カエルの子

秋色

〈前編〉


 それはまだ、東京なんて土地の名前に何の憧れも、もちろん郷愁も感じなかった頃、はるか十代の頃の話。


 ***


「カエル王子の話ってさ、カエルより王子がうえって前提の話だよな、絶対。なあ、寛也」


 高二の一学期の終わり頃、唐突に柊人しゅうとが言った。窓の外には夏らしい真っ青な空が広がっている。

 柊人とオレは高校で、同じ生物部に入って仲良くなった。

 この柊人は、ある意味、生物部にふさわしいようなカエルオタクだった。近くの田んぼなんかに行ってはカエルを観察していたし。オレにとっては、勢いで入った生物部。中学時代に、高校の生物部が舞台の映画を観て、それで入ろうと思ったに過ぎなかった。

 柊人は手のひらにちっちゃなカエルを乗せて、指で撫でては愛しげに見ている。その様子を見ていると、確かにカエルは可愛くも見える。だが、家の近くが田んぼだらけのオレにとって、カエルというのは、夏の夜になると大合唱が始まり、騒音の発生源になる迷惑な生き物としか見られなかった。睡眠を妨げる厄介な存在としか思えない。


 そしてカエル王子の話。

 カエル王子というのは、グリム童話の一つ。正しくは「カエルの王様」と言うのかな。池に落ちた毬をカエルに見つけてもらった王女様。その見返りにカエルと家で一緒に暮らす事を要求されるも、カエルを毛嫌いする王女様はついにキレて壁にカエルを叩きつける。その瞬間、カエルはイケメン王子様に。王子様は魔法でカエルに変えられていただけで、壁に叩きつけられた事により、元の姿に戻ったのだ。カエルだった王子様と王女様はその後ずっと幸せに暮らした。



 これは何とも酷い話。正直なのがいいという教訓なのか? とりあえずカエルオタクの柊人が抗議したくなるのももっともな話。でもとりあえずカエルは仮の姿で、王子は王子であるのが正しく、それが居心地の良い居場所であるには違いない。


 そんな話をしているオレ達の横ではクラスメート達が、それぞれの好きなアイドルの女の子の話で盛り上がっている。

 校則では禁止されているグッズや雑誌の持ち込みも、その頃では普通に教室で見かけられていた。これが普通の男子高校生なのか。ちょっと不良がかったやつも真面目そうなやつも、好きなアイドルっているみたいだ。

 クラス一の秀才で通っている隣の席の尾関くらいは全くそういうのに興味ないだろうと思っていたら、世界史の資料を入れたクリアファイルの背面に、雑誌の切り抜きを入れている。ハイネックの白いセーターを着た少女が一冊の本を抱え、白樺の樹にもたれている写真。少女は、儚げにぼんやりと正面を見ている。あれは確か、岸谷雪って歌手。それくらいはこんな自分でも知っている。大御所のミュージシャンが新人歌手のデビュー曲を書き下ろした事で話題になっていたから。どれだけ事務所は期待かけてお金を払ってんだか、とちまたで囁かれていたから。

 それにしても神経質でイヤミで友人も少ない尾関だけど、ああいう女の子はタイプなんだな。一度その写真の事を尾関に触れると、止まらない位の勢いで彼女の魅力について話し始めたので、驚いた。



 残念ながらオレは、両親も姉貴もそういうのに全く興味のない、スポーツ番組好きだったから、家でそもそも芸能番組を見なかった。そういうわけで、まずアイドルについての知識が少ない。父親がそういうのが好きでない。子どもの頃、ドラマか噂で、ああいう可憐に見えるアイドルの女の子は、舞台裏では性格が悪く、煙草を吸ったり、付き人を平気で顎で使っているとか聞いたらしい。ガセかもしれないのにそんな話をすっかり信じていた。

 クラスで話題についていけないオレは、いつも途中でパスした。やっぱり柊人のカエルの話の方が落ち着く。




 ***



 高二の夏休みが始まった。夏休みと言っても受験に向けた補講だらけで、学校に行く事の方が多いのだが。この夏休みにはしかし、一つの楽しみが待っていた。東京に住む親戚の結婚式に呼ばれ、母親や姉貴と一緒に上京する事。

 東京に一日以上行ったことのないオレは、初めて見る首都の街に胸が騒いだ。着くとその日はお台場に行き、テレビ局のグッズを買ったり遊戯施設で遊んだりした。次の日、母さんと姉貴は有名なデパートに買い物に行くと張り切っていたけど、オレはデパートに興味はない。ニュース等で聞き覚えのある大きな公園が周辺にある事を知ったので、そこを朝プラプラ散策して、後で母さん達と合流する事にした。もしかしたらその公園で、あとで生物部で話題にできるような生き物に出会えるかも、と期待して。

 公園は七時から開園となっていた。公園に開園時刻がある事からして、田舎者には驚きだった。ところがその公園に着き、入り口を探そうと歩くと、公園はこちらの予想していた大きさより遥かに広大で、柵が続くばかりでなかなか入り口に辿り着かない。

 そのうち、若者達の行列が横に出来ていた。公園に何の行列だろうと不思議に思い、見ると、若者の大半はオレと同じ年代の男子。しばらく行くと、並んでいるやつらをチェックしているスタッフらしき人物がいた。その男は腕章をし、プレートを持っていて、そのプレートには「岸谷雪サイン会の参加証を持参の方限定」と書かれてあった。

 あの尾関の好きなアイドルの女の子だ、と驚いた。あの白樺の樹にもたれる可憐な姿が目に浮かんだ。都会というのは流石に有名人に出会えるチャンスが多いんだなと変な納得の仕方。もちろん参加証なんて持ってないし、そもそもファンなわけでもないけど、遠くから見てみようかと思った。正直、尾関がファンだと知って、そういう子に憧れを持っているという事自体が何だかほんのり青春っぽくて羨ましかった。


 とにかくオレは公園の入口を探していた。でもどうやら方向に誤りがあったみたいで、どうにかこうにか裏口から入れたのは三十分も経ってからだった。ふうっとため息をつくオレ。でもすぐに緑の濃い樹木で覆われた敷地を見て、心に生気が蘇った。かと思うとカエルの鳴き声の雑音。……ではなく、キーキーうるさい女の声。

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