後編

 誰もいない教室で、私は一人寝たフリなんかせず、ただ座っていた。


 この一週間、先輩とは話していない。それどころか、一度も顔を合わせることがなかった。たぶん、関係は終わってしまったのだと思う。

 

 先週の雰囲気からして、先輩がもうここに来ることはないと思う。よくよく思い返せば、上沢先輩は悠未先輩と同じ委員会だった気がする。そう考えると、恋に落ちるのも、自然だった。

 

 今日も時間になると、上の階から足音が響く。


 だけど、私にとってはどうでも良い響き。むしろ、恋する二人に思いを馳せてしまう分聞きたくない、響きだった。


 それでも、遠くから微かに駆ける音が耳につく。幻聴だと判っているのに、耳は必死にその音を追ってしまう。そして、ドアの掠れる音が聞こえた時、ようやく現実であることに気づく。


 視界の端には、ここに来るはずのない人を映していた。


 心臓は鼓動を急ぎ始め、一つの呼吸をする間も、永遠に長く感じる。

 

「未奈ちゃん…………あのね……」

 

 先輩はようやく教室に踏み入ると、恐る恐る近づいてくる。

 

「えーっと…………起きてるの、珍しいね」

 

 先輩は話題を逸らして、目を逸らす。

 たしかに、私はあの日以来、寝たフリばかりだった。そして、いつも通りであれば今日も寝たフリをしていたと思う。

 

「私は今、寝ています」

 

「み、未奈ちゃん?? …………寝ぼけてる?」

 

 私があまりにもおかしなことを堂々と言ったからだろうか。先輩は、ポカンと目を丸くしていた。

 

「寝ぼけてなんかいません。私は寝ています。だから……」


「未奈ちゃん〜? 先輩をからかっちゃダメだよ」


 先輩は困惑したように、苦笑いをする。それでも、私は先輩をまっすぐ見つめて、言い放つ。



「いつものをしてください」

 


 私が口にした瞬間、先輩はぴたりと口を止めた。一瞬驚いたように目を大きく見開いて。そして、言い訳も弁明もないままに、俯いた。


 周りからこの教室だけ、切り取られたように、音が消えた。この中で響くのは、時計の針と、二人の吐息だけ。


 先輩は下を向いたまま。スカートを握る手は小さく震える。体を細い脚二本で支えていることが不安に思うくらい、小さく儚い存在。


 それでも、震える手を抑え、スカートを強く握りしめると、顔を上げた。


 悠未先輩は、ゆっくりと歩き、私の前に立つ。私の視線は、先輩の制服でいっぱいになる。黒くて長い髪が揺れただけで、触れてしまいそうな距離。先輩の小刻みな呼吸や、心臓の音さえも聞こえてくる気がした。

 

「ごめんね……」


 先輩はボソリとこぼす。その意味を理解してしまった私は、思わず目を瞑る。見たくない現実から目を逸らす。


 すると、温かく柔らかい感触が私に触れた。こんな状況でも、先輩は『いつもの』をしてくれたのかもしれない。でも、いつもとは圧倒的に違うところがあった。




 先輩が触れたのは、私の唇だった。



 

 私は驚くままに目を開くと、ありえないほど近くに先輩の顔を映す。その柔らかい感触は、頬でも指でもなく、間違いなく先輩の唇だった。


 私が目を泳がせていると、紙一重の距離で先輩と目が合う。だけれど、先輩は目を逸らすことなく、たった数秒の永遠のような時間、私と触れ合った。


「み、未奈ちゃん起きて……。もう遅くなっちゃうよ」


 先輩が離れてから、私の頭の中は真っ白になっていた。動くことも忘れて、放心状態になっていたところ、先輩の声で我に帰る。ある意味寝起きのような状態。

 

「おはようございます。ゆ、悠未先輩……。ぐ、ぐっすり寝ちゃってました」


 私は先輩を見上げた途端、ほおが燃えるように火照る。これまで飛んでいた恥ずかしいという感情がいきなり、押し寄せてきたみたい。


「そ、そうだよね……ぐっすり寝ちゃってたから、もちろんさっきまでのことを覚えてないよね?」

 

 先輩は、言葉を言い終える前に私から目を逸らす。乱れない口調に反して、頬はトマトみたいに真っ赤に染まっている。

  

「も、もちろん、覚えてないです」

 

「じゃあ、えっと……、週に一度なんだから、先に帰っちゃってもいいのに」

 

「先輩は知らないかもですが、ここで寝るの、結構気持ちいいんですよ?」

 

 何十回と繰り返した、いつも通りのやり取り。でも、今日に限っては違和感が隠しきれない。そもそも、今日は寝ていない。

 

「本当に〜?」

 

「本当ですよ? 先輩も今から寝てみますか?」


「遠慮しておくよ。そろそろ遅くなるから帰ろう!」

 

 先輩はくるりと振り向いて、外に向かって歩き出すから——



 その瞬間、私、先輩の顔に手を伸ばし——強引に奪った。



 先輩の頬を私の両手で押さえて、机に乗り出すような形で唇を奪う。先輩のようにはいかず、私はずっと目を瞑ったまま。それでも、一瞬開いた時、ばっちりと目が合って。慌てて目を逸らす。

 

「こっ、これは?」


 私が離れて数秒後、驚きのあまり先輩の声は裏返り、素っ頓狂なものになっていた。私は気を紛らわせるため、立ち上がって帰り支度する。そして、至極事務的な口調で言い放つ。 


「別に何でもないですよ」

 

 私がそう言い放つと、「へっ!?」驚いたように言葉を漏らす。先輩からキスされた事を覚えていない私は、キスをする理由があるわけがない。本当になんでもないただのキス。


 でも、なんでもないキスは、言葉よりもよっぽど思いを伝える。

 

「そ、そうなんだ……これ、なんでもないんだ…………」

 

 先輩小さな声でそう繰り返すと、おもむろに私の手を取った。もちろん、前と同じ形で。

 

「遅くなるし、帰ろっか」


 先輩はいつも通り口にする。私は手の形になんの疑問も抱かずに、手を離さないまま教室を後にした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

放課後寝たフリをしていると、それをいいことに先輩が◯◯してくる! さーしゅー @sasyu34

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ