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 フアナ・ミチェレーナは、ミチェレーナ公爵夫妻の溺愛する一人娘であった。父親譲りの聡明さと、母親譲りの器量の良さ、詩歌や管弦にも通じ、知り合った誰もがその美しさを認める女性である。夜闇を閉じ込めたような黒の目と髪は、白くしなやかな彼女の肌を際立たせる。熟れた柘榴と同じ赤の唇は、彼女に残された唯一の有彩色だ。王国きっての肖像画家はその優れた腕を以てフアナの美貌を細密に描いた。この肖像画は見合いのために複製され各地へ送られて、まもなく数多の貴人が求婚を申し込む原因となる。……のち、彼女の夫となる、フェリペ・サラザールもそのうちの一人だった。

 そのフェリペを先頃亡くしてから、フアナはずっと塞ぎこんでいる。公爵家の人間は喪が明けて早々に日常生活へ戻ったというのに、彼女はいつまでも、彼が死んだあの日に取り残されているようだった。

 侍女のカタリナは昼食を持って、フアナの部屋へ訪れる。

「お嬢様、お昼はいかがいたしましょう」

「……要らないわ」フアナは自室の窓辺に座るのがこのところの定位置だった。それでしきりに、外の庭を眺めている。

「侍医のパイス様がおっしゃられていたように、何か物を食べて活力をつけなければ。公爵様も奥様も、お嬢様のことをひどく心配していらっしゃいます」

「あの人がいないのに?」

 夏が近づいて、開け放たれた窓からは爽やかな風が流れ込む。黒髪がそれに靡き、やつれた娘の顔が侍女を見た。

「あの人がいないのに、私ばかりが元気になっても仕方ないじゃない」

「ですが……」

「……もうずっと食欲がないの。その昼食は貴女が召し上がって」

 視線は再び窓の外へ向く。カタリナに一瞥くらいあげてやってもいいのに、フアナはそれから微動だにしない。彼女の世界でカタリナは、路傍の石も同然だった。

 カタリナはしばし戸惑って、前で結んだ両の手を弄んだ。

「お嬢様……、その、もしよろしければのお願いなのですが」フアナはゆったりとアームチェアに腰掛け、背を預けている。その対面には丸テーブルと、対になるもう一つの椅子。「こちらの部屋で、昼食をいただいてもよろしいですか」……カタリナの視線はフアナの向かいのアームチェアに注がれていた。

「好きになさったら」

 部屋の女主人は無関心に言い放った。

「ありがとうございます。……それでは、お言葉に甘えて」

 侍女は昼食をテーブルに載せ、自身は件の椅子に腰を下ろす。特等席だ、と彼女は思わずにいられなかった。

 窓より差し込む陽光は、天からの恵みのように、フアナを頭上から照らしている。カタリナはこの情景に似た絵画を見たことがあった。確か公爵のコレクションルームに飾られていた気がする。その作品は、そうだ、受胎告知――天上から天使が遣わされて、聖母に救世主の懐妊を告げる場面を描いていた。……そうなると今の彼女も、大天使の啓示を受けているのだろうか。カタリナはフアナを聖母に相違ないとまで思っているが、だとして身籠った子は誰の子か? 本当に神の奇蹟が存在して、誰の子でもないものを宿したならばまだ許せる。世間は化物と懼れるだろうが。しかし現実的に考えて、この場合、生まれくる子供はあの男……フェリペ・サラザールの血を引いているだろう。

 ――カタリナは皿にフォークを突き立てた。

 予想外に大きな音が鳴って、目玉焼きの黄身が潰れる。刺した先から半熟の卵黄が流れ出る。カタリナは慌てて主人を見遣るが、フアナは相変わらず天使の降臨を待っているようであった、彼女の意に介した様子はない。侍女はほっと胸を撫でおろした。

 自らの思考の結果とはいえ、実に忌々しい結論だ。カタリナはベーコンをブチブチと引きちぎって口に放り込んだ。ミチェレーナ家に世継ぎがいないことは由々しき問題だが、そんなもの、フェリペが他所で作った女に産ませて引き取ればいい。あんなクソ男のために体の弱いフアナが腹を痛める必要はない。もしもこの後フアナの妊娠が発覚したのなら、子が生まれたのちに乳母となって、猛毒入りのミルクでも飲ませてやろう――いつかフェリペ本人父親に仕組んだように。

 物理的に消し去ってもなお、思考に紛れ込む男の存在に、カタリナはつくづく苛立ちを覚えていた。

(本当に忌々しい奴だ。傲慢な自己愛しか持ち合わせていないのに、なぜよりにもよって貴方を選んだのか……)

 見目だけはフアナの夫に相応しく、よく整った男だった。亜麻色の緩くウェーブを描いた髪、空色の柔和な瞳。腹立たしいかな、カタリナは彼によく似た色彩を持っていた。カタリナの方がやや青みの深い碧眼をしていたか。それと彼の女好きを利用して、昔はフェリペに言い寄ったこともあった。そうして取り立ててもらった地位こそ、現在のフアナの侍女という肩書である。でなければ田舎の農家の小娘が、公爵令嬢の傍仕えという役職にありつけるはずがない。

(貴方も早くあの最低な男など忘れてしまえばいい。とっくに冷めた愛を求めて嘆き悲しんだ日々は、もう過去の出来事なのだから)

 そして、どうか、わたしを見て。

 貴方の隣にはもう、わたししかいないのだ。

 ……カタリナはフアナに長らく懸想していた。報われることのない、一方的な恋であった。

 否、そう思い込みたかった。

 身勝手な欲望は日ごとに膨れ上がって、思い詰めた恋情は嫉妬に、それから憎悪へ姿を変える。こうして抑えきれなくなった感情の矛先は、フアナの愛する夫へと向いた。

 欲が出ても仕方のないことだったと、カタリナは自嘲する。だって、自分が求めても与えられないフアナからの愛を、フェリペは鼻で哂って無下にする。美しくも繊細なフアナを、「つまらない女」と突き放して、それからまるで一顧だにしない。……だったら自分に寄こしてくれたっていいじゃないか! 挙句彼は不倫相手との駆け落ちを画策する始末だ。その計画をよりにもよってカタリナの面前で口走るのだから、彼は哀れなほどに運がない。それで彼女は、フェリペと不倫相手が出奔するところを見計らい、毒を仕込んで両者を殺した。最期まで馬鹿な二人だった、遺書とも取れる置手紙を記したばかりに、両名の死を他殺と疑う者はいない。こうしてフアナはめでたく未亡人となって、カタリナは喜ぶばかりである。

 彼女は自らの成功を信じてやまなかった。最も邪魔な恋敵はこのように土の下、後はただフアナが堕ちてくるのを待つのみだから。カタリナは辛抱強かったし、フアナの一途な性格からしてフェリペの代替品は現れそうにない。悲嘆に暮れるフアナに寄り添って、甘い言葉をかけてやれば、いずれこちらを見てくれるだろう。フアナは愛に飢えている。フェリペから与えられなかった愛を施すのは自分であり、反対にフェリペへ与えられるはずだった愛を戴くのは自分なのだ。カタリナはこの数十日、優越感と万能感にほくそ笑んでいた。

 一方で僅かな不安も生じつつあった。

 見ての通り、フアナは夫が死んでからずっと、日がな一日憂鬱の中に沈んでいる。喪服を手放さないことが何よりの証拠である。情熱や喜びの一切合切を吸い込むような黒は、フアナからあらゆる感情を奪っているように見えた。虚ろな視線は庭木に注がれ、白磁の肌は艶を失う。侍従たちの問いかけには朦朧として反応し、会話も覚束ない。一部の不躾な使用人などは、気でも狂ったのではないかと噂する。

 カタリナは薄っすらとした危惧を抱いている。

 フェリペを喪う以前より、フアナにはヒステリックな部分があって、使用人からは何かと恐れられていた。しかしそれはカタリナにとって都合が良かった。フアナが孤立すれば孤立するほど、彼女の傍には自分しかいなくなる。好ましいとさえ思っている。そうして彼女の激情を引き出すたびに、カタリナはフアナへの愛をうっとりと噛み締めていたのだから。

 この先フアナがあらゆる感情や情熱を失って、茫漠とした日々を過ごすなら、それは彼女にとってこの上ない不幸だ。結婚相手が人の愛情を踏みにじる浮気男だったばかりに、感受性豊かなフアナの世界はズタズタに引き裂かれてしまった。この砕け散った世界を繋ぎ直す者こそ自分だと、カタリナは今まで信じてやまない。しかし嫌な予感も喉奥に居座っている。……果たして残酷にも破砕されたフアナの心は元の形に戻るのだろうか? 粉々に砕かれて最後、フアナの体はもはやただの抜殻であって、カタリナの求めている心は、もうここに存在しないのではないか? かつてフアナだった者の、僅かに残された残滓こそ、今自分が相対しているものだとしたら。

 とめどないカタリナの懸念を他所に、フアナは相変わらずぼんやりと外を眺めている。

 その黒々と濁った瞳は、蕾を風に揺らす百日紅を捉えていた。

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