第三章 4

 生徒会室を退出した眞央は、廊下を少し移動して階段を下り、再び廊下を移動して中庭に下りた。魅玖雲先輩が話していたように、萌桃華先輩が露根を枕にして丸くなって眠っていた。まるで猫のようである。近づくと、穏やかな寝息がかすかに聞こえてくる。

「萌桃華先輩、起きて下さい」

 声をかけたがピクリとも動かない。揺らしてみようと伸ばした手は、萌桃華の身体に触れる寸前で停止した。

「肩に触れるだけだから、大丈夫だよな」

 萌桃華先輩については眞央は、まだよくわからないところがあった。異性に肩に触れられて「きゃー」と悲鳴を上げるような恐怖症や潔癖症では無いとは思うが、「人は見かけによらない」というから、断定はできない。それに、そもそも、萌桃華先輩はいつも眠たそうにしているため、話す機会すらほとんどないのである。

「なにか理由わけがあるのかな?」

 思いつく可能性はいくつかあったが、どれが正しい答なのかはわからないし、端的に尋ねてよいものかどうか、繊細デリケートな問題であったり、触れられたくない場合であったことを考えると、ためらわれた。眞央はもう一度声をかけた。

「萌桃華先輩、朝ですよ、起きて下さい」

 上を向いている左の耳が、ピクリと動いた。朝という単語に反応したのかもしれない。

「朝ー、今日は、二回も朝があるの?」

「ありませんよ」

 萌桃華の瞼がゆっくりと開いた。

「あっ、お母さん、おはよー」

「せめてお父さんといってください」

 萌桃華は体を起こすと、正座して三つ指をついて頭を下げた。寝ぼけ眼で。

「おはようございます、お父さま」

 どうやら、萌桃華先輩の父親は厳格な方みたいであるが、家庭事情にまで踏み込むつもりはない。さて、どのように返事していいものかと、眞央は少し思案をめぐらした。

「どうかされましたか? お父さま」

「ええ、はい、じゃない、おれは先輩のお父様じゃありませんよ」

 絢斗先輩とした深い話、魅玖雲先輩との茶番劇。頭の疲労感が半端ではなかったが、眞央はともかく、いまできることだけをやろうと思った。いろいろ考えていたら身がもたないし、元々必死になるほどのめり込んだりはしないのが、眞央の処世術というか生き方であったからである。

 それにしても、生徒会の女性役員はふたりとも個性的だな、と眞央は思った。常になにかを考えていそうな先輩と、なにを考えているのかさっぱりわからない先輩である。ひるがえって男性役員もかわらない。なにを考えているのかさっぱりわからない先輩と、常になにかを考えていそうな先輩である。

「普通なのは、おれだけだな」

 先輩諸氏に対しては厳しく、自分に対しては甘い評価を下した眞央であった。

「萌桃華先輩、わかります? おれです、眞央です」

「眞央? 誰だっけー」

 眞央は頭が痛くなってきた。

「とりあえず、立ちましょう」

 眞央は手を差し出した。萌桃華は体をひねって警戒するような仕草を見せた。

「知らない人には、着いて行ったらいけないんだよ」

 眞央は、小学生と話しているような気持ちになった。

「おれは知らない相手ではありません」

「さっきからオレオレって、詐欺の人?」

「ダメだ、頭がクラクラしてきた」

 眞央はその場に座り込んだ。ある意味、魅玖雲先輩より接しかたが難しく思われた。

「あれ、ひろくん?」

 どうやら、ようやくこちらを正しく認識してくれたようである。ドがつくような近視なのか、それとも、目を覚ましたばかりだから視界が鮮明ではないのかもしれない。眞央は萌桃華先輩の顔を正面から見つめた。吸い込まれそうなほど美しい瞳をしている。その瞳に困惑している自分の顔が写り込んでいるのに気づいて、眞央は我に返った。

「ええ、そうですよ、あなたの後輩の眞央です」

「なーんだ。そうならそうといってくれればいいのにー」

「さっきいいました」

 眞央はやんわりと応えた。萌桃華先輩と話していると、時間の流れが緩やかになっているように錯覚してしまう。その場の雰囲気がガラリと変わるのである。悪意とか憎悪とか嫌悪とか、そのような悪感情とは一切無縁で、相手をまったく不快にさせない。これは、個性というよりも魅力だと思った。

 眞央はそれ以上の詮索はやめて、頭をかいて、目的を告げた。

「みんな集まってますよ、生徒会室に」

「ふぁーい」

 萌桃華はあくびと同時に返事をした。可愛らしい。

「さあ、行きましょう」

 眞央は萌桃華先輩の手を取って立ち上がった。桜の花弁がハラハラと落ちていく。

「もう、花びらだらけじゃないですか。それに草までついてる。あ、葉っぱもだ」

「取ってー」

「できません。おれが手を出したらセクハラになりかねませんので」

「誰も見てないから、いいよー」

 眞央は魅玖雲先輩の台詞を思い出した。あちらの先輩は言葉に裏がありそうで、こちらの先輩は言葉に裏がないように聞こえる。まあ、性格からして全く異なるので、比較することに意味があるのかどうかはわからなかった。

「このまま行きましょう。魅玖雲先輩に払ってもらいましょう」

 眞央は萌桃華先輩の手をひいて、中庭から廊下に上がった。生徒会室は旧校舎の二階にある。急ぐ必要はなかったので、ゆっくりと廊下を歩いた。眞央は少し後ろを振り返った。桜の花弁が、ポツポツと落ちている。

「まるで、ヘンゼルとグレーテルだな」

 とすると、魔女役は魅玖雲先輩だな、と眞央は想像したが、声には出さなかった。声を発したのは萌桃華であった。

「ねえねえ、央くん」

「ん? どうかしましたか?」

「お手洗いに行きたい」

 否やはない。眞央は確認した。

「眠ったりしませんよね?」

 萌桃華は愛らしく小首を傾けた。

「どうだろー」

 駄目だ、ひとりにさせる訳にはいかない。

「とりあえず、お手洗いに入ってください、魅玖雲先輩を呼んできますので」

「はーい」

 萌桃華先輩がトイレに入るのを確認すると、眞央は全速力で生徒会室に向かって走った。ひとりにすると、どこかへ行ってしまう恐れがあったからである。掲示板には「廊下は走らない」と書かれた紙が貼ってあったが、今は緊急時である。許されて然るべき状況である。眞央は生徒会室の前まで駆け続けると、扉を荒々しく開いた。

「魅玖雲先輩!」

「お疲れーって、おいおい、桃華ちゃんはどうした?」

 絢斗先輩に軽く手を突き出して待ってもらうと、眞央は魅玖雲先輩に告げた。

「あの、魅玖雲先輩、萌桃華先輩がお手洗いに行きたいっていったので、中に入るのを確認してから急いできたんですけど、萌桃華先輩を連れてくるのをお願いしてもいいですか?」

「まあまあ、それは大変だったわね。でも、そのまま外で待っていればよろしいのに。なぜわたくしを呼びに?」

「女の子なんで。眠っていたら、手のうちようがないので」

 眞央を見る魅玖雲の表情は、小悪魔そのもののように見えた。

「中蔦くんって、奥手ではないと思っていましたのに、結構お硬いところがあるのね」

「おれのことはどうでもいいので、萌桃華先輩のことをお願いします。それで場所なんですが、旧校舎の一階の教員専用のトイレなんですけど」

 眞央が魅玖雲先輩の表情を窺うと、先輩は眞央ではなく他の誰かを見ていた。視線の先を追うと絢斗先輩に行き着いた。

「南埼くん。お願いね」

「了ー解」

 綺斗はソファーから腰を上げた。

「いや、女の子なんですよ」

「わかっているわ。西科さんのことは、南埼くんに任せるのが一番なの」

 どういう意味なのかはわからなかったが、歓迎式典での生徒会の紹介の際も、眠っている萌桃華先輩を壇上に連れてきたのは絢斗先輩であったことを思い出し、そういうことに決まっているのかもしれないと、眞央は納得することにした。

 絢斗先輩は、背中を見せて軽く右手を上げながら生徒会室から出ていった。その様子を扉が閉じるまで両目に映すと、眞央は息を整えるために、何度か深呼吸してからソファーに深々と腰掛けた。

「ふうー」

 眞央は息を吐き出した。飲みかけのティーカップに手を伸ばして、喉を潤した。

「はー、美味い」

「あら、そのティーカップ、わたくしのですわよ」

 眞央はむせ返った。

「ふふふ、冗談よ」

 眞央はハンカチで口元を押さえて、魅玖雲先輩の頭と腰の辺りに目をくれた。なにもおかしなところはなかったが、見えない尻尾と角を隠しているに違いない。

「いつかその尻尾、掴んでヒィヒィいわせてやる」

 眞央の思考は、急激に幻想的ファンタスティックに傾いた。そして、急速に現実世界リアル・ワールドへ戻された。

「中蔦くん。わたくしの体を食い入る様に見つめて、どうかされたのかしら」

 眞央と目が合うと、魅玖雲は右手の人差指で、唇を左から右へなぞった。最後に、舌先を少し出して、唇の端を濡らす。なんか、意味なくエロい。

「えーと、尻尾がないかなーと思っただけです」

「尻尾? なにかのインゴなのかしら」

「確認しますけど、いまのインゴって、『隠す』って漢字ですよね?」

「他にあるのかしら?」

 眞央は語るに落ちた。

 そもそも、眞央は口下手ではない。同輩であれ先輩であれ後輩であれ、さり気ない会話はできなくはない。高一と高三の違いなのだろうか。それとも、この魅玖雲先輩が別格なのだろうか。人付き合いは勝ち負けではないとは思うものの、どうも、目の前の先輩には楽をして勝てる気がしなかった。

「なにか弱みを握れれば」

 眞央の思考は道義上の問題がはらむ方向へとシフトしそうになった。両手で自らの頬を叩いて、その考えを払い除けた。

「とりあえず、逃げよう」

 眞央は潔く敵前逃亡することに決めた。ティーカップが空になったのはとても良い口実となる。さり気なくソファーから立ち上がり、ティーカップを手にして、眞央はティーテーブルに向かった。火を使うのは危険であるため、電気ケトルでお湯を沸かすようになっていた。ティーポットにひとり分のお湯を注ぎ、ストレーナーをティーカップに置き、しばらく放置する。頃合いを見計らってティーポットを傾ける。芳醇な香りが鼻孔を微かにくすぐる。眞央は紅茶を少し口に含んだ。喉ごしもまったりとしてなんともいえない余韻がある。やはり、温かい飲み物といえば、紅茶に勝るものはない。個人的な見解であることは重々承知しているが、誰がなんといおうとその考えは変わらない。

 ティーカップとコースターを手にした眞央は、さて、どこに座ろうかと室内を見まわした。ソファーに腰かけている魅玖雲先輩が秋波を送ってきているように見えた。眞央は見なかったことにして、すぐに除外した。生徒会長の机には昂師先輩がいる。相変わらずノートパソコンとにらめっこしている。その時、はたと思い出した。眞央は、デスクトップパソコンが置かれているテーブルに向かい、椅子に腰を下ろした。

「さてと」

 眞央はサイドテーブルにコースターとティーカップを置くと、印刷していた書類を手にした。

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萬倶楽部のお話(仮) きよし @kiyoshi_102-KY

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