす影響を考えてから実行すべきだと思う。自分がよければそれでいいという考えがよくないとは言わないけど、受け入れてもらいにくいことは間違いない。」

「どうせ私がいなくなった世界の事なんて私には関係ないじゃないですか。」

電車が減速を始めてやがて停車した。扉が開いて人の出入りが起こる。目の前の席が二人分空いたことで自然に二人は席についた。

「それって長くなる話?」

伏せていた知沙希は男を見上げる。それはとても不安そうな顔だった。

「俺、次の駅で降りるから。君もちゃんと家に帰った方がいい。」

「じゃあ連絡先を教えてください。」

男は表情を変えなかった。ただじっと知沙希の目を見据えて少し考えたあとスマートフォンを出してメッセージアプリを起動してQRコードを表示させた。

「え?」

「要らないなら消すよ。」

「要ります。」

知沙希は慌ててスマートフォンを取り出してQRコードリーダーで読み取った。通知のポップアップが表示されて彼の登録名が「綾香 陽」と表示された。

「あやか、さん?」

「それだと女の子みたいだから、はるでいいよ。」

電車がアナウンスを始めて減速を始めた拍子に体が傾き二人が一瞬触れ合った。目早に移り変わる景色がゆっくりと目で追えるようになった頃合いを見計らって陽は立ち上がった。

「俺、誰に対しても既読無視よくするから。そんな気にしないで。」

去り際、陽は少しだけ微笑みかけていたように見えた。知沙希は小さく頷いて彼を見送った後、一気に脱力した。

 知沙希の席からは運転席の先の光景が鮮明に映し出される。永遠と続く線路が面白味もなく並んでいるものだと思った。十数分前には知沙希が轢かれるはずだった電車が先を行っているのだろう、がその姿は未だに見えない。アキレスと亀というパラドックスがあるが、例えば知沙希がこの地点から新幹線で渦中の電車を追いかけても追いつくことができないという話。知沙希の決行の意はすでに手が届かない範囲に行ってしまったのだと思い知らされた。

無常に、汽笛が鳴り響いて知沙希の体を最寄り駅まで届けた。


 知沙希は陽とそれからメッセージのやり取りを重ねた。先に宣言があったように陽の返事は決して早いとは言えなかったが、知沙希の言葉を雑に扱わない点には交換を感じていた。陽は人見知りするタイプなようで、やり取りの回数を重ねていくとだんだんと素顔が見えるようになっていった。それについては本人も言及していたが、知沙希は初対面の頃からずかずかとした物言いだと言う事は感じていた。


『あれから駅に着くたびに人身事故で電車が遅れてないか心配するようになった。』

『もう掘り返さなくてもいいじゃないですか。私だって一度あんなにあっさり止められてしまったら二度目を意気込む気もないっていうか。格好悪いじゃないですか。しませんよ。』

『それって一度の失敗でくじけた方が格好悪いじゃない?』

『男の人はそれが男らしいって事かもしれませんけど、私はか弱い女の子ですから。』

『その発言は今の時代は問題になりかねないよ。』

『だから面倒くさいですよ。』


リズムよく続いていた会話がここで一度途切れた。メッセージを送ってから知沙希は失敗したと感じた。せっかく楽しく話していたのにまた何か勘ぐらせるような事を言ってしまったのではないか、陽を困らせてしまったのではないかと思案を巡らせた。会話を交わすことを繰り返していくうちに知沙希にも陽の人物像が見えてきた。まず、極度の面倒くさがりであること。自分の意思でないことに巻き込まれるのが嫌いなこと。これは知沙希の手をホームで掴んだ日の行動に起因しているとも言っていた。

「事故になる方が面倒くさいと思ったら、変な女子大生に絡まれたから放っておけばよかった。」

しかし打ち解けていくうちにこんな冗談も言えるようになったことは知沙希にとっては嬉しいことだった。もしかしたら本心で言っているのかもしれないという危うさも同時に思わせるところが、自分が面倒くさい部分を見せたらすぐに関係を切られてしまうと思える一因になっているのだろう。知沙希は陽と話している時間が好きだった。その時間を失う事を恐れるようになっていた。


『ずっと思ってたんだけど。こういう場合って一回ちゃんと話聞いた方がいいやつ?』


しばらくしてメッセージを受信した。あの日以来、他愛のない話ばかりでお互いに本質に触れようとしてこなかったことを言っているのだろう。その話題に触れようとすると知沙希の胸が一段奥に下がるような息苦しさを感じるようになっていた。どこか恥ずかしさも入り混じって顔が紅潮し体温が上がる様子も感じている。俗にいう、変な汗をかいてしまうこともあった。

 願望が全くないと言えば嘘になった。自ら命を擲つ愚行を誰かに知ってほしかった、見てほしかった。できることなら止めてほしかった。気付かないようにしていたが強がって自分の行動を正当化して当たり前に振舞える権利だと言い張って、考えれば考える程自分が愚かだと思った。これは実際にあの一歩を踏み出そうとしたから、そしてそれを踏みとどめてくれた人がいたから感じることができる感情だと改めて思った。少し怖かったが、知沙希は返事を送ることにした。


『じゃあ、会って話聞いてくれますか?』


 その日の夕方。二人は最寄りのファミリーレストランで落ち合う事になった。知沙希はどこか落ち着かない様子をしていたのを陽がすぐに察したのか揶揄われてしまった。それでほどよく緊張が溶けていつもの笑顔が戻ったが、二人が会うのは電車で分かれて以来。陽にとっては始めて見た知沙希の笑顔だった。

「知沙希はそんな風に笑うんだ。」

「どんな風に笑うと思ってたのよ。」

「うぅん。笑えないより、ずっといい。」

 席に案内されてドリンクバーを頼んだ。陽はコーヒーを、知沙希は紅茶をそれぞれサーバーから持ってきて座りなおした。知沙希にとってはどこかぎこちない空気が包んでいたのだと感じたが、陽はそんなことお構いなしとばかりにコーヒーをすすりにこにこと微笑んでいる。まるで知沙希が話を切り出すのを待っているようだった。

「何から、話そうか……。」

「なんでもいいよ。昨日食べた美味しいご飯の話でも、大学で過ごしたことでも、なんでも。」

「なんでもって、逆に困るんだけどな。」

「話を聞いてくれますか、って言ったのは知沙希だよ。」

「それはそうだけど。聞きやすい雰囲気作りっていうか、そういうのもあってしかるべきじゃないかな……と。」

「こんなに両手広げてにこにこしてるのに?まだお膳立てが必要っていうならそれはもう我儘じゃないかな。ああ、ごめんね。そんなつもりで言ったわけじゃないよ。」

陽が言葉を取り繕うくらいには知沙希は思いつめた顔をしていたのだろうかと思った。すぐに笑顔を取り繕って見せたが陽は険しい顔をしたままだった。

「その、ね。誰かに聞いてほしいっていう気持ちは本当は凄くあるんだけどね。なんていうのかな。どうしていいか分からないっていう気持ちの方が強いんだ。こんなこと話して引かれないかな、とか。逆に重荷になっちゃうんじゃないかな、とかさ。」

「いいんじゃない?それって凄く普通の考えでしょう。ちゃんとできてるじゃん。あの時の知沙希は周りへの影響だとか迷惑を全く考えないで飛び込もうとしてたけど、今はそれができてるんだ。いい傾向だと俺は思うよ。」

「いいこと、なのかな。」

「俺もいい加減なことは言えないからさ。例えば知沙希が人を殺しました、なんて薄情されたら引く……じゃないけど重い話だなとは思うし。そういう最初の印象はもう反射みたいなものだから仕方ないと思ってる。その後に、どういう反応を見せるかっていうところはコントロールできるかもしれないけど、そこを制御できる人間なんて殆ど居ないんじゃないかな。だから知沙希が怖がってる気持ちもよくわかるよ。だから言わせてもらうと、俺は話を聞いて欲しいと言われたからここに来てる。その話を聞いて知沙希にこうしろとかああしろ、なんていうつもりは毛頭ない。」

「うん。ありがとう。」

知沙希の胸を押し付けていた何かがすっと消えて無くなったような気がした。体が軽くなったような感覚になった。線路に飛び込もうとした瞬間のあの重い体とは比べ物にならない程の高揚感に満たされていた。陽の言葉には説得力があった。肯定してもらったわけでも、激しく否定されたわけでもない、ただ"陽"という人間としてここにいてくれることに感謝の気持ちしかなかった。陽は極端に知沙希との距離を詰めてこようともしなかった。今でもそう思っている。それがどれだけ心地よく、ありがたい存在かという事に気づかされたような気がした。今なら、なんでも話すことができる、と知沙希は強く思った。


「何もなかったの。」

知沙希は紅茶を一口含んでからゆっくりと語り始めた。感極まった感情を落ち着けるようにして話さなければならないことを頭の中で想像しながら言葉を紡いでいく。

「いじめられたこともない。勉強で挫折したこともない。もちろん特別な結果を残したこともない。理不尽な親じゃないし、何一つ不自由なく生活していたの。

だからなのかな。贅沢な悩みって言われるかもしれないけどさ。いる意味が無いんだよ。ある日突然感情が芽生えて、この体を与えられて、私の小さい頃の知らない記憶の写真があって。気持ち悪いって思った。私の意思があることが気持ち悪かった。私が右手を動かしたいと思ったら実際に右手が動いてしまう。こんな気持ち悪いことってないよね。なにもないのに、ここに私がいるっていう矛盾が起きてるの。こんなの綺麗じゃない。おかしいことなのに誰もそれに気づいてすらいない。試しに一度話してみたこともある。そしたら考えすぎって言われて一蹴されちゃったよ。その時に私は思ったの。嗚呼、分かり合えないんだ。違うんだ。でも違うってことはそれが在るってことなんだ……。」

知沙希は一息ついた。陽は何も言わずに時折相打ちを打ちながら静かに話を聞いてくれている。

「そこからはおかしくなっていった。何を考えてもおかしいって思うようになった。私が疑問に思ったことも『普通はこうするよ』って頭ごなしに否定された。じゃ普通ってなに。それは大多数の意見を無理やり普遍化してるだけで、絶対的な基準になりえないのに、普通だから、の一言で全てが片づけられていくのを見てきた。」

「ごめん。」

沈黙を続けていた陽が不意に口を出した。知沙希は何のことか分からずに不思議そうに彼を見つめていた。

「最初に知沙希に対して普通って言っちゃったよね。言葉を間違った。そんなつもりで言ったわけじゃないけど、重荷になってしまったのなら謝るよ。」

「違うよ。陽くんはそんなつもりで言ったことじゃないって事くらい私分かってるし。そういう意味でも言ってないから……。」

「分かってるよ。ただ、謝りたかった。それだけ。ごめんね、話を遮っちゃって。もっと聞かせて。」

「って言っても、もうそんなに話すこともないよ。自分言ってて安い話だなって思う。結局構ってちゃんだけだったのかもしれないし。こんな話に突き合わせてごめん。」

「いや、いいじゃん。そういうの。」

「どういうの?」

「なんでもかんでも疑問に持つこと。右手の話なんて考えたこともなかったけど、言われたらそうだよね。脳から信号が出てるんだろうけど、じゃあその大元はなんなんだよって考えたら確かに気持ち悪いって思っちゃうのも頷ける。」

「遺書があったとして、理由が右手が動くから、になっちゃうんだよ。」

「哲学家っぽくていいじゃん。」

「なんか情けなくない?」

「そんなことないよ。太陽のせいで人を殺す人もいるくらいなんだから。」

「それって誰の話?」

「ムルソー。」

「誰それ。ねえ、お腹すいちゃった。なんか食べていい?」

「なんで俺に聞くわけ?」

「学生にお金出させる気なのかなって思って。」

陽は少し呆れたような顔をしてから奥に立てかけてあるメニューをとって手渡した。

「好きなの食え。」


 知沙希は胸の裡を話すと楽になるというのは気休めの言葉と思っていたが、それに効力があることをこの日知ることになった。それから何かと理由をつけて知沙希は陽に会うようになった。大概はファミリーレストランでこの日のように適当に意味のない話を続けるようになっていた。知沙希にとってはさらに心地のいい時間になった。今思い返してみれば線路に飛び込もうなどと馬鹿なことをしたものだと笑いながら思い返せることに満足した気持ちを持っていた。


 知沙希が陽と出会って三か月ほどが過ぎた夕方、知沙希は帰宅したころだった。家の前に見慣れない車が停まっていることに気が付いたがその理由をすぐに知ることとなった。家には警察を名乗る二人の刑事がいて母親が対応していた。知沙希が帰ると、知沙希を待っていた旨を伝えられて胸が苦しくなった。

何も身に覚えがないので必死に頭を回転させて過去を遡った。唯一思いついたのが線路に飛び込むとした時のこと。あの時実は電車がブレーキをかけることになって鉄道会社に損害が出ていたのではないかと思った。賠償金という文字が頭をよぎった。こういったケースの場合は何千万単位のお金が動くという。もちろん知沙希に支払い能力があるわけなどない。自然と両親にその請求が行くことを考えるとうまく呼吸ができなくなった。

「……久遠知沙希さん、ですね?綾香陽さんについて伺いたいことがあるのですが。」

遠い世界の出来事のように思いながら刑事のいう言葉が耳に届く。陽と言った。その名前に反応して一気に現実世界に引き戻された。

「陽くんが何かしたんですか?」

知沙希の様子を刑事二人が観察している。知沙希が知らないふりをしているかどうかと見極めているのかと本能的に思った。だとしたら彼は何をしたというのだろう。昨日電話したときは何事もない、いつも通りだった。ということは常習的に何かをしていたのか。警察から逃げているのか。情報を欲した。

「実は、彼の遺体が今朝見つかりました。」

知沙希から世界が遠のいていく音が聞こえた。真っ暗な世界に水滴が垂らされて波紋が広がっていくように、ゆっくりと世界の方が知沙希から離れて行った。知沙希は言葉の意味を理解できないまま刑事の言葉を聞く。

「中毒死でした。精神科の通院経歴があり、抗うつ薬を5年にも渡りため込んでいたようです。それを一気に服薬して中毒に至ったと見ております。遺書が見つかっていないので最後の通話履歴があなたでしたので何かご存じではないかと思い伺っておりますが……。お付き合い、されていましたか?」

「そういう関係では、ないです。ただ、親しくはさせてもらってました。あまり感情的になることをしない人で、よく笑ってくれて。精神科に通ってたなんてことも知らなくて……。」

話しながら知沙希は自分の声が震えていることを思い知った。自分ではしっかりと話しているつもりでも聞いている刑事の顔が険しいところを見るときちんと話せているのか自信が無くなっていく。もちろん知沙希が知りえる陽のことで、自殺をほのめかすようなことは何もなかった。刑事もそれを察すると、何か思い出したことがあれば連絡をくれと名刺を残して家を後にした。知沙希は一人になりたいと部屋に籠った。

 感情が湧いてこないことに怒りにならない怒りを覚えた。間違いなく好意的に思っていた人間が死んだというのに涙の一つも出てこない自分に呆れる怒りだった。その怒りも面に出てこないのだからどうすることもできない。そして、次第に案外こんなものなのかもしれないという結論に至って心は落ち着きを取り戻しだす。知沙希の知らない部分で陽は苦しんでいたことが、自殺という結果を聞いて想像できた。知沙希の手を引いたとき、どんな気持ちで止めたのだろうと自問した。依然言っていた、迷惑のかからない方法と彼は言っていたがそれがこのことだったのかと思うと憤りを感じた。

現時点で、私のことを何も考えてくれていなかったのかという思いが自然とこみあげてきた。どうして。その一言だけがぽつりと零れた。

「他人の影響を考えろといったのは陽くんなのに。どうして私への影響を考えてくれなかったの。」


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