鏡のなかの少女

 それからのことは、早かった。

 ふたりは本部の配車に乗りこむと、大橋を渡って本土へと帰った。十番街に着くと、偉大都市を横断して、拠点である中央街へと戻る。

 同じ都市とは思えないほど、がらりと風景が変わった。

 中央連盟本部に帰ると、つねに第七執務室の指揮官席に代理で座るシーリオが、その日も同じ姿勢で待ち構えていた。

 シルヴィが成果を告げると、彼は非常に満足した様子だった。


「すでに報告は聞いている。幽霊左近のみならず、もう一名、余罪をまとめれば第四等に該当しそうな犯罪者を粛清したそうだな」

「ええ。敷善切定という名の浪人です。罪状の詳細は、いずれ支部のほうから送られてくるかと」

「承知した。ご苦労だったな」


 彼の眼鏡の向こうの視線に、わずかな信頼が宿っていることが、シルヴィにはわかった。

 それはシルヴィにとってはあまりなじみのない目線だった。彼のように優秀な粛清官から、その働きを認められるというのは。

 だからこそ、シルヴィのこころを、小さなとげのようなものが胸を刺した。


「疲れているだろうが、粛清報告書については、近くたのむ」

「ええ。週明けにはまとめて提出します、警弐級」

「けっこうだ。では、本日は以上。よくからだを休めておくように」


 そこで、シーリオはじろりとシンに目をやった。

 シンはというと、思いきり前後にからだがふらついていた。

 もともと眠気に弱い人間ではあるが、本部に戻ってきて緊張が解けたらしく、立ちながらも器用に居眠りしていた。

 もっとも、上官の前なのだから、本来今こそ緊張すべきときなのだが。


「かわりにお詫びします、警弐級。ですが、見逃してもらえると。彼は今回、とくによく働いてくれましたので」

「ああ、わかっている。連れていってやれ、警伍級」

「はい。それでは、失礼します」


 ぺこりと一礼して、シルヴィは退室した。

 あとはパートナーを送り届けるだけという段になって、シルヴィのほうも気が抜けそうになる。

 もう少しの我慢というところで、シンがふと、こう口にした。


「……シルヴィ」

「なにかしら」

「質問がある。お前は、なにを気にしているんだ」


 シルヴィは、はっとした。

 あれからずっと、平静は保てていたはずだ。にもかかわらず、見透かされていたのか。

 それでも、正直に答えることはできなかった。


「どういうこと? なにも気にしてなんていないわ」

「……本当か?」

「当たり前でしょ。事件は解決したのよ。それも、これ以上ないというかたちで。なにを気にするべきことがあるというの?」


 そうだ。なにも、遺恨はないはずだ。

 この小さなとげ以外には、なにも。そしてそれは、ほかのだれにもわかるものではない。


「……それならいいが」


 不満げに言うと、シンはそれきり、なにも口にすることはなかった。

 ふたりの居住フロアは、べつの階にある。シンはエレベーターを先に降りると、なにか心残りなのか、扉が閉まるまで、ずっとこちらをみていた。

 シルヴィに瑕疵があったとすれば、急いで扉を閉めてしまったことだった。


「おやすみなさい、チューミー。またあしたね」


 その声だけは、明るかっただろう。

 そしてそれが、彼女の最後の虚勢だった。







 急いで自室に戻ると、シルヴィはマスクを手放して、装備していたものをすべて投げ捨てて、外套も脱がないままに、その場に座りこんで、うずくまった。

 さながら、重たい現実にこらえるかのように。


(……わたし、死ぬところだった)


 わずか顔を上げると、鏡のなかに、弱々しい女のすがたがあった。

 あのときの光景を思い出すと、からだが震えた。

 幽霊左近は、おそらく、真の強者だったのだ。古戸廉也は、能ある鷹として、完全に爪を隠しきっていたのだろう。

 粛清官にも容易になれようという実力を隠して、燈火流の道場で、その奥義を盗み続けていたのだ。

 だが結果は、この目でみたとおりだった。

 かの殺人鬼は、真正面から、実力で斬り伏せられた。ほかならぬ、自分のパートナーに。

 シルヴィは、恥ずかしく思った。

 自分が今回、なにをしたというのか。ばかみたいに資料ばかり読んで、実戦ではなにもできず、そのくせ肝心の敵の正体さえも、パートナーの気づきがなければたどり着けなかった。

 自覚すればするほど、それは耐えられないほどの恥辱だった。

 自分のめざす完璧までの遠さが、あまりにもつらかった。

 それは、ともすればひと晩じゅう続きそうな痛みだったが、しかし、そんなに時間を無駄にはしていられないと、いずれ彼女は立ち上がり、机に向かった。

 報告書をしたためねば。

 誠実に、だれがどれだけ粛清官としてまともに働いたのかを、欺瞞なく記さなければ。

 だから目を腫らしながら、ペンを持った。


 そのとき、彼女は放置していたままの、とある一通の封筒を発見した。

 知り合いの科学者から渡された、テスター募集の書類だ。

 現在ガクトアーツ社が試作ちゅうの、射手に特化した、新技術を駆使したドレスマスクの使い手を探しているという。

 今の気に入っているマスクを変える気はなかったから、ことわるつもりでいたのだった。

 なにを甘いことを言っていたのだろう。

 わたしはいったい、どれだけ愚かであれば気が済むのだろうか。

 ほんの少しでも強くなる可能性があるなら、なぜこの手を伸ばさない?


 彼女は、血走った眼でサインを入れた。

 強くなりたかった。

 本当に、こころの底から、ただそれだけを願った。



(完)

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