2 陽妃
私の顔についてはもう触れないでほしい。自分がいちばんよく知っていてよく分かっているのだから、もうこれ以上追撃しないでもらいたい。そう思うのに毎朝開口一番母親は「そのニキビがなかったらねえ」って嘆く。
「
乱暴に母親を送り出して、私は髪の毛をまとめてから、洗面台の前に立ち、綺麗に手を洗った。それから「ニキビケア」の文字が躍るチューブを取り出して、その適量をネットで泡立てる。ふわっふわに泡立てた洗顔フォームを顔に塗り広げて、指の腹で触れないように擦る――母親に嫌と言うほど教えられた顔の洗い方。
私だって、好きでニキビ噴き出してるわけじゃない。
下手に触るとはじけて面倒くさい、治るまで時間がかかるし、何より醜い。誰がこんなもの好きで顔につけてるなんて思うんだろう。
学校でのあだ名がニキビだってことをお母さんは知らない。知らせるつもりもない。知ったら面倒くさいことになるのは見えているし、私は目立ちたくない。……モンスターなペアレントを起こすつもりは毛頭ないから。
きれいに洗った顔の、まつげから水滴が落ちる。しぱしぱと何度も瞬きして視界をクリアにしてから、手探りでタオルを探して顔を拭く。ニキビを潰さないように。そして明日になったら朝霧かなめみたいなつるつるの顔になっていますようにと願いを込めて。
ニキビは消えない。当たり前だ。
「……あー。消えてくれ」
自画像を描くときに、ニキビを消してしまえたらいいのになと思う。でもニキビはモデルである私の顔の上にくっきりはっきりと鎮座しているから、私はそれをそのまま写し取らざるを得ない。描かざるをえない。そこにあるものをないものとして描くことは私にはできない。
そうして描いた暗そうな女の自画像は、開け放った窓際に立ち、カーテンのつくる陰影の中でうつむきがちに、恨めしそうに世界を睨んでいて、それがなぜかめちゃめちゃウケて、結構いいところまで行ってしまった。題は「トウシン」。にきびの目立つ頬が、淡い陽光に照らされて醜いのに――どういうわけだか美術界は両腕を広げて私の鬱屈を受け止めてくれた。
そういうところでしか、私は息をできないのかもしれない。
出かける前に、私は、鞄の中身を確認する。
名前の書かれた教科書とノート。「2−A・
私は生まれ変わったらぜひとも
思考が逸れた。
……必要なものしか入っていない無地のペンケース。キャップをつけた鉛筆が二本、シャープペンは一本。指定されて仕方なく持ち歩いてる赤ペンと青ペン。ちいさくなったmonoの消しゴム。あとは……。
英単語帳、宿題のプリントをまとめたファイル、……とここで私は一番大事なものが鞄の中に入っていないことに気づいてしまう。
私の「小さいほう」のスケッチブックがない。
「うそうそうそうそうそどこでなんで」
私はもう一度確認作業を繰り返した。教科書ノートペンケース、でもどこにも挟まってない。ない。私のスケッチブック。
記憶を巻き戻していく。昨日の夜は触っていない。何も描いてない。朝霧かなめに遭遇して後つけて見つかって逃げ帰ってきた、あの一連の流れの中でへとへとになってしまって、宿題をこなしてご飯をたべてお風呂に入ったらもう眠くて、あとの記憶がない。だから触ってないはず。……じゃあどこで? 学校?
「学校ではあったよなぁ……?」
大きいスケッチブックは別にみられても構わないからロッカーに置きっぱなしにしているのだけど、「小さいほう」は別だ。あれは私のお気に入りの風景や人やものをちょっと書き留める時に使うための……。
「あ」
そこで私は最悪の可能性に思い至る。
「お、落とした……? あの時……」
『何か用?』
『ひいやあああ! 出たああ!』
確かあの時、朝霧かなめは私がぶちまけた鞄の中身を拾ってくれて……拾ってくれて?拾ってくれたの? 朝霧かなめが? あの手で? あの髪の毛掻き上げてた手で? ハートマーク作った手で?
私は脊髄反射でバッグの中に頭を突っ込んで、大きく息を吸い込んだ。すーはー。でもそこに「小さいほう」のスケッチブックはない。私はしばらくあるかなしかの残り香を堪能したあと、思いっきり顔をあげて叫んだ。
「あああああ最悪! 最悪最悪! もおおおおお」
そういえば、朝霧かなめは「ちょっと待って」と言っていたじゃないか。
……ひょっとしてスケッチブックのことだったんじゃないか。
「ちょっともおどうすればいいの助けて神様……」
問題なのは、「小さいほう」のスケッチブックは、朝霧かなめに見られたらヤバイものしか描いてないことだ。ああいう朝霧かなめとかこういう朝霧かなめとかをふんだんに描いていた……ことだ。
私の目の前はめまいでも起こしたかのようにぐるぐる回っていた。
「いやでもワンチャン見てない。そうだ見てないかもしれない。他の人が拾ってくれたかもしれない。いいほうに考えろヨーキ。そうだ、ネガティブはだめ」
遅刻する。長いこと染み付いた習慣のおかげで時刻を確認した私は、目ん玉がぐるぐるしたまま戸締りを済ませ、鍵をかけて家を出た。
目ん玉がぐるぐるのままで受ける授業の半分も頭に入らないのは明らかだ。私は小さな可能性に賭けて机の中をまさぐったり、授業と授業の間に心当たりの場所を漁ったのだけれど、あの「危険物」はどこにもなかった。当たり前だ。あの小さなスケッチブックは取り扱い注意の品物なのだからおいそれと鞄から出したりしない。
出たとすれば、鞄をぶちまけてしまったあの場所に。
「なにかミラクルが起きて、交番とかにとどいてないかなぁ……」
「よーき、何したの」
机に突っ伏して呻く私を、見かねたミコちゃんがぐしゃぐしゃと撫でまわす。
ミコちゃんっていうのは、軽音楽部でバンドを組んでて、ベースをやってるかっこいいクラスメイトだ。なんで私みたいな陰キャに絡んでくるのか全然分からない。わざわざ美術部室に来てまで。
「今日も、あー、あさ、……なんだっけ忘れた、その、読モの推しが尊いの? また世界が始まった系?」
ミコちゃんは優しいので私の話を沢山聞いてくれる。朝霧かなめのことを打ち明けることができたのもミコちゃんだけだ。
「今日は世界が終わるところ……」
「あんたの世界って、終わったり始まったり忙しいよね」
ミコちゃんは前の席に腰かけて、煙草に見えなくもない棒つき飴をぺろぺろ舐めていた。私はミコちゃんが本当に煙草を吸っていることを知っている。でも誰にも言わない。
「でも、そんなもんでしょ、世界って」
「言えてる」
「簡単に始まったり終わったりするのです。恋とか愛とか推し活とかで」
「あ、そういえば、別れた」
「えっ? この前の野球部の人?」
「違う。それ前のカレシ。昨日別れたのは大学生。つまんねぇ男だったから切った」
「ほ、ほあー」
ミコちゃんは、さっぱりしている。過去の恋愛を引きずらない。
「やっぱ、女ってさぁ、」ミコちゃんは諦めたように、煙草でも吸うみたいに飴の棒を指で挟みこんだ。「男にとっては女でしかないのかね」
「え? どういうこと?」
「――ヨーキにそんなことわからせようとする男が出たらあたしがぶっ殺すから大丈夫、ごめん、忘れて」
ミコちゃんは私の頭をぐしゃぐしゃやった。ショートカットだから乱れても整えるだけなのだけど、ミコちゃんはやたらこれをやりたがる。癖なんだろう。
「ていうか、外騒がしくない?」
ミコちゃんが外を見るから、私も外を見る。放課後の校門前は人がまばら――のはずなんだけど、やたら騒がしいし、人も集まっている。現在進行形で。
「なに?」
ミコちゃんが席を立って目をこらす。その時、だるい空気の漂う美術室に、覇気に満ちた声が響き渡った。
「N女の読モやってるっていう美少女が来てるぞ!
「えっ」
私は力なく曲がった指で、自分を指さした。「私? ですか?」
「そうだよ、要。お前に用があるってさ! 伝えたからな!」
叫んだ野球部っぽい男子はミコちゃんを見るなり顔をしかめて逃げるように去って行った。
「……知り合い?」
「忘れた。何番目かの彼ぴっぴだったかもしれない」
現実逃避の問答すら、遠く感じる。
朝霧かなめが会いに来た?
無意識に、両手がぶるぶる震え出した。
わたしのかなめ 紫陽_凛 @syw_rin
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