あなたは花火で私は海で

hibana

あなたは花火で私は海で

 そうだ、夫の骨で花火を作ろう。

 そう思い立ち、私は久しぶりにジャージからジーンズのズボンに履き替えた。


 思い立ったが吉日という言葉がある。家訓である。

 私は早速大学で研究職をしている友人に電話をし、「夫の骨で花火を作りたい」と伝えた。友人は早口で「遺骨からカルシウムを抽出することは法に触れるはずだ」とだけ言い、電話を切った。


 こんな時に力になってくれない友人など友人ではない。今度からこの友人のことはボーリングに誘わないことにする。


 さて。とはいえ他に頼れるものがあるのかと言われれば一切ない。まったくない。詰んでいる。

 とりあえずネットで花火の作り方をポチポチ調べていると、なんとか理科の平均点60点台の私でも簡単に作れるような気がしてきた。あとはたぶん、あの人の骨を砕いて混ぜれば何とかなるんじゃないだろうか。友人は“抽出する”とか言ってたけど骨なんて大体カルシウムだし、大丈夫だろう。


 よーし、いっちょ夫の骨を砕いてみるかと腕まくりしたその時である。

 友人から電話があった。


「手伝ってあげる。後から『あんたが手伝ってくれなかったからだ』って散々泣かれても寝ざめ悪いし」


 最初からそう言えばいいのに。申し出るのが遅いのだ。あんたに断られた瞬間から私はすでに半泣きだ。


 数時間後、インターホンを押した友人の丹村たんむらがハイヒールを脱ぎながら「ほたるさんの骨で花火つくるって本気なの?」と言ってくる。

 ほたる、片桐帆墫かたぎりほたるというのが夫の名前だ。そんで私は汐里しおり。旧姓の平沢から片桐汐里という名になってから、ほんの一年ほどのことだった。彼が死んでしまったのは。


「そうそう。もう、夏だし」

「後で『こんなことやんなきゃよかった』って泣いても知らないからね」

「なんで泣くと思うの?」

「ほたるさんの骨だから」


 泣かないよ、と私は言った。厳密に言えば、一生『やらなきゃ』と思い続けるよりは『やんなきゃよかった』と泣く方がマシのように思えたので、やるのである。

 丹村もそれ以上の意思確認は無駄だと思ったようで、調理器具なのか実験器具なのかわからないものを和室に並べ始めた。

「一日じゃできないよ」

「マジ? 今日やりたかったんだけど、花火」

「ワガママばっかり言うわねー。ほたるさんの前でもそうだったの?」

「私は神に誓って、自分自身を偽ったことはないです」

「ちょっとは猫被りなさいよ、大人なんだから」

 呆れながら丹村は、骨からカルシウムを抽出する方法と花火の作り方を説明した。私はそれを聞いて、よくわからないが作る方法はあるらしいという理解をした。


 それから私は、夫の骨を煮込まされた。いいダシが出そうである。

 骨を煮込むだけで他にやることもないし、私は昔のことを思い出していた。


 花火を初めて二人でやったのは、付き合って間もないころだったなと考える。


 私が調子よく骨を煮たりしていたのは一日ぐらいで、次の日からは起き上がる気力もなく、知らないうちに丹村が花火を完成させていた。

「しおり」

「うん」

「花火にしちゃったよ、ほたるさんの骨」

「うん」

 しおり、とまた丹村が呼ぶ。「この花火やったら、さ」と私の枕元に腰を下ろし、私の顔を見下ろした。

「ほたるさんのこと、忘れられる?」

 私は答えない。はぐらかそうにも、そんな気力すらなかった。


 丹村はそれ以上何も言わず、花火を置いて帰った。

 私は起き上がって、花火の匂いを嗅いでみる。このごろ嗅ぎ慣れた、線香みたいな匂いがした。


 しばらく、また無気力な日々が続き、食事をするのも億劫でぼんやりしていた。空腹は感じなかったけれど真夏の暑さはさすがに堪えて、シャワーで体温を下げようと立ち上がる。そのとき鏡で見た自分の顔がひどくて、おばあさんみたいで、『そうだ、このまま死んでしまう前に花火をやろう』と思い立った。そうしてはじめて、自分が死のうとしていることに気付いた。


 シャワーを浴び、白いTシャツを着て、サンダルを履く。


 バケツと花火を手に持って浜辺を歩いた。海風が、まだ濡れている髪をさらって気持ちよかった。

 日が傾き始める時間だ。しばらく砂浜に座って、夕陽を眺めていた。卵の黄身みたいにオレンジ色の夕陽が、海に溶けていく前になんだか助けを求めて手を出しているようにも見える。いつまでも、いつまでも、空の色に混ざっていた。


 風がぴたりと止む。夕凪だ。


 私は立ち上がり、花火を手に持った。ライターを近づけ、火をつける。ほんの数秒、火が上っていくのを見ていた。

 それからパチパチと弾けるように、花火が咲く。

 さっき見た夕陽みたいにオレンジで、鮮やかな花火が咲く。


 すっかり日が落ちた空は暗くて、なんでだか星も月も見えなくて、黒い波が白っぽくぼやける砂浜を飲み込んだり吐き出したりしていた。

 またひとつ、花火に火をつける。爆ぜながら海面を照らす。

 すっかり風が止んでしまってから、あつくてあつくて息が出来なくて、Tシャツの内側で胸の間を汗が伝った。

 なんとか呼吸をしようとして、自分の中の熱を吐き出した。


 私たち、たぶん変な夫婦だったね。


 花火が爆ぜている間、微かに周りが明るくなる。少しだけ息ができる。

 私は花火を持って、浜辺を走り回った。この小さな灯りさえあればどこまででも行けると思ったのに、途中で火が消えてしまう。真っ暗ななか、とても遠いところへ来てしまったような気持ちで途方に暮れた。

 夕凪の海は静かで、どこまでも静かで。

 もう少し荒れてくれなきゃ困る、なんてぼんやり考えていた。


 しばらくそのまま突っ立っていたけれど、彼の花火をそのままにしておくこともできないので、私はとぼとぼと来た道を戻った。浜辺にはバケツが一つ。その横に、野ざらしの花火が何本か。

 私は座り込み、また花火に一本ずつ火をつけた。

 一本ずつ、燃やしていく。思い出とともに燃やしていく。


 ――――花火を。初めて二人でやったのは、付き合って間もないころだった。彼からの告白に応える形で彼女になった私はどこか彼に優越感があり、当たり前のように荷物を持たせ、『さあついて来なさい』という傲慢さに溢れていた。後から振り返った時、彼はその頃の私を『幼稚園児みたいで可愛かった』と評した。


 私たちは海へ行き、寄せては返す波を見ていた。私は悪戯心から、不意に彼の側から離れた。若いカップルにありがちな、アレである。“捕まえてごらん”という、アレである。

 しかしどんなに離れても、彼は追いかけてこない。私はゆっくり浜辺を一周して、彼のもとに戻った。彼はなぜだか、泣きながら持ってきた花火に火をつけていた。

 私は呆れて、「なんで一人で先に花火をやっているの?」と尋ねた。彼はぐすぐす言いながら、「もう戻って来ないのかなと思ったから、君が」と答えた。

「俺、ネットで調べちゃったよ。彼女が突然走り去ったんだけど、どういうことなのかって。やっぱ振られたのかなって。だから、せめて花火やって帰ろうと思って」

「……百歩譲って、振られたらそんなに簡単に私のこと諦めちゃうの?」

「3カ月ぐらいかけてまた好感度上げてから告白するよ」

「何よ、3カ月もかけないでよ」

 私も花火に火をつけた。ほんのちょっとパチパチする程度だと思ったものが、酸素を燃やし尽くすように軽い爆発音と共に光を放ち、私は慌てる。彼が後ろからそんな私の腕を掴んで、けらけら笑った。さっきまでめそめそ泣いていたのに、本当にけらけら笑っていた。

 暗く青い夕闇の中、手元の閃光が二人の顔を照らす。彼はよく笑う人だった。だからなのか、私と同じ歳なのにその時にはもう目尻に皴が出来ていた。

『追いかけて来ればよかったんじゃない?』とか、『追いかけてきてよ』とか、言えるほど素直でなかった私は、ただじっとそんな彼の目尻を見ていた。


「君が死んだら、残った骨を花火にする」

 いつだったか。たしかあれは、私が貧血か何かで倒れた時じゃなかっただろうか。

 そう、大真面目な顔で彼は言った。私は驚いて、「ヤだけど」と答えた。シンプルにやめてほしかった。

「カルシウムは炎色反応で鮮やかな赤橙になるはずだ」

「だから?」

「花火にする」

「嫌です」

 彼は少し考えて、「君が死んで、無機質な骨のままでいるなんて耐えられないから、何か別のものに変えたい。花火にする」と断言した。そこまで言われたら拒絶しても仕方ない気がした。どうせ私が先に死んだら、私に拒否権はない。遺言状に“どうか骨を花火にしないでください”と書いたところでこの人がやると言ったらやるだろう。

「花火にされたくない?」

「できれば」

「じゃあ、俺より長生きするしかないな。さもなくば君は花火になって、最後までバチバチいいながら光り輝くことになる」

 変な脅し。確かに嫌だけど。

「じゃあ、私はあなたの骨を海にまく」

 私もこの人の骨をいつまでも持っておきたくないし、墓の下に埋めるとか、そういうのもなんだか違うなと思ったのでそう言った。言ってから、もっと嫌なこと言えばよかったと思った。海にまくなんて普通に素敵だ。なんかもっと、犬のオモチャにするとか言えばよかった。

 すると彼は笑って、言った。

「じゃあ君は花火で、俺は海で、そしたらいつかまたあの浜辺で会えるね」


 本当に変なの。馬鹿みたい。

 私は花火を振り回しながら、考える。

 あなたのこと、花火にしちゃった。だって、私には『遺骨から花火を作ってね』なんてお願いしたって本当にそうするような酔狂な親族はいないし。だからあなたのことを花火にして、私の骨を海にまいてもらうことにするわ。文句なんか言わないでよね。長生きした方にしかこういうことを決める権利はないわけよ。


 長生き、だって。変だよ。私まだ、三十にもなっていないのに。


 今でもよく夢を見る。

 あれはまだ春の肌寒い日。あの日、横に並んで歩いていたはずの彼が気づいたらトラックに轢かれていた。砂浜で走り出した私のことは全然追いかけてこなかったくせに、突然走り出した知らない子供を追いかけてトラックに轢かれていた。

 遠目で見たって大変なことになっているのがわかった。

 私は――――こわくて、こわくて、彼に駆け寄るんでもなく、突き飛ばされて大泣きに泣いている知らない子供をただ抱いていた。せめて自分がその場から逃げ出してしまわぬよう、重しのように子供を抱いてうずくまっていた。


 もし彼が、あの時まだ生きていたのなら。彼の手を握ってあげられたかもしれないのに、できなかった。こわくて、こわくて。


 呼んでいたかしら、あの時。私のこと。

 夢の中ですら私はあの人の元へは駆け寄っていけなくて、『あそこで轢かれているのがうちの夫じゃありませんように』とか無意味で最低な祈りを捧げながら震えたりして、夢から覚めるのを待つ。

 そして目が覚めると、むくむくと彼への怒りが湧いてくる。しばらく八つ当たりみたいに一人で怒って、むなしくなって、力が抜けてしまう。そんな日々の繰り返しだった。


 砂浜にはようやく、陸風が吹いてきた。

 私の髪を海へと引っ張る。花火の光も、海の方へ漂っては消えていく。


 あなたのこと、花火にしてやりましたよ。最後までバチバチいいながら光り輝くがいいわ。

 あなたのこと、花火にしてやりました。綺麗でしょ。なんだか、骨まで燃やしてしまったみたいね。


 ちょっとしけった花火が、ほんの少しパチパチと爆ぜるだけで終わった。

 そして最後の一本が、私の手の中にある。私はそれをぼんやり見ながら、「花火の終わり」と呟く。

「花火の終わり、プールのあとの体操、遊園地の最後に乗る観覧車」

 わたしの、大嫌いなもの。


『楽しかった、ってこと?』


 思わず、顔を上げる。隣に座った彼が、笑いかけていた。


 私は呆然として、声も出ないまま花火を握りしめる。

 世界の時間が十分の一くらいゆっくりになった気がした。彼は瞬きをして、髪をかき上げる。そこに、子どもの頃に縫ったという傷が見えた。私と同じところにある傷だ。それがまた髪に隠れて、見えなくなった。


 それから彼は立ち上がって、『またやろうよ』と言った。私はいまだ動けないままで、その代わりに私が――――あの日の私が、立ち上がって何か文句を言う。

 彼はバケツを左手に持ち、振り向いて『しおちゃん』と言いながら右手を差し出した。

『何?』とあの日の私が怪訝そうにする。いや、と彼は照れくさそうに笑って、

『またどこかへ行ってしまったら困るから』と言った。

 過去の私は何か憎まれ口を叩きながら、彼を追いかけるように小走りになり、その手を掴んだ。


 まったく。

 まったく、どの口が言うのか。


 私は苦笑する。

 そういえば、好きだ好きだと言う割には彼は追いかけてきてくれるような人ではなかった。

 いつだって、追いかけていたのは私の方だ。

 どこかへ行ってしまったら困る、などと。よく言えたものだと思う。私の方が、あなたがどこかへ行ってしまったら困るのに。現在進行形でとても困っているのに。


 遠ざかっていく二人を見ながら、私は瞬きをした。風が、相変わらず海に向かって吹いている。顔に張り付こうとする髪を耳にかけて、ようやく立ち上がることができた。

 今まで鳴りを潜めていた潮騒が聴こえる。突然、耳がたくさんの音を拾い始めたみたいだった。

 最後の一本はお預けということにする。

 そうして花火の死骸でいっぱいになったバケツを、両手で掴んだ。抱きしめるように、持ち上げた。


 もう、彼の姿は見えない。

 私の腕に残った、バケツの――――水と花火の重みだけが私をその場に引き留めていた。

 なんだか、ひどく頭がすっきりしている。色々なことが一気に頭に入って来るようだった。


 終わる花火を惜しむ、子供のように。

 プールから上がりたがらない子供のように、遊園地から帰りたがらない子供のように。

 駄々をこねていたのだろうか、ずっと。

 地面に大の字になって、手足をばたつかせ、『まだ遊び足りない』と。


 わかった、と呟く。

 なんでもないバケツを大切にぎゅっと抱きしめながら「わかったってば」と繰り返す。


 歩き出すと、サンダルの中まで砂だらけなのが不快で、汗で濡れた肌が冷えて不快で、とにかく生きることは気持ちが悪くて、ほんの数分前まで私はひどく夢見心地だったなと気づかされた。

 どうしてだか夢見心地の私は“絶対に死ぬ”と確信していて、それなのに今、世界のざらついた感触と不快感がよみがえった今では、生きるしかないのだと思い始めていた。


 私はバケツの持ち手を片手で掴み直して、ゆっくり回りながら歩く。

 本当に最悪だ。足は怠くて歩きたくないし、素足でもないのに砂はつくし、潮風でべたっとした髪では寝られないだろうし、お腹はすかないけど何か食べなきゃ死んでしまうし。

 くるっと回る。遠心力で、バケツがふわっと浮かんだりする。


 生きているだけでこんなにも面倒だ。

 やってらんないな。

 “どうせ最後にはこの砂浜で、あなたと会うことになる”と思わなければ、こんなこと、やってらんないや。


 そう思っていてもいいだろうか。正直――――生きていく理由がないけれど、悲劇なんかに酔って死んで、あなたに憐れまれるのだけは御免だから。


 家に帰って、素麵を茹でて、テレビを見ながら食べた。

 暑いなぁと呟く。髪が邪魔で、かき上げて、そうだバッサリ切ってしまおうかと考えた。

 思い立ったが吉日という言葉がある。家訓である。


 次の日、すっかり短くなった髪で自転車に乗り、久しぶりに見知った世界を見て回った。世界は数か月前となんら変わり映えしないが、夏だった。


 自転車を漕いでいると、知っている子供の顔が見えて私は何となく自転車を降りる。続けてその子の両親も顔を出した。どうもお通夜のような空気の一家である。私は、自分でもどうしたいのかわからないままとぼとぼと歩く。

 家の前に、引っ越し業者の車が停まっていた。引っ越すのだろうか。たぶん、それがいいだろう。私も彼らの立場だったらきっとそうする。

 その子供は、あの日道に飛び出してうちの夫に突き飛ばされた男の子だ。こんなに近くに住んでいたとは知らなかった。子供はあの日のようにあどけない表情で、私を見ていた。


 私は、その子の両親に会釈をする。この人らと言えば、一度私に『わたしたち一家の幸せが許せないのであれば、わたしたち夫婦のどちらかが命を絶ちます。それでどうか、この子のことを許してください』というある意味大変ダイナミックな手紙を書いて寄越してきたことがある。私はあの手紙に返事を出さなかった。

 両親はひどく疲れた様子で、特に母親の方はもはやノイローゼであることを疑いようもなく、私の顔を見るなり吐きそうな顔をした。


「お引越しなさるんですね」と特に深い考えもなく口走ったあとで、なんだかサイコパスじみていたなと反省する。

 しばらく、全員が喋れないでいた。子供が駆け寄ってきて、「おねえさん」と私を見上げる。母親が眉毛を吊り上げて「あっちに行ってなさい」と怒鳴った。

 可哀想に。あの日からこんな調子で怒鳴られてばかりいるのだろうか。あの日あんなに泣いていたあの子が、今日は泣きもせずに言われた通りどこかへ歩いて行ってしまう。

 わたし、と思わず口を開いていた。


「私も夫も、子供の頃に車に轢かれたことがあってね。二人して、ちょうど同じところに傷がありました」


 子供なんてそんなもんですよ、よくある話ですよ、仕方がないですよ、あなたたちのせいじゃないですよ、もう気にしてないですよ。

 そんな言葉がいくつも、浮かんでは消えた。そのどれもが、やはり今の私には言うのが難しかった。

「運が……悪かったんですよ」

 やっとの思いでそう言った。彼らは、何とも言えない表情でこちらを見ている。


「あなたたちは病院に行った方がいいかもしれないですね、私に言えることじゃないけれど。もう、手紙は寄越さないで。どれほどの謝罪の言葉を並べられても、私にはあなたたちに赦しを与えることはできない。これは、あなたたちが憎いからじゃなくて、私にその余裕がないからです。お互いに、一生関わらないようにしましょう。ただ……願わくば、無理に不幸になろうとしないで。私の夫も、あなたたちを不幸にしたくてあんなことをしたわけじゃないはずです」


 一息にそう言って、私はまた会釈をした。彼らが何か言う前に、自転車にまたがって漕ぎ出す。


 しばらく走って、ペダルから足を離した。風が、私のスカートをはためかせる。息苦しいほどの夏の中で、風は心地よく私の全身を撫でる。


 もういい、終わったことだ、私はあなたたちを許すよ、と。そう言えたらよかったと思う。だけれどそのようなことを言った瞬間に、私の心は砕け散ってしまうだろう。あの人たちのせいではないのだ、運が悪かっただけなのだ。そうわかっていても。

 いつか風の便りにでも、彼らが幸せに暮らしていることを知ったとして、私はそれを恨まずにいられるだろうか。どうだろう。わからない。

 たとえ恨みを持ったとして、それは彼らを恨んでるのではなく、自分の人生を恨んでいるのだろう。今はそれがちゃんとわかっている。だけれど頭がおかしくなったら、そんなことさえ忘れて私は彼らに攻撃を繰り返すかもしれない。私には、自分が加害者にならない自信がない。


 いつかまたあの人に会うときに、醜い姿でありたくない。ただ一つその想いだけで、これから先何十年と彼のいない世界で正気を保っていられるだろうか。


 あるいは、私はもう自分で自分を騙して生きていくべきなのかもしれない。たとえば、こんな風に考えてみたりして。

 私はあの人とは別れるつもりだったのだ、最後の方はもう嫌いで嫌いで────。


 ゆっくりと減速する自転車から降りる。サンダル越しに、地面の熱さが伝わってきた。

 私は、年甲斐もなくべそべそ泣いていた。


 自分の心を守るためであっても、耐えられない嘘だった。

 花火が終わるのを惜しんだのはその時間が楽しかったからだ。たとえいつか気が狂っても、これだけは覚えていたい。私がこれほど悲しいのは、あの人のことが本当に大好きだったからなのだ。

 

 通りがかったあの浜辺に、今日も花火をする二人のまぼろしが見える。

 私は自転車を押しながら、ほんのちょっと足を止めて、それからまた歩き出した。


 ――――わかってる。わかってるってば。


 私はため息をつき、じっと前を見据える。


 ねえ、あなた。

 きっとこれから、長い長い旅路になるね。きっと、幾度となく遠回りをすることになるね。

 それでも。そうね、この約束だけは。このふざけた約束だけは、忘れない。


 あなたは花火で、私は海で。

 いつかまた、

 あの浜辺で会いましょう。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

あなたは花火で私は海で hibana @hibana

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ