ユウキの孤独

 ユウキがおかしい。一緒に暮らして数週間しかたっていなわけだが、そんな俺でもはっきりと変わるぐらいユウキは変わってしまっていた。

 なんと例えればいいのだろう。無気力で無関心。目に映っているものが見えていない、見ようとしないのだ。

 三人そろっての食卓にて、ユウキは行儀を無視して肘をつき、夕飯であるロールキャベツ(トマトスープ煮込み)をいじっている。

 フォークでキャベツを剥いていたかと思えば、今度は巻きなおす。すぐにその遊びにも飽きてフォークから手を放して、テレビの音量を上げてぼんやりと眺めている。

 俺を戸惑わせているのは、そんなユウキの傍若無人っぷりに、アイが一言も注意しようとしないことだった。せっかくの手料理をないがしろにされれば、普段のアイなら不満の棘を出すはずだ。

 もしかして俺がどうするか、試しているのだろうか?


「あ~、ユウキ。食べるかテレビ見るか、どっちかにしろ」


 なので俺は毅然と言い放った。食べ物で遊んだりするのは俺も好きじゃない。

 ユウキは俺のほうを向いた。内心ではいつもの笑顔を見せてくれることを期待していたのだが、現実は小さな溜息を吐いただけで食卓から腰を上げたのだ。

 そのまま一言もなく、ユウキはリビングを出ていった。閉められなかったドアから階段を上がる音、続けてドアを閉めるが聞こえたから自室にこもったのだろう。

 アイは怖いくらいに冷静だった。ラップを持ってきてユウキが2、3口だけつまんだだけの無残なロールキャベツを保護し始めている。


「いったい、何がどうしたんだ!?ケンカか!?」


 ここで俺は我慢の限界に達した。


「俺に文句があるなら、はっきり言ってくれ!何が起こってるのかわからないのは気持ちが悪い!」

「……たまにああなるんです」  


 ぽっかりと空いた隣の席を見つめながら、アイは声を抑えて言った。


「たまにって、何度もあったのか?」

「はい。不定期で何度も。私もお母さんも、はじめ見たときは二重人格なんじゃないかって話しあったぐらいです」

「原因は?」


 アイは唇を結んだ。静かに立ち上がって開けられたままのリビングのドアを閉めた。これから話すことをユウキに聞かれたくないのだ。つまり原因はユウキにある


「お父さんに電話したんだと思います」


 お父さんと聞いて、一発で俺の頭は真っ白になった。俺のことじゃない。アイのお父さんっていうのは、つまり……


「タケオさんじゃなくて、今の私のお父さん。ユウキのお父さんで、お母さんの……」

「わかってる!そこの説明はいい」


 怖気が走ってアイの話を遮った。アイが俺の知らない男をお父さんと呼んでいることも、マナミが再婚した男のことも考えたくない。頭痛の種は一つも厄介なのだ。

 俺はこみ上げてくる不快を押し殺して話を戻した。


「なんで父親に電話したらユウキはああなるんだ?仲がとんでもなく悪いのか?」

「嫌いなら電話はしません。ユウキはお父さんと話がしたいんです」


 また怖気が走った。慣れそうにない


「話したかったって、話したんだろ?」


 俺が帰ってきたとき、ユウキはスマホを片手に廊下に佇んでいた。それとも話しはできたなかったのか?


「理想通りにいかなかったんです。話しにならないとユウキはいつもああやって、自暴自棄になるんです」

「自分の父親に電話して、なんで話ができないんだ?普通に話せばいいだろ」


 俺は自分と父親のことを思い浮かべていた。頑固一徹で頭の固い父だった。俺に空手を教え、男として鍛え上げてくれた父。

 だからこそ、俺が高校を途中で放り投げて合コンで知り合った女性と結婚すると告げたとき、烈火のごとく怒り狂った。むろん、俺は烈火の如く言い返した

 あの時ほどではないが、俺は父親に遠慮したことなどない。女の子だと違うのだろうか?


「ユウキのお父さんは……ユウキに興味がないんです」

「興味がない?」


 いったい俺は今夜だけでどれだけの「?」を浮かべればいいんだ。


「そんなわけあるか。父親ってのは娘が可愛いもんだ。興味がないはずがない」


 俺はごく一般的な感想を述べたつもりだった。問題なのは、俺の家庭はごく一般とは真逆だったことを忘れていたことだ。


「そうですね」


 アイは真っ直ぐに黒い瞳を俺に向けていた。俺は何も言えなくなった。ユウキの話も、アイの話も、それで終わった。











 もやもやとした思いを抱えたままで一夜を過ごしたせいか、眠りは浅く寝た気がしなかった。

 結局、アイとは気まずく顔が合わせられず、ユウキは部屋から出てこなかった。女子高生二人の機嫌が直っているかどうかわからない状況でベッドから出たくはないが仕事があった。


「おはようございます」


 そんなわけで渋々とリビングに顔を出すと、制服にエプロンと三角巾を装備したアイがいつもの調子で挨拶をしてくれた。笑顔でなく仏頂面でもなく普段通りだ。生真面目でお硬い表情は昨日のことを気にかけているのか判断できそうにない。


「あぁ、おはよう」


 だから謝るよりも、いつも通り椅子に座った。すぐにおにぎりが三つ乗っかったお皿と具だくさんのみそ汁。焦げ目のついたソーセージと卵焼きに、レタスのサラダが出てきた。

 同じものが向かい側に2つ用意され、アイが座った。あとはユウキを待つだけだった。


「あの……」


 アイが声をかけてきたので俺は箸をとめた。さて、昨晩のことを掘り返されるのか、それともユウキのことか


「今日、お仕事休めませんか?」


 予想と違い切り出しだった。


「仕事を休むって、どうして?」

「……ユウキと一緒に過ごしてあげて欲しいんです。父親と過ごす気分が味わえれば、ユウキも少しは楽になるかなって」


 俺は抓んだソーセージを取りこぼした。父親を演じてくれと元娘の口から飛び出したのだ。嫌味にしか聞こえなかったが、アイはしごく真剣な様子だった。


「いくらなんでも高校生の子供がすねたから、仕事を休ませてくれなんて気安く言えるもんじゃないぞ」


 確かにゴンさんはいつでも休んでいいと言ってくれた。だけど、それは俺への信頼があってこそだ。

 こいつならサボりたいという理由で仕事に穴をあけたりしない、気まぐれで休んだりしないという信頼だ。その信頼に上に胡坐をかくような真似は俺には出来ない。

 もちろん、事情を説明すればゴンさんなら首を縦に振るかもしれないが、それとこれとは話が別だ。


「そこまでする必要はないだろ。反抗期が続いててもおかしくない年なんだから、案外、寝て起きたらすっきりしてるんじゃないか?」

「それは……」


 浮かない顔でアイは続けざまに不安を口にしようとしていたが、その前にリビングのドアが開いた。

 ユウキだ。いつも通りだらしなく制服を着こなしていた。普段と違うのは、笑顔を失った無気力な表情であるということ。

 昨日のことが尾を引いていることに、俺にも少しだけ不安の二文字が浮かんだ。


「おはよ……」

「おはよう」


 どうにか絞り出した挨拶をして、ユウキは食卓に座った。箸を持ち、もそもそと食事を始めた。夕食をほとんど食べなかったから、腹が減っているのだろう。食欲があるなら大丈夫だ。と、思いたい


「ユウキ、今日は学校休んだら?」


 躊躇いがちにアイはそう提案したものの、ユウキの反応は冷ややかだった。


「なんで?」

「体調、悪そうだから……」

「別に悪くなんてないから」

「でも……」


 アイはその後もあれこれと提案を続けけていたが、ユウキは耳を貸すことなく黙々と食事という名の胃に食べ物を押し込む作業に没頭していた。

 終始、俺は口を出さなかった。どうしろってんだ?喉元まで競りあがってきている疑問と不満をユウキに浴びせるべきなんだろうか?それともアイの頼まれた通り、父親を演じるべきか?

 無理だ。俺は部外者だ。ユウキとユウキの父親のことに首を突っ込む権利なんて持ち合わせていない

 それとも男として、足場の見えない崖から飛び出すべきなんだろうか?


「ごちそうさま」


 ユウキの食事は終わってしまった。普段はやらないのに、空になった食器を流しに片づけて洗い出した。

 アイは俺を見ていた。その目に浮かんだ不満の色に俺は黙って首を振った。ずっと一人で暮らしていた俺に、他人のために奮い立つことは難しいことだとわかってほしかった。

「いってきます」


 アイはちゃんとあいさつをしてくれたが、ユウキは無言で出て行ってしまった。

 二人が来てからもっとも静かな朝だった。

 一人になったリビングで俺はここぞとばかりに腹の中の鬱憤を吐きだした。俺は改めて、年頃の娘というものを知った。まるでどこにはねるかわからないボールみたいだ。たまに遠くにはねたかと思えば、顔に向かって凄い勢いで戻ってくる。

 世の父親は日ごろからあんな危険物を取り扱っているのだと思うと信じられなかった。父親という義務を放棄して正解だったかもしれないという考えが頭をよぎるほどだった。

 

「ゴンさんに相談してみるか……」


 ちょっと特殊な俺の悩みを相談できそうなのはゴンさんぐらいだった。状況が好転するかどうかは不明だが、抱えた鬱憤を吐きだす場所が必要だった、ゴンさんなら嬉々として話を聞いてくれる。

 俺は苦めのコーヒーを煎れた。昨晩から心が痛むことばかりだ。せめて出勤するまで時間ぐらいはリラックスするべきだ。

 だけど、俺がコーヒーを持ってソファに腰を下ろした時、スマホが鳴った。知らない番号だった。


「もしもし」

『まだ家にいますか!?』


 俺は飛び上がった。電話相手はアイで、声が酷く焦っている。ただならぬ事態だ。


「いるけど、なんだ?どうした?」

『ユウキがそっちにいませんか!?』

「いるわけない。見送っただろ」

『あぁ……どうしよう……』


 俺は落ち着きなく部屋を歩きまわっていた。スマホ越しに聞こえるアイの不安が俺にも感染していた


「いったい、なにがどうしたんだ!」

『逃げちゃったんです!ユウキが行方不明なんです!』









 事の発端はこうだ。俺が二人を見送った後、新しい通学ルートを通り、バスに乗って、駅についた。

 ユウキはずっと大人しかったらしい。アイもできるだけユウキの気持ちを和らげようと様々な楽しい話題を振ってみたが、返ってくるのは「うん」とか「そう」ぐらいだった。

 そして電車の出発直前にユウキは行動を起こした。駆け込み乗車の逆、飛び出し下車をやらかしたのだ。

 アイが捕まえようにも、ドアが閉まった。電車は無情にもアイだけを乗せて駅を出発。最後に見たのはホームから立ち去るユウキの姿


「なんだって、そんなことするんだ!何がしたいんだあいつは!!」


 車の中で俺は不満をぶちまけた。たかだか父親との会話が上手くいかなかったからって、こうも問題を起こす必要があるのか!?


『そんなことわかりません。前は……万引きしました』


 いきなり後頭部をハンマーでぶん殴られたような衝撃だった。


「なんで今さらそんなこと言うんだ。話してくれれば……」

『……私と話しなんてしたくないくせに』


 続けて食らった衝撃に、心臓が凍り付いた。スマホから聞こえてきたのは、最後の喧嘩でマナミが俺に突き刺したナイフそのままだった。

 声と言い方までそっくりで怖くなった。向こう側にいるのが、アイではなくマナミだったら……俺はどうすればいいんだ。


『ごめんなさい。言いすぎました』


 普段の落ち着いた声が聞こえて、凍り付いた俺の血液は再びめぐり始めた。向こう側にいるのはアイだ。間違いなく

 アイも不安なのだろう。ずっとユウキの奇行に付き合ってきた彼女には、状況の深刻さが身に染みているのだ。一方、俺は未だに今の状況を理解し切れていない。霧の中で進むべき道を手探りしているようなものだ。しっかりと道を見定めなければ転落してしまいそうだ。


『……私、次の駅で折り返してユウキを探しに戻ります』


 俺の沈黙をどう取ったかはわからないが、アイは落ち着き払った声で言った。

 赤信号を待つ間、俺は出来るかぎり思考を広げた。

 今必要なこと。俺にできること、アイにできることは間違いなくユウキを見つけることだ


「いや、いい。戻ってくるな。俺が探す。三十分ぐらいならそう遠くには行けないだろ」

『そんなのわからないです。お金を持ってますから、行こうと思えば……どこでも行けます』

「それなら俺たちにできることは何もないだろ。お前が帰ってきて、補導でもされたら余計な手間が増えるだけだ。見つけたら連絡するから、学校で待ってろ」

『信用できません』


 きっぱり言われた


「だろうな。でも待ってろ。必ず見つけるから」


 今度はアイが沈黙した。俺を信じるか信じないか、秤にかけてどちらに傾くか見定めようとしているのだろう。

 実際、駅の周りの入り組んだ道のことをアイは知らないはずだ。この数週間、食料品の買い物は近場で済ませているようだし、年頃の少女らしくないアイが学校帰りに道草を食うこともなかった。

 駅周辺に出かけたのは、三人でモールに買い物に行った時以来ないはずだ。

 ショッピングモール。最初に探すのはあのあたりにしよう。ユウキがいる可能性が高い。


『……わかりました。でも、お昼までに連絡が無かったら私も探しに行きますから』

「それでいい。切るぞ」

『お願いします』


 現金なもので、別れ際のアイの嘆願を聞いて決意が沸いて、俺はアクセルを踏み込んだ。

 一緒に暮らす子供の不安を取っ払ってやるのは、俺にしかできないことだった。

 だけど、決意だけで上手く回るほど世の中は甘くない。

 モール周辺にユウキはいないと断言してもいい。

 駅の周りから手当たり次第に路地を見て回った。人通りの少ない早朝だ。金髪の女子高生が歩いていれば遠目からでもわかるはずだった。

 すべてが空振りに終わったころには、モールの中に入れる時間になっていた。五階分の商業スペースを少なくとも四度は見て回ったがユウキはいない。リスクがあるけど警備員を頼った

「金髪の女子高生を見なかったか?」と聞けば、訝しげな眼で見られたので「喧嘩して飛び出した娘だ」と嘘を吐いた。年配の警備員は納得して、仲間内にも聞いてくれたが返答は芳しくなかった。


「くそ……」


 駅前を探しながら自分の不甲斐なさと見当のつかない状況に頭を抱える羽目になった。

 漫画喫茶やカラオケにでも入っているのか、それともアイの危惧する通りとっくにこの地区から離れてしまったんだろうか。

 後者なら本当に打つ手はない。ユウキの奇行が収まるまで待つか、さもなきゃ警察の世話になるしかない。俺にもアイにもユウキにとっても、よくない結末になりそうだ。

 俺はユウキの行きそうなところについて考えてみたけど駄目だった。ユウキについて俺が知っていることと言えば、好きな食べ物ぐらい。

 ユウキは気安かった。その気安さにかまけて、俺はユウキと深く関わろうとは思わなかった。

 たったの一年、預かるだけ。だけど犬や猫とはまるで違う。理解しようとしなかったツケを支払っているわけだ。

 この一か月のユウキの姿を思い浮かべた。ソファの上でポテチを食べている姿、テレビを見て笑い転げる姿、不用意に下着を見せつけてくる姿。どれも役に立ちそうにない。

 今のユウキは俺の知らない、父親とのことでふて腐れているのだから。

 

「父親と娘か……」


 俺の頭の中で閃きが起こった。












「この不良娘」


 ユウキを見つけたときの俺の第一声はそれだった。色々と言ってやりたいことがあった。人の苦労も知らない金髪頭を引っぱたいてもよかった。だけど一人で黄昏ている後姿を見た途端に、俺は怒りは萎んでいった。

 ユウキがいたのは俺が探していた場所と真逆だった。駅を挟んだ反対側にある公園だった。背の高いビルに隠れてはいるが、アイとユウキの乗っている電車からは見下ろせるはずである。

 喧噪もなく車の行き交いも少ないので市民の交流の場、特に親子の憩いの場としてはちゃんの機能している。平日の昼間と言えど、幼い子供をのびのびと育てるのには最適な場所だろう。


「来たんだ」


 ユウキは一度だけ振り返り、また視線を元に戻した。視線の先では噴水広場で遊ぶ子供と、それを見守る親がいた。ほとんどが母親だけど、父親の姿もある。ユウキが見てるのはそっちのはずだ

 春の日差しが強い日に、楽しげな家族の笑い声が輪となっていた。

 ユウキはただその日常を眺めていた。

 自然と俺にもユウキの見ている景色が見えた。親と遊ぶ子供。子度を見守る親。俺とユウキは酷く暗い部分が似てしまっていた。


「……帰るぞ」


 いつまでも他人の家族を眺めていても、傷口は塞がらないことは知っていた。ユウキがぐずるようなら力ずくでも引っ張って帰るつもりだったが、ユウキはすんなりと俺の後ろをついてきた。

 気を配りながら車に乗せて、家へ帰る途中でアイへと一報をいれた。そこで思い出したが、俺は職場に連絡していなかった。慌ててゴンさんに電話をかけて数年ぶりの無断欠勤を詫びた。

 掻い摘んで訳を話せば、ゴンさんはたった一言「わかった」で済ませてくれた。懐の大きさに甘えることしかできなかった。

 家に着くと、ユウキは不気味なぐらいに大人しく指示に従い、2階の自室にあがっていった。

 俺は階段を監視できるようにドアをあけっぱなしにしてリビングで休んだ。ソファに腰を下ろすと、どっと疲れが湧いてきた。主に足から。それが頭まで上がってくると頭痛になった。まだ解決とは程遠い。

 しばらくして昼飯時になったので俺はキッチンに立った。冷蔵庫を漁って見つけたひき肉とニンニクで、ざっと炒めしを作った。醤油と胡椒味だけど、まぁ食えないことはない。


「飯ができたぞ」


 俺はノックをして声をかけたが、当然のように返事はない。めげずに三回繰り返してから、俺は容赦なくユウキの部屋に踏み入った。声はかけた。文句が出る元気があるなら少しは俺の気が楽になる。

 ドアを開けて一瞬、心臓が跳ねた。ユウキがいない。そう思ったが、ベッドが膨らみ金髪の頭がはみ出ていて、ほっと胸をなでおろした。

 さて、こっからどうすべきか


「飯ができたぞ。腹減ってるだろ?」


 返事はない。なるほど、回りくどいのは嫌なわけだ。俺はユウキを潰さない様にベッドの縁に腰を下ろした。


「……父親と上手くいっていないんだってな」


 覗いていた金髪がわずかに動いた。


「まぁね」


 目が覗いて返事があった。いい兆候だと思うことにした。


「俺にはよくわからんが……親が子供に興味がないってのはどういうことなんだ?お前がそんな風に滅入っちまうほどのことなのか?」


 ユウキは俺を値踏みするように見つめていた。瞬き少なく、気力のない瞳。俺の頭の中にあるユウキ像とは結びつかない。

 沈黙を守っていると、ユウキはシーツから抜け出して立ち上がった。そのまま歩きだしたので、また逃げ出すんじゃないかと冷や冷やしたが、ユウキは部屋のクローゼットを開けて、隅に置いてあったショルダーバッグから一枚のディスクを取り出していた。

 さて、何が飛び出るやら。ユウキが小さめのテーブルに置かれていたパソコンにディスクをいれた。楽しみではないが俺はベッドから座椅子に腰を移した。

 始まったのはアニメだった。古いアニメのようで、キャラクターは動物だった。主人公は強欲な猫とその息子。ある日、父親の強欲さに嫌気の差した息子は、父親の全財産をもって家出する。父親は財産を取り戻そうと追いかけるも、大金を持った息子は悪党に襲われて……最終的には父親は財産を捨て息子を助けた。無一文の父親と手を繋ぎ、息子は親の愛情を抱えて家路についた。めでたしめでたし。三十分ぐらいの短いアニメである。


「あたしも同じことしたんだ」


 アニメのエンディングテーマが流れる中、ユウキは口を開いた。


「話したっけ?うちのお父さんもお金持ちでさ。世の中で一番仕事が好きなの。子供のころお父さんと目があったことなんて数えるぐらしかなかったなぁ」

「でも、親なんだろう?お前は、その、お前の父親と母親が愛し合って生まれて……」

「セックスしてね」


 言葉を選ぼうとしたのに、ユウキはさっさと話しを進めたがった。


「子供を欲しがったのはあたしのママのほうなの。だけど、生んでみたら思ってたのと違ったみたい。もしかしたら、パパの気を引きたいだけだったのかもしんない。結局、どっちも上手くいかずにあたしが生まれてすぐに離婚したわけ」


 淡々と語るユウキに口の中に苦いものがこみ上げてきた。不快な話だ。


「で、金銭的な理由であたしはパパに引き取られたけど、パパはあたしに吃驚するぐらい興味がない。子育ては家政婦さん任せ。あたしが何歳かも覚えてないかも。そんな毎日だったから、あたしもママと同じで、パパの気が引きたくてしょうがなくなったわけ。そんなわけで、アニメに影響されて、パパの財布を持って家出したんだ」


 少しだけ間があった。俺が話しを飲み込むまで待ってくれたのか、踏ん切りをつける時間が必要だったのかもしれない。


「コンビニで食べ物買って、公園で寝る。そんな家出。三日目か四日目に電話が鳴ってね。パパだってわかると本当に嬉しかった。怒られると思ったけど、それでもあたしに興味を持ってくれてるんだって」


 ユウキは小さくため息を吐いてから、膝の上に組んだ腕に顔を埋めた。


「パパはさ……『財布が見当たらないんだか知らないか?』ってさ。持ってるっていうと、『そうか』って……それで、おしまい……」


 ユウキはつっかえながら、時折鼻を啜って言い切れば、パン!と手を叩いて、指先を小刻みに躍らせた。 砕けた少女の希望が散っていく様でも表現しているんだろうか。

 俺はちっとも笑えなかった。とんでもない話に、歯噛みしていた。アニメのエンディングテーマはとっくに終わっていて、舞い戻ってきた沈黙は泥のように重たく淀んでいる。

 苦痛だった。

 

「……関わらなきゃいいだろ。そんなやつに電話なんかしたってなんにもならないだろ」

「そんなやつって」


 ユウキの親子関係の冷たさは俺の理解の範疇を超えてしまっていて、そんな男を父親と呼びたくはなかった。ユウキも怒りもせず、嘆きもせず、ただ諦めの表情を浮かべていた。


「あたしね、病気なんだよ。どうしてもパパと関わりたい病。ふとした時に、もしかしたらパパもあたしと話したいんじゃないかって信じちゃうわけ。それで、電話して、駄目で、ガッカリして、なにもかもどうでもよくなっちゃうの。見ての通りになるってこと」

「……毎回か?」

「毎回。確率100%」


 ユウキはもたれ掛ったベッドに頭を乗っけて、天井を見上げた。涙がこぼれないようにしてるんだと思ったけど、その目に涙はなかった。


「ごめんね。馬鹿で」


 ユウキが謝ったもんだから、俺はたまらなかった。マナミとアイを失った時、俺が腐っていた。一日中スマホを見つめていた。マナミからの電話がかかってくることを願うだけで、自分のことも周りのことも何もかもが灰色に染まってしまっていた時期があった。もしも一度でも電話が鳴っていたら、ユウキのようにあり得ない希望を抱き続けたかもしれない。

 俺とユウキは似ても似つかないが、似なくていいところが似てしまっていた。

 俺には悩みを分かち合ってくれる上司と打ち込める仕事があったけど、ユウキにはないのだろう。

 父親の愛情という空虚を埋める存在。


「……携帯持ってるか?」


 覚悟を決めて話しかければ、ユウキは頭を傾けて俺を見た。


「なに?パパに文句とかやめてよ?意味ないから」

「そんなことするか」


 半信半疑といった感じではあるが、ユウキはやたらとキラキラしたスマホを投げてよこした。

 俺が何をしようと、どうでもいいわけだ。なので、俺は好きにユウキのスマホを弄った。他人のスマホの設定を変えるのは少し苦戦したが、やりたいことをやった。

 こんなことをして効果があるのか。今のユウキなら馬鹿馬鹿しいと一笑に付されてしまいそうだった。


「ほら」


 スマホを返すとユウキはしばらく画面を覗き込んでいた。その目にはまず困惑が浮かんだ


「なにこれ?登録名、父親代わりって、おじさんの番号?」

「そうだ。今度、父親に電話したくなったらそっちにかけろ」


 ユウキの目が俺を剥いた。訝しげだ。


「おじさんがあたしのパパになるってこと?」


 声はわずかに力が戻っている気がした。何故だろう。怒りか?期待か?


「違う。代理だ。今日みたいなことがあったら困るからな。お前のどうしようもない父親よりかは、かまってやれる、はず、だか、ら……」


 いつのまにやらユウキの顔が間近に迫っていた。獲物を狙う肉食獣のように四つん這いになって、にじり寄ってきていた。

 予想以上の食い付き具合に、俺は及び腰になってしまっていた。いまやユウキの目は爛々と輝いている。そんな目で見られると非常に困る。


「……パパって呼んでもいいわけ?」


 電流みたいにさまざまな感情が全身に迸った。

 パパ!!マナミが俺をそう呼んだこともあった。舌っ足らずなころのアイが俺にしがみ付きながらそう呼んでくれたこともあった。他人に呼ばれるなんて嘘だろ!

 

「駄目だ。あくまで代理だから、今まで通りおじさんと呼べ」


 動揺を押し殺して、俺はきっぱりを突っぱねた。ユウキにそんな風に呼ばれる由縁も資格もない。

 どうせ一年。一線を引いておくべきだ。


「代理じゃやだ。おじさんがその気ならパパって呼ぶからね。その気がないなら放っておいて」


 まだ自暴自棄を引きずっているらしいユウキは、中途半端な俺の姿勢が気に食わないらしかった。

 俺の真意を見定めようとしているのか、一層見開かれた瞳を近づけくる。はっきりいって威圧感が凄い。眼光を焼き殺そうとしているみたいだ。


「……わかったよ。好きに呼んでくれ」

 

 結局、俺は折れた。たちまちユウキの顔に彩りが戻った。

 このまま平行線をたどり続けて、ユウキの発作が収まらないのは御免こうむる。どう考えてもアイは絶対に見過ごさないだろうが、どうにか納得してもらうしかあるまい。


「パパ」


 真っ直ぐに俺を見てユウキが『パパ』と呼ばれ、眩暈に襲われた。

 この年になって、でかい娘とおままごと。性質の悪い冗談にしか思えない。

 この状況を笑うのはマナミぐらいだろう。もしかしたら、それが目的なんだろうか?馬鹿馬鹿しい


「ちゃんと返事してよ。パパ」


 俺の葛藤などお構いなし、ユウキはこのおままごとを続けるらしい。付き合うしかなかった


「パパ」

「……なんだ?」

「名前を呼んで」

「……ユウキ」

「んへ、くすぐったい」


 ようやくユウキはユウキらしく歯を見せて笑ってくれた。少なくとも問題の一つは解決したようだ。おかげで、俺に新しい悩みができたわけだが……


「パ~パ?」


 いつの間にか、ユウキが俺の前に立っていた。女子高生に見下ろされると中々に居心地が悪い。

 

「なんだ、ユウキ」


 さて次はなんだろう。ここまで来たのなら何でも叶えてやってもいいという気持ちになっていた。ユウキの代わりに俺が自棄を起こしかけていた。


「ハグして」


 これ以上の混迷はありえないと思っていた俺の見通しは甘かった。要求を理解する前に、ユウキが俺の腰の上に圧し掛かってきたのだ。

 女子高生の重みと柔らかさに、一瞬で俺は魅入られた。


「ま、待て!何してんだお前は!」

「何って、親子のスキンシップ。ほら、ハグしてよ~パパ~」


 ユウキのしなやかな腕が俺の首に絡みつき、ぴったりと体を寄せてきた。

 これは非常にまずい。今さらながら、ユウキは立派な女子高生だ。小ぶりではあるが胸はとっくに膨らんでいるし、瑞々しい肌からは男心をくすぐる香りが醸し出されている。薄いブラウス越しに伝わる体温は信じられないぐらい熱くなっていた。

 落ち着け。ユウキは娘(仮)だ。これは父と娘のスキンシップだと言い聞かせたものの、俺の身体は久々に触れあった女性の体にすっかり若いころの勢いを取り戻してしまっていた。


「ほら~、パパもギュッとしてよ」

「う、まぁ、ちょっと、待て」


 ユウキは暴走を始めた俺の下半身に、まるで気づきそうもない。本気で父と娘のスキンシップに興じている。俺を信頼しているのだ。そんな相手の下半身が、よもや自分のスカートに身を隠しながら一人で興奮してるなど夢にも思わないのだ。

 俺は色々と試した。ユウキの信頼に泥を塗るわけにはいかない。うろ覚えの般若心経を頭の中で唱えてみたり、さっきみた滑稽なアニメのキャラクターを思い浮かべた。

 効果なし。どれもユウキが身体をこすり付けてくるだけで吹っ飛んでしまった。もっと強力なのじゃないと駄目だ。


「ねぇ~、パパ?やる気ある?やっぱり嫌なの?」


 俺が怒ったマナミという禁じ手を思い浮かべていると、ユウキの声が1オクターブほど下がった。ハグをしようとしない俺を睨もうとしたのだろう。浮かせた腰を別の位置に下ろそうと……あぁ、待て。そこは……まずい。まだマナミの怒りが届いていない。


「いっ!」

「ひやぁ!?」


 ぐにりと俺のモノが押しつぶされた。ユウキは針でも踏んだように飛び上がったので、スカートに隠れていた俺の股間は白日の下にさらされた。

 俺はユウキから目を逸らした。見なくたって、ユウキが何にどこに注目しているのかが痛いほど伝わってくる。痛いんだ。間違っても心地よくない。死にたい。


「あ、っとぉ……これってさ……その……」

「わかってるから、何も言うな。理解してくれたんなら降りてくれ」


 自分を恥じていた。そりゃあ、成り立ったばかりの仮初の親子になりきれなんて無理な話だが、たったの数分でぶち壊すやつがあるか。

 ユウキを見るのが怖い。父親の愛情が得られず自暴自棄になる娘だ。父親を騙って欲情する変態にどんな処罰を下すのか、恐ろしくてたまらない。想像しかけたマナミの形相が瞼の裏で俺を睨んでいる。踏んだり蹴ったりだ。


「あ、あのさぁ、パパ」


 ユウキの両手が俺の頭を挟んできたので、俺は強制的にユウキのほうを向かされた。おずおずと目を開ければ、鼻先にユウキの顔がある。あまりの近さに唖然としたが、驚くのまだ早かった。


「あ、あたしなら、いいよ……」


 次の瞬間、ユウキの顔が視界から消えた。近すぎて捉えられなくなったのだ。

 代わりに感じたのは、唇に触れる、柔らかな……なんだこれは 

 

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