絶対絶対生存領域

ドレナリン

山野中ホテル



 高速道路を一台のトヨタが走っている。都市へ上る道は所狭しと車両が並び、ときには重なったものも、横転し燃えたらしい残骸もあるが、地方へ下る道では車両は路肩に整備されまっすぐに運転することができた。不思議なことに、どの道の車両にも乗客はいない。彼ら以外には。


「問題は、間に合うか、間に合わないかってことだ。それだけだ」


 老いた男はがなる。後部座席に座っていてもうんざりするほど声は前方まで届く。


「飯時にだろ。何回も聞いたよ。それ以外話題ってないのか? もう逆にあんたが選んだメニューなんて気になってくる」


 もう一人の男、こちらは比較的若い。苛立っているようだが、ハンドルの操作は相変わらず慎重だ。一定の速度を保ちつつ、何かが飛び出してくるのを警戒するように路上に向けた目は据わっている。


「俺か? 俺は確かな、季節の何とかだ。お前が頼んだんだろ。忘れたとは言わせんぞ、お前はやっぱりどこかおかしいんじゃないのか?」


 ここか、ここか。男は頭と心臓を叩いて見せる。


「爺さん悪いけど今そういうのは流行ってないよ。もう一回勉強してきたらどうだ? 入りかけた墓の中で」


「お前には敬老って物が無い。そういえば部屋にビール、あるか? アッ、おい何で止まるんだ」


 運転席の男、箱作は答えない。目線の先には少女がいた。小さく、薄汚れた身なりの少女は裸足を引きずって歌を口ずさんでいる。ガードレールを指でトン、トン、トン、と叩いてはのろのろと歩く。少女の指は黒い跡を残し、よく見ると今までに走ってきた道づたいにも同じ痕跡が確認できただろう。


「感染しているかもしれない、出ろ」


 老爺は無関心な態度で命令した。この男、吉見といい、こちらが本性であった。

彼の言い分にも正義はあった。一刻も早く〈ホテル〉にたどり着かなければ二人とて安全ではいられない。外に長居すれば罹患の可能性はいつだって開かれていた。


 箱作は黙して、蛇行を続けて少女を見ている。


 少女はそれを一瞥し、かえって自身を思い出したかのように尊大な態度で前を睨んで歩を進める。最近の他の人間と同じように、彼女はどこまでも限界らしくて、本当は今すぐ何もかも投げ捨てたい。諦めたいが、ここでは駄目だと脚が震えている。


 車が停まる。


 箱作は車両を降り、後部座席の扉を開いてやる。吉見が駄々をこねるので少女は助手席に座ることで落ち着いた。言葉をかけても、無言で金色のロケットを握りしめている。


 かくして、殺人鬼とその裁定者、そして無実の同行者三人は目的地を目指した。夏の夕日はブルーの車に入り込み緩やかに空気の色すら塗り替えたが、賢明なはずで彼らの心どれ一つにも決して触れようとしなかった。




『〈山野中ホテル〉へようこそ、二百余年時代とともに寄り添う空間へ』


 旅館のパンフレットを由良は折って遊んでいる。少女の頬には赤みが差している。


 ホテルへ到着して五日が経った。ここでは、箱作たちは親戚筋ということになっている。


 宿泊が許されるにはそれしかなかった。朽ちかけた様子の町、そして山腹にあるホテルは不気味なほど静まり返って、一見するとすでに汚染されてしまったように見えた。だが四方からは恨みがましい視線が、そしてホテルの正門に手をかけると早急に登場した武装集団より、ここはまた一つの隠れ里、感染者の治療のためにある施設ではなく、感染しないための排他的な施設となったことが察された。




 世界中に広まった感染症で唯一人間が獲得した知識というものは、まず感染者は外見に特徴は見られないものの、幻覚症状から始まり、一定の時間経過後(これは〈線を超える〉という表現をされた)必ず人体そのものが消滅してしまうこと。次に、感染者の治療と予防には、宿泊施設に滞在することが有効であること。外気に感染の原因があると考えられている。最後に、感染の拡大は知覚できず、また消滅現象の半径5Mにいた場合治療は不可能なこと。


 誰も自分が感染しているかどうかわからない。誰かが消滅するまでどこまで拡大しているかわからない。つまり、時間との戦いであった。


 最も有利な戦い方というのが、感染症の流行以前から宿泊施設に滞在していた者たちで集い外部との接触を断つ方法であった。施設内であれば、どれほど外気に晒されていても同時に洗浄されている。外出の時間に気を配れば安全である。


 信頼できる集団で施設に引きこもり、外部との間に文字通り〈線を引く〉。


 これは〈絶対生存領域〉と揶揄され、施設に滞在できない者たちから激しく憎まれた。 




 箱作たちは幸運であった。山野中は道徳の過渡期にあった。自身の生存のために他者を見捨てることに耐えかねた者たちがまだ一定数存在したのだ。彼らは無理やり門を開けてしまうと、箱作たちを離れに案内した。


 三人は柱に鎖で繋がれ、不定期にかかってくる電話の指示に応じるように言われた。幻覚症状の有無を調べるためである。


 昼夜を問わず、向かいのホテルの客・スタッフから内線が飛ぶ。


『今日の天気って何?』


『お前たちに届けられた食料のラベルを読み上げろ、一から順に』


『離れの備品、数と色を答えて』


『今ホテルはどんな様子に見える? 誰が中庭にいる? 外には誰が?』


 黒電話は昼夜を分かたずジリジリと鳴った。三人には寝る暇も会話らしきものも生まれなかった。足首の鎖が縺れても電話に飛びついた、だって拾わないともう消滅したと思われて誰も来なくなる。傷つきやすい動物の群れのように彼らは固まってほとんどの時間を過ごした。


 吉見は唯一、「ほら季節のド定番のメニューだろ。俺の言った通りだ。フルコースじゃねぇか」と呟いたきり天井のシミが人の顔に見えないか数えていた。


 由良はずっと窓の外を見ていた。


 ここまでくると善意か悪意かわからなくなる。一生滞在させる気なんてなくて、ここで気まぐれに飼い殺される運命かもしれない。


 箱作は忘れられた銅像のように座っていた。


吉見に命じられるがまま運転する他に曖昧な光景から逃げる術を知らなかった。彼の人生は映像であり、現在の風景に重なって循環している。始まりは彼の生育環境。次の場面は兄妹ともに成人し、再会と新たな日々の始まりを祝った姉の家。その次は姉以外にありえない手が妹の首を絞めている。彼はそれを止めることができない。夢だと思ったから。時間が飛んで、彼と吉見以外に人の消えたホテルの穏やかな静寂。吉見は機嫌がいい。


 増えるばかりの、預かり知らぬ骸が浮かんでは彼を責め立てる。


 彼は不眠でもあったが、これを苦に感じたことはなかった。目が開いていれば見落とすことのない俗悪を疎んでは、信じていたからだ。信じて背中を向けた瞬間、裏切られてきた。




 五日目にして、ようやく本館での滞在が許された。


 彼らを迎えた腕は、意外にも暖かかった。消化にやさしい食事、傷跡の手当、身体の芯がほぐれるような源泉かけ流しの湯、ふわふわとした布団。ゆっくりと回復するように、穏やかに時間を過ごせるように。誰もが細やかな気遣いを見せ、「辛かったよな」「あれは誰もが通る道だから」「もう大丈夫だ」「二重様がお守り下さったんだ」と言われた瞬間に三人は自分の役割を理解した。


 ここはカルトで、彼らは戦うしか道がないのだ。


 由良は身近にいた妙齢の女性にサッと抱きつき怯えた演技をし始めたし、吉見は七個ほどの症状を併発し始めて叫びだした。「ものすごくよく効く薬を」求めている。箱作は待遇の落差に警戒しつつも時間経過で融和することに決めた。




 生存のためには誰もが狡猾になる。そして山野中ホテルはとんでもない魔境だった。これは戦争だった。陣取り合戦であった。


 三人はここを乗っ取ると決め、完遂にむけて行動を開始した。ちなみに、その後どうするかは誰も一切考えていなかった。




 よって、回復も間もないうちに彼らは一日のほとんどを大広間で過ごした。館の中心にあるここは、人々の生活が営まれていたからだ。侵略戦争のガイドブックなどはどこにも売っていないしネットとも切断されていたから、目と手を動かして情報を得るしか手段はなかった。大広間では食事はもちろんのこと、子どもたちの遊び場であり、大人の会議室でもあった。夜は蚊帳を張り、小さな集団で広間に陣取って眠った。彼らはそのような生活に溶け込んでいったけれど︙︙


 やっぱり感染が怖かった。どうして集団で生活しているのか理解できなかった。感染症は〈外〉の話題であり、ホテル内には存在しないと振る舞う人々は異質であり、傲慢でもあった。それが強制された信仰によるものだとしても。




 箱作たちは徐々に全体の輪郭を把握した。コミュニティに親しみ、それぞれが持ち寄った情報を密会しては照らし合わせたのである。生活圏の確保という名で実施される強制労働のボイラー室の整備で、タイル磨きの作業で。


 多大なる努力がもたらした成果とは、まず、ホテルに存在する二つの派閥に関してであった。現体制の維持に尽力する閉鎖派、ホテルの存在を明るみに出して感染者に治療の場を提供すべきとする開放・治療派。


 どちらかに所属せねば、死あるのみである。死とはホテル外へ無一文で追い出されることを意味する。ここの住民は外の世界に恐怖心を抱いているようで、ホテル内で発生する犯罪に等しい行為は、外に掘られた穴へ縛り上げられた個人を突き落とすといった私刑で裁かれている。個人を突き落とし、そして次の犠牲者のため穴を掘って帰還する役目は彼らと最も親しくしていた相手が選ばれる。二人して逃げたところで、死あるのみ。運よければ次の土地へたどり着くかもしれない、しかし車両もなしに? 自分の手を汚さないためだけに考えられた残酷な仕組みだ。




 また、特異なことに、どちらの派閥に属していようが、一様にここで滞在できることの幸福を語るのである。不幸とも言えば集団の和を乱すのだ、派閥を超えた私刑の対象になってもおかしくはない。暗黙の了解ということだ。


 〈雪降の間〉の滝折様は美しい少年とただならぬ関係のようで、〈老松の間〉の二重様は「とても人徳の高いお方で」よくお部屋に客人を招き入れては感涙に震えた彼らを返してくる。彼女は〈セッション〉と呼んだが、洗脳であろう。二人ともここは地上の楽園そのものだと謳う。




 それはそうなるだろうと吉見は毒したが、由良は更なる火種を滔々と語った。




 フロントの水野は、二人分の信仰をその身に背負っている。


水野は同僚である小鮴を自殺未遂の状態で発見した。早急に客である元看護婦へ繋げることができたため、彼の命は助かったものの、彼女はこれに閉鎖派の作為を感じているという。


 小鮴は解放派であり、自説をよく説いていた。ここにいてはいけない、今この瞬間もどこかで人が消えているのだと。いつか外に出る日が来る、見渡す限り空白しかなかったら? 僕が吸う空気は自分を狂わせるだろう、だってそこに人がいたのか、そもそもいなかったのかもわからなくなってしまうのだから︙︙。だから、ここを早急に開放すべきだ、そう信じた彼も今や曖昧に微笑むばかりである。生きながらにして一線を越えてしまったのだ。


 反対に、水野は閉鎖派である。今の小鮴を守るためにも彼女は声高に理念を唱えている。


『でっ、でも! きっと、彼だって私と同じことを言うはずですよね。ここは︙︙良い場所だと』


 強力な信者だが、崩せるならここだろう。彼らはそう結論づけた。


 この三人にとっては派閥争いなんかより、安心して眠れる一夜の方が、そしてホテルの看板を蹴り倒しては泥を塗り、富士の高みから引きずり下ろすことの方がよっぽど価値があったのだ。彼らは人生観も能力も異なったが私怨によって固く団結していた。









 ホテルに滞在が許されて十日目である。早々にして行き詰まった謀反者三人の計画をあざ笑うかのように、今夜の誕生日会に向けホテル全体は早朝から活気づいていた。


「馬鹿げてません? これが現状ですよ」


 軽快に笑いつつ、こちらを探るような目は鋭い。


 箱作は波除と調理場を担当していた。W大学の文学部2年生と説明した彼女はホテルの客であり、また解放派であった。新参者がどちらにつくかをいい加減見定めようとする圧力が高まっている。彼女は説得の手段として、野菜の処理越しにホテルの恐怖を語ることを選んだ。バイト先の先輩が振ってくる雑談みたいに嫌な手段だった。


「やばいね」


 箱作はにこやかに笑う。彼は〈一家を守るために奮闘していますが、少しずつ心を開き笑顔を見せるようになりました〉とする演技の真っ最中であった。健やかな口撃を捨て去り、柔和な性格に矯正してしまったため気が狂いそうであった。




「ね、由良ちゃんとかもきっとこっちがいいと思うんです。吉見さんも優しそうだし」


「お爺さんはだいぶ厳しい人だよ」


 吉見は見事に擬態していた。彼の趣味は賭博から今や野鳥の観察である。


「箱作さんは外に他のご家族とかいないんですか? 心配じゃないんですか?」


「昔でも今でもきっと死んでるような人たちだから、特に心配してないよ。妹がいるけど、人の多い場所苦手だしこういうのたぶん一番弱い。慣れた場所で過ごすのが落ち着くって人は結構いると思う」


 完璧すぎる返答に彼は心の中で舌打ちした。箱作にとって家族の話題は常に嘘をつくものであった。


 幸いにも波除は気づいた様子がなく、手元の包丁と格闘していた。何故か野菜で包丁を切ろうとしている。


「いッ、でもいつか感染しちゃうかもしれないんですよ。知らない場所で死んでたらって思うと、私怖い。いっそ一緒にいたいです」


「うん、だから君は彼氏と一緒にいるの? 家族よりそっちを選んだってことだよね」


「お母さんもそっちの方がいいって。せっかく泊まれるんだから感謝しなさいって感じです。監視されながらの電話だったから、どこにいるかって言えてないんですけど。泉南くんのことも大事ですけど、私どっちかっていうと実家が心配で出来るなら帰りたいです。ヘルパーさんとか絶対もう来てない。不安ですよ」


 電話。ホテルでは通信と名のつくものは内線の電話のみであった。隠していた端末も歓迎の際に取り上げられてしまったが、どこかに外部とつながる電話があるのだ。それさえ手に入れればこちらのものだ。




「怖いよね。泉南くん最近見かけないけど、大丈夫なの。」


「う。どっちもどっちって感じです。なんか、私たちこんなのばっかですね?」


「こんなのって?」


「誰かの世話に押されて全部滑り落ちる、みたいな。箱作さんは吉見さんで、私は泉南くん。」


「世話って思ったことなかったな。あの人が面白いからついてるだけだよ。っていうか、みんなそうじゃない?」


 そう、ここにいる人間は皆焦りつつもどこか楽しげであった。非日常感に浮かれている。隙だらけだ。それなのに、彼らは動けない。ホテルの緊張感を突き刺すような、崩壊の火打石が見つからない。


 箱作の頭からは吉見が離れなかった。彼はここ数日広間に現れなかった。由良もだ。作戦があるなら共有してほしい。動ける情報があるなら伝えたい。集団主義が移ってきたようで、彼は顔をしかめたけれど。


 箱作は誠実ではないものを生来許せないだけであった。









 大浴場に必ず吉見はいる。このどこかに。


 館内を探し回って三時間、箱作は浴槽に頭を預け疲労の混じった諦念と戦っていた。年の功というべきか、さすがにここまで見つからないのは避けられているとしか思えない。今更何を。俺が疑っても楽しそうにしていたくせに、こんなときに消えやがった。




 時は昼下がり。浴場には宴会の準備を終えた人々が押しかけ、心身の弛緩を楽しんでいた。


 更衣室の木戸を開くと、目を慣らす必要がある。まずは霧のような湯気から。それほどまでに色彩が眩しいのだ。アーチ状の天井からはガラスを通して陽光が煌めき、湯船を照らしては水中へ沈んでいく。真下の浴槽が最も広く、薬草の入った袋が浮き沈みしている。床は青く濡れた石の平面を切って作られており、角度によっては黒や緑に見える。この指示に従えば迷うことなく他の湯船や出入り口にたどり着けるというわけだ。




箱作は露天風呂にいた。眼下の小川には悠然と鯉が泳ぎ、我知らぬといった風である。箱作は身を乗り出し、戯れに指を流水に浸した。すると猛烈な勢いで四方から鯉が集まってくる。互いの身に乗りかかってでもエサにありつこうとする。彼はこれにゾッとして、思わず後ろを振り返った。


大浴場ではフロントの宇野と佐野が水性ペンで壁に書き込んで議論していたし、家族連れの客はフラミンゴの浮き輪を持ち込んで次々と湯船を試している。無垢のようであり、平和でもある。むしろ、彼が今まで知る人間より創造性に溢れ互いを愛しているようでもあった。だが、水野の例があるではないか。ここに長居すれば拭い難い幻想が滲み込んでしまう。真実よりも、信じ難いことを選ぶようになってしまう。景観の美徳に流されてしまう。


箱作はこれが恐ろしかった。




今、俺は自分の命をここに棄てようとしなかったか?




まさか。彼らの問題意識は明確だった。生存のためにホテルを崩壊させる。


揺らいでいるならば、それは彼しかあり得ない。原因もわかっていながら放置したからだ。


吉見と手を組んだ時点でわかっていたのだ。〈崩せる〉なんて言葉では誤魔化せない、何故ならばあいつはたった一つのことしかできない。俺はここの人々を吉見と同じ方法で死に追いやるつもりだった。それは恐ろしいことだ。


箱作は吉見の犯行を止めるためにここに来たのだ。彼には証拠が必要だった。


それに加えて、箱作は。ホテルに住む人々の幸福を、少し願うようになってしまった。自分たちが戦うように、停滞に見えたこれも、彼らなりに生き延びようとする結果なのではないか。それが本当なら、どちらもそれなりに誠実だ。カルトだろうが︙︙裁く権利が俺にはないのかもしれない。









 これがなければ手を引けなかった、と三人はのちに語った。


十日目の夜を発端に、二日後、山野中ホテルは火炎を伴ってその歴史を閉じる。


事件はこのような形で始まった。




大広間は平和の場であった、つい先程までは。


携帯電話が畳の上で鳴り響いている。


総員三十名によるバースデーソングは見事に息絶えた。石化した古代の木々のように誰も身じろぎ一つしない。


箱作は興味深く見守っていた。携帯電話が鳴り出してから場所を見つけるまでの時間差が人人によって大きかった。まるで注意を促すかのように、団体の中に隠れながらもあちこちで指先が誰かの身体に触れている。それが気になる。箱作と吉見は大ハズレを引いたかもしれなかった。




「ね。それ水野さんっしょ」フロントの宇野だ。


「見覚えがありますね。出てくださいよ」フロントの佐野。


彼らは確か閉鎖派の人間である。仲間を切りやがった!と吉見は興奮して口を手で抑えている。


「わたっ、私じゃないです! 嫌です、違います」


水野は怯えきっている。出口に走ろうとするが、無数の手が彼女を中央へと押し出す。彼らは無言であった。怒り狂っていた。




営業部の桐谷がスピーカーにした携帯を掲げて応答する。印籠の代わりに罪状を持ち歩くようになった水戸黄門ってこんな感じだろうな、と箱作は逃避した。


『水野~。お前今どこにいる?お前旅館で働いてなかったっけ? 俺も無理なの?』


「水野さんがあなたに連絡したんですか?」


『いや誰? 俺するわけないしょ』


通話は切られた。




出ていけよ。何してんだよ。みんな我慢してるのに。あり得ない。


誰かがボツボツと声を落としている。降り始めの雨のように、次第に大きな叫びとなっていく。水野に直接投げかけられたわけではないが、彼女だけが対象の排他。悪目立ちしないよう隣人を見て暴力の足並みを揃えている。卑屈であった。


「何で、何で私だけこんなに言われないといけないんですか⁉ 私じゃない! 私じゃない! 誰かが仕組んだんだ!」


追い詰められた水野はあたりをギロッと見渡して︙︙由良を捕え、彼女の首にかかったチェーンを軋ませた。金属が擦れてはギチギチと鳴り、広間の人間を笑っているようであった。


「ねぇ! あなたの妹でしょ⁉ あなたが出ていったら離してあげるから! 行ってよォ!」


偶然ではなく、箱作の妹だから。それだけで由良は暴力に晒されているのだ。


「やめっ、苦しい、お姉ちゃん、︙︙助けて、お兄ちゃん」


箱作の目は由良を通り過ぎ、過去の一点を凝視している。彼は凍りついて動けない。今起こっていることを把握していても。




「僕が行くから。水野、かわいそうだ。お願いだから」


仲居の多湖だ。弾かれたように周囲の人間は動き出し、由良は保護され、水野は床に取り押さえられた。


「なぁ、多湖、ついでに外に本当に人がいるか見てこいよ」


「そうだ、偵察だ」


「水野が呼んでないとも限らないしな」


この場を納めるにはどうしても生贄が必要なようであった。




多湖はすぐに行灯を持たされた。


箱作が彼の見送りに手を挙げた。多湖に同情する気はなく、出来事に自分の責任があるとも思っていない。だが彼は「妹を救えた自分」なのだ。その一点で興味があった。過去の再生を止めることができる何かが、多湖にあるかもしれない。




二人は東屋に座っていた。


月のない晩で、照明も落とされていた。煙草が赤く浮かぶから、多湖が隣にいることはわかっていた。


互いの顔が見えないことは都合が良かった。別にいつ出ていってもいい。ただ、その時を誰も決めたくないだけだ。それでも誰かが決めなければならない。


「多湖さん、あなたは選ばれるべきじゃなかった。どうしてです?」


「代わる気がないなら無駄なことを言わないでください。吐き気がする」


黙って座っていた。虫が再び鳴き出した。


「すみません。案外、これもよかったのかもしれません。僕はここの仕事が好きです。だから、壊れ始めに出ていけることはかえって幸福だ。山野中がどんどん知らないものになっていくようで、正直限界だったので。皆様ではなくて、僕でよかった」


こういう時、何を言うべきかわからない。死ねと言って安心させる作用が自分の言葉にはないと箱作は当然理解していた。だからどうでもいい話に逃げた。


「多湖さん、ここが地元ですか?」


「愛媛です。何もないところで」


「帰ります?」


「いや、きっともう誰もいません。あの近くに泊まれる場所なんて限られている」


俺の地元も同じだ。これ以上話すと彼を好きになってしまうと思った。ただの同年代の人間だ。迷いもなく善人で、俺より立派だ。彼が自分と同じだと、どうして思えたのだろう。


「都心に行くことがあれば、俺の部屋使っていいですよ。よかったら」


「あなたは帰らないんですか」


「帰れませんね」


鍵は箱作から多湖の掌に落ちた。


「戻ればいいじゃないですか。待っていましょうか、あなたが帰ってくるの」


何言ってるんだ。


「多湖さんも俺も、生きてたらね」


「それは無理な相談ですよね」


 彼が笑った音がした。




裏口から多湖は出ていった。軽く会釈して、涼しげな顔で振り返らずに真っ直ぐと。


ススキの草原を超える辺りで行灯がコロンと地面に落ちた。緩やかに野火が広がるが、秋口の風が吹き付けて、掻き消える。


箱作はもう耐えきれなくなり、ドカッと地面に座り込んでは多湖から譲り受けたライターを弄る。ドン詰まりだ、こんな場所。とっとと出ていくべきだった。勝ち負けの話どころではない、ここにいれば染まってしまう。用心したつもりだった。


認めよう、彼は悔しかった。吉見か、由良か。誰の計画か知らないが、先手を越されたことも、そして多湖が消えてどこか悲しんでいる自分にも。




絶対生存領域は崩壊していた。多湖は〈線を超えて〉逝った。離れの不可解な指示から今日の一連の行動まで、ホテルの集団には幻覚症状に踏み込んだ奴が確実にいる。箱作は爆弾と心中する気はなかった。由良たちと早く合流しなければ、と彼は覚悟を決めた。


何よりここの悪意は最悪だった。ホテルに吉見のことを打ち明けて共に排除した場合の生活を一瞬夢に見たけれど、まともな案ではなかった。正気になってしまえば窒息しそうだ。今吸っている新鮮な外気の方がよっぽどマシ。


恐ろしい場所だと彼は思う。穀物を食いながら恵みの元である太陽を仰ぎ見はしないだろう。大きすぎるからだ。扱いやすい素材に加工して祈っては恨む。


山野中ホテルで生活する以上は膨張する悪意に身を捧げたも同然だった。常に誰かが公で犠牲になるという、忘却を許さない仕様は奇跡のような善性の残滓かもしれないが、ただの人間には、彼には本当に苦しかったのだ。


「必要以上に疲れただけだったな」




箱作は本館に戻った矢先に、二重様と出会った。


死んだように押し黙ったホテルの通路をさまよって、フロントの青く沈んだ自動販売機の前で立ち尽くしていた。誰かがガラスを割ってからは機能せず、空の缶がいたずらに放置されている。合成香料が真っ白い懐中電灯の明かりに蠢いている。


「多湖さんはどのようにお亡くなりになったのかしら」


背後から土鈴のような声がする。ある角度ではころころと喜ばしげであり、またある角度から眺めるとざらついて苛立っているようにも聞こえる。それが二重様、今まで姿を見かけることすらなかったホテルの支配者である。


「見ていないんですか?てっきり今夜の大目玉なのかと思ってたんですけど。皆さん楽しみにしてませんでしたっけ?」


もはや演技する必要もない。箱作は満面の笑みを浮かべた。


「取引をしない?あなたはわたくしにだけは真実を話すの。どうして妹さんを助けてあげなかったのか」


二重様は袂から桐箱を取り出し、彼に開けるように促す。


桐箱には、切断された指が入っていた。


「誰の指?」


「強いて言うならそれは多湖さんの指になる予定ねぇ」


切断された身体は所有者が消えても存在する。腐敗も停止してしまう。このような知識を持つのは感染が始まってからまともな生活をしていない者たちだけだった。おそらくはこれまでの私刑で得た報酬だろう。


「ね、わたくしが言うのだから皆様方も少しの間は信じられることでしょう。こういうお話ね。多湖さんは勇敢にも出ていった。あなたは彼の姿が見えなくなったから消えてしまったかと思ったけれど。これが暗闇から投げつけられてきた。嗚呼、やっぱり外にわたくしたちを憎んでいる方々がいるんだわ。無惨にも殺されてしまってなんて可哀想。どうしましょうね」


「よく生きてますよね。死にたいとか思わないんですか?」


単純な疑問だった。罪悪感はあるのか。どうしてそこまで全体の思想を保たねばならないのか。彼には結局理解できない。


「お互い様でしょう」


彼女にはおおよその感情というものが浮かんでいない。


「違う生き方をするのだから、理解する必要はない。それでも、気になる。心が惹かれる。仕組みを知りたくなる。近くにいって、馴染んでみたくなる。そのためにわたくしたちの身体や言葉はあるんです。その指があるおかげで今こうして会話ができている。夢がありませんか?」


箱作は答えない。その必要もないから。


「いかがですか。妹さんを助けなかった理由をお聞かせ願えますか」


とどのつまり、俺たちは自分の見たいものしか見ない。イメージを分けるものは選択で、選択の裏には意図がある。意図を辿れば、優しさのような何かがある。多湖や吉見にも︙︙。このホテルにも。


そんなふうに彼は考えて、二重様に頷いた。




彼が次に見た景色は翌朝の昼であった。窓からの爽やかな風が彼の髪を揺らし、五体満足に生きていることを認識する。周囲に人の気配はないが、遠くから子供の声がする。全てが遅いわけではない、まだ間に合う。吉見は止めることができる。


箱作は起き上がって、草原で由良の姿を見た。昨日の今日でまた私刑なのか。頭の奥がキリキリと痛む音を聞いて、誰かの下駄に足を突っ込んで走り出す。


「由良ちゃん! 何。何してるの。誰かに行けって言われたの」


「違う。多湖さんにお礼言ってたの」


「多湖さん、もういないよ」


「いるよ、そこ」


由良は草原の終わり、町に向かう方角を指した。


「すぐ近くにいるの。他の皆もいる」


「あそ。多湖さん、何してんの」


無理に出されたわけではないのだ。二重様は言葉通り時間を稼いだようで、箱作は脱力する。胸元を探り、煙草が盗まれたことを知る。ヤケになってライターでススキを炙り始めた。


「煙いからやめろって言ってる」


「言いそう。ね、吉見どこいる?」


「大浴場の奥」


「どんなふうに見える?」


「心配そう。兄さんと同じことしてる」


「そっかぁ」


「ん」


「︙︙本当に、ごめんね。俺。よく見てなかった。まだ子どもなのに」


「道路で見捨てなかったでしょ。それでい」


由良はふいに走り出す。黄金の波に隠されて、また顔を出す。彼女のロケットが太陽に反射して、居場所をチカチカと知らせてくれた。


箱作は彼女が怪我をしないように。健やかであれと見守っていた。









大浴場で明るいのは中央のみであり、浴場の一角には全く光の届かない部分がある。何があるかさえわからないのだ。通常の壁面だと思って通りすがった利用者が引きずり込まれ、しばらくすると血の川がゆっくりと逆流してくる。これを聞いた箱作は吉見を疑ったが、彼らが来る以前から伝説はあったらしい。もともとはレンガ造りの通路があるはずだが、なぜ建築されたのかわからない。先の地震で崩壊した音は聞こえたが瓦礫や粉塵は出て来ない。ここが生存領域になった際、若者が探索したが戻ってこなかった。入り口を木片で塞いでみたが、いつの間にか外されている。


利用者たちは皆しっかりとした足取りで〈それ〉を避けて歩いている。


どうせ、ここだろう。むしろここにいない方がおかしい。


箱作が歩き始めてから随分と経った。当初は利用客の声が微かに聞こえた。最近では金品狙いの盗賊や快楽殺人者がホテルを狙っているという噂。山野中ホテルの塀に人の集団を確認できたという噂。誰も彼が着衣のまま入ったことには気づいていないようであった。それどころではないのだろう。多湖の死を契機にした革命の気運に酔っているのだ。


もう通路に反響するのは自分の呼吸音のみである。


彼は冷静に自分の悪意を見つめていた。自分自身に誠実ではなかったから、こんな立場になってしまった。


それでも吉見に願わずにはいられなかった。




吉見は通路の終着点にいた。座り込んで丸まった背中が大きな石のようだった。


レンガの枠組みは崩れ、下には得体の知れない暗闇が広がっている。


「やっぱりお前も来たか。オトコノコのロマンってやつ。いつ足滑らせて落っこちるかわかったもんじゃない。それもいいよな」


吉見は手首を叩いて煙管の灰を宙へ落とした。箱作はこれすらもう気に入らなかった。由良はともかく、家族は設定だけでいいのだ。


「地底世界まで環境汚染を広げる気か?どうやって持ち込んだんだ」


「前任者のだ、ほら」


吉見は立ち上り、右の通路を指す。なるほど、確かに崩れた瓦礫の下にヒトの手と思しき白骨があった。


大浴場から離れた洞窟は恐ろしく冷たい。箱作は震える手でマッチを擦る。


「火は大事にしろよ。帰れなくなる。どこに?って話だが」


吉見は笑う。


「爺さん、あんた。人殺してるだろ。それも大勢。前の旅館だって、あんな急に皆が感染した説明がつかない。半殺しで外に放り投げれば遺体だってなくなる」


前の旅館、それは山野中にたどり着くまでに経由した三つの宿泊施設を指している。


どの旅館でも箱作は猛烈な睡魔に襲われた。起きてみると他の人物は消え去っている。『感染した』それ以外に説明もない。


誰にも言えなかったのだ。悲鳴がした。吉見の真っ赤に染まった顔がこちらをゆっくりと振り返る。そこで意識は落ちる。


妄想と現実の狭間でなくしてしまわないように、今まで大事に抱えてきた。




「そうは言うがな。お前は自分で物事考えてるのか?どこまで自分の目を信用できる? 今にかけて幻覚じゃないってどうしてわかる? どうしてあいつらの話を信じる? 都合のいい方ばかりに依るなよ」


「状況証拠だよ! 一番よく眠れるなんておかしいだろ、今まで寝れてなかったのに!」


当然である。


「お前がたまたま健康になったのかもしれんだろ。旅館に癒やされたとか」


「ごまかすなよ、現にあんた今も睡眠薬集めてるだろ。そんなに集めてどうするんだ、何に使うんだ?」


「お前が駄目なのはな、根幹で人を信じてない! 俺以上だ! それは重症だぞ、どんな病気よりもだ‼ 俺だってこうやったら人は怖がるって信頼して動いてるんだ‼」


「やっぱりあんたじゃねぇのか‼」


箱作は吉見の首にべったりと手のひらを押し付け、気道を圧迫したまま壁に叩きつける。吉見が無抵抗だったとはいえ、相当な力技である。箱作の肩は杭が打たれたみたいに脱力した。


滑舌の良さと機転が売りだったはずの吉見は、喉を数回叩くと、嗄声でごろごろと歌い始めた。空襲のサイレンみたいな音だった。受けた衝撃から、表情はどろっと弛緩して足元はふらついている。彼は箱作に向かい歩くが、顔の側面を真っ暗に覆いつつある出血の方がよっぽど早そうだった。


二人は淵の限界に立っていた。足元のレンガが震えては小刻みに前へ、前へと解けるのを感じる。


「何であんたは認めない?」


「お前は、俺が言わないとダメなのかよ?」


今にも崩れる。


「誠実さの問題なんだよ、これは」


瓦解して︙︙浮遊感とも名ばかりの衝撃が全身を襲った。


骨が震えて呼吸ができない。息を吸い込むと骨の破片が肺を刺し、筋肉がねじれかけるのだ。箱作は掠れた呼吸を繰り返して急に咳き込んでは吐いた。気道が詰まっては焼けて、反射で涙が出てくる。たったひとつの行動をとるために、襤褸になった身体を思い知らされる。惨めな体験だった。


「吉見」


吉見の姿はどこにもない。ついに死んだのだろうか。


箱作にとって、吉見の衝動性は問題ではなかった。現場に遭遇させない工作。それが気に入らなかった。彼は這いつくばり、洞穴を覗いてはザッと啖呵を切る。


「俺に、あんたの誠実さを疑わせるからだ。遂に小細工を偶然だと、笑顔を本性だと信じたくなる、壊れるためだけに俺と人らしい関係を築きながら自分の手では壊さないところだ。そこなんだ。潔白ではないことはわかる、だが誠実でいなければいけない、少なくとも俺は許せない。道徳じゃない、善美の問題だ。何よりも、運が味方することは今後一切あってはならない」


ここまで言っても何も良い気分にはならなかった。当たり前だ。もう吉見の本性を見ることは叶わない。箱作の正義は不完全にして終わってしまった。




ここからどう登ろうか。彼が落ちた場所は崖の中腹であった。無理だ。彼は全く道徳を信じていなかったが、これが因果応報というものかと噛み締めていた。身の振り方を考えている間に、多湖を死に追いやった。ホテルの人々は死ぬべきではなかった。アドレナリンが切れかけた身体がガタガタ震え始めた。


どこにも希望はないけれど。そんなのはずっと同じだった。無念や怒りはなく、ただ漠然とした失望感が脳をぼんやりと囲っていた。




箱作にとって優先すべきことは、吉見の現場を見ること。そして、吉見のやり方に先んじて封じること。本当に、それだけだった。彼らにとってこれは、盤上のゲームと何一つ変わらなかった。




「もう終わりか?」


幻聴かな。幻聴だろう。これ以上最悪の出来事はあり得ない。


「早く登れよ。」


ロープが垂れてきた。箱作は突き出した頭で上を見上げ、「嘘だろ。」絶句した。


「何で生きてるんだよ!」


吉見はピンピンしていた。何なら上機嫌で気持ちが悪かった。


「お前が言うように、俺はめちゃくちゃ運がいい」


「煽ってんのか?」


「マァ聞けよ。運が良すぎて、良いことの終わりがない。それって不幸だろ? 誰にも疑われない。ずっと潔白。お前は珍しいんだ。気づいて、逃げないってのは。まだ通報もしちゃいないだろ? 通報、なんて前時代的だよな︙︙。良い世の中になったよ」


今までに殺された人の無念を吉見は知るべきだった。誰がこいつを裁ける? バカみたいに運がいい。感染症で政府は機能していない。普通に殺したって何一つ思わないだろう。


最初は、そう本当に最初は。俺ならできると思っていた。俺がするべきだ、認めないならば現場を確保してやると。


ただ︙︙山野中の人々が派閥争いや私刑に進んだように、彼はどこかで人を駒にして遊戯する優越感、歪んだ楽しみを見出してしまった。


それでも彼の心が「吉見から人々を守る」という点において正義に立ち続けたのは、訪れた宿での時間、出会った人々との交流によってこそだろう。




彼は〈今・ここ〉にしかありえない正義の味方であった。


吉見を倒しきれていない以上、彼が休む理由はどこにもなかった。




「どうしてあんたは認められないんだ。何も難しくない、あんたの行動よりよっぽど人らしいことだ。自分について語るんだ」


「仮に俺がお前の言う通りの爺だったとしたらな。言ったら最後、お前いなくなるだろう。運転手は必要だからな」吉見は呟く。


「由良は?殺さないって約束しろよ」


「お前が拾ったガキだろ。面倒くらい自分で見ろ」


箱作はロープに手をかけた。


「馬鹿だよなぁ、お前は」


「いい加減学べよ、爺さん。さっさと次行くぞ」




ホテル山野中が異常に気づいた頃には既に手遅れだった。


山が燃えているのだ。もう終わりだった。ここに留まっても死ぬだけだ。バリケードの撤去された正門から逃げても次の施設が受け入れてくれるかわからない。生き延びるために足掻くことはできる、ただ、もう隠れることはできないのだ。




水野はフロントの下で蹲っていた。人々の責める声、困惑した悲鳴、窓ガラスの割れる音。慌ただしく移動する振動を感じながら、彼女は凍りついて動けないでいた。


フロントに電話が繋がる。何者かが受話器を取り、彼女を立たせる。小鮴だ。


電話は山野中ホテルでの宿泊を希望する客からだった。




「ヒッ、も、もしもし︙︙。あ、ハイ、お電話ありがとうございます、こちら山野中ホテルでございます。違う、消防署を呼んでください、えっ。何でって。何も︙︙。


いいえ、何も、ありません。ええ。大変申し訳ございません。X泊のご予定ですか。ご案内できます。はい、お電話承りましたのは水野と申します」




小鮴は水野の肩を支えては激しく震えている。水野は見ることができないが、それが彼女にとっては最も幸福な結末だろう。小鮴は笑っているのだから。


また〈ホテル〉に、客が入っていく︙︙。




「なぁ箱作、今回どっちが勝ったんだ。俺かお前か。」


「いやホテルだろ笑」




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絶対絶対生存領域 ドレナリン @drenaline

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