ただ好きだった

河伯ノ者

第1話

 私は小さい頃から絵を描くことが好きだった。

 初めて書いたのは、確か母の絵だったと思う。

 何気ない稚拙な絵を見た母は私を抱きしめて「上手に描けたね」なんて、それこそありきたりな言葉で私を褒めてくれた。

 嬉しかった。それ以来、私はいろいろな絵を描いた。

 小高い丘にある公園から見た風景。動物園で見たキリン。遊園地では観覧車を描いたっけ。とにかく私はなんでも絵に描いて残す子供だった。

 当然のようにアニメや映画なんてものにもハマり、それらの絵を描くこともあった。周りよりもうまく描ける私を皆は褒めてくれた。

 小学生になっても、私は絵を描いていた。将来は画家になるなんて大それたことを言っていたのは今思い返してみても少しマセていたんだと思う。

 クラスの男子の中には、それを馬鹿にしてくる子もいた。

 ノートを取り上げて私を晒し者にした彼が、六年生の時に私に告白してきた時は大変驚いたものだ。

 中学になっても私は絵を描き続けていた。その時には既に街のコンクールにも出すほどに私は絵の世界にのめり込んでいた。

 クラスメイトの女子たちが化粧道具を買い漁る中で、私は絵の具や色鉛筆なんかを買っていた。

 小さな恋だってした。クラスでも人気の高い男子への恋。叶うはずもない哀れで儚い夢のような恋。

 放課後に私が美術室で一人、絵を描いていた時に通りがかった彼が部屋に入ってきて「すげえ綺麗だな、お前の絵」と言ってくれたのが嬉しかった。

 親も先生もクラスメイトも私の絵を見て口々に褒めてくれた。

 そして、私は高校生になり、美術の学校へと入った……。

 そこは今まで見ていた世界とは、まるで違う世界だった。緻密で繊細な筆遣いの風景画。力強く、まるで生きているかのような人の絵。こちらの手を掴み引きずり込むような世界観。

 私にないものを持った天才たちが集うその学校には、最早私の絵を褒めてくれる人はいなかった。

 ありきたりな世界でありきたりな努力だけで築かれた栄華など、一夜もあれば崩れ去り枯れ果てる。

 それでも私は夢を諦め切れずにいた。

 どうしようもなく凡庸な私。目立つこともなく、賞もなく、どうしようもない日常を歩くには、この世界は茨の道だったのだ。

 絵を描きたい。描いていたい。この筆を置いたら私の人生はどうなってしまうのか。

 しかし、夢というものは時間制限付きの代物だった。

 芸術家として食べていきたいという私の願いを、学校の先生は『諦めなさい』の一言で封じ込めた。

 趣味でやればいい、絵だけが人生の全てではないと説く先生の言葉は、若い私にはあまりにも冷たすぎる現実だった。

 それでも私は絵を描いた。

 会社に勤めながら、休みの日は外にも出ずに絵を描いた。

 投稿サイトに投稿するもより広い世界の天才たちに埋もれた私の絵は誰にも評価されることもない。

 春が来たら桜を描き、夏が来たら夏祭りや海の絵を描いた。秋には紅葉を描き、冬には雪の絵を描いた。

 めぐる季節が過ぎる度に、私は己の才の無さを思い知った。

 初めの頃は数えるほどはあったコメントも数年見ていない。閲覧数は0から動くこともなく。当然、私を知るものなどいるはずもなかった。

 私は絵を描いた。

 私は絵を描いた。

 私は絵を描いた。

 私は、筆を置いた。



 同年代の結婚式。寂れた六畳一間。箪笥の奥には幼き頃の夢。

 何物にもなれなかった私を幼い私は許してくれるだろうか?

 筆を取ることをやめた私は、仕事に明け暮れていた。

 顔の無い隣人のテレビの音。上司の怒鳴り声。スーパーのレジの音。井戸端会議。部下の自慢話、レストランの雑音。テレビのノイズ。隣人の喧嘩。同僚の世間話。ガスコンロの着く音。スマートフォンから流れる芸人の声。

 ある日、会社で風景画のコンテストが行われることになった。

 社長が最近絵にハマったそうで、周りでは不平不満の声が広がっている。

 私は久しぶりに筆を取った。

 電車に揺られて大きな公園へと足を運び、そこでスケッチをした。久しぶりの絵はとても楽しかった。

 暫く描いていなかったとは思えぬほどに、その絵は会心の出来だった。学生の頃の私が見ても、きっとこれには頷くだろうと思える一枚の絵。

 ……気付けば私は仕事をやめていた。

 小さな書店に努めた私はポップを描く仕事をしている。

 私は、ただ絵が好きだったんだ。

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