ボーナストラック カディオとユエナの木
カディオとユエナがその屋敷を訪れたのは、“牙”の氏族の戦士デオハンのメイスを受けて折れたカディオの左腕がようやく癒えた後のことだった。
「ここに来るのは、何年ぶりだろう」
カディオはすっかり寂れてしまった門を見上げた。
「こんなことになっていたんだな」
「子供のころ以来でしょう? 二十年近いんじゃないかしら」
ユエナはそう言って、そっとカディオの手を取る。
「最後にあなたがうちに来てくれたのって、十歳のときのことだもの」
「うん。実は」
カディオはユエナの手を握り返すと、照れたように頬を掻いた。
「その後、一人でこの門の前まで来たことがあるんだ。十二歳か十三歳か、それくらいの時かな」
「あなた一人で?」
ユエナはカディオの顔を見る。
「どうして?」
「分かるだろ」
カディオはぶっきらぼうな口調で言った。
「ユエナに会えるかもしれないって、そう思ったからだよ」
それから自嘲気味に、
「まあ、もちろん会えなかったけどさ」
と付け加える。
「ごめんなさい」
「いいさ」
目を伏せるユエナの髪を、カディオはそっと撫でた。
「今はこうして、お前は俺の隣にいてくれる」
カディオが静養に時を費やしている間、ファズメリア王国は大きく揺れていた。
それは言うまでもなく、王太子であるジャック王子とその兄レイン王子との暗闘のためだ。
この兄弟の争いは、今に始まったことではない。
かつては周囲からは、長男であるレイン王子が順当に次期国王となるであろうと思われていた。
だが、ワイマー一派を処断してその勢力を取り込んだジャック王子が猛烈な巻き返しを見せると、レイン王子は弟に押されっぱなしになった。
結局、国王はジャック王子の行動力と政治力を評価して彼を王太子に指名した。
温厚な性格のレイン王子も、権謀術数の渦巻く世界は自分には合わぬと弟の力量を認めて身を引いたため、次期国王争いはそれで終わったものと思われた。
しかし、北の蛮族モーグの若き新王を名乗るラスコットがアシュトン帝国領内のリエント河南岸で挙兵し、それに呼応したモーグの一軍がファズメリアの王都に向かって進撃してきたことで状況は大きく変わった。
大軍を率いながら脆くも敗れたジャック王子は王都を放棄して自領に逃げてしまい、代わりに副将にカディオを据えたレイン王子が寄せ集めの軍勢でモーグ軍を打ち破った。
この戦いの影響は極めて大きかった。
王都の多くの市民や、凄惨な略奪を受けたモーグの侵攻路が領地に当たる貴族たちが、レイン王子の支持にまわった。
レイン王子自身も、危機に際しての弟の身の処し方に大きな疑問を抱いたのだろう。穏健な姿勢をかなぐり捨て、公然と自勢力の拡大に向けて動き出した。
だがそれでもやはり、王太子という地位の持つ力は強かった。
王国のほとんどの保守的な貴族たちはいまだ、消極的であれジャック王子を支持していたし、目端の利く者にしたところでせいぜいが旗幟を鮮明にせず様子見といったところだった。
モーグとの戦いでの失点を取り返すために、ジャック王子は猛烈な勢いで働いていた。
自勢力の引き締めと、レイン王子陣営の切り崩し。
そういった面ではやはり彼に一日の長があり、後手後手に回っていたレイン王子にとって、モーグ撃破の英雄カディオ・リオットの復帰は大きな朗報だった。
レイン王子の、カディオに寄せる信頼は一方ならぬものがある。
その戦歴と人望もさることながら、長い遠征のおかげで、カディオにはアシュトン帝国とのパイプもあった。
狼人を頂点にいただくこの奇妙な帝国との関係は、ファズメリア王国にとっては常に重要な課題だ。
外交は、国内政治に注力してきたジャック王子の最大の弱点といってもよかった。
とはいえ、アシュトン帝国は今、大きく揺れていた。
当初はたちまち鎮圧されるであろうと見られていたモーグの新王ラスコットが、大方の予想に反して意外な粘り強さで帝国軍を翻弄していたからだ。
戦争の行方次第で、帝国の周辺国への態度もどう変わるか分からない。そんな先の見えない状況下での、政務復帰。
これから忙しくなる、という時に、カディオは婚約者のユエナを誘ったのだ。
正式に結婚する前に、二人で行ってみたいところがある、と。
それは、ユエナのかつての生家。
ワイマー家の屋敷だった。
ユエナの父ワイマー卿が逮捕されたとき、ユエナはこの屋敷に住んではいなかった。
王子の婚約者の家として権力を手に入れたワイマー家は、そのとき既に、王都を見下ろすリゼルの丘にさらに大きな屋敷を購入し、そこに住んでいたからだ。
この屋敷は別の貴族の手に渡っていたのだが、じきにその貴族もワイマー卿の事件に連座して没落してしまった。
屋敷は、それ以来主となる者も無いまま、荒れるがままになっていた。
「リゼルの丘のほうの屋敷には」
カディオと同じように門を見上げながら、ユエナは言った。
「いい思い出が無いの。父も母もあの家に移ってからはまるで別人のようになってしまったし、結局は捕まって死んでしまったわ。私自身もジャック王子の婚約者としてずっと気を張っていた。たくさんの来客をもてなしたけれど、今はもうその記憶が全部曖昧だわ」
そう言って、ユエナは少し哀しそうに笑う。
「でも、この屋敷はすごく懐かしい」
寂れた門を見つめるユエナの目は優しかった。
「この屋敷の思い出は、いつもあなたと結びついているから」
「ああ」
カディオは頷く。
「俺もだ」
二人は並んで門をくぐり、屋敷の敷地に足を踏み入れた。
庭園はすっかり荒れ果て、植え込みは生い茂る雑草に隠れてしまっていたし、美しい水を常に湛えていたはずの泉も池も枯れてしまっていた。
「あ、見て。ねえ、この池覚えてるでしょ」
「ああ。あの頃はここに大きな魚がいたな」
「そう。あなたが捕まえようとして池に入って」
「うん。ユエナのお父上に首から上が吹き飛ぶくらいの勢いで怒られたんだ」
それでも二人はそんな話をしながら、自分たちの記憶の中の庭園に思いを馳せた。
庭園のあらゆるところに、二人の思い出が刻まれていた。
「私、あのころが一番幸せだった」
腐りかけて今にも崩れ落ちそうな東屋の屋根を見上げて、ユエナがぽつりと言った。
「家族がいて、あなたがいて。幸せな明日が来るのは当たり前のことだった。そしていつかあなたと一緒になるんだって、無邪気に信じていられた」
「今はどうだい」
カディオは婚約者の横顔を見た。
「俺は幸せだよ、今も」
「私も幸せ」
ユエナは言った。
「でも、失う怖さを知ってしまったから。あの頃みたいに、無邪気に明日の幸せを信じることはもうできないわ」
ユエナはカディオの手を離すと、ゆっくりと東屋に歩み寄り、その柱に手を触れた。
「明日の幸せって、実は信じられないくらいの努力と幸運の上に初めて成り立っているものだって、知ってしまったから」
そう。
幸せの上に安住して、努力を怠ればすぐにこの東屋のようになってしまう。
幸せとは、ひどく不確かで脆いものなのだ。
それはこの厳しい世界を生きる全ての者にとって、間違いのない真実だった。
「ユエナの言うことは、分かるよ」
カディオの言葉に、ユエナが振り返る。
「俺は、ユエナがジャック王子と婚約したと知ったとき、これでお前の将来は安泰だと思った。お前には幸せな人生が約束されたんだって、そう思った」
だから後は、ユエナの幸せな将来を守るためにこの命を使えればいい。あの頃、カディオは確かにそう思っていた。
その考えを変えてくれたのは、モーグとの戦いで自分が率いることになった部下たちへの責任感と、そしてほかならぬユエナ自身の言葉だった。
ともに歩きたいの、とユエナは言ってくれた。
「アシュトンの狼人将軍セナン殿が、モーグのラスコットとの戦いで負傷したっていう話は聞いただろう」
「ええ」
ユエナは頷く。
モーグ征伐に多大な戦功のあったアシュトン帝国の狼人将軍セナンは、ラスコット軍との戦いでも軍を率いたが、一敗地に塗れ、一時は戦死の報が流れるほどの重傷を負ったのだという。
今、セナンの代わりにアシュトン軍を指揮してラスコットと戦っているのは、彼の弟のハルティエという名の狼人皇族だった。
「セナン殿はあれだけの功績を上げた方だ。賢く、強く、何より情に流されない冷徹さがある。もうあとは帝国の中で栄達していくだけだと思っていたよ。それなのに、あの戦争からたった数年で、表舞台から退場しかねないほどの大けがを負ってしまった。それも、ほかならぬ自分が打ち破ったはずのモーグの手で」
「そうね」
頷くユエナに、カディオはゆっくりと歩み寄る。
「みんな、その時その時を一生懸命に生きてきた。だけどその結果、今ではあの時には想像もしていなかったところにいる」
カディオも、ユエナも、セナンやジャック王子、ユエナの父ワイマー卿も。
十年前に、今の自分の状況を想像できた人間は誰もいないだろう。
運。
人の力ではどうにもならないところで、大きな何かが決められている。
自分達はきっと、幸運だった。
ワイマー卿やセナンが不運だったのと同じくらいの、ごくわずかな差で。
「だから、怖い。必死に何かをしようとしても、全ては無駄なんじゃないかって思うこともある」
カディオは、ユエナの手を取る。
ユエナは、カディオの意図を読み取ろうとするかのようにその目を覗き込む。
カディオは微笑んだ。次の行き先は決まっていた。
「こっちだ」
「え?」
カディオは、ユエナの手を引いて庭園を歩いた。
やはり、それはそこにあった。カディオの胸に、何とも言い難い感情が湧き上がる。
「ほら」
カディオが指差した先を見て、ユエナが「あっ」と声を上げた。
そこには、一本の木が生えていた。
かつての美しさが見る影もないほどに荒れ果てた庭園にあって、その木だけは往時と変わらぬ姿で屹立していた。
それは幼い頃、カディオとユエナがよく登った木だった。
「懐かしい」
ユエナは駆け寄った。
木の幹に刻まれた傷跡を指差して、カディオを振り返る。
「ほら、あなたが足を掛けやすいようにって、勝手に付けた傷跡。あの時は私たちの腰くらいのところにあったのに」
その跡は、ユエナの膝くらいの高さにあった。
「こんな低かったのね」
「ああ。それを付けたときは、お前のお父上に雷が落ちたのかっていうくらいに怒られたんだ」
そう言いながら、カディオは木に歩み寄った。
「変わってしまったものもたくさんあるけど、変わらないでいてくれたものもある」
カディオは、木を見上げた。
だからこそ、今の自分のいる場所が分かる。
自分のしてきた努力を、無駄なものではなかったはずだと信じることができる。
人はみんな、きっとそうやって前を向いてきたんだ。
「だからユエナ」
そう言いかけて、カディオは目を見張った。
自分の婚約者が、まるでおてんばな少女のように靴を脱ぎ捨てたからだ。
「何やってるんだ、ユエナ」
ユエナは答えず、木の幹を掴むと足を掛けた。
「まさか」
「私、登るわ」
ユエナの目は真剣だった。
「あの枝のところまで」
「いや、どうしてそうなるんだ」
カディオは慌てて声を上げたが、ユエナはスカートが翻るのも気にせず、力を込めて木を登り始めた。
「ユエナ、危ない。降りろ」
カディオの制止の声に構わず、ユエナは顔を真っ赤にして木を登っていく。
何度か危なっかしい場面があったが、カディオが見守る中で、ユエナはとうとう幹から張り出した木の枝に辿り着いてみせた。
「見て」
枝に跨ったユエナが、子供のような笑顔でカディオに手を振る。
「登れたわ」
「ああ」
仕方なく、カディオは手を振り返す。
「見てたよ」
「カディオも登ってきて」
「え?」
「ほら、早く」
ユエナが手招きする。カディオは戸惑った。
「私、ここから始めたいの」
ユエナは言った。
「だから、登ってきて」
ユエナは真っ直ぐな目でカディオを見つめていた。
「ここから、二人でもう一度始めましょう」
「……ああ」
カディオは微笑んだ。
ユエナには、いつも驚かされる。
ビケを抜け出してカディオに会いに来たときも。
たったひとりで馬を駆って、殺気立ったレイン軍の真っただ中に飛び込んできたのだと聞いたときも。
そうだよな、ユエナ。
これから先、何があろうとも。どんなことが起ころうとも。
その時は、また、ここから始めればいい。
無邪気に明日を信じて、前を向いていたこの場所から、いつだってやり直せばいい。
「分かった。俺がかっこいい登り方を見せてやるよ」
「うん」
ユエナが頷く。
「ここから見てる。かっこいいところ見せて」
「よし」
カディオは木に足を掛ける。
その顔に、わんぱくな少年だった頃の笑みが浮かんだ。
いっそのこと、奪い去ってしまえばよかった。 やまだのぼる @n_yamada
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