5

 フェリペとフアナの不仲が噂になった時、二人は結婚して二年が経過していた。

 噂話の中身は簡単だ。フェリペの無責任な女関係に、フアナが激昂する構図である。彼らはそれで、よく激しい口論になっていた。

 フェリペをよく知る者であれば、彼に呆れ、フアナに同情するだろう。しかし助けはしない。結婚時点で十分予測できた未来だったからだ。フェリペは結婚以前からよく女性に好かれていたが――カタリナもその顔の良さのみは認めるところだ――、一方で、利己的なことには擁護の余地がないほど最悪であった。彼は折に触れてフアナに語る。『が本気で好きになったのは君だけだ』……言わずもがな体のいい方便だ。

 社交界に通じた人間なら、フェリペの女遊びは以前から目に余るものと知っていたし、所帯を持ったところで改善される類のたちではなかった。どころか、フアナ・ミチェレーナとの婚約でさえ〝遊び〟の一つに過ぎないと断じるだろう。ああいう奥手で慎ましやかな女を手に入れるには正攻法に限る。最も優れた見た目の女を自らの支配下に置くために、彼は婚姻を利用したに過ぎない。不運が重なることに、フアナの容姿はずば抜けて整っていた。

 ただしフェリペの誤算だったことは、フアナが大人しいだけの田舎娘ではなかった点である。彼女は嫉妬深く、激情家で、夫の浮気に気づかぬ愚昧さも、あるいは知って気にしない鈍感さも持ち合わせていなかった。フアナはフェリペにきつく詰め寄った。なぜ自分では駄目なのかと詰問した。その度にフェリペはうんざりするのだった。同じ時を歩み始めて季節が二巡するころには、彼はほとほと愛想を尽かしていた。つまらない奴だ、これだから田舎の女はよくない。

 こうしてフェリペは公爵邸を留守がちにし、王都で派手な私生活を見せびらかすようになった。カタリナがこの話を知っているのは、出稼ぎのため同時期に王都に滞在していたからだ。無関係の市民にまで彼の醜聞が広まっているのだから、全く信じられない事態だった。

 カタリナは腹立たしかった。自分の初恋の人間を奪っておいて、その尊厳を蔑ろにするなんて! このクズ男が、と罵倒することは容易い。ところで、奴が気に入った女を自分の使用人にしているらしい、そういう話が流れてきたのは、当時カタリナが勤めていた職場の上司を経由していた。彼の知り合いの娘がフェリペのお手付きになって、それでミチェレーナ公爵家の奉公人になったという。ただその娘は王都の別邸ではなく、領地の本邸に送られたから、事の経緯が判明するに従いフアナの激しい怒りを買った。苛烈な嫌がらせといじめにあって、心を病んで戻ってきたと上司は話す。同僚たちはその話に恐れおののいた。夫が夫なら妻も妻だ。

 しかしカタリナにはこれが一つの光明のように思えた。……はて、ああも憎たらしい男であるが、自分がフアナに接近しようと企む限り、彼は最も使える人材ではないか? 自分とフアナは身分によって明確に分け隔たれており、望んでも彼女に近づくことは叶わない。農家の娘であるカタリナは、下女として掃除洗濯皿洗いの仕事にありつけても、御令嬢のフアナとは言葉を交わすことすら出来ないだろう。農民には雑用係しか職業の枠がない。だけどフェリペの女になったら? フェリペとてその辺の有象無象をおいそれと愛人にする訳にはいかない。面子というものがある。相手の女に身分が無ければ、それ相応の地位を与えればいい。

 あくる日開かれた仮面舞踏会で、カタリナは高貴な女性たちの群れに紛れ込んだ。

 顔には自信があった。化粧を乗せて華やかに着飾れば、都会の気取った貴族とも見分けがつかない。それで婀娜っぽく笑って、参加者の一人――この世で最も忌む男、フェリペ・サラザールにしなだれかかる。

「わたしたち、何だかとっても似ていません?」

「仮面で顔がよく判らないのに? そう言い切るとは、君はさしずめ自信家なんだね。よく見たら似ても似つかぬ可能性だってある」

「そうおっしゃるなら仮面を外してみましょ? ほら、向こうの部屋で……」

 当時の二人は知る由もないことだが、実際それで成り代わっても違和感がないのだから、なんとまあ笑える話だった。

「俺は君が気に入ったよ」情欲の怠惰が残る中で、フェリペはカタリナの頬を撫ぜた。そのまろやかな肌には傷一つない。「さて、次に会えるのはいつだろう?」

「貴方が望むなら、いつだって」

「はは、女の従順さは美徳だ」

 自分に都合がいいだけだろ、とカタリナは思った。

「でもサラザール様には、奥方がいらっしゃるはずでしょう? 聞いていますよ、とっても美人だって」

「言っただろう? 俺が好きなのは俺に素直な女」彼は葉巻を取り出して火をつける。「あんなヒステリックな女、いくら顔が良くたってまっぴらごめんだ」

「……酷いことをおっしゃるんですね」

「酷い? 全く嘆かわしいのはこの身だよ。そうはいっても夫婦だからさ、いずれは世継ぎを作らなきゃいけない。けどあの癇癪と病的精神性を前にしてみろ。勃つものも萎える」

「…………」

 カタリナが疑問に思っていることに、こうした第三者によるフアナ評があった。どうにも、誰かが意図的に捻じ曲げて伝えているとしか思えなかったのだ。記憶の中のフアナは大人しく、穏やかで、聡明で、理知的で――兎角フェリペや世間が噂するところの、ヒステリーぽさとは無縁の人物だったはずである。フアナは領地に引きこもって、社交の表舞台にはまるで出てこない。それをいいことに、彼女を敵視する何者かが――さしずめフェリペの愛人の誰かが、根拠のない風説を誑しこんでいる。フアナを陥れようとしている。そう考える方が、カタリナにとって自然に感じた。

 真相は間もなく判明する。

 数回の逢瀬のうち、カタリナはすっかりフェリペのお気に入りとなった。それで、公爵家で働かないかと打診される。この男の傾向として、好きになったものは手元に置いておきたい性質があるらしい。コレクターと表現すべきか、自分の下から離れて自立するのを大層嫌うのだ。彼の幼稚な精神性には、カタリナも感心するばかりだった。

「あんなド田舎に住むんだ。待遇は弾む。どうだい?」

「もちろん。ぜひとも――」カタリナはこの時を待ち望んでいた。

 ああ、実に五年ぶりの再会! フアナは自分のことを覚えているだろうか? きっと覚えていないに違いない、けどそれだって構わない。また友達からやり直せばいい、そして今度こそフアナ、貴方と結ばれるんだ――カタリナは陶酔と確信を以て公爵家へ足を踏み入れた。

 冷水を浴びせられる。

 バシャリ。歓迎の代わりカタリナを襲ったのは、手桶いっぱいの井戸水と、陰鬱そうな女の怜悧な視線。眼光の鋭さに息を呑む。始めにカタリナは動揺と憤慨を覚えた。新人いびりはどの職場にも見られる普遍的な事象だが、だからといって、自己紹介すら許さないとは横暴が過ぎる。ムッとして口を開きかけて、カタリナはその黒髪の女を睨もうとした。……睨めなかった。

「わざわざこんなところまで、本妻の顔を拝みに来たのかしら? ならもう十分でしょう」

 滴れる雫の合間から女を見る。

 カタリナがかつて人形のようと讃えた少女は、その美貌だけをそのままに、昔日の面影を全く失っていた。

「即刻立ち去りなさい」

 フアナ・ミチェレーナ。

 血色が如き真紅のドレスを纏って、彼女は、気高き大輪の薔薇だった。






 元からフアナにそのような素質があったのか、それともフェリペの心無い仕打ちによってそうなったのか、今となっては誰にも分からないことだ。ただこの現在に事実としてあるのは、彼女のエキセントリックな性格である。

 悲鳴と皿の割れる音。廊下の窓を拭いていたカタリナは遠巻きにそれを聞く。暫く女の怒号が続いて、また静かになる。沈黙。角部屋の扉が開いた。

 カタリナは掃除の傍らその方をちらりと見る。一人の女が、召使いたちに引きずられて部屋を出る。巻かれた金髪がボロボロになって、薄桃のドレスはズタズタに切り裂かれていた。カタリナはその顔に見覚えがあった。あれはどこの男爵家の令嬢だったか、とりあえずフェリペと関係のあった女性の一人には違いない。顔は怯えの色に染まり切っていた。壊れたオルゴールのように謝罪の言葉を繰り返している。カタリナはため息を吐いた。自業自得だ。

 この屋敷ではこのようなことが度々あった。フアナがフェリペの浮気相手を呼び出し、ほとんど拷問のような方法で問い詰め、相手が泣いて謝るまで虐げる。多く餌食になったのは子爵や男爵といった弱小貴族の娘だ。ミチェレーナ公爵家は王家にも繋がる大貴族だから、彼らからすればおいそれと逆らえる相手ではない。ましてトラブルの元凶は当人の不倫である。外聞を異様に気にする彼らの性分は、家名に傷がつくことを疎み、事件そのものを無かったこととして隠蔽する。こうしてフアナの狂気は外野の好奇から守られていたのだった。もちろんカタリナの上司がそうであったように、伝聞という形で多少の情報は出回っている。

 カタリナはフアナがいるはずの角部屋へ向かう。室内の酷い有様は容易に想像がつく。それを片付けるのがカタリナの役目であった。

 フアナは、荒れ果てた部屋の真ん中で、平然と茶を飲んでいた。

 道端の石がそうであるように、彼女の生活にとって、カタリナは取るに足らない相手である。茶を嗜むプライベートな時間に入り込んでも、また視界の端で食器の破片を拾おうとも、注意を払うに値しない人間。それはフアナとカタリナの歴然とした断絶を示していたし、この侍女が公爵家に来た経緯を鑑みれば当然の仕打ちでもある。カタリナはそっとフアナの様子を窺った。かつて百日紅の下で、二人仲良く語り合った日は、記憶の中に生み出された幻覚だったのだろうか。

 ティーセットと同じテーブルには、銀の裁ちバサミが乗っている。桃色の糸や布の切れ端がそれに絡んで、女の髪のようである。カタリナは無言で鋏を手に取ると、そのゴミを解いていく。

 労働を知る手だが、醜くないよう小綺麗に整えられていた。

「貴女、どうして辞めないの?」

 侍女は吃驚して動きを止めた。フアナが喋っている。自分に話しかけている。

 驚愕をそのままに、椅子に座る主人を見下ろす。ドレスの赤い花弁の袖から、真白な細腕が伸びていて、華奢なカップを掴んでいた。

「こんなところにいてもあの人の寵愛はもらえないわよ」

 口紅に彩られた唇が、歪んだ形を描いた。

「それとも私を憐れんでいるの?」

「……まさか」

 カタリナの眼はフアナのみを映している。

 皮膚を切る刃先の鋭さにも気づかない。

「わたしが欲しいものは、フアナ様からの寵愛、それのみです」

 侍女の手元で、右の人差し指が血を流していた。

 フアナは呆れたように視線を逸らす。

「図々しいのね」






 夏至が近づいて、本邸ではフェリペの動向が騒ぎになっていた。フアナはフェリペの帰宅を今か今かと待ち望んでいる。理由は言うまでもない、この日は二人の記念日なのだから。一方で従者たちからすれば、彼の帰還は傍迷惑な話であった。女癖が悪いだけならまだしも、この不束な義理息子は、使用人に対する態度も酷く横暴であった。気に食わないこと、気に入らないこと、自らの思い通りにならないことがあると、すぐに逆上して怒鳴り散らす。その点フアナはうんとマシであった。彼女の攻撃対象は、碌でもない婿の浮気相手のみだ。

 そうしたフアナの悪意を、カタリナは今のところ免れていた。何につけてもカタリナは仕事がよく出来た。主人に対する気配りの鬼だった。フアナに心酔するカタリナからすれば当然のことだったが、同僚たちにはこの侍女がよく理解できない。フアナもフアナで、心を許すまでいかないにしろ、カタリナの働きぶりには感心しているところがある。一人の男を挟んだ女二人の関係は、いびつな歯車の形で回っていた。

 さて、差し当たり使用人一同の悩みは、気まぐれなフェリペの帰宅の有無であった。

「王都の方とは連絡が取れないんですか? 別邸の連中は何をしている」……家令などは苛立ちを隠そうともしない。

 答える従僕も、手紙を読み上げながら渋面を作る。

「連日遊び歩いて、友人や愛人の家に泊まり込み、別邸には留守の方が多い、とのことです。ただ、夏至の前後は本邸に顔を出すと、一応おっしゃっているそうなので……」

「全くあてにならん」家令は唸るばかりであった。

 カタリナもこの打ち合わせに同席していた。参加者全員に茶を注いで回っていた。

 確かに、フェリペは帰ってこないに越したことはない。それは屋敷内の雰囲気の問題からも言えたし、カタリナ個人の感情としてもそうだった。あの男はフアナに害でしかない。あんなクズに心を奪われたばかりに、フアナの精神まで損なわれるなんて、カタリナには耐え難いことだ。彼女はどうにかしてこの二人を離婚させやしないか画策している。しかし一介の侍女の身分で出来る行動などたかが知れているのだった。例えば、フェリペに手紙を送るとか。

 フェリペは仮面舞踏会の常連客だった。この胡乱な夜会の主催者を介せば、どこを放蕩しているともしれない男でも、定期的な連絡が可能なのである。それでカタリナはよく、フェリペに離婚を迫る手紙を書いていた。貴方にフアナは釣り合わない、貴方にはもっと似合いの女がいるだろう、心にもない結婚などやめてしまえ――フェリペはカタリナの真意など知らず呑気に返事を出す。ははは、男は妻を持って女と遊ぶぐらいがちょうどいいんだ。

 そうした手紙のやり取りで、男は王家主催の夜会に参加する旨を語った。そのパーティーは夏至の夜に開かれる。領地に戻らないことは明白だった。カタリナだけがそれを知っていた。

 果たして、一年で最も昼の長い日の夕べでは、庭を臨むテラスに椅子とテーブル、そしてその上に豪勢な食事が並べられていた。椅子は二つ、夕食も二名分。カタリナはカトラリーを並べながら不思議に思った。

「料理が勿体ないですね」

「どうして?」カタリナの横にいた同僚は首を傾げる。

「片方はお嬢様が召し上がる分として、もう片方は旦那様の分でしょう。でも旦那様は、今晩絶対にお戻りになられないのに。手紙でおっしゃられてましたよ、今日は王宮のパーティーに出るって」

「手紙?」――その声は同僚のものではなかった。

 カタリナの天地がひっくり返る。

 背をテーブルに打ちつけた。弾みで皿が暴れ回って、床に落ちて酷い音。黒髪の女がカタリナに圧し掛かっていた、その後ろに、満天の星空が瞬く。

「貴女、手紙ってどういうことなの」

「フアナ、様」

「教えなさい」フアナに掴まれたカタリナの肩が悲鳴を上げる。「貴女、私に黙ってあの人と連絡を取っていたのね? それで返事も貰っていたのかしら? あの人、私の手紙には何も寄越してくれないのに――」

「申し訳ございま、せ」

 迂闊だった。カタリナは己の軽率さを呪った。近くにフアナがいたなんて思いもしなかった。

 その一方で弁明も出来ない。フェリペに出した手紙はフアナとの離婚を願うものだ。フェリペを未だ愛する彼女がそれらを見てしまったら? 自分がフェリペと結ばれるためにそのような手紙を送ったと思われかねない。本当は全く逆なのに、自分はフアナが好きなだけなのに!

「そうやって陰で私を嘲笑っていたのね」

「お嬢様、違います! わたしは、ただ、貴方が」

「何が違うというの!?」

 果物かごの傍にナイフが落ちていた。フアナはそれをひったくる。

 振り上げて――……月光に見紛う刃の銀色が、女の頭上で煌めいた刹那。

 テーブルクロスに血が舞った。

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