第三章 3
チャイムが鳴った。眞央は室内の時計をちらっと見た。針は十六時五十分を指している。掃除の時間が終わった合図であろうと思われる。
「うーん」
眞央は大きく伸びをしてから首を左右に傾けて凝りをほぐした。プリンターで印刷した数枚の用紙を手に取り、サラッと黙読して要点を頭に入れ、二度目は注意深く読み込み、思案を巡らした。
しばらくすると、生徒会室の扉が開いた。
「みなさま、ごきげんよう」
嫋やかさを絵で描いた見本のような女生徒が姿をみせた。そちらに目を向けるまでもなく、相手が誰かはわかった。眞央は魅玖雲先輩に軽く会釈して、反射的に挨拶してしまった、「ごきげんよう」と。その為、えらいことになってしまった。
「まあ、中蔦くんたら、わたくしのことを馬鹿にしているのかしら?」
魅玖雲は少し気分を害したように麗しき唇を尖らせた。眞央は首を振って言葉を継いだ。
「いえ、すいません。ちょっと考え込んでいたので、返事がなおざりになってしまっただけです。ん? おざなりかな」
「本当かしら」
「ええ。いわゆる条件反射というやつです。無意識なので、もちろん他意はありませんよ」
やわらかい口調で告げたが、魅玖雲先輩が許してくれたかどうかはわからなかった。
「まあいいわ、信じてあげるわ」
胸をなでおろした眞央であったが、魅玖雲の次の言葉で、複雑な表情と心境に至ることになる。
「にらめっこに勝ったらね」
「……あの、おれ、遊ばれてます?」
「当然よ。にらめっこって、真面目にやるお遊びじゃないかしら?」
魅玖雲先輩の言葉を聞いて、眞央は唖然として、すぐに二の句が継げなかった。
魅玖雲は、なにかにつけて眞央をからかう言動をとる。三月までは中学生であった子供相手の軽口のつもりなのかもしれないが、眞央はそんじょそこらのお子ちゃまではない。母を幼くして亡くし、それなりの苦労もしてきたが、肩肘張って生きてきた。幼かったのである。自分ひとりの力など高が知れていることに気づいたのは、中学に入ってからである。そうしてたどり着いたのが、無理をしない省力的な生き方であった。もう、大したことでは動揺しなくなっていた。
眞央は、二歳しか違わない魅玖雲先輩のことを好意的に受け止めている。どのようなときにも慌てたりすることがなく、常に落ち着いて、言葉使いも丁寧で、機知に富み、すれ違う人が必ず振り返るような美人で、これといった欠点が見当たらない。ただ一点を除いては。しかし、その欠点でさえ、優れた個性と捉えていた。魅玖雲先輩の落ち着き様は、眞央のそれの上位版のようであった。眞央は、手本として有為な規範を魅玖雲先輩の中に見出していた。それを取り入れてみようと思った。
「少し、ゆっくり目に話そう」
最初は意識的でいい。いずれ血となり肉となる。
「にらめっこですね。わかりました、いいでしょう。やりましょう。勝ってみせましょう。信じさせてみせましょう」
眞央が腕まくりして、更に二、三度腕を振り回した。そんな眞央を目にして、魅玖雲は艶やかな笑みをその可憐な唇に漂わせた。
「ふふふ、わたくしに勝負を挑んだこと、後悔させて差し上げますわ」
「返り討ちにしてあげますよ」
眞央はゆっくり返答した。
「南埼くん。審判、お願いね」
魅玖雲は綺斗を立会人に選んだ。
「了ー解」
綺斗は立ち上がると、両者の間に立って、まずは握手をさせた。そして、勝者の願いをひとつ聞くことをふたりに了承させた。
なんだか、生徒会室は不思議な空気に包まれてしまった。昂師先輩は見て見ぬふりをしているようだ。
「それでは」
綺斗は咳払いした。
「赤コーナー、生徒会の美姫、北ー城ー魅玖雲ー」
拍手が聞こえた。どうやら生徒会長のようである。目はノートパソコンに注がれているが、耳は三人の
「青コーナー、生徒会のパシリ、中ー蔦ー眞央ー」
拍手が聞こえた。やはり生徒会長のようである。そんなことより
「にーらめっこー、無制限ー、一本勝負!」
綺斗はノリノリである。
「
眞央は秒殺された。
「あのう、それで、おれはどうすればいいのでしょう?」
眞央は正座をして、仁王立ちしている魅玖雲先輩の表情を下から窺った。魅玖雲先輩は嫣然と微笑んでいる。
女王さまと呼ばされるのだろうか。それぐらいなら、別に構わないんだが。眞央は仮面をつけて鞭を持った魅玖雲先輩の姿を脳裏に浮かべた。不謹慎かもしれないが、すごく似合っていると思った。
「揉んでちょうだい」
主語がない。瞬間、眞央は破廉恥な妄想を思い浮かべてしまったが、すぐに頭を振って追い出した。
「どこを、で、しょうか」
「中蔦くんが想像したところでかまいませんわ」
「それはできませんよ」
「どうして?」
「そんないやらしいこと、できません」
眞央は、いわなくてもいいことをわざといった。
「まあ、一体どこを想像したのかしら」
魅玖雲先輩は、ここは攻め時だと思ったのかもしれない。畳みかけるように口撃してきた。
「中蔦くんのエッチ」
魅玖雲先輩の口から発せられた蠱惑的な「エッチ」という言葉が、眞央の頭の中で、
「ほーら、どこなのかしら」
魅玖雲が必要以上に胸を張っている。眞央は下を向いて目頭を押さえた。
「いいです。もう、信じてもらえなくても」
眞央は自棄になったように見せかけた。
「ふふふ、冗談よ。な・か・つ・た・くん」
百歩譲っても、とても冗談には聞こえなかった。
落ち込んでいる眞央の耳元に、魅玖雲は口を寄せて、小声で囁いた。
「みんながいないときなら、いつでもかまわないわよ」
眞央は囁き返した。
「そんなことを軽々しくいわないほうがいいですよ? おれ、本気にしますから」
「まあ」
魅玖雲は意外な反応に目を丸くした。
「中蔦くんって、草食系かと思っていましたのに、案外肉食系だったのね」
「どうでしょうね。本当は余裕が無く、それを悟られないように、見せかけているだけかもしれませんよ」
眞央は曖昧な返答をした。
「ふふ、役者なのね」
魅玖雲の感想を、眞央は否定した。
「違いますよ、これはおれの素の姿です」
ふたりとも、多少のことでは取り乱したりはしないようである。
眞央と魅玖雲の
「
魅玖雲は頷いた。
「ええ、いつものところで丸くなってましたわ」
「央ちゃん、ちょいと行って連れてきてくれるか?」
綺斗が眞央に話を振った。気を使ってくれたのだろうか。だとすれば、その行為は、絢斗先輩なりの優しさだと思った。
「はい。わかりました。いつものところって、中庭ですよね?」
「ええ、そうよ」
眞央は立ち上がると、魅玖雲先輩に頭を下げてから部屋を出ていった。その姿がドアによって遮られるのを待ってから、綺斗は魅玖雲先輩に声をかけた。
「魅玖ぱいせん、あんまり央ちゃんをからかわないでやってくださいよ」
魅玖雲はティーテーブルに向かった。
「中蔦くんの反応が目新しくて、つい、ね」
「あんまりしつこくすると、辞める、とかいって、駄々をこねるかもしれませんよ」
「そうさせないのが、教育係の南埼くんの役目ではなくって?」
魅玖雲は紅茶の抽出を待つために、綺斗と向かい合うようにソファーに腰かけた。
「だからこそ、助け舟を出したんですよ、柄にもなくね」
必要はなかったかもしれないが、という言葉を、綺斗は口にはしなかった。
「眞央なら大丈夫だ」
今まで黙っていた昂師が厳かに断言した。いつの間にか、眞央が操作していたデスクトップパソコンの側にいる。モニターと印刷されていた用紙を見ている双眸には、興味深そうな色がたゆたっていた。
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