ボーナストラック 囚われの皇女は北の蛮族の手を取る(前編)

 遥か眼下には、黒々とした大河の流れ。

 遠く霞むように見える対岸の荒地には、人の気配はほとんどない。

 レアの世界はもう長いこと、四角く切り取られたままだった。



 リエント河の南岸。

 アシュトン帝国領、セプトルの街。

 河を見下ろすように建てられたこの古い塔の最上階にレアが幽閉されて、もう五年が経とうとしていた。

 唯一の窓は北向きで、太い鉄格子の向こうに見えるのはリエント河の暗い流れと、対岸の蛮族の地モーグの荒涼とした風景ばかり。

 この五年間、それだけを見つめてきた。

 冬ともなれば氷で作られているのかと錯覚するほどに冷えこむこの部屋にも、今はじっとりと湿った温もりがあった。

 温かいのはよいが、この湿度は虫や黴を呼び寄せる。

 極寒と酷暑。そうでなければ、虫と黴。

 この独房には、ちょうどいい季節などというものは無いのだった。

 だが、河を渡って北から流れてくるこの風は、心地よい。

 夏までのわずかな間、それを感じることはレアの数少ない楽しみの一つだった。

 それを邪魔するかのように、かんかんかん、と誰かが階段を上がってくる音がした。

 看守が食事を持ってくるにはまだ早い時間だった。

 レアは窓から離れ、外界へと通じる唯一の出口である分厚い鉄の扉を見た。

 そこに設えられた覗き窓の蓋が、きい、ときしんで上げられた。

「レア様」

 顔を見せたのは、やはりいつもの男だった。

 ブラン。このセプトルの街の守備隊を率いる軍人だ。

「ご機嫌はいかがですか」

 整えられた口髭を指で気障にしごきながら、ブランはそう言った。

 端整と言えなくもないその顔には、今日も薄い笑顔が貼り付いていた。

「悪くないわね」

 レアは無表情で答えた。

「今日は、風が通るから」

「リエントの河波が、今日は高いですからな」

 ブランはそう言うと、何がおかしいのか、ははは、と笑った。

 覗き窓から微かに覗く肩は、服の上からでも盛り上がっていることが分かる。

 ブランは軍人だ。その身体は鋼のような筋肉で覆われているのだろう。

「外で風を浴びれば、なお爽快ですぞ」

「そうかしら」

 レアは彼に背を向けて窓辺に立つ。その長い髪を風が揺らす。

「私には、ここで十分だわ」

「強がりはおやめなされ」

 ブランは言った。

「私の提案について、考えていただけましたでしょうかな」

「何だったかしら」

 レアははぐらかすように答える。

「よく覚えていないわ」

「お戯れを」

 ブランはまた肩を揺らして笑う。

「あんな魅力的な提案をお忘れになるわけがない」

 魅力的な提案ですって。

 そのあまりに自信満々な態度に、レアは自分の記憶が間違っているのかと少し心配になった。

「もう一度教えてくれるかしら」

 だから、レアはそう言った。

「そうしたら、思い出すかもしれないから」

「また言わせるというのですか」

 ブランはため息をついた。だが、その表情はまんざらでもなさそうだった。

「レア様。あなたが私のものになるならば、こんな惨めな場所からはいつでも出して差し上げる」

 良かった。

 レアは無表情のまま、心の中で呟いた。

 やはり、その話だった。私の記憶は間違っていなかった。

「ああ。それね」

 レアは窓の外に顔を向ける。

「魅力的な提案だなんて言うから、もっと違う何かかと思ったわ。その話なら、前にも断ったはずよ」

「あなたのためを思って言っているのです」

 ブランは声を潜めた。

「私とて、この扉を破って力ずくであなたをものにしてもいいのだ。だが、それをしないでこうして丁重に話を向けている。どうかこの気持ちを汲み取っていただきたい」

「それを感謝しろと言うの? 感謝して、自分からあなたに抱かれろと」

「分かっていらっしゃるのであれば、話は早い」

 レアは皮肉のつもりだったが、ブランは恥じる様子もなく笑った。

「この街で私に逆らえる者などいない。さあ。あなたさえ承諾してくだされば、こんな扉、いつでも開けて差し上げよう」

「やめておくわ」

 レアは彼を振り返りもせずに言った。

「私がここにいるのは、皇帝陛下の意思。それをあなたにどうこうできるわけがないもの」

「ですから」

 ブランはしつこかった。

「帝国はあまりに広く、ここセプトルは帝都カイからあまりに離れている。皇帝陛下とて、目の届かない場所なのです」

「抱くだけ抱いたら、またここに戻すつもりでしょう」

 レアはつまらなそうに言った。

「あなたは、皇族の女を抱いてみたいだけなのだわ」

「……やれやれ」

 図星を衝かれたように顔を赤くして、それでもブランは呆れたように首を振った。

「レア様は強情なお方だ。それに、男の誠意というものを理解されておられぬ」

 それでもしばらくの間、ブランは覗き窓越しにあれこれとレアを口説いていたが、ようやく諦めたようで、

「また来ますからな。どうか、ご決断を」

 と言うと、覗き窓を閉めた。

 ようやく静かになった部屋で、レアはしばらく身じろぎもせずに窓の外を見つめていた。

 どうか、ご決断を。

 そうね。決断は早い方がいいかもしれない。

 それは、ブランの望む決断とは真逆のものだけれど。

 眼下では、今日も黒々とした水がとめどなく流れ続けている。

 大河リエント。アシュトンとモーグとを分かつために、神がこの大地に引いた黒き一筋の線。

 かつてレアが暮らした都――世界の中心たるアシュトン帝国の首都カイは、その窓とは正反対の方角にあった。

 己の生まれ故郷の方角を遥か望むことさえ許されない。

 レアは、それだけの罪を犯したのであった。



 アシュトン帝国の初代皇帝ロアン一世は、狼人ルプスヴィであった。

 数多の競争勢力を駆逐して広大な領土を統一した彼のその半人半狼の異形は、皇帝という不可侵の地位と相まって、否が応にも神秘性を帯びた。それは、狼人ではない普通のアシュトン人たちを支配するのには極めて有利に働いた。

 それゆえ、それ以降の帝国において歴代皇帝はもちろん、帝国の要職を占める皇族は皆、狼人であることが求められた。

 しかし、狼人の子は必ずしも狼人であるとは限らない。

 狼人と通常人との間の子であっても、狼人同士の子であっても、生まれる子が狼人である確率は五分五分といったところだ。

 そこに、この帝国特有のひずみが生じた。

 どんなに高貴な生まれであろうと、どれだけ優れた素質があろうと、その皇族が狼人でなければ出生の段階で次期皇帝の座はもとより、顕職への道までが閉ざされてしまうからだ。

 無論、狼人でない皇族たちも一応は皇族として扱われたが、さして重要ではない閑職や辺鄙な地方の長官になるのがせいぜいといったところであった。

 初代皇帝から数えて八代目に当たる皇帝エルズ二世の七番目の娘として生まれたレアは、狼人ではなかった。だが、幼少時からとびきりの才気を発揮した。

 狼人絶対主義であるがゆえに、アシュトン帝国では女帝の存在も珍しくはなかったが、無論、狼人である、ということが大前提だ。

 一般のアシュトン人たちと同じ姿で生まれたレアは、もうその時点で次期皇帝レースから外れていた。

 その気楽な立場がかえって良かったのだろう。

 何のプレッシャーもなくあらゆることを天真爛漫に楽しみ、狼人の皇族たちに何ら劣ることのない才能を発揮する美しい皇女の姿は、密かな人気を集めた。

 レア様は帝国の華だ、などと公の場で誉めそやされたことも一度や二度ではない。

 だが、彼女が世界の中心たるアシュトン帝国の皇女である以上、それは単なる純粋な人気ではあり得なかった。やはりその裏には、権力への欲望が渦巻いていた。

 狼人絶対主義によって排除されてきた、狼人ではない人々。長年にわたって彼らが溜め込んだ澱のような不満は、はけ口を求めてまるでモーグの聖地オウステン火山のマグマのように地下で蠢いていた。

 次期皇帝の最右翼と目されていたシーク皇子が、感情の動きの見えづらい狼人の中にあってさえ、あまりに感情がなさすぎるように見えたことも、彼らの不満に拍車をかけた。

 シーク皇子よりも優れた皇子も皇女もいくらでもいるではないか。それなのに、彼が狼人でほかの皇族がそうではないからと、ただそれだけの理由でシーク皇子が次期皇帝となるのであれば、帝国の将来は暗い。我らはまだ、狼人であるということ以外にシーク皇子が次期皇帝となるに相応しい、いかなる資質も見出せてはいない。

 そこへきて、あらゆる方面で狼人に引けを取らない、輝くように美しい皇女の登場だ。

 一部の不満層にとって、レアは狼人絶対主義を覆す希望の光のような存在となった。

 つまるところ、レアは彼らに担がれる輿になったのだ。

 いくら聡明とはいえ、帝都の宮殿で育ち外の世界を知らない純真な少女を自分たちに都合よく操ることなど、世故長けた老獪な貴族たちにとっては造作もなかった。

 そして、彼らの意見を自分の意見のように信じ込んだレアは、良かれと思って父皇帝に進言した。


 狼人だけが皇帝の座に就ける今の帝国はおかしい。私は他のどの兄弟姉妹とでも互角以上に渡り合って御覧に入れます。どうか私にも、皇位を争う権利を、と。


 皇帝エルズ二世の怒りは、狼人の獣としての側面が発揮されたかのような激しいものだった。

 愚かな娘よ、喜ぶがいい。

 皇帝は言った。

 余はお前のその愚かさに見合うだけの褒美を、直ちにとらせるであろう。

 その言葉通り、皇帝の処断は迅速だった。

 レアの背後にいた貴族たちはたちまち捕らえられ、事実関係の調査などほとんどされぬまま粛清された。

 レアに擦り寄って来ていた多くの貴族は、自分たちが皇帝の逆鱗に触れてしまったことを遅ればせながら悟ったものの、慌てて手のひらを返した時にはもう遅かった。レアやその取り巻きの貴族と親しくしていたというそれだけの理由で彼らは徹底的に排斥され、宮廷には粛清の嵐が吹き荒れた。

 多くの貴族がその所領とともに己の首をも失った。

 狼人以外の者が皇位を望めばどうなるのか。その末路を内外に示すかのような凄まじい徹底ぶりだった。

 レア自身も命だけは取られなかったものの、帝国領の北の果て、外法の地モーグと境を接するセプトルの街に流され、大河リエントを望む高い塔の最上階に幽閉されることとなったのだ。



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