4 楽園追放と、数のパンデミック
原初的な〈数〉として、我々は〈1、2、たくさん〉を持っている。
そしてそこにはある〈構造〉が備わっている。〈その次の数〉という〈構造〉。〈1〉の次の数は〈2〉という形で、ほかに比べればやや理解の難しい【2】という概念をうまく説明してくれる。
〈その次の数〉という操作は、〈1〉以外にも適用できるだろうか?
もちろん、できる。〈2〉の次の数は〈たくさん〉だ。そして〈たくさん〉の次の数は、〈1〉でも〈2〉でもなく、〈たくさん〉だろう。そのように理解することで、〈次の数〉という〈構造〉は〈1、2、たくさん〉の世界に矛盾も例外もなく適用することができる。数学的な方言を用いれば、それは〈閉じている〉と表現されるだろう。
すべてはきちんと完結している。新たに何かを付け足す必要などないのだ。本来ならば。
〈
〈緑色〉という言葉によって〈あおい〉の意味が分裂したように、〈サピア・ウォーフの仮説〉を素朴に信じるならば、それを示す〈言葉〉を与えられることで我々は新たな概念を認識する。
〈たくさんの次〉はけっきょく〈たくさん〉と同一視されるとしても、そこにはささやかながらたしかな言葉の違いがある。
〈たくさん〉と〈たくさんの次〉。
じゃあ、〈たくさんの次の次〉は? 〈たくさんの次の次の次〉は? それぞれに異なる言葉が用意されることで、我々はいつしか気づくかもしれない。〈たくさん〉のなかにも、グラデーションがあるのでは。いろいろな区別ができるのでは、と。〈たくさん〉のなかのいちばん少ない〈たくさん〉には、もしかしたらなにか別の名前を与えてもいいのかもしれない(我々はそれを〈3〉と呼ぶ)。
きっとその気付きが知恵の実になって、後戻りのできない楽園追放へと至ったのだ。
一度気づいてしまえば、それはもう止まらない。いちばん少ない〈たくさん〉を取り除いた〈たくさん〉のなかの、さらにまたいちばん少ない〈たくさん〉にも名前をつけなくていいのだろうか? そしてその次は、そのまた次は? まるできりがない。このプロセスはいったい、いつまで続くのだろうか?
終わらない。無限に続く。その事実を我々はいまでは当たり前のこととしてとらえている。1、2、3、4、5、とかぞえていくその数字の並びは、永遠に終わらないことを我々は受け入れている。〈次の数〉というアイデアが切り開いていく〈数〉の拡張性は、パンドラの箱のように致命的な概念となる。〈次の数〉が作り続けていく無限の〈数〉、つまり1、2、3、4、5……と無限に続く〈数〉のことを、数学用語は〈自然数〉と呼び習わしている。それがほんとうに〈自然〉なのかどうかは、留保したいところではあるけれど。
もちろん我々は無限にあるものごとを個別に〈具体的〉に理解することはできない。脳に無限の容量を受け入れるキャパシティが存在しないからだ。それなのにその概念が無限に存在することがわかるのは、そのことを〈構造〉をもとに理解しているからだ。そしてその〈構造〉は、〈次の数〉という非常に素朴な形式が与えるにすぎない。しかしその素朴な〈構造〉こそが、我々の〈数〉を作っている。
人工物である〈数〉は、このようにして生み出されていくのだ。
ちなみにその他の〈数〉もやはり、〈演算〉が形作っている。
例えば〈0〉や〈−1〉のような〈数〉は、〈次の数〉という構造を逆転させた〈前の数〉という〈演算〉を導入することで自然数から新たに生み出せる(〈1を引く〉という〈演算〉)。
あるいは〈1/2〉〈3/7〉のような〈分数〉は、〈足し算〉の発展形である〈かけ算〉を逆転させた〈割り算〉という新たな〈演算〉が生み出していく。
分数では表現できない〈√(ルート)〉による〈数〉は、〈x^2(xの二乗)〉という演算の逆演算が生み出す〈数〉であり(〈√2〉とは二乗すると〈2〉となる〈数〉)、またこのルートを〈−1〉という数に適用することで〈虚数〉という新たな〈数〉を生み出す(二乗すると〈−1〉となる〈数〉)。
〈π〉(円周率)や〈e〉(ネイピア数)といった〈超越数〉はある種の〈無限回演算〉を導入することで生み出される……とまあ、細部に立ち入る余裕はないがあらゆる〈数〉は〈演算〉が新たな領域を拡張することで生み出されており、その〈演算〉もけっきょくは〈次の数〉という素朴な〈演算〉の拡張でしかない。〈次の数〉というシンプルな〈構造〉が、まさにすべての〈数〉を生み出している。
ひどい駆け足となったが(ほんとうにひどい)、〈次の数〉が〈すべての数〉を生み出すプロセスは、おおむねこのように概観される。
ちなみに自然数の導入の際、〈次の数〉という操作について無批判に〈無限に続く〉と認めたが、実はこれには反例がある。
〈次の数〉を辿っていっても、無限に増えていかない場合というものを想定することができる。
その〈構造〉は、例えばこのような形をしている。1、2、3……と、その〈構造〉は途中までは通常の自然数と変わらない〈構造〉を持っている。それは10、11、12までは同じように続き、そしてこの〈12〉の〈次の数〉として、再び〈1〉という〈数〉に戻る。
そしてまた1、2、3と続き、12の次に1が来る、終わりない円環をなす別の〈構造〉。無限に回り続ける完結された〈構造〉。
そんなものは特殊な例外的〈構造〉と思うだろうか?
実は我々のごく身近にこの〈構造〉は存在している。きっと部屋を見渡せばかなりの確率で目にすることができるはずだ。そう、〈時計〉が示す時間の世界。これも立派に〈数〉の世界であり、そしてそれは円環をなす〈構造〉がその形を決定をしている(ちなみに数学の世界では時計算とかmod12とかの言葉で大真面目に扱われる)。
このようなわけで、生物学的に自然とはいいがたい〈数〉の概念は、このような〈抽象化〉の結果として構築できることを俯瞰してみた。
もちろん実際の〈数〉の発展は必ずしもこのような〈抽象化〉の問題意識から秩序正しく作られたわけではないのだろうが、こうして整理して理解することもまた、数学的な〈抽象化〉のひとつと思う。
現代数学の父ともいえる伊達男ダフィット・ヒルベルトはこんな言葉を残している。
〈椅子、テーブル、ビールジョッキでも幾何学はできる〉。
点と線と面を扱う幾何学において、大切なのはそれらをつなぐ関係性であって、〈具体的〉にそれが我々の認識する点や線や面でなくてもかまわない。椅子やテーブルやビールジョッキをイメージしても、それらの関係性さえ正しく記述できるのであれば幾何学(的思考)は可能なのだということだ(実際にそんなことが我々凡人の頭で可能かどうかはともかくとして)。
大切なのは〈構造〉であり、〈抽象的〉にものごとをとらえることなのだという数学的発想をサービス精神豊かに表現した言葉なのだと僕は理解している。
長くなりましたが、以上となります。
数学にとっての〈抽象化〉がどのようなものなのか、その雰囲気だけでも感じていただけたのなら、さいわいです。ありがとうございました。
【数学読み物】〈1を足す〉が〈すべての数〉を作る あかいかわ @akaikawa
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