あの日みたいに

双町マチノスケ

カウンセリング記録:20■■/■■/■■

 私は、笑顔が怖いです。






 いえ……冷笑や嘲笑みたいな、悪意のある笑顔ではないんです。下心が見え隠れするような、卑しい笑顔でもありません。笑顔そのものというか、もっと根源的で純粋な笑顔なんです。






 よく、分かりませんか。


 そうですよね。


 いくら精神科の先生でも人の心が読めるわけではないですし……




 それに、たとえ元気になっても私はずっと苦しむことになるんだと思います。

 忘れられないから。






 そう、約束してしまったから。






 あ……すみません。先生には本当に感謝してるんです。自宅を飛び出して半狂乱になっていたところを発見されて、この病院に入院した私をまともに話せる状態になるまで何とかしてくれて。最初に運び込まれた私の状態を診た時「最悪の場合このまま戻らないかもしれない」って言われてたんですよね。本当に、ありがとうございます。本当に……




 えぇと、話が逸れましたね。何て言ったらいいのかな……












 笑顔は本来、攻撃的な表情だという説を聞いたことがありますか?




 人間の笑顔というのは、かつて猿だった頃に歯茎を剝き出しにして相手を威嚇していた表情の名残なのだと。そんな理性から外れた攻撃性こそ、笑顔の起源であり本質なのだと。あぁ、デマなんでしたっけ……これ。




 でも、今からお話しするのは。


 思わずそんな説を信じたくなるような。











 信じずにはいられなくなるような、そんな私の体験です。






 始まりは夢です。夢の中で、私は何もない白い空間に一人で立っています。いや、もっと正確に言うのなら……何もないんですが空間全体に揺らぎというか波のような模様があるんです。うまく言い表せないけど幾何学模様というか、万華鏡を覗いた時に見える景色をぼやかして白黒にしたような……そんな身体の平衡感覚が狂いそうになるような模様です。何か起こるわけでもなく何の音も聞こえない、静かな空間。でも……いやだからこそ、そこにいるだけで不安になるような空間でした。




 そして、そんな空間でどうしたものかと辺りを見回していると──

 















 いつの間にか女の子が立っていて、私の方を見ていることに気づくんです。




 その子は私が通っていた中学校の制服を着ているんですが、顔の部分だけ何かで塗りつぶされたように黒くなっていて見えないんです。顔が分からないし、全体的な雰囲気からしても私はその子に見覚えがなかった。


 その子は私が気づくと、ひたすら「あの日みたいに……」と言ってくるんです。何度も何度も。それしか言ってきません。その声にも、聞き覚えはなかった。「あの日みたいに……」のあとにも何かを続けて言っているようなんですが、その部分になった途端に声がくぐもって聞こえなくなってしまいます。繰り返されるその声は私の頭の中で反響し、苦しくなって夜中にベッドから飛び起きるのです。その女の子は日を追うごとに近づいて来て、「あの日みたいに……」という声も大きくなり、はっきりと聞こえるようになっていきました。でもそのあとの部分は、相変わらず聞き取れないままでした。

 そんな夢を突然に、しかも毎日見るようになりました。私は夢を見てから、ある種の強迫観念のようなものに囚われたんです。「何かをしなければならない」と。でも……それが何なのかは、その時は分かりませんでした。なんで夢を見るようになったのかも、何をすればいいのかも分からなくて。だから私にとっては「ただ怖くて鬱陶しい夢」でしかなくて。色んなことが落ち着いてきて、やっと一人暮らしの幸せな人生を謳歌できるようになった時に、なんで私だけこんな目に合わなくちゃいけないんだって。




 私は恐怖と苛立ちでおかしくなりそうでした。


 心の中で夢にいる存在に訴えかけます。




「あの日」っていつのことなんだ。


 なんで、私に言ってくるんだ。


 私が貴方に何かしたの?


 それとも貴方が私に何かしたの?


 私の中学と同じ制服を着ているけど、そもそも貴方に見覚えは……




 見覚えなんか──
















 いや、ある。




 ……あったんです。

 私は、思い出しました。




 この子は、たしか中学の時同じクラスだった子で。












 私が虐めて、その末に自ら命を断った女の子だ。







 中学生の頃、私は「いじめ」をしていました。いや、そんな言葉で片付けていい行為ではありませんでした。誰も見ていないところで、殴ったり蹴ったり刃物で切りつけたりしました。クラスの誰にも告げ口されないように、わざと見せしめにやったこともありました。クラスから孤立するよう仕向けるために、嘘の噂を流しました。誰かに相談しないように、何か聞かれても誤魔化すように、たくさんの弱みを握って脅しました。他にも、大小さまざまな嫌がらせをしました。彼女の何もかもを否定し、虐げました。彼女はとうとう耐え切れずに、自殺しました。











 ……教室の窓から、飛び降りました。


 彼女は真っ逆さまに落ち、その顔は誰なのか判別がつかないほどグチャグチャに潰れていたのだそうです。




 私がしたことは間接的とはいえ人殺しです。しかしクラスの皆が加害者が私だと言い出せなかったこともあり、彼女が命を断ったあとの騒動と「いじめ」という言葉で覆い隠されて、結局は全てが有耶無耶になりました。私は自分の記憶に蓋をして、無かったことにしようとしていたんです。私は一人の人生をつぶして、今のうのうと生きているんだなと思いました。そのことに彼女は怒り、私を憎んでいるのだろうと。塗りつぶされて見えないけれど、夢の中にいる彼女の表情もそれらに満ちたものなのだろうと。「あの日」というのは私が彼女を虐めていた日々か、彼女が飛び降りて死んだ日のことなのだろうと。







 ──私はどうだったのだろうとも思いました。




 その夢を見たことで、中学生の頃に彼女を虐めていたことは思い出しました。でもその動機や当時の心境は、夢を見た後であっても抜け落ちてしまったかのように思い出せないんです。




 ……彼女を虐めていた時の情景を、思い浮かべてみます。


 窓から夕暮れの光が差し込む、少し埃っぽい放課後の教室。最後の授業が終わってから時間が経って、私と彼女のほかに誰もいなくなった教室。電気を消してドアを締め切った、薄暗い教室。外からゆるやかに聞こえてくる、部活動に勤しむ生徒達の声と、雑多な街の喧騒。からっぽの机、プリントがぐちゃぐちゃに詰め込まれた机、几帳面に教科書が置き勉された机。中途半端に消されかけた黒板。教壇側、左の隅っこにうずくまっている彼女。その彼女を見下ろして虐めている私。



 今まで埋もれていた記憶にしては、やけに細かい所まで生々しく映像として頭の中で再現出来るのです。でもそこにいる私の顔だけは、夢の中での彼女の顔と同じで塗りつぶされたかのように見ることが出来ないんです。なぜ私は、何を思い、どんな表情で彼女を虐めていたのだろう。ただ単に気に入らなかったからでしょうか。先に彼女が私に何かしていて、その復讐だったのでしょうか。それとも別の何かに対する苛立ちや妬みなどを、理不尽にも彼女にぶつけていたのでしょうか。

 それに腑に落ちないことがもう一つありました。あの日というのが私が彼女を虐めていた日々だとして、あの日「みたいに」とは何なのでしょうか?夢の中では聞き取れない部分で、彼女は何と言っているのでしょうか?その部分に、自分がまだ思い出せない記憶の答えがあるのかもしれない。でも、そう思うと途端に怖くなってしまうのです。ほかの全てが思い出せた中で、それだけが思い出せないのは「知ってはいけない何か」があるからではないかと。自分が記憶から消した行為なだけに得体が知れないし、恐ろしい。でも気になって気になって仕方がなくて、恐ろしいという感情を無視して吸い寄せられていく。そんな薄暗くまとわりつくような、蔦が絡みつくような恐怖に私は徐々に蝕まれていきました。






 夢を見始めてから一か月ほど経った時に、その日はやってきました。


 ええ、私が狂ってここに来た日です。その前日の夜は、夢の声が一段と大きく私を搔き乱していました。何重にも重なった声が頭の中で響いて、頭が割れそうになるほどの痛みに襲われていました。夢の中で耳をふさいでも何をしても、その声は止むどころか更に厚みと音量を増していきました。とうとうダメだと思った私は、夢の中で必死に彼女に謝ったんです。




 ごめんなさい。


 全部、私が悪い。


 しかも、忘れてしまって。


 許してください。


 全部、思い出すから。


 から。






 するから。












 お願い……目を、覚まさせて。












 いつの間にか、朝になっていました。最初から何もなかったかのように、朝になっていました。未だに怖くて目を開けられませんでしたが、瞼越しに感じる日の光と小鳥のさえずりで朝だと分かりました。頭の中で散々反響していた声が、噓のように静まり返っていました。




 終わった……のかな。




 改めて、ひどいことをした。

 その一言で片付けてはいけない。

 もちろん許されたとも、思っていない。

 でも彼女はもう生きていないし、戻らない。

 それなら……






 彼女を犠牲にした今の人生を、せめて幸せに生きよう。

 償えなくなった罪を背負って、生きていこう。

 彼女のことを覚えて、生きていこう。




 そう、思ったんです。







 私は目を開けました。

















 目が合いました。







 今まで見えることのなかった顔が、私を見下ろしていました。







 彼女を悪質極まりない方法で虐め、

 その果てに死へと追いやり、

 許されない罪から逃れた挙句、

 そのことを忘れて生きている私のことを、

 凄まじく憎んでいるはずの彼女の顔は──

















 ぞっとするほどの、混じりけのない笑顔でした。


 目の見開いた、笑顔でした。







 そして彼女は……その顔に張り付いたような笑顔のまま口だけを動かし、夢の中では決して最後まで聞き取れなかった「あの言葉」を言いました。







「あの日みたいに」











「笑ってよ」












「笑って笑って」











「殺してよ」

















 私は、笑顔が怖いです。

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