私たちの罪が空に咲いた日

hibana

私たちの罪が空に咲いた日

 麗らかな春の日に、わたしは初めてその人と出会った。その人は桜並木の下で行ったり来たりを繰り返しており、やがてセーラー服を着た私と目が合った。そうして、ちょっと照れくさそうに笑った。


「どうも、お嬢さん。ここら辺に銀行はないかな。コンビニでもいいのですが」


 私は少し考えて、ATMのあるコンビニは少し先になることを告げた。

「一緒に行きましょうか?」と言うと、その男性はとても喜んだ。


 人には親切にするよう、小さな頃から親に言われている。


 歩きながら、その人が「この近くの中学生ですか?」と尋ねてきた。私は「そうです」とだけ答え、そこからは完全な沈黙が訪れる。私は義務感だけでコンビニまでの道案内をしており、会話がしたいわけではなかった。


 コンビニが見えるところまで来て、その人は「ありがとう。とても助かりました」と言った。それから「失礼」と言いながら私の肩を優しくはらう。どうやら花びらがくっついていたようで、その人は「桜に好かれるみたいだね」と笑った。




 次に会った時もその人は道に迷っていた。私は友達と歩いていたが、その人を見るなり近づいていって「どうかしましたか」と声をかけていた。

 その人はとても恥ずかしそうに、「すみません。郵便局はどこでしょうか」と尋ねてくる。私と友達は顔を見合せ、郵便局まで案内することにした。


 彼は最近こちらに越してきたらしく、近くの大学で教授をしているらしい。私と友達はその人のことを“教授”と呼んだ。教授は申し訳なさそうに、「何かお礼をさせてくれ」と言った。私たちは断ったが、飲み物を一本ずつ買ってくれた。

「科学に興味はあるかな?」

 そんなことを尋ねられ、私は「あんまりない」と正直に答える。友達も「というか、全然ない」と言った。教授は笑って、「素直でいいね」と呟く。

「今度うちの大学で子ども向けイベントをやる。よかったら来てみないか。ちょっとだけど出店もあるよ」

 私は少し考えて、「友達をあと三人くらい呼んでもいい?」と訊いた。教授は「もちろん」と頷いた。




 小学生からの友達五人で行った見知らぬ大学のイベントは、存外とても楽しかった。数々の実験は目を見張るようだったし、何より、まだ中学生になったばかりの自分たちが大人たちから『ようこそ未来の科学者たち』と大人扱いされたのが嬉しかった。


 私たちを見つけた教授が、「来てくれたんだね」と言いながら駆け寄ってきてくれた。

「どうかな?」

「楽しい、です」

「それはよかった。十八時までいてくれるかな? いいものが見られるはずだよ」

 三時間ほど待たなければならなかったが、案外あっという間に過ぎた。途中からは教授が合流して、案内や解説までしてくれて、私たちはすっかり大学生の気分だった。


「かつてこの世界には魔法があったと言ったら信じるかい?」

「魔法?」

「そう。そしてそれは理屈と根拠を伴い、科学と名前を変えた。ここにあるのは全て、かつて魔法だったものたちだ」


 十八時。花火が上がった。教授いわく、学生たちが作った打ち上げ花火なのだという。打ち上げるには資格がいるが、理論と構造さえ知っていれば作ることはそう難しくはないらしい。薄暗くなった空に咲く花火はどこか歪つにも見えたけれど、子供なんて単純なもので、私たちはいつまでもその景色に目を奪われていた。




 そんな大学でのイベントが終わり、私たちはすっかり教授に懐いていた。「また会いたい」と伝えると、教授は「じゃあ今度は近くの博物館でも行かないか」と言ってくれた。教授は車を出してくれて、あれほどつまらないと思っていた近所の博物館が本当に楽しかった。

 時には植物を見に公園に行った。時には水の生き物を見に川に行った。

 彼はどんな時もスーツを着ていて、ワイシャツを腕まくりしながらじゃぶじゃぶ川に入っていくような人だった。子供ながらに、変な大人だと思ったものだった。

 川に行ったとき、「帽子を被ってくるように言ったはずだが」と教授は私に注意した。大丈夫です、と答えると、彼は自分が被っていた麦わら帽を私に被せた。私には大きすぎてありがたいとはまったく思えなかったし、やっぱり変な人だなと思ったりした。


 色々なところに連れて行ってもらったけれど、夏休みに入るころには私たちは教授の家にまで入り浸るようになっていた。




 教授はいつ家に行ってもあたたかく迎えてくれた。彼が書斎で仕事をしている間、私たちは好き勝手パズルをやったり本を読んだりして過ごす。教授がいるからというよりは、自分たちだけの秘密基地のような気持ちでいた。

 たまに、彼は私たちのために家の中でできるような実験をやってくれた。アイスを作ったり、白い花の色を鮮やかに変えてみたりだ。たぶん教授からしたら他愛もない子供だましみたいなものだっただろうけど、『どうしてこうなるのか』というのを徹底的に解説してくれる教授が一緒だと、なんだって目から鱗で面白かったのを覚えている。


 ある日教授が、何か書類に目を通しながら「君たちは仲がいいね」と言った。私たちは顔を見合わせ、「同じ小学校だったから」と答える。

「小学校か。この辺だとどこだろう。仮矢小かな」

「ううん。陽棚小。廃校になったの。私たちが最後の卒業生」

「そうか……この辺も子供が少なくなっているから仕方ないが、寂しいね」

 私たちは口ごもった。寂しいのは寂しいが、私たちの小学校が廃校になった理由というか、とどめを刺した出来事を知っている。

 児童が一人亡くなった。自殺だと言われている。


 話をそらそうとしたのか、私たちの中で一番活発なハヤトという子が「ねえ教授」と椅子の背もたれから顔を出した。

「大学も夏休みなの? 教授はさ、いつ来ても家にいるけど」

「いや、大学の夏季休暇はもっと後だよ。僕は休みを貰ってるんだ。体を壊してね。この前のイベントも、手伝いに行っただけだ」

「どこが悪いの?」

「どこというわけでもない。少し調子が悪かっただけだよ。それにもう、すっかり治ってしまったんだ」

 ふうん、とハヤトは呟く。教授はとても健康そうに見えたので、それ以上私たちは何も聞く気にはならなかった。

 思えば私たちは、彼のことをほとんど知らなかった。この街に引っ越してくるまえ海外に居たらしいことは知っていたが、それがどこの国なのかも知らない。彼が戻りたがっているのか、それともこのまま日本に居たがっているのかもよくわからなかった。


「教授がまた仕事をするようになったら、私たちはここに来れなくなるね」

「そうだなぁ。でも君たちの夏休みが終わるくらいまでは復職しない予定だ」

「ほんと?」


 アミという子が、「喜んじゃダメでしょ」とたしなめる。私はふわふわの大きな椅子に背中を預け、「だって好きなんだもん、ここ」と目を閉じた。


 すでに教授は、その時の私たちにとって唯一信頼に足る大人であり、その家は私たちの避難所だった。

 私たちは大人を信じるわけにはいかなかった。それは大人に何かされたというわけではなく、私たちの罪ゆえにそうだった。私たちは大人に罪を暴かれることをおそれていた。

 だけれどこの、私たちのことを一切知らない大人であるところのこの人を、私たちは身勝手に信じたがっていた。一生私たちのことを探らないままで、私たちにとって都合よくいい大人であることを願っていた。




 しかしそのことを教授に打ち明けたのは、アミだった。

 話の流れは、あまりよく覚えていない。教授が読んでいた新聞にいじめ問題についての記事があったのか、確か教授が「君たちの学校にはこういった問題はないかな?」と尋ねてきたのだと思う。「ないよ。今はない」と少し強張った表情で、誰かが答えた。

「今は?」と、当然のように教授は聞き返す。しばらく、沈黙が私たちの肩に重くのしかかった。

 それから、アミがぽつりぽつりと話し出したのだ。


 小学生の頃、私たちはいじめの加害者だった。


 あの当時、私たちにいじめをしているという認識はなかった。自分たちにはそうすべき権利があると無意識に思っていたし、知られたら便宜上咎められるだろうがそれもあくまで形式的なものだろうと考えていた。

 今では、それが話すのもはばかられるほどのことだと知っている。


 アミは、話しながら泣いていた。ずるいな、と思う。それで許されるんなら私たちみんな泣いている。私たちみんな、ひとりひとりみんな、あの件の許しが欲しかった。


 話を聞き終えた教授が、「それを君たちは後悔しているのか?」と静かに尋ねた。たぶん、私たちはみんな頷いていたと思う。

 やらなきゃよかったと、本気で思っている。少なくとも、あの日、あの瞬間まで、追い詰めなければよかったと。


 教授は腕を組み、「人間は」と口を開く。

「実を言うと、同族である人間を傷つけることに快感を覚えるようにできている。誰かを思い切りぶん殴ると気持ちいい。誰かを思いのままに罵るのは気持ちいい。そこに何の理由も正当性もなく、君たちはおそらくその被害者の子を傷つけてただ気持ちよくなっていただけだ。だけれど、『気持ちいいことをやめられない』ということがどれほど下品なことだかわかるだろうか。人を傷つけて気持ち良くなることは、そしてそれをやめられないというのは、とても下品なことだ。君たちは子供だったが、これからは違う。君たちは人としての品性をもって、快感を求める欲求を自分自身で抑えなければならない」

 私たちは、アミですら、うつむいてそれを聞いていた。


「反省しているなら、君たちもあまり気に病みすぎるものではないよ。終わった話なんだろう?」

「……はい」


 終わった話だ。確かにそうだ。もう取り返しのつかない話だ。

 そして私たちは誰も、最後にあの子が死んでしまったのだということは言わなかった。それだけは絶対に、誰にも言えないことだった。




 教授は何事もなかったかのようにその後も私たちと接してくれた。変わったのは私たちの方で、勝手に明かしたにも関わらず、今までのように教授の家が安心できる場所ではなくなったように感じた。

 それでも私には、他の子たちと違って他に居場所がなかったのだ。


 ある日私は一人で教授の家へ行ったけれど、インターホンを鳴らしても彼が出てこなかった。玄関には鍵がかかっている。出かけているのならあきらめようと思ったけれど、車はいつもの車庫に停まっていた。

 家の周りをぐるりと歩いてみると、書斎の窓が開いている。揺れるカーテンの隙間から、彼がソファに横になっているのが見えた。「教授」と声をかけたけれど、彼は苦しそうに眠っているだけでこちらの声は届いていないようだ。


 私はとぼとぼと歩き、彼の家の玄関に座り込んだ。

 図書館にでも行こうか、と思う。裏腹に足は動かず、私は膝を抱えて俯いた。

 じりじりと焼けるような日差しの下で、私は束の間夢を見た。


 その子は、三木谷真帆という名前だった。

 転校生で、頭もよくて可愛い女の子だった。でも授業参観にも運動会にもおじいちゃんとおばあちゃんが来て、親に捨てられた子だって言われてた。私は可哀想に思って、たくさん話しかけてあげた。休み時間は仲間に入れてあげたし、一緒に帰ってあげた。

 人には親切にするよう、小さな頃から親に言われていたからだ。

 私たちは上手くいっていたと思う。最後の最後までそう思っていた。今考えれば、何もかもが違っていた。

 私は賢くて可愛い転校生の女の子に優しくすることで優位に立とうとし、あの子が自分より遥かに優れた人間性を持っていると知るごとに、優しくするだけでは足りなくなっていた。いつからか私は、真帆を貶めることでしか優位性を保てなくなっていた。

 最後の最後まで、罪悪感などまったくなかった。私にとって、最初から真帆は友達ではなかった。優しくしたのもいじめたのも、私にとっては同じことだった。

 あの日は度胸試しをすると言って、あの子を崖まで連れて行った。崖のギリギリのところで腰かけて、足を出すとか、その程度のことだった。

 真帆に先に行かせた。

 私はまだ仲良くしていた頃に、あの子の母親のことを聞いていた。五年前に亡くなったという母親のことだ。だからあの時、『そこから飛び降りたらママのところにいけるかもね』と言ったと思う。

 あの子はずっと怯えていたのに、不意に疲れた顔をして、それでいいかもしれないという顔をして、その方がいいかもしれないという顔をして、崖の下を見た。私は焦ってしまって、冗談じゃん、と笑ってあの子に手を伸ばし――――あの子は、それに驚いたのか肩を震わせ、足を滑らせて落ちていった。


 そんなつもりではなかった。そんなつもりではなかったけれど、私たちはこわくなって逃げ出した。


 ガチャリと玄関のドアが開いた音がする。私はパッと顔を上げて、「教授」と呼びかけようとした。

 彼は私を見下ろし、驚きとともにどこか嬉しそうに目を細め――――「おかえり」と優しい声で言った。

 瞬間、ハッとした様子で口元に手を当てる。彼はうろたえ、瞬きをし、後ずさって首を横に振る。それは彼が私に初めて見せた、人間らしい反応だった。


 それから数秒後には、教授はすっかりいつも通りの穏やかな表情で「こんなところで何を?」と言っていた。私は「教授、寝てたから」と立ち上がろうとする。

 ふらついた私を、すぐさま教授が支えた。私の額や首に触れて、「熱中症だね。来なさい」と抱えるように家の中に連れて行く。


 濡れたタオルで冷やされながら、私は天井を見ていた。

「僕のことがわかるかい?」

「はい」

「一応病院に行った方がいいだろう。持ち上げていいかな?」

 教授が、両手で抱き上げるジェスチャーをする。私が頷くと、彼は私の肩と膝の下に腕を入れて私を運んだ。

 彼の車に乗って病院に行き、私は点滴を受けた。少しずつ落ちる液体を見ながら、私は声も出さずに泣いていた。


「そんなに泣くとせっかくの点滴が無駄になる。干からびてしまうよ。親御さんと連絡を取りたいから、電話番号を教えてくれ」

「電話しないで」

「…………。もう二度と、こんな暑い日に外で待っていてはいけないよ」


 どうしてだか涙が止まらなかった。あのね、教授、と呟く。

「前に言ったでしょう。私たち、同級生をいじめてたんです。それで、その子、死んじゃったの。私が死なせたの」

 私が見殺しにしたあの子は、最後まで何を考えていただろうか。私も見殺しにされるべきだったと思う。この人の腕に抱かれているとき、本当にほっとして、今までに感じたことがないほど幸せだった。だから私は見殺しにされるべきだったと思う。あの子を一人で死なせた私が、このような感情を知るべきではなかったと思うから。


 教授は押し黙っていた。慰めるようなことも責めるようなこともせずに、点滴が終わるまでただそこにいた。




 帰り道、教授の車の中でシートベルトをいじっていると、教授が「もうすぐ夏休みが終わるね」と呟いた。私は「はい」とだけ言う。

 夏休みが終わったら、彼は復職すると聞いている。それが例の大学で勤務することを意味するのか、それとも海外へ戻ることを意味しているのか、私は怖くて聞けずにいた。

「僕もこれほどゆっくり時間を作ることは難しくなるだろう。この夏はとても楽しかった。君たちのおかげだ」

「私も……。教授のおかげで、すごく、楽しかった……です」

 不意にくすくす笑った教授が、「ひと夏の思い出の締めくくりをしよう。今度、みんなを呼んでおいで。とっておきのものを見せてあげる」と言った。




 私たちは廃校となった陽棚小学校に集められた。目の前には、金属の筒が何本も置いてある。教授はいつも通りスーツ姿で、ワイシャツを腕まくりしていた。

「やあ」と彼は朗らかに手を上げた。


「教授、何これ」

「とっておきだ。期待していいよ」


 彼は両手を開いて見せ、私たちを後ろに下がらせた。それから筒の一本に何かさらさらした砂のようなものを入れて、その上に丸い玉を入れた。

 私はそれでぴんと来た。たぶんみんなもそうだっただろう。

 教授は筒の中に、火のついた何かを投げ込む。バッと頭を伏せると、筒の中から何かが勢いよく飛び出した。真っ直ぐに空に向かって飛び――――どぉん、という音とともに光が飛び散る。

 花火である。それは見事な、人がせいいっぱい腕を広げたより大きな花火が夜空に咲いた。

 私たちは大興奮で、「わぁっ」と空を見上げる。

 二つ、三つと教授は花火を上げていく。私たちはそれが咲くたびに歓声を上げた。


 また花火が打ちあがり、波が引いていくような一瞬の沈黙。教授の顔が光に照らされ、私たちを優しく見つめていた。

「楽しんでくれてよかった。……今日はお別れの挨拶をしたかったんだ」

 私たちはみんな、黙ってそれを聞いていた。そうかもしれないという予感は、全員の胸にあった。

「君たちの夏休みが終わるとともに、僕はこの街を出るだろう」

「仕事だから……?」

 教授は、ゆっくり瞬きをした。

 次の瞬間彼が発した言葉は、私たちにとって思いもよらず、そしてパニックに陥るには十分だった。


「三木谷真帆という子を知っているだろう」


 言葉を失う私たちとは裏腹に、彼はひどく落ち着いていた。

「真帆は僕の娘だ」と、教授はそう言った。


「ほんの二年間、僕は海外で研究員をやる契約でね。妻は随分前に亡くなっていたから、僕の両親に預けることになった。実家に住所を移して、あの子を転校させることになった」

 言いながら、教授は筒にまた花火玉を入れる。


「ところで君たちには以前、炎色反応を見せたことがあったね。アミちゃんだったかな……カルシウムの色が一番好きだと言ったのは。きっと喜んでもらえると思うな。今から上げる花火は、真帆の骨から抽出したカルシウムで作ったんだ」


 火を入れる前に、教授はふと思い出したように「花火の色を決める火薬のことを“星”と呼ぶらしい。情緒があって大変よろしい。僕の娘は本当に星になってしまったんだ」と言い、ひとしきり笑った。


 どぉん、と筒が火を噴く。ひゅう、と微かな音とともに空に上がっていくその光を、私はただ見ることしかできなかった。

「君たちはこれから大人になって、花火を見る機会もきっとたくさんあるだろう」

 永遠に近い凪のような沈黙。それが花開く瞬間。

「そのたびに思い出してね。この花火が一番、美しかったと」

 言葉通り、夏の夜空に咲いたその花火の美しいこと。赤みがかった向日葵みたいに、懸命に開いて、滲んで、私たちの頭上を降り注ぐように散っていく。


 残響。


 いつから、と私は口を開いていた。教授はそんな私を見て、「それは『いつから知っていたのか?』という質問かな」と尋ねる。

「最初から知っていたよ。君たちが真帆をいじめていたことは」

「……どうして」

「僕は君たちを恨んでいない。ただ、あの日の真相が知りたかった。だから君たちに近づいた」


 彼は目を閉じて、ふっと息を吐きながら「大人からすればたった二年のことだと思い、あの子にとってどれほど長い二年かわかっていなかった。毎日電話をして、休みが取れれば会いに来た。それでもあの子の異変に気付けなかった。僕が恨むべきは君たちではなく、そんな不甲斐ない自分だ」とこぼす。


「ごめんなさい」と私は言った。

「いいよ」と彼は言った。


「ごめんなさい」

「いいよ。僕は君たちを恨んでいないよ」

「……っ、ごめんなさい」

「いいよ。君たちはまだ子どもだったんだ」

 上手く呼吸が出来なかった。口をパクパクさせながら、なんとか息を吸い込む。

「ご、ごめんなさい」

「いいよ、君たちには未来がある」

「ごめんなさい……っ」

「いいよ。もういいんだ。真帆のこと、忘れないであげてね」


 私は膝から崩れ落ち、おそらく過呼吸を起こしていたと思う。彼は何も変わらず、微笑んで私たちを見ていた。「ごめんなさい」と言えば、彼は必ず「いいよ」と言った。何度でもそう言った。

 たぶんもう、私たちはこの人に許されない。

 そう直感的に悟りながら、私はただうわごとのように「ごめんなさい」と繰り返していた。




 後のことは、よく覚えていない。数日経って私は、親に自分のしたことを打ち明けた。どのように罵られたかも、やはりよく覚えていない。両親はもうこの土地で暮らしていくことはできないと言い、夏休みが開ける前に引っ越しを決めた。

 引っ越しの日、車の窓からあの人と目が合った。今まで見ていたのがなんだったのかと思うほど、虚ろな目で私のことを見ていた。あの日、あの花火が上がった瞬間、彼は彼自身の心を決定的に壊してしまったのだと思う。


 他の子たちがどうなったのかはわからない。私のことを裏切り者と思っているかもしれない。それから、あの人がどうなったのかもまったくわからない。たぶん彼自身が言ったように、あの街からは出ただろうと思う。そうであればいいなと思う。せめてそうであったらいいと思う。




 案の定というか、私はろくでもない大人になって、酒と煙草に汚れた部屋で布団にくるまっている。今日は近所で花火大会をやる日なので、どこか遠くに逃げてしまおうと思ったのに。


 あの人はいま、何をしているだろうか。

 一度だけ故郷に帰り、あの人の家を訪ねたことがある。そこには違う人が暮らしていて、あの人のことを知らなかった。近所の人に、『かつてここで暮らしていた大学教授の人、ひいてはその家族』について訊いたが、誰もが言葉を濁した。だからもう、知ろうとするのをやめた。どうなっているにせよ――――あの人の幸も不幸も私には耐えられないだろうと感じたからだ。

 今でもあの日のことは鮮明に覚えているし、思い出すたび、私はろくでもない人間なので、強く思う。と思う。あの人から娘を奪ったのが自分でなかったら、あの人をひとりぼっちにしたのが自分でなかったらと、強く強く思う。

 だけれど私はあの三木谷真帆という子相手でなければあれほど残酷にはならなかったし、そしてやはりあの子は彼の娘だったのだ。不思議なことでも何でもなく、必然的にそうだったのだ。


 もうすぐ、花火大会が始まる時間だ。私は布団を頭から被った。無駄だろう。もはやこれが現実なのかすらわからない。

 耳を塞いだって、どれほど遠くへ逃げたって、今もどこかから――――あの日の花火の音が聞こえてくる。頭の中で、どぉんと鳴って、夜空に赤橙の花を咲かせている。ずっと焼きついて消えない。あれほど美しい花火は、この世に二つと存在しないだろうに。私は今でも、花火を見ることができない。

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