海野カナデは夢を奏で、

F.ニコラス

海野カナデは夢を奏で、

 白く清潔な部屋の中で、二人の青年が机を挟み、向かい合って座っていた。一方は不機嫌なのかと見紛うほど不愛想な表情をしており、反対にもう一方はにこにこと笑顔を浮かべている。

「じゃあ始めるぞ。まずは自分のことを話してみてくれ」

 不愛想な青年がとん、とノートをペンで突いた。

「はい!」

 笑顔の青年は右手をぱっと上向きに広げて、意気揚々と口を開いた。

「僕の名前は海野カナデです。年はわかりません」

 一言ごとに指を折り、数を確認していく。

「たぶんピアノが得意です。あと好きな色は青。ここに来てから二ヵ月と十一日が経ちます。それ以前のことはあまり覚えていません」

「合言葉は?」

「チューリップ!」

 よし、と呟いて青年はノートに書き込んだ。

「次、俺およびこの場所について知っていることを」

「はい。えー、あなたは高町ユメ。ここ高町心療内科……の院長さんです。ついでに唯一の従業員で、同じく唯一の患者である僕の面倒を見てくれています。この建物は……住居としても使っているんです、よね!」

「問題無しだな」

 カナデは毎朝こうして、ユメに自身の記憶を確認してもらうのが日課であった。約二ヵ月前、ふらりと訪れた建物で精神科医だというユメに出会ってからというもの、ずっとである。

「やはり思い出せないのは、俺と出会う以前のことだけか。よし、ではこれから適当な単語を言うから、少しでも引っ掛かるものがあれば教えてくれ」

「わかりました、いつものやつですね」

 元気よく、カナデは頷く。

「海」

「…………」

「高層ビル」

「…………」

「桜の木」

「…………」

「雨」

「…………」

「喧嘩」

「…………」

「公園」

「…………」

「戦争」

「あ」

 カナデが小さく声を上げ、ぴくりと反応した。ユメはすかさず手元のノートに「戦争」と書きこむ。

「ふむ、なるほど。続けるぞ」

 わずかに掴んだ糸を離すまいと、彼はさらに言葉を重ねる。

「戦車」

「…………」

「銃」

「…………」

「爆だ――」

「あ、あの!」

 思い切ったようにカナデが遮った。何やら顔色が良くない。

「えっと……少し、気分がすぐれないので……その」

「わかった、中断する」

 特段、食い下がることもなく、ユメは彼の言わんとすることを受け入れた。結果を急ぐあまり患者の精神を蔑ろにするのは厳禁だ、とは彼も重々承知している。

「すみません」

「なに、謝ることではない。ゆっくり焦らず、だ」

 ユメは筆記具を机に置き、立ち上がる。

「朝食にしよう」

「……はい」

 慣れた足取りで、ユメは部屋を出て行った。カナデ一人になった空間に静寂が訪れる。彼はユメの置いて行ったノートに目をやった。表紙に「診察記録 海野カナデ」と書かれたそれは、角が少しよれている。カナデは面白くなさそうな顔で、しかし何をするでもなく、ノートを眺めた。

「待たせた」

 ほどなく、ユメが戻って来る。皿を二枚、飲食店の店員よろしく片腕で器用に持ち、それらを机に置いた。カナデはパッと笑顔になり、皿の上の食べ物とユメを交互に見る。

「わあ、ありがとうございます! 今日の料理は何ですか?」

「これは鮭という魚を焼いたものだ。それと、いつものパン」

 ユメは皿の上に乗ったものを指差しながら、カナデにそれが何であるかを説明した。

「へえ、鮭って言うんですね。いただきます!」

 元気よく手を合わせ、カナデは先ほど「鮭」だと説明されたそれを口に入れる。じっくり味わうように咀嚼し、ごくりと呑み込んだ。

「どうだ、覚えのある味か?」

 いつの間にかまたノートとペンを構えていたユメが訪ねる。毎日できるだけカナデに新しいものを食べさせ、その味から記憶の手がかりを得ようとするのもまた、彼の日課であった。

「うーん。あるような、無いような」

「微妙か」

 ユメは残念そうな顔をして、ノートに「鮭 △」と書き込む。それを見て、カナデは慌てて口を開いた。

「でも僕、この味自体は好きです!」

「お前どの料理食べてもそう言うだろう」

「あ、あはは」

 苦笑いをするカナデに、ユメは溜め息まじりに言う。

「まあそれも『食べることが好き』と考えれば、ひとつの手がかりか。今後は味の好き嫌いにも注意していこう」

 彼は半ば独り言のように呟き、ノートに几帳面な字を連ねた。その熱心な様子は、自分の食事のことをすっかり忘れているのではないかと疑われるほどだ。

「ねえ先生」

 カナデは言った。

「先生はそうやって一日中、あれこれするたびに僕の記憶のこと気に掛けてくれるけど、何もそこまでしなくてもいいんじゃないですか?」

「……何?」

 ユメは顔を上げる。と、目に飛び込んで来たカナデの悲しげな表情にぎょっとした。いつも大抵は能天気にしている彼が、診察時でもないのにこうも悲哀の感情をあらわにするのは稀も稀であった。

「僕は先生に、自分のことも大事にしてほしいんです。僕のことばっかりじゃなくて、自分自身にも気を配ってほしいんです」

「心配するな。俺は自分の世話くらい自分でできている。お前こそ、俺のことより自分が記憶を取り戻すことを考えていろ」

 ケアすべき患者に却って気を遣わせてしまったと、自責の念と共にユメは返した。そそくさとノートを閉じ、ペンを置く。それからカナデに見せるように、いささかわざとらしく食事を口にした。

「……ごめんなさい。なんか、焦っちゃって。らしくないこと言っちゃいましたね」

 言いつつも、カナデはいっそう悲しそうに眉を下げる。すっかり気分が落ち込んでしまっているようだった。

「今日の診察はもうやめにしよう。好きなことをして過ごすといい」

「でもここ全然娯楽無いですよね」

「……まあ、それはそうだが」

「あはは、金欠ですもんね。けど先生はお金を持ってない僕を診てくれてる」

「愚かは承知だ」

「そんな先生が好きですよ」

 にへ、とカナデは笑った。やはり悲しそうな笑顔だった。



 日が落ちた。建物の外は真っ暗になり、すっかり夜の静けさに包まれている。が、窓の無い建物にいるユメとカナデには、外がいかに暗く、また中がいかに明るいか、比較し推し量ることができない。

「風呂に入って来い」

 夕食をとった後、ユメにそう言われ、カナデは着替えを抱えて風呂場へと向かった。無機質な通路を歩きながら、彼は視線を右へ左へとさまよわせる。通路の両脇にはずらりと扉……すなわち個室が並んでおり、通路自体がそれなりに長いのもあって、それらは無限に続くかのような気さえ起こさせる。

 数十の個室を通り過ぎ、角を曲がるとまた扉の並ぶ通路に入った。今度は先ほどよりも扉同士の間隔が開いている。風呂場の扉たちだ。カナデは一番手前の扉を開いて中に入った。

 湿っぽい空気に頬を撫でられつつ、彼は着ていた服を脱ぐ。持って来た着替えと分けて台に置き、仕切りの防水性カーテンを開けた。浴槽の端にノイズのような汚れを見つけ、そろそろ掃除時だな、などと頭の隅で思う。

 蛇口をひねると、備え付けられたシャワーヘッドからちょろちょろと水が出始めた。まだ一応は水道が生きていることに安堵し、もういくらか蛇口をひねる。少し太くなった水の流れを見ながら、カナデはぼんやりと考えた。

 記憶。失われた記憶。もしもそれを取り戻すことで、酷く心が傷ついてしまうのだとしたら、失ったままの方がマシなのだろうか。幸せな夢を、夢とも自覚しないまま、見続けている方が良いのだろうか。その答えは出ない。全ては想像の域を出ない。本人が現実を知らない以上、「夢と現実、どちらを望むか」なんて問いは成立しないのだから。

「先生、僕はどうしたらいいんでしょうか」

 小さな小さな声で呟く。カナデはどうすればいいのか、何が正解なのかわからなかった。けれども、酷い現実よりも幸せな夢の方が良い、少なくとも人に見せるならそちらの方が良いと、どうしてもそう思えてしまう。

「先生は、どっちがいい?」

 目を閉じ、瞼の裏に思い描いたユメに問いかけた。想像上の青年は何を言うでもなく、ただカナデに向かって静かに微笑む。文字通り、現実離れした表情。全く、カナデの勝手な想像である。

 彼はあまりにも愚かしい己の行動に、自嘲気味に笑みをこぼした。しかしその笑みはすぐに消え去り、またどうにもならない悲哀が滲み出る。大きく溜め息をつき、カナデはその場にしゃがみ込んだ。

「いっそ記憶なんて、戻らない方が……」

 項垂れ、吐き出した弱音は、湿っぽい空気と混ざって溶けていく。いくら電灯が明るくとも、夜は更ける。無機質な建物の中でも、時間は進む。賽を振る権利など、カナデにはあるはずも無かった。



 日が昇った。建物の中は相変わらず明るい。白く清潔な部屋では、ユメが仏頂面でノートをぱらぱらとめくっていた。この約二カ月とちょっとでカナデが反応を見せた言葉は「ピアノ」「シェルター」「学校」「逃避」エトセトラ、エトセトラ……そして「戦争」。ユメはところどころに物騒な単語が並んでいるのが気になっていたが、しかしそれらを結び付ける仮説を未だに立てられずにいる。

 何か思い浮かびそうではあるものの、手繰り寄せようとすると靄のように思考をすり抜けてしまって、どうにも掴めず終いだ。だがカナデ本人は「記憶を取り戻したい」と希望しているのだから、何としてでも真実を掴んで彼の中から引き出してやらねばならない。それがユメの医者としての矜持であり、人としての良心であった。

「先生、おはようございます」

 ユメがノートとにらめっこをしていると、元気の良い声と共にカナデが部屋に入って来た。

「今日も診察お願いしまーす!」

 カナデはユメの向かいに座る。にこにこと明朗な笑顔を見せる彼には、昨日の悲しげな雰囲気の欠片も無い。少なくとも表面上はいつもの調子を取り戻したようだった。

「カナデ」

 いつも通りの記憶確認をした後、ユメは彼にひとつの提案をする。

「散歩に行かないか」

「……え?」

 カナデは目を丸くした。豆鉄砲を食らった鳩よろしく、呆気にとられてユメを見る。「信じられない」と顔に書いてあるようだった。

「思えば、俺は今までずっと院内で治療活動を行ってきた。だが外に出ることでも、得られるヒントはあるはずだ」

「あ……で、でもその、外……」

「もちろん嫌であれば無理強いはしない。ひとつの選択肢だ」

「……せ、先生は、大丈夫ですか」

「俺はどちらでもいい。可否を決める権利はお前にある」

 カナデは黙り込んだ。今にも泣きそうな顔で、ユメを見つめた。しばらく、場に沈黙が降りる。

「……行きます」

 ぽつりとカナデが言った。

「外、行きましょう」

 今度はハッキリと、覚悟を決めたように言う。そして彼は、すっくと立ち上がった。

「よし。なら支度をしよう。外は寒いだろうから、上着が要るな」

 ユメは頷き、同じく立ち上がる。部屋の壁に掛けてあったコートを羽織り、カナデに視線で「お前も上着を着ろ」促した。

「僕は平気です。寒さには強い方ですから」

「駄目だ。風邪をひいたらどうするんだ」

「先生に治してもらいます」

「馬鹿、俺は精神科医だぞ」

 溜め息をひとつ吐いて、ユメはクローゼットを開く。何着も並んだ同じコートの中からひとつを選び取り、カナデに投げ渡した。

「ありがとうございます! 先生とお揃いですね」

「この程度で『お揃い』なら、街中のコートを着た人間は全員お前と『お揃い』になるが」

「……一理ありますね!」

 カナデは能天気に笑う。それを見て、ユメもまた口元を緩めた。

 二人はお揃いのコートを着て部屋を後にする。この広い建物では、当然ながら外に出るのもひと苦労だ。長い通路を過ぎ、階段を上がり、扉を何枚か開けて、彼らはようやく正面出口から外に出た。

「相変わらずここらは人が多いな……。はぐれないよう、しっかりついて来い」

 ユメはさっそく目に飛び込んで来た街の様子にげんなりしつつ、一歩二歩と歩き出す。が、カナデの気配を背後に感じず、立ち止まって後ろを振り返る。カナデは建物の扉を出てすぐのところに突っ立っていた。

「どうした、カナデ」

 屋根のつくる影から出て来ない彼を訝しみ、ユメは問うた。

「いえ……」

 カナデは目をこする。強烈な日光の眩さに頭がくらくらしていた。

「何でもありません」

 だがやがてゆっくりと足を踏み出し、彼は日の下に出る。久方ぶりの土と砂利を踏む感覚が、どうにもくすぐったい。

「どこに行きたい?」

「先生とならどこへでも」

「真面目に答えろ」

「真面目ですよ。でもそうだなあ、強いて言うなら……ピアノのある場所ですかね」

「ピアノか。ふむ、では駅に向かおう。構内にピアノが設置してあったはずだ。先客がいなければ弾けるぞ」

「ほんとですか! やったあ、楽しみです!」

 二人は仲良く並び立つ。

 そうして堅牢な地下シェルターを離れ、人っ子ひとりいない真夏の炎天下、かつて家屋であった瓦礫が方々に積み上がる焦土の、かろうじてそれと判別できる道を歩き始めた。



(海野カナデは夢を奏で、高町ユメは夢を見る。)

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