ボーナストラック 囚われの皇女は北の蛮族の手を取る(後編)
北へ行け、レア。
父皇帝は、その黄金色の狼の瞳をレアに向け、感情の感じられない氷のような声で言った。
北の果てで、己の罪を死ぬまで贖うがいい。
そしてレアが送られたのが、帝国領の北の果て、セプトルだった。
風が初夏の空気を運んでくる。
眼下に広がるリエント河の流れの中に、レアは奇妙なものを見付けた。
獣の一団。
それは、最初そう見えた。
熊や狐が、まとまって河を泳いでくる。
種類の違う獣が、あんな風に一団となって河を渡るなんて。
不思議な光景に目を凝らしたレアは、すぐに己の勘違いに気付いた。
獣ではない。
あれは、人だ。
熊や狐、狼の毛皮をはおった男たちが、河の北岸から南岸へと河を泳いでくるのだ。
その数は、十数名。
モーグだわ。
レアは思った。
モーグ。リエント河の北に盤踞する蛮族。
戦うために生まれたような、狂戦士の集団。
レアがこの塔に幽閉されてから今までに、何度かモーグがこの河を渡ってくるのを見た。
野蛮な彼らは、時として、豊かな南岸の街に略奪に来るのだ。
だがレアがこれまで目にしてきたのは、顔や腕にめったやたらにフィレンの花の紫色の染料をなすりつけた“牙”の氏族や、滑稽なほどに長い角の被り物をかぶった“鹿”の氏族ばかりだった。
多くてもせいぜいが百人程度のその集団は、河を渡ってセプトルに侵入しようとしてはブラン率いるアシュトン軍に反撃され、多くの戦死者を出して撤退していくのが常であった。
レアのいる部屋からは戦いの様子までは見えないが、漏れ聞こえてくる戦闘の音の後で、再び河を渡って北へと逃げ帰っていくモーグたちの数が明らかに来たときよりも少ないので、その結果を知ることができた。
だが、こんな獣の皮をかぶるモーグは初めてだった。
数も、今までに比べて明らかに少ない。
これは、きっと今夜またブランが来るわ。
レアはため息をついた。
戦いの後で血の猛ったブランは、いつもまだ敵の血がこびり付いた鎧姿のままでレアのもとに押しかけてはこの鉄扉の前で、自分がいかに有能な指揮官であり、どのように野蛮な敵を撃退してみせたのかを興奮してまくしたてるのだ。
皇女であるレアは、本来であればブランなどが声を掛けることすらできない高貴な身分だ。だが、罪を得た今となっては、国の庇護はない。
彼女を守るのはこの分厚い鉄の扉と、皇女というもはや何の権力も付随しないその肩書だけだった。
いつかは、ブランは扉を破って入ってくるだろう。
レアがまだ美しいうちに。
恐ろしいことに、五年の幽閉生活を経てもレアの美貌は衰えていなかった。
それは、レアの身体に流れる
狼人の容貌としてこそ発現しなかったが、彼女の身体にも、確かに初代皇帝の半獣半人の血が流れているのだ。
ブランが扉を開けるのは、今日かもしれない。
先ほど目にしたあの奇妙なモーグの一団を蹴散らし、それで猛った心のままに私を襲おうとするかもしれない。
現に、最近のブランの口説き方は日を追うごとに執拗になっていた。
我慢が限界に達しかけている証拠だった。
もし、ブランが押し入ってきたら。
レアはベッドの脚の陰に押し込まれた石の欠片を見た。
ここからでは分からないが、その先端は鋭く尖っている。
何か月もかけてレアが密かに研ぎ澄ましたものだ。
あれで、自分の喉を突こう。
本当はまずブランの喉を突いてやりたかったが、鍛えられた戦士であるあの男を相手に、長い幽閉生活で弱ったこの身体でそれは叶わないだろう。
ならばせめて、下賤な男に汚される前に、魂を肉体から解き放とう。
そう決めていた。
ばたばたという乱暴な足音。
それに続いて、扉が叩かれた。
ノック、などという生易しいものではない。
どおん、どおん、とまるで壁ごと叩き壊すような音を立てて、扉は揺れた。
ブランにしては、いくら戦のあとで猛っているといってもやりすぎだった。
それに、とレアは思った。
足音は、複数だった。
得体の知れない恐怖にかられ、レアはベッドの脇に屈みこむと石を拾い上げた。
先端を、丹念に丹念に尖らせ、磨き上げた石。
石の先が細く、鋭くなっていくたびに、レアは自分の心が自由に近付いていく気がしたものだ。
この石を喉に突き刺せば、いつでも死ぬことができる。
肉体はこの古い塔に縛られていようとも、魂は天を翔けることができる。
そのためには、もっと鋭く。過たず死ねるだけの鋭利さを。
そう念じながら、研いできた石だ。
どおん、どおん、という常軌を逸した音が、向こう側から壁もろともに扉を震わせている。
レアは石を、自分の胸の前で構えた。
自分を殺すために磨き上げたそれは、未知のものに対する武器とするにはあまりに心細かった。
扉の向こうから、叫び声がした。野太い男の声が、階下に向かって何かを叫んでいる。
それを聞いたとき、レアは理解した。
意味の分からない言葉。
全く聞き馴染みのないそれは、アシュトンの言葉ではなかった。
モーグ。
今、この扉を叩いているのは、北の蛮族モーグなのだ。
まさか、こんなことになろうとは。
ブランは。あの男の指揮する守備隊は何をしているのだ。
たかがあれしきの数のモーグに、後れを取ったというのか。
激しい力で叩かれ続け、扉の発する音が変わり始めていた。
鉄扉自体はまだ破られる気配を見せなかったが、それが嵌められた煉瓦の壁の方がすでに限界を迎えようとしていたのだ。
この扉は、破られる。
レアは、意を決して己の喉元に石の先端を押し当てた。
まさか、このような最期を迎えることになろうとは。
父はこんな事態が起きることも想定して、それで私を北へと向かわせたのだろうか。
帝国の皇女ともあろう者が、誰に助けられることもなく、蛮族の手にかかって一人惨めに死のうとは思わなかった。
レアの脳裏を、両親の顔がよぎる。
黒い毛皮の父皇帝の、黄金の瞳。灰色の毛皮の母皇后の、銀の瞳。
どちらも、狼人ではないレアに優しい眼差しを向けてくれることはなかった。
結局は、私の罪とは、皇族でありながら狼人として生まれなかったことなのだ。
その時、ついに扉は破られた。
やはり壁の方がもたずに破壊され、扉はそのまま室内へと倒れ込んできた。
扉と床とがぶつかる轟音の後で、何かを叫びながら踏み込んできたのは、熊の毛皮をまとった大男だった。
アシュトン人をはるかに凌ぐ長身と、ブランですら比較にならないほどの隆々たる筋肉。
北の人間特有の白い肌に、金色の縮れ髪。
モーグ。
その手には、今まさに扉を破るのに使われた巨大なメイスが握られていた。
だがモーグは、レアの予想に反して戸口から一歩踏み込んだ後、それ以上入ってはこなかった。
レアに向かって何かを叫ぶ。
レアは自分の喉元に石を突きつけたまま、目を見開いて震えていた。
震えよ、止まれ。
レアはそれだけを願った。
無様に震える姿など、蛮族に見せるな。帝国の皇女として、最後は堂々とした死を。
モーグはもう一言何かを言った後、焦れたように舌打ちした。
後ろを振り向いて何か叫ぶ。
すると、彼の背後からもう一人、別のモーグが姿を見せた。
「たから、は」
そのモーグは言った。
「王は、そう仰せだ。宝は、どうした」
たどたどしい口調だったが、共通語だった。
後から来たこのモーグは、通訳なのだ。
レアはそう悟る。
「宝、ですって」
レアはひきつったように笑った。
そういうことか。
聡明な彼女は、事情をすぐに察した。
このモーグたちは愚かにも、この塔の最上階に財宝があると思って、それであれほど必死になって扉を壊したのだ。
「お生憎さまね」
レアは言った。
「ここには私しかいない。宝物など、何もないわ」
レアの言葉を、通訳のモーグが彼らの言葉に言い直す。メイスを持った巨漢のモーグは、険しい顔をした。
また、巨漢のモーグが何かを言う。
「女。お前は、なぜ、ここにいる」
通訳の言葉に、レアは首を振る。
「あなたたちには関わりのないことよ」
「閉じ込め、られていた、のか」
モーグはじろじろと無遠慮に部屋の中を見まわした。
それから、にやりと笑う。
「連れて行って、やっても、いいぞ」
モーグは言った。
「世界の、中心に」
「なんですって」
レアは目を見張った。
世界の中心へ?
帝国の首都カイに、このモーグたちは攻め込もうというのか。
たったこれだけの人数で、帝国軍と真正面から戦おうというの?
そのあまりに無謀な言葉に、思わずレアは噴き出した。
モーグが眉を顰める。
「なぜ、笑う」
「本気で行けると思っているの」
レアは喉元に当てていた石を下ろすと、冷たい笑みを浮かべて、そう言った。
そんな表情をするとき、レアは自分にも確かに狼人の血が流れているのだと実感する。
「無知とは、恐ろしいものね。たったこれっぽっちの人数で、帝都まで行こうだなんて、よくもそんな無謀なことを考えつくわね」
通訳が少し困った顔をした。それから、伝えられたモーグの男も同じような顔をした。
「ていと? どこだ、そこは」
「カイよ」
レアは答える。
「世界の中心。あなたの言っているのは、帝都カイのことでしょう」
「違う」
モーグの答えは明確だった。
「世界の中心は、アクロパレだ」
アクロパレ。
どこかで聞いたことがあった。
レアは記憶を探る。
そうだ。あれは確か。
帝都で、地理の家庭教師が口にした言葉だった。
レア様もアシュトンの皇族であらせられるからには、国内だけでなく、隣国や外法の地のことまでも知っておかねばなりませぬ。
家庭教師の口ぶりまでも、レアは今でも鮮やかに思い出すことができた。
モーグは、八つの氏族から成っております。モーグが聖地と崇める火山、オウステン山。それを取り巻くように、“鷹”の氏族、“玉髄”、“牙”………
そうだ。
家庭教師は、こう言っていた。
最も北の外れ。
そこに生きることがすでに何かの罰であるかのようなモーグの地にあって、人の住める北限の地に住まうのが、“
その街の名が、アクロパレ。
「“槌音”」
レアはそう口にした。
「あなたたちは、“槌音”の氏族なの」
「そうだ」
モーグは胸を張った。
「我が名は、ルフレイ。“槌音”の氏族の王にして、最も猛き戦士。はるばるアシュトンを、攻めに来た」
アシュトンを攻めに来た、ですって。
こんな辺境の街を一つ、襲ったくらいで。
なんという身の程知らずの田舎者なのか。
「“槌音”の氏族は、モーグの北の果てに住むのでしょう」
レアは低く笑った。
すでに死は覚悟していた。もうこのモーグに殺されようと仕方ない、と腹をくくっていた。
自分が帝都カイの支配者の娘であるというプライドは、モーグの滑稽な思い違いを訂正させずにはおかなかった。
「世界の中心は、アシュトン帝国の帝都カイよ。ここは広大なアシュトン帝国の外れの街に過ぎない」
レアは冷たい声で言った。
「この世界で最も栄え、最も高貴で最も豊かな都市は帝都カイ。それはルク王国もシャーバード王国も、ほかのファズメリアやシルワなどの小国もその周辺の異民族も、世界中の誰もが認めていることよ」
だが、そう教えられても、モーグのルフレイは恥じ入る様子も見せなかった。
「世界中の、誰もが?」
ルフレイは真面目な顔で言う。
「俺は、認めて、おらぬ」
「だから」
それがどうしたっていうの。
苦笑混じりにレアはルフレイの幼稚な反論を封じようとした。
だが、次のルフレイの言葉に表情を硬くした。
「少なくとも、この部屋は、世界の中心では、ない」
「それは」
「お前が、望むなら」
ルフレイは粗野な笑顔で言った。
「俺はお前を、世界の中心に、アクロパレに、連れて行ってやろう」
世界の中心。
何の衒いもなくそう言い切るこの田舎者の滑稽極まりない言葉に、なぜかレアの心は揺さぶられた。
「お前は、美しい」
ルフレイは言った。
「帝国が、この塔に隠した、宝だ」
言っていることは、ブランと大差ないはずだった。
だが、ルフレイの言葉は何故かレアの胸に響いた。
「私に、アクロパレでモーグのように暮らせというの」
レアは動揺を隠すように言った。
「私はアシュトン人よ。モーグには、なれない」
だが、それを聞いてもルフレイの粗野な笑顔は曇らなかった。
「モーグとは、血の名にあらず」
ルフレイは言った。
「その誇り高き、生き方こそを、我らはモーグと、呼ぶ」
がつん、と頭を殴られたような衝撃があった。
生き方?
血ではなく、生き方こそを、モーグと呼ぶ?
お前は狼人ではない。
それが全ての答えのはずだった。
他に理由などなかった。
そして、レアにはそれをどうすることもできなかった。
私は、狼人ではない。どうあがこうが、狼人にはなれない。
それこそが、罪だったのだから。
「名は」
そう尋ねられた。
「レア」
思わず、素直に答えていた。
「レア。俺と、ともに来い」
ルフレイは太い熊のような腕を伸ばした。
「お前にも、聞かせてやる。アクロパレの湖の氷が、春になると、大きな音を立てて、割れる。我らはそれを、槌音と呼ぶ。我らの氏族の、名の由来だ」
北へ行け、レア。
北の果てで、己の罪を死ぬまで贖うがいい。
父上。
知らず、レアは微笑んでいた。
あのご命令は、そういう意味だったのですね。
北には、まだ果てがありました。この街よりもなお北に。
父上のご命令通り、レアは北の果てへ参ります。そこで、私が狼人として生まれなかったことの意味を、死を賭して見つめ直して参ります。
レアは自分の握りしめていた石を見つめた。
この部屋の中で自分の心を支えていたそれは、今ではただのつまらない砕けかけの小石に過ぎなかった。
レアはそれを窓の鉄格子の向こうに投げ捨てると、ゆっくりとルフレイに歩み寄った。
近寄ると、むせかえるような男の匂いがした。
それでもレアはそれを不快とは思わなかった。
「いいわ。連れて行って、ルフレイ」
レアは、ルフレイの差し出した手を取った。
「私を、あなたの世界の中心に」
「いたぞ、あそこだ!」
レアがルフレイとともに塔を出ると、そこに駆けつけてきた一軍があった。
ブラン率いる守備隊だった。
「愚かな蛮族どもめ、まんまと引っかかったな」
先頭に立つブランが叫ぶ。
「そんな塔に、財宝などあるものか」
その言葉で、レアは悟った。
緒戦でルフレイたちを強敵と見たブランは、兵を集結する時間を稼ぐために彼らを塔へと誘い込んだのだ。
そこに財宝が隠されているという偽の情報を餌に。
そこには、レアがいるというのに。
ブランの率いる兵の数は、数百。一方のルフレイ率いるモーグは、わずかに十数名。
勝てるはずのない人数差だった。
「逃げましょう」
レアはルフレイの太い腕を叩いた。
「北へ」
それを通訳のモーグが伝えてくれたが、ルフレイはにやりと不敵に笑っただけだった。
そして、地を揺らすような声で吼えた。
「エ・シャ・ドラ・ブラーナ!」
それに配下のモーグたちが呼応する。
「エ・シャ・ドラ・ブラーナ!」
「エ・シャ・ドラ・ブラーナ!」
「エ・シャ・ドラ・ブラーナ!」
モーグ語で、“神々の王エ・シャの名に懸けて”。
モーグの戦士は、誰一人として臆してはいなかった。
次の瞬間、レアはルフレイの左腕にかき抱かれていた。
ぐん、と周囲の景色が歪んだ。
と思ったときには、もう彼女の目の前には驚愕に顔を歪めるブランがいた。
ルフレイのメイスが振り抜かれる。胴と離れたブランの首は軽々と宙を舞い、塔の最上階の窓に飛び込んだ。
一瞬のうちに指揮官を失って動揺するアシュトン軍に、モーグの戦士たちが殺到する。
総崩れとなったアシュトン軍の真ん中を堂々と突っ切り、ルフレイたちはそのままリエント河の南岸に達した。
「渡れば、戻れぬ」
通訳を介して、ルフレイはレアにそう告げた。
「いいのだな。連れて行くぞ」
「ええ」
レアは頷いた。
帝国に、私の生きる場所はなかった。
けれど、それはこの世界に生きる場所がないことを意味してはいなかった。
私は、私の世界の中心を見付ける。
「連れて行って」
レアは言った。
「北の果てまで」
「世界の中心だ」
ルフレイは訂正した。
そして、軽々とレアを背負うと、リエントの流れの中に飛び込んだ。
目の前で見るリエントの流れは、白く輝いていた。
“槌音”の氏族の街アクロパレで、レアがルフレイとの間に息子ラスコットをもうけたのは、それから四年後のことであった。
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