4
夜半、月が南に輝く頃、カタリナはふと目を覚ました。
隣にはフアナが寝ている。横になってそれぞれ語り合っているうち、二人ともすっかり寝落ちてしまったらしい。彼女を起こさないようにカタリナはベッドを抜け出す。カタリナに彼女と朝まで同衾する気はなかった。出来ないといった方が正しい。左頬の傷を埋めるパテは一日しか持たない。どんなに離れがたくとも、自室に帰って湯浴みして、〝フェリペ〟から
フアナに変わったところはない。強いていうなら、喪服を着ない代わり、手袋を外すよう求めたことか。カタリナは特別それを不審に思わなかった。そもそも手袋を嵌めていたのは、この両手に鎮座する火傷痕を隠すためでしかない。カタリナには許されるこの傷も、フェリペには存在しえない瑕疵である。フェリペへ完全に成り代わるには、どこまでも邪魔なシミだった。それを曝け出してフアナがそれを咎めないのには、彼女の中で、何らかの折り合いがついたのだろう。カタリナにはその思考回路が読めなかったが、フアナは未だ、自分を『フェリペ』だと信じ切っているようである。
カタリナは使用人用の大浴場へ向かう。深夜も深夜なだけあって、そこに人の影はない。空間は孤独だった。誰も居ない浴室の、その壁に取り付けられた鏡の前、カタリナはしばらくそこに佇む。フェリペの顔に女の胴体が付いていた。湯を頭から浴びる。……亜麻色の髪をザンバラに切った、フアナの侍女が現れる。
フェリペに成り代わろう、そのフリをしようと考えたのは、ほんの
けれどそのうちにカタリナは気づいた。フアナが自身に向ける愛は、その実フェリペに宛てられたものということを。そして、カタリナという個人には与えられていないことを。フアナはカタリナを通してフェリペを見透かしている。どころか、内なるカタリナの人格を一切無視して、その表面のフェリペのみを甘受している。
だからカタリナはより慎重になる。フアナへ
その詐欺は日増しに達者になっていた。近頃は危うくも本当に騙されかけるのだ。わたしは最初からフェリペとして生まれたのではないかと……けれどそうやってフェリペに肉薄すればするほど、内心の断裂は耐え難いものになっていった。わたしを見て、わたしを好きと言って、わたしを愛して! ――カタリナが死んでいく。
侍女は湯船に浸かった。
最近の疲れは酷くカタリナを蝕んでいた。否、フェリペでいる間は、どこまでも体は軽いのだ。全てが劇場の舞台の上、眼前の事物は非日常の存在に思えて、あらゆることが儚い戯れのようだった。問題はその舞台を降りた後だ。カタリナという一個人の現実に直面して、途方もない絶望に立ち竦んでしまう。ずっと『フェリペ』で居られたら。いや、出来ることなら今すぐこの役を投げ捨ててしまいたい。あまりに長い間『フェリペ』を被り続けたら、そのうち、耐え切れなくなった『カタリナ』が偽りの人格を食い破って現れそうな気がした。だけどそれは本当にカタリナなのか? 現在のカタリナは、少なくとも外面はフェリペにかなり近しい。左頬の傷の有無が両者を分ける唯一の違いだった。両手の火傷はとっくにフェリペと同化してしまった。そうなれば、カタリナが『カタリナ』と思って発言したことも、フアナは『フェリペ』と捉えるのではないか? いや、既にそうなっているのでは? だって、『カタリナ』では伝えられない本心を、『フェリペ』に託して語ってしまっている……。
「わたしは――わたしって、誰?」
カタリナは頬の左に指を滑らせた。
傷があった。
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