夢で猫を飼う

折り鶴

夢のなかの猫

 こんな夢を見た、から語りはじめるほどでもない、くだらない、ありふれた、夢の話をしようと思う。

 夢で、猫を飼っていた。白い猫だ。

 僕はいつものように、家の扉を開けたのだ。僕の住まいは、築十八年木造二階建て、かろうじて動くエアコンが設置済み、独立洗面所はないけどトイレ風呂別というまあそこそこの居心地のよくある独居アパートの一室で、そして、当然のようにペットは飼えない。だから、猫などいるはずがない。

 二十三時四十分、明日はすぐそこ。そんな時間に、橙色の灯りで照らされた、焦げ茶色の扉の前に立つ。背中にせおった黒いリュックサック、その横ポケットから、キーホルダーをつけた鍵を取り出して、鍵穴にさす。左にまわして、そして引き抜く。ドアノブに手をかけ、押し下げる。扉を開ける。

 瞬間、白いものが、こちらに向かって駆けてくる。

 それは、僕のあしもとでぴたりと止まる。

 猫だ。

 白い毛並みの、同居人。

 ひとではなくて、猫なのだが。

 青とみどりのあいだくらいの色の目で、猫は僕を見上げてくる。まあ待てよ、と僕は視線で彼を制する。この猫が彼女ではなく彼なのだと、夢のなかの僕は、確信を持って知っている。とはいえ、この時点では、僕にはこれが夢である、という自覚はなかった。ただ、自然と、そのしなやかな白い猫の存在を、あたりまえに隣にいるものとして、受け入れていた。

 立ったまま、狭いたたきで靴を脱ぐ。黒い、キャンバス生地のスニーカー。職場は、わりにカジュアルな服装で出勤ができる。給料が安く、拘束時間が長くて、ひどく疲れる場所ではあるけれど、スーツを着なくていいところと、気のいい先輩の多いところは、好ましい、と思っている。

 上り框のないフラットな玄関から、台所がある短い廊下へ。シンク横のわずかなスペースに、左手に持っていた買い物袋をそっと置く。中身は、閉店間際のスーパーで買った、半額の海鮮焼きそば。それからいったん引き返し、続けて、脱いだ靴下を玄関横の洗濯機に放り込む。そういや鍵かけたっけ、と不安になったけど、確認すると、無意識のうちにちゃんとかけていたようだった。あらためて台所へと戻り、石鹸で手を洗う。そのあいだ、猫は、僕のあしもとを一定の距離でついてくる。

 台所の左手に置いている冷蔵庫の上には、レトルト食品のストックだったり、キッチンペーパーだったり、といったこまごまとしたものを置いている。そのなかには、あしもとの白いものが求めている、まぐろペーストの猫用おやつもある。彼のおやつと、買い物袋を片手に持ち、半開きだった扉をさらに押し開けて、部屋に入る。

 六畳一間、ひとめで見渡せるちいさな部屋だ。

 家を出るとき、開けっぱなしにしていたカーテンに手を伸ばす。すりガラス窓の向こうは昏い。控えめな街灯の気配だけがある。紺色のカーテンを閉めきると、そこでようやく、少しだけ、安心することができる。

 部屋の中央に位置したローテーブルのうえに、買い物袋から出した焼きそばを置く。そうだ、お箸と、飲み物を忘れていた。まあいい、それよりも、あしもとをじゃれる猫におやつをやろう。

 クッションに座ると、猫は、膝のあたりに鼻をよせてくる。くすぐったい。僕は、思わず、笑いそうになる。スティック状の袋に入った、まぐろペーストの封を切る。

「ほら」

 猫のくちもとに、おやつを近づけてやる。喜んでいるみたいだ。舌を出して、ぺろぺろと舐める。ときどき、僕の指にも、彼の舌があたる。ざらざらとした感触。

 最後まで食べきると、猫は、満足気に目を細めた。笑っているみたいだった。今度こそ僕も、少し笑う。

 空になった袋を捨てようと、立ち上がる。もうひとつ貰えますか、とでも言いたげに、猫が首を傾げている。僕は、首を横に振る。食べ過ぎはきっと、よくないはず。

 台所へ向かい、ゴミ箱に空袋を捨てる。猫は、まだ説得の余地があるのでは、といった風情で、僕のまわりをくるくるまわる。あげないよ。

 お箸とグラス、それから冷蔵庫からペットボトルのお茶を取り出し、それらを持って部屋へと戻る。猫は、うしろをついつくる。僕が、ふたたびクッションに座り、お茶をグラスにそそぎはじめたあたりで、猫は、おやつのおかわりを諦めたらしい。僕の隣を離れ、ひょい、と身軽に、床に積んである本の上に飛び乗った。そのまま、本の物色をはじめる。なにか思うところがあるのか、森博嗣の『黒猫の三角』をじっと見つめ鼻を近づけ匂いをかぎ、ハインラインの『夏への扉』を尻尾で叩く。恒川光太郎の『化物園』に対しては、やけに慎重に前脚を伸ばしていた。そんな様子を見守りながら、僕は、焼きそばを食べる。

 焼きそばを食べ終え、ごちそうさまでした、と手を合わせた。ところだった。隣に、猫ではない、ひとの気配を感じて、横を見ると、なぜか妹がいた。僕は一人暮らしで、妹とは一緒に住んでいない。妹は、僕の隣に座り、膝のうえの猫を撫でていた。猫は、いつのまにか、本の海から、妹のもとへと移動していた。

 ふと視線を察知して、顔をあげると、正面に、母が座っていた。繰り返しになるが、僕は一人暮らしだ。仕事から帰宅した真夜中二十四時、離れて暮らしている妹と母が、この部屋にいるはずはない。

 そこまで考えてやっと気がつく。

 そっか、これ、夢なのか。

 夢であることに気がつくと、急速に、周囲からリアリティが失われてゆく。

 いつのまにか、テーブルの上には、さっきまであったはずの、空のパック容器がなくなっている。お箸もなく、グラスと、ペットボトルのお茶も、どこへいったのか見当たらない。

 猫が、なにも置かれていないテーブルのうえへと、妹の膝から飛び上がり移動する。猫はかわるがわる僕と、妹と、母を見やり、喉を鳴らして、その場にうずくまる。僕らは猫を囲んで、とりとめのない話をする。ときどき、猫を撫でる。猫は、尻尾を揺らしたり、撫でようと近づけた僕らの指さきを舐めたり、頬を寄せてきたりする。

 これは夢だ。きっと、もうすぐ醒めるだろう。

 僕の意識は、少しずつ、覚醒に近づいている。よく考えると、はじめから、このアパートに猫がいる時点でおかしかったのだが、だんだんと、おかしなところが増えてきていて、それに対してはっきりと、違和感を覚え出している。

 僕の隣に座る妹は、見た目や雰囲気など、僕の知る妹ではあるのだが、でも、確実に、現実の妹とは違う。

 妹は、動物が苦手だった。

 苦手というより、怖いと感じているのではないかと思う。

 子どものころ、一緒に道を歩いていて、犬の散歩に遭遇し、僕のうしろに隠れてしまう、なんてことがよくあった。猫が通るとわかりやすく、身をこわばらせていた。鳩やカラスをあからさまに避けていた。

 そういえば、昔、家族三人で、奈良へ行ったことがある。

 あまり外出や旅行をしない家だったので、前日から妙にはしゃいでいたような記憶がある。僕が小学校に入ってすぐ、妹がまだ幼稚園に通っていたころのこと。

 行きの電車のなかまではよかった、母、妹、僕の順で並んで電車に座り、なにを話していたのかはまるで思い出せないが、それでも、ご機嫌でいろんな話をしていた。それはたしかに憶えている。

 雲行きが怪しくなってきたのは、奈良駅に着いたあたりからだ。

 奈良公園に近づくにつれ、いたるところにいる鹿を見て、妹が大泣きし出したのだ。

 僕はもちろん、母も、妹が動物が苦手らしいということは認識していたが、ここまでだとは思っていなかった。困ったことになった。もうすっかり泣き止むタイミングを見失い、帰りたい、と必死の形相で訴える妹と、きっと、なんで行き先を奈良にしてしまったのかと後悔しはじめている母のあいだで、僕は、途方に暮れていた。母もべつに、近場だからというだけで奈良を選んだわけではなく、僕も妹も、渋い趣味の子どもだったというのか、寺や神社が好きな子どもだったのである。派手な遊具がある公園よりも、神社の隣にあるちいさな公園がお気に入りだった。ときどきあった、開放日と呼ばれるお寺の一角で遊べる日を、心待ちにしていた。

 母の仕事が休みで、こうやって、三人で出かけるなんてことは滅多にない。だから、たのしい日にしたかったのに、どうにも、失敗のようだった。より苛烈さを増して泣く妹に、母はおそらくだが少し苛立ってきていて、僕はどっちの機嫌をとろうにもどうやったらいいのかまるで見当がつかず、仕方なく、視線の合った鹿に対して内心語りかけていた。困ったことになったなあ。僕らは、仲が悪いわけではけっしてないのだが、いまひとつ、うまくいかない、そんな家族だった。

 そんなことを思い出しているうちに、次第に、部屋のなかから猫の気配が薄れてゆく。待ってくれ、と思うのだが、思考は自分で制御できない。芋づる式に、ささくれみたいなささやかな、致命傷にはならないけれどもそれでも血を流した記憶、みたいなものが、次々と引き摺り出されてきて、それに流されるように、猫は、どんどん遠く離れてしまう。

 うちの家じゃ、無理だね。

 急に、いつかの母の言葉が浮かぶ。

 それはたしか、どこか買い物帰り、ホームセンターに併設されているペットショップに寄って、犬や猫を眺めていたときのことだった。奈良・鹿・妹大泣き事件から、一年後くらいのことだったはず。そのとき、妹は一緒にいなくて、僕と母のふたりだった。僕はじゅんぐりにまわりながら、たくさんの犬の子や猫の子に、ひっそりと話しかけていた。母は、子犬というには少しおおきいような気がする柴犬が気になっていたようで、じっと、その犬を眺めつつ、歩きまわる僕の隣にいてくれた。

 その子、飼っちゃだめ?

 僕は母を見上げてそう尋ねた。母は、一瞬虚をつかれたような顔をして、僕を見る。

 だいじょうぶだよ。梨奈りなも、ラッキーは平気だし。

 梨奈、は妹の名前で、ラッキー、は僕の幼なじみが飼っていたゴールデンレトリバーの名前だった。鹿に大泣きした梨奈だったが、このころには、犬だけは、少し平気になったみたいだった。その、よく遭遇する機会のあったラッキーという犬が、ずいぶん穏やかで、落ち着いた老犬だったからなのかもしれない。頭を撫でたり、なんてことはできなかったが、ラッキーはこわくない、と、散歩中の幼なじみとラッキーとすれ違ったあとに、やけに真剣な顔で、僕にそうこぼしたことがあった。

 この子おとなしそうだしさ、と続けようとして、だけど、母の表情が変わったことに気がついて、言葉を飲み込む。

 うちの家じゃ、無理だね。

 母はその言葉を放つとき、僕の顔を見なかった。

 僕は、黙って、見上げていた母から視線を逸らした。

 うちの家では、犬は飼えない。

 それは梨奈の事情だけであるわけはなかった。

 いまの僕のアパートで猫が飼えないように、当時、僕らの住んでいたちいさな古いアパートでも、当然のように、犬は飼えなかった。

 僕は気を抜くと泣きそうになっていたのだけど、ぜったいに、母にそのことを知られたくなかったので、必死で、平気なふりをしてやり過ごそうとした。

 泣きたくなったのは『犬が飼えないこと』そのことではなくて、『母に、友だちの家ではできてうちにはできないことがあること、をはっきりと言わせてしまったこと』がおそらく理由だった。

 当時は、それを言語化できなくて、説明できない、わからない理由で泣きたくなっていることに、余計に泣きそうになっていた。『犬が飼えないこと』を理由に泣きそうになっているのだと母に勘違いされることだけは、なんとしてでも避けたかった。

 結局、僕は、動揺していることを簡単に母に見抜かれてしまい、ごめんね、と言われた直後に泣いたのだが。あまり泣かない子どもだった僕が泣いたので、母は、ひどく、落ち込んだようだった。それが申し訳なくて、さらに泣いた。謝ってほしいわけじゃない、ということは、うまく伝えられなかった。

 懐かしい痛みの記憶とともに、ひさしぶりに、泣きたい気持ちを思い出す。猫を撫でたい、と発作のようにつよく思った。あの、白くあたたかで、やわらかな生きものを、撫でて抱きしめたい、そんなふうに思った。

 お約束のように、そこで目が醒める。

 僕の隣に、猫はいない。

 もちろん、妹も、母もいない。

 夢の名残りは、どこにもない。

 たしかに僕は夢のなかで、彼の、猫の名を呼んでいたのだが、音の響きも、字の並びも、もうまるで思い出せない。

 いちど開いた目を、もういちどつむり視界を閉ざす。身体の節々が痛かった。かろうじて靴下は脱いでいたけれど、服装はシャツとチノパンで、帰ってから着替えもせず、眠りこんでいたようだった。どこからが、夢だっけ。さざなみのように、記憶が打ち寄せる。半額の海鮮焼きそばを買ったのは昨日ではなく一昨日で、一昨日も、部屋へ入ったとたん気絶するように眠ったから、夜ご飯は食べなかった。台所に置き去りだった焼きそばを、翌朝つまりは昨日の朝、押しこむように食べると途中で気持ちが悪くなった。吐くまではいかなかったけど、でも、昨日はそれ以外なにひとつ喉をとおらなくて、ずっと、胸のあたりが苦しかった。そんな調子だった。僕には、よくあることだった。

 もっと、ちゃんと生活しなくちゃ、と思うのに、だいたい、いつも、ぜんぜんうまくいかない。ご飯を食べることが、昔からどうにも下手で苦手だった。食べなきゃいけない、とは毎日思うけれど、食べたい、と積極的に思うことは滅多にない。

 妹の梨奈は、動物園や牧場といった遊び場所をたのしめない子どもであったことを、ずっと、後ろめたく思っていたらしい。なにかの拍子に、話してくれたことがある。おなじように僕も、母と妹に対して、ずっと、後ろめたさを感じていた。僕ほど一緒に食事のしがいのないやつはいなかったろうと思う。

 瞼をぐっとつよく閉じる。吐きそう、と思う。さらにきつく、目を閉じる。まだ、朝の光は見たくない。明るいところに、いきたくない。猫のことを考える。夢のなかの猫のこと。夢のなかの、穏やかで、あたたかな、時間のこと──そういえば。

 あの僕のそばにいた白い猫は、ずいぶんとおいしそうにおやつを食べていたっけな。

 感じたはずのない、ざらりとした舌の感触を、指の先に思い起こす。つめたいはずの人差し指に、なにかが触れる、そんな錯覚。じわりと、あたたかい、なにか。

 目を開ける。

 と同時に、枕元にあったスマホが震えた。片手を伸ばして、引き寄せる。確認すると、妹からのメッセージだった。

『兄ちゃんの住所これであってる?』

 そのあとに、僕のアパートの住所が正確に記載されていた。『あってる』と返し、急にどうした、と送ろうとしたら、続けてメッセージが届く。

『いま宮島おるねん 今日帰るけど』さらに連投。『お土産買ったから送るわ』『日本酒』『あとなんかコーヒーもおいしそうなんあったから一緒にいれとくな』

 相槌を打つ間もなく、メッセージが送られてくる。それから、数枚の写真。

 光る海、渡る船。佇む神社。ソフトクリーム。妹と母のツーショット。

『母さんと?』とわかりきったことを訊くと『そうそう 牡蠣食べたいなあってなって』と返ってきた。それでわざわざ広島まで行ったのかよ。

 あれ。

 でも、そういえば。宮島といえば。

『宮島ってめっちゃ鹿おるやろ』

 妹からの返事はすぐだった。

『おるおる めっちゃおる 全力で避けて移動してる』

 思わず、ちいさな笑いがこぼれた。やっぱり、おとなになっても、苦手は、苦手のままだ。そう簡単には変わらない。まあ、それでも、なんとかはやっていけるし、笑って過ごすことはできる。できるはずだと思う。

 僕は、自分でも不思議だと思うのだが、飲みものはわりと好きで、コーヒーに紅茶、日本茶、ほかにもいろんなものを家に常備している。お酒もそこそこ耐性がある。ちびちび日本酒を飲んだりもする。

『ありがとう 届くのたのしみにしてる』

 それだけ送って、スマホを置く。少しだけ、考えごとをする。

 たしか、冷蔵庫に、このまえ買ったヨーグルトが残ってるはず。林檎もあるはずだ。珍しいことに、わずかにだけど、空腹を感じていた。シャワーを浴びて、朝ご飯でも食べようかと思う。

 せーので勢いをつけて、ベッドから飛び起きる。猫の気配は、部屋のなかにも、僕の内にも、もうどこにもない。夢のなかに、猫は、いたのかもしれないし、いなかったのかもしれない。

 窓辺に近づき、閉じていた紺色のカーテンを開ける。すりガラス窓の向こうには、目醒めた太陽の気配があり、そして、僕のいま立つこの場所も、眩しい光の突き抜ける、紛れもない朝だった。

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