〈後編〉
「あのな、せやから……」とか「あのな、そしたらここに、おってん」とか「せやねんけど」とか。とにかく「あのな」が多い。
見ると、噴水の前にこんな朝早く、父娘と思われるような二人がいた。いや、父娘ではない。男はなっちゃんと呼んでいるけど、父親ではなく、ちょっと知り合いのおじさんっぽい。娘と思われた子の方も「せやからー、山野さんなぁ、可哀想思わんのんか?」と言ってるし。ん? 着ているスウェットにYUKI KISHITANIとロゴが。 あの子がもしかして岸谷雪? いや、まさか。そんなわけはない。彼女はもっと美少女のはず。あんなやせっぽっちのガリガリで黒眼鏡かけて、キーキー喋っている子のはずがない。でも顔付きだけは似ている。
山野と呼ばれた男は用事があるようで、小走りに向こうへ行った。その瞬間、こちらを向いた少女と眼が合った。とっさに、今までお喋りだった少女の顔に恐怖の表情がよぎった。
オレは、その子の正体に気付いた事を隠さなければいけない使命感を持った。
「あの、この公園にいる生き物、観察に来たんだけど、池ってどこかな?」
いや、ますます怪しい。
「あの、高校の生物部でさ……」
「高校の生物部がここに?」困ったような感じでその子は訊く。
「いや、オレは田舎の高校に通ってて、たまたま親戚の結婚式で東京に来たら、大きな公園があるって聞いたから、どんな生き物がいるんだろうって散歩がてら来てみたんだ」
その言葉に雪と思われる少女はホッとした様子だった。
「池やったら、あっちやで。生き物はな、亀はおるん知っとるけど、他は知らんで」
「いるんだ。亀が! いや、この公園で飼ってる生き物でなくてもいいんだ。カエルとかアメンボとか、そういう自然に生息している生き物を観察するから。ありがとう」
そう言って池の方へ向かおうとした。何とかこっちが彼女の正体を知っているのを気付かれずに済んだ。……ってなんでこっちが気を使わなくちゃいけないんだ。第一、もしこの子が雪なら、尾関が言ってた彼女のキャッチフレーズ、「雪の世界から来たプリンセス」は真っ赤な嘘じゃないか。雪の世界と言うから北国かと思ったら、関西出身っぽい。
その時、雪と思われる少女はキーキーした声でオレを呼び止めた。
「待ちいや! カエルゆうた?」
「それが何か?」
「カエルならおるで。ここに」
「はあ?」
「この石のベンチに干上がりそうになって、おるんや。それでさっき、マネ、いや知り合いの山野さんに言うたんやけど、そんなん知らん、気イせんでええ、ゆうねん」
彼女は石のベンチにオレを案内した。そこには確かにちっぽけな子どもカエルが弱ったように動きも出来ず、じっとしていた。
「きっとあれや。ウチら来る前に小さい子とお母さんがおったんや。池からその子が連れて来たんやな」
オレは、そのカエルの子をそっと指で摘んで手のひらに乗せた…弱々しい動きがある。そのつぶらな眼でカエルはオレの方を見た。そんな様子を雪らしき女の子は心配そうに見つめる。オレは、なるべくそっちを見ないようにした。好きとかそんな感情を持ちたくなかった。どうせ違う世界の人だ。ただ、左の眼の
「オレ、このコ、池に戻して来るよ」
「そうか? ほな良かったわ。ウチ、ここ動けんのや。動かんと、喋らんとここにおっときって、言わはったから」
「喋ってもいけないって? 人権侵害じゃない?」
「いやあ、ウチの事、思うてやから。小さい頃から喋ったらウルサい、喋り方が人と違うってよう言われよったから」
何だか寂しそうに雪は言う。
オレは、さっき、喋らなかったらもっと可愛く見えるだろうにと思った事を反省した。
「そっか。だけどもしここを離れていいって言われてたら、カエルを持って池に放すつもりだったの? たいがいの人は、カエルを持つの嫌がるけどな」
「それは全然平気やわ。小さい時から虫とかも平気で触れたわ。ダンゴムシとか」
「へえ、虫愛づる姫君みたいだな」
「虫めづ……何?」
「虫愛づる姫君だよ。古文で習わなかった?」
「ウチ、勉強ようせんのや。勉強に限らず本ていうもんが苦手やさかい」
ここでまた、誇大広告発見。白樺の木にもたれた雪が手に持っていた外国文学っぽい装丁の本は何だったんだ?
「それにしてもアンタ、ウチと話しとって気分悪うならんの?」
「え? なんで?」
「ウチと話しよったら調子狂うって人多いんやけど」
「気にするなよ。人それぞれだから。だからさー、虫愛づる姫君みたいなもんさ。人それぞれ好きなもん違うしさ。例えば……」
オレは、友達の柊人の話をした。カエル王子の話は、カエルより王子が
雪は、どうにかしたら自分が馬鹿にされていると感じそうな話なのに、すごく神妙に聞いて、それから満面の笑みを浮かべていた。
「へえ、そんな友達がおるんやな。えーなあ。楽しそうやわぁ、生物部」
「じゃ、このコが干上がらないうちに池に返して来るよ」
雪も付いて来たそうにその場で足踏みをした。
「君はここにいなよ。動かず待ってなって言われたんだろ? きっとその場を離れちゃ困る人がいるんだよ」
雪はこちらを気にしながらも、そこにとどまった。
オレは走って、池に向かった。思ったよりずっと大きな池だった。岸の濡れた岩の上にカエルの子をそっと置くと、首を振りながら場所を確認している様子。そしてピョンピョンと飛び跳ねながら少し岩の上を動くと、次に大きな跳躍で池の中に入っていった。とりあえずあのカエルのコは大丈夫そうだ。
そして振り向くと、雪のいる公園の裏手へと走った。ところが元いた場所に、雪は一人ではなかった。さっきの山野という男や他にも五、六人のスタッフらしきユニフォーム姿の男女が彼女を取り囲んでいた。仕事の話をしているらしい。
僕は回れ右をしてそのまま、振り向きもせず、池の方へ戻った。「ばいばい、カエルのお姫様」と心の中でつぶやきながら。
その後、オレは池で亀を見たり、鯉のいるスペースや
それから公園を出る時におもて側が騒がしいので、サイン会が始まった事を知った。
その後は、普通に夏休み後半の補講が始まり、二学期が始まり、オレの生活に変化はなかった。柊人からは案の定、都会の公園の池で生き物を見た経験を羨ましがられた。柊人がその一年半後に関東の大学の農学部に入り、水圏環境の研究に勤しんだのと、この事は無関係ではないと思う。
オレは、アイドルの女の子とほんの僅かな時間を共にした事をその後、誰にも話さなかった。秘密にしてほしいだろう事を得意げに話すものじゃないし、第一、あの子は雪であって、雪でない。
帰宅し、直ぐに本屋のタレント名鑑で確かめたところ、岸谷雪の本名は、名字は伏せてあったが、下の名がなつみである事が分かった。そして大阪府出身である事も。大きめの写真で彼女の左目の下にある泣き黒子も確認できた。これで間違いない。でもだからと言って岸谷雪のファンにはならなかった。なぜなら素顔で過ごしてない事が分かっていて、仮面の方を愛するのって何かが違っているように思えたから。
やがて時が経ち、オレには愛する人が出来て、一緒になったけど、その人は何回目かに会った時、背が高いからフェミニンな服装はできない悩みを明かした。たぶんそれが好きになるきっかけの一つだった気がする。
そして大分年月が過ぎた後で、何となくネットサーフィンをしていたオレは、岸谷雪のウィキペディアを発見した。とても短いウィキペディアだった。デビュー時に雑誌の一面を飾った写真で多くのファンを獲得した事、期待されつつもデビュー後二年半で引退した事。その後ペットのグルーミング関係の専門学校に入った事、一般人と結婚し、芸能界とは無縁の生活を送っている事。それを読み、あの子は、いつかのカエルの子のように、自分の居場所を見つけたんだなと感じた。
そして今でも東京の話題で例の公園の名を耳にする度、郷愁を感じてしまう自分がいる。関東出身でも、そこで青春時代を過ごしたわけでもないのに。いや、ちょっとした青春のひと時は過ごしたかもな。
〈Fin〉
カエルの子 秋色 @autumn-hue
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