2

 百日紅はカタリナにとって印象深い植物だ。なぜならこの花はフアナに紐づけられている――カタリナがフアナと初めて出会ったのは、陽光降りしきる夏の日の、濃桃に咲く花の下だった。

 しがない田舎娘でしかなかったカタリナに、フアナの存在は衝撃的だった。「お母さん、どうしよう、人形が動いてる!」叫びそうになったカタリナを、フアナは人差し指と微笑で制す。「今ね、じいやとかくれんぼしているの。だからお願い、私のことは誰にも言わないで」

 カタリナは壊れた玩具のようにコクコクと頷いた。それから、この辺りでは見かけない顔だと思った。筋の通った鼻梁に、整った顔立ち。肌は日焼けを知らず、透き通るように白い。……見つめるほどに顔がのぼせていくのはどうしてだろう? 穴が開きそうなほどカタリナが凝視していると、フアナは遂に噴き出してしまう。

「そんなに私が面白い?」

「だって……」ウブな彼女は一目惚れ、という言葉を知らなかった。熱射病にでもなったかと首を傾げながら、言い訳を口にする。「そんな細い幹じゃ、かくれんぼにならないよ。すぐ見つかる」

「じいやは私がこんなところにいるとは思ってもいないはずよ。だからね、堂々としてたって平気」

「じいやって、あなたのおじいちゃん?」

「ううん、違うよ。血の繋がりはないの。でも、本当の家族みたいな人」

 カタリナは、血が繋がっていなくても家族になれるのか、と思った。

「あなたはどこから来たの? ここら辺には住んでないよね」

「この村の聖堂にね、ミチェレーナ家の……ご先祖様のお墓があるの。お父様とお母様がそこに用事があったんだけど、つまんなかったから、勝手に抜け出しちゃった」

「それ、怒られない?」

「じいやに見つかったらきっとすっごく叱られる。お父様とお母様に心配をかけちゃダメだって」

「だから〝かくれんぼ〟なんだ」

 フアナは不敵に笑った。「周りの人には秘密にしてね」

「もちろん。わたしとあなただけの秘密」

 カタリナもつられて笑った。

 百日紅の木陰の中で、二人の少女は笑い合った。

 ……カタリナがフアナをかの有名なミチェレーナ公爵の娘と認識したのは、それから数日経ってのことである。

 その頃にはフアナも村を離れ自邸に戻っていたから、カタリナの疑問は何の問題にもならなかった。ただしつこい質問攻めには、周囲の大人も些かげんなりするのである。――ねえねえ、あのお人形みたいな女の子は誰だったの? そりゃきっと公爵様の御令嬢だよ、毎年この時期になると家族揃ってここに滞在するんだ。聖堂で礼拝するのが家の決まりらしい。ところでお前、なんで彼女のことを知ってるんだ? いや……色々あって。

 話によれば、フアナは家族と共に毎夏この村へやってくるという。それを知ってからというもの、百日紅が花を付けるたびに、カタリナはフアナを思い出す。また彼女に会えると思うと胸が躍る。今か今かと待ちかねて、花が盛りになった頃、友人たちは一年ぶりの再会を果たす。カタリナがフアナへの恋心を自覚したのは、そうした逢瀬が続いて八年が経った頃だ。

 しかしこの年、少女たちの微笑ましい交流は、唐突に終わりを告げる。

「私ね、もうこの村には来ないと思う」

 言葉こそ断定を避けていたが、フアナの声はほとんど決定的だった。

「どうして?」わたしが嫌いになったの? ……言いかけた台詞をカタリナはどうにか飲み込む。

「ほら、私もそろそろ……その、婚約を考えなければならないから」

「婚約?」

 フアナが公爵の一人娘で、いずれは誰かと結婚しなければいけないことぐらい、カタリナも重々承知している。だがまだ早すぎやしないか、十五歳じゃないか。彼女は思った。

 フアナは俯いたまま、訥々と語る。

「夏は社交界のシーズンだし、それにそろそろ王都で〝いい人〟を探すべきだって、お母様が……。私は、あんまり気が進まないのだけど。でも、家のことを考えると、そんな我儘も言っていられないから……」

「じゃあもう、わたしは貴方と会えないんだ」

「そんなことない!」フアナは珍しく声を荒げた。だがすぐに威勢を無くす。「……ごめん、どうだろう。確かに、こうやって会うことはもう二度と無いかもしれない。少なくとも、私の結婚相手が決まるまでは、夏の間は王都に行くことになるだろうし……」

「……そう。それなら仕方ないね」

 友人を労わるふりをして、カタリナの胸は、先程からツキツキとした痛みに襲われていた。――フアナが結婚?

(てことは、知らない男のものになるということ?)

 何も当たり前の話である、特に彼女のような貴族女性であれば尚更だ。婚約は重大な意味を持つ。頭では完璧に理解しているはずなのに、カタリナはフアナの結婚を現実として受け入れられなかった。こうして百日紅が咲く頃は、自分とくだらないおしゃべりをして、隣でずっと笑っていてほしい。彼女のこの特別な一時にあずかれるのは、自分だけだと、自分しかいないと思っていた。己以外にフアナを〝占有〟する存在を、カタリナは到底許せない。そして自分がその存在になり得ないことに、どうにもならない憎悪を抱いていた。

 そうとは知らないフアナは、大勢いる知人のうち一人へ、努めて残念そうに言い放つのであった。

「私もこんな形で貴女と会えなくなる日が来るとは思わなかった。毎年夏はこうやって、貴女と遊ぶのが当たり前だったから……。これからの夏はきっと寂しくなる」

「わたしもだよ。百日紅の季節はいつも、貴方のことを考えてた」カタリナはフアナの手を取った。「きっとこれからもずっと、貴方のことを考える。百日紅が咲くたびに」

「すごい、情熱的。まるで告白みたいよ?」

 フアナは困ったように笑った。

 ……どれほど真摯に伝えても、カタリナの真意は到底彼女に伝わるべくもない。カタリナ自身、ようやく自覚したのだ。自分はフアナに恋してしまった。笑顔を、時間を、彼女の持つもの全てを、己は手に入れたいのだ。

 そうして宣言通り、フアナはこの夏以来カタリナの元を訪れなくなる。虚しく百日紅の花を見つめる日々が二年ほど続いて、その冬、久方ぶりにフアナの消息が齎された。それに曰く――フアナ・ミチェレーナは、この度フェリペ・サラザールとの婚約が決定した。ついては公爵家と縁深いこの村の聖堂で、その宣誓を行うため、関係者は各種手配を行っておくように。

 カタリナは絶望した。

 フアナに再会できる絶好のこの機会を、彼女はあっさりとも諦める。だって、誰かの人妻になったフアナを見たくなかった! カタリナの中でフアナは永遠に少女のままだ。〝女〟になったフアナはフアナではない。それに、知らない男の隣で、幸せそうなフアナを目にするのが苦痛だった。彼女の隣にいるべきは自分であってほしいのに、赤の他人がその役を担っていることを、カタリナは全く受け入れられない。それで、フアナとフェリペが寄り添って聖堂に入るのを、それから二人を祝福する鐘が鳴り響くのを、カタリナは遠くから――最初に出会った百日紅の木の下から、北風が晒し吹く中で見つめていた。

 雪を降らしそうな曇天はどこまでも不気味だ。空は日暮れのごとく暗い。実際その晩は大荒れの天気になって、この地域に珍しくも猛吹雪が襲った。……フアナとの思い出の百日紅は、この時の強風で根元から倒れてしまった。

 フアナとフェリペの不仲が噂されるようになったのは、こののち二年経ってからのことである。





 †





 フアナの拒んだ昼食を彼女の向かいで食べることは、もはやカタリナの日常になっていた。

 季節は夏に近づいて、空は突き抜ける青が全開に広がっている。

 庭の百日紅はまだ咲かない。

「早く花が見られるといいですね」

 フアナは相変わらず外を眺めるばかりで、家族にすらも言葉少なく、使用人たちはいよいよ正気を疑っていた。カタリナも彼女からの反応がないのをいいことに、好き勝手な話を投げかけている。それは願掛けにも似ていた。そのうち何か一つでも構わない、自分の言葉が、フアナを縹渺たる意識の海より掬ってくれると信じて。

「夏空のコバルトブルーと、百日紅のマゼンタ。素敵な色の組み合わせと思いませんか?」

 カタリナはフアナと出会った日を思い返す。

「……わたし、花の中では百日紅が一番好きです」だって、貴方の象徴だから――僅かな躊躇いのあと、カタリナは続く台詞を呑み殺す。

 生温かな風が二人の頬を撫ぜていた。

 フアナのその言葉は、それに吹かれてこぼれたようだった。

「百日紅……」

 カタリナは目を見張る。フアナがこの花に興味を示すとは思わなかったのだ。彼女の胸は高鳴った。彼女の言葉はフアナの体を通り抜けていくばかりだったから、フアナの発した僅か五音が、神の思し召しのように響いた。カタリナは食事の手を止める。

 スライストマトが皮一枚、宙ぶらりんとフォークに吊るされていた。

「百日紅、素敵な花よね。私も好き」

 フアナはカタリナを見ていた。

「え、っと」

 そのうつくしいかんばせに、聖女の微笑みを湛えて。

「あの人との……旦那様との思い出の花だから」

 果肉が千切れてトマトが落ちた。

 侍女のエプロンドレスにみずみずしい赤が飛び散る。

「今でも鮮明に思い出せる」部屋の中は暑いくらいなのに、カタリナの首筋を薄気味の悪い悪寒が駆け抜けた。「旦那様と出会ったのは、王宮の中庭に植えられた、百日紅の木の下」

「お嬢様……?」

 それは、夢見る乙女の姿だった。

「そう、あの日は宮殿で夏至を祝うパーティーが開かれていたんだわ。大勢の招待客が広間に集まって、夜更けすぎまで歌ったり踊ったり……私はずっとシャンデリアの美しさに気取られていた。人が多いところが苦手だったから。でもそうやって一人で佇んでいると、いろんな殿方が話しかけてくるの。私はそれに耐え切れなくなって、広間を出て中庭に逃げ出した。夏の夜闇の明るいことを今もはっきり覚えている。その時百日紅が咲いているのを見つけて、私はそこで休ませてもらおうと思ったの。それでしばらくすると、近くの茂みから足音が聞こえる。誰だろうと思って私は顔を上げた。『参ったな、先客がいたみたいだね』――その振り仰いだ先にいたのが、あの人だった」

 饒舌な口からは戯言ばかりが紡がれる。

「あの人は他の殿方と全く異なる方だった。自慢話や武勇伝を押し付けることはなく、謙虚で、でも自信に満ち溢れていて、私を対等な友人として扱ってくださった。……初めはただの友人だったのよ。でも私はいつしかあの人の傍を離れがたく思ってしまった。同じ時間を歩みたいと願ってしまった。恋ってこういう感情なんですってね。小説でしか知らなかったけど、私にもようやく分かったの。だってあの人が教えてくれた……。

 だけどあの人はお優しい方だから、他のご令嬢たちからも大層人気だった。私は十六でやっと王都にやってきたから、同世代の方々の中だと、随分垢抜けなくて田舎臭い女だったでしょう。でもね、でもね! 奇跡が起きたの! 旦那様と初めて出会ったあの時、あの人もまた、私に一目惚れしていたんですって。だから旦那様は私の手を取った。友達になった百日紅の下で、『の妻になってくれ』と、私の右手に口付けをした。鮮やかなピンク色が満開に咲き誇って、風にゆさゆさ揺れていた……あの人を、フェリペ・サラザールを知って、ちょうど一年が過ぎた日のことだったわ」

 違う! これはフアナじゃない!

 カタリナは混乱していた。吐き気すら感じていた。質の悪い悪夢だと思った。カタリナは、自分こそフアナを最もよく理解していると自負していた。ところがどうだ! 自分のいない、自分の知らない記憶を滔々と語るフアナの様子は、カタリナの認識するそれと全くの別人であった。赤の他人がフアナの精神を乗っ取って、その綺麗な皮を我が物にしているんじゃないかとすら考えた。しかしこれはどこまでも精確な現実である。開いた口さえ塞がれなくて、カタリナは、呆然と女主人を見つめていた。

「百日紅……ねえ、あなた、また私を置いて出かけていくのね。今度はどこの女のところに? 私のどこがいけなかったの?」

「お嬢様、あの男は、とっくに死にました」

「あなたが他の女を好きになるたび、私は勉強しているの。あなたの好みはこうなんだって、じゃあ私もそれに近づこうって。……あなたが好きなブロンドヘアは、神に願っても手に入らないけど」

「あの男はわたしが殺しました」

「それなのにどうして……ああ、だから私を疎んじるの? 黒髪の女は嫉妬深いから嫌いだって――」

「フアナ様!」

 侍女の怒声は乙女の夢想を遮った。

「いい加減、現実を見るべきです、お嬢様。フェリペ・サラザールは死んだ。これは否定しようのない事実です」

 能面のような顔がカタリナを眺めている。フアナの、その瞳孔の位置に開けられた穴から、深淵の闇がこちらを覗いている。

「不幸でしょうが、同時に幸いでもあります。なぜならお嬢様は、もうこれ以上あの男に傷つけられることはないのですから。昼に嫉妬に狂うことも、夜に嗚咽を殺して泣くことも、二度とそのような苦しみを味わう必要はない」

 貴方は救われたのだ! カタリナは今にも叫び出したかった。

「お嬢様、旦那様の幻影に縋るのはもうやめにしましょう。窓の外には何もありません。目の前の、ご自身を取り巻く世界をご覧になってください」

 主人と侍女の間には、食べかけの昼食と、重苦しい沈黙が横たわっていた。

 フアナの、僅かな睫毛の瞬きに空気が震える。黒い瞳は滑らかに動く。それは、フォークを握りしめるカタリナの右手に向けられた。

 皮膚の焼け爛れた痕が、彼女の手の甲を覆っている。

「…………そう、貴女」

 フアナの意識は再び、自ら作り上げた虚ろの中へ取り込まれつつあった。

 辛うじて現実に残された部分が、カタリナに短く問いかける。

「貴女、どうして?」

「どう、とは、どういう意味で……」

 カタリナは問いの意図が分からない。視線の注がれた右の手を撫でさする……隠そうと試みたところで、同じ傷は左手にも刻まれている。

 フアナは緘黙したまま、それきり、もう何も言わなかった。

 僅かに顔を俯かせ、静かに、人形のように微動だにしない。自分にまつわる希望を何もかも投げ捨ててしまった姿に思えた。少なくともカタリナはそう感じた。戦争に負けた国の民が、その後の惨劇に絶望する様と似ていた。

 彼女の見立てはある程度正しかった。

 だが人間の行動は、必ずしも統一された感情から出力されるものではない。言動の理由は常に、複雑で多層的で、語り尽くせない揺らぎを含んでいる。フアナを想う侍女はその一方、この主人の別側面を取りこぼしていた。

 彼女がそうして顔を伏せたのには、見たくないものから目を背けたいという意思が働いていた。フェリペを喪った傷のまだ生々しいフアナにとって、現実は火傷するほど眩しいものである。そして、カタリナの手に残るこの瘢痕は、その最も強烈な象徴だった。己が過去に直面した経験を突き付けられる存在であった。だからフアナは目にしたくない――その手の火傷痕も、あるいは、カタリナさえも。

 彼女がこれまで外ばかりを眺めていたのは、亡き夫の幻影を探していたのではなかったかもしれない。〝フェリペ〟とは自分さえも騙す欺瞞だったかもしれない。その本心の奥底では、実際のところ、フェリペなんてどうでもよかったさえあり得る。だが真相は誰にもわからない。フアナには既に諦観しか残されていなかった。

 夏至前の長々とした昼が、庭の百日紅を黙って照りつけていた。

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