雨降って地固まらず、水溜まり

石衣くもん

 私は細かいことが気になる女です 。決して潔癖症や几帳面なわけではありません。そういう方は、全てにおいて徹底的な拘りがあるのだと思いますが、私は部分的な潔癖症と言えばいいのでしょうか。

 ある特定の細かいことだけが目についてしまうだけで、物事の隅々まで気を巡らせて、全ての事象の細かいところまで目が行き届くわけではないのです。


 例えば、書籍が作者名のあいうえお順で並んでいないと落ち着かないとか、テレビのリモコンさえ置く場所がミリ単位で決まっているとか、そういうことではありません。たまに四巻の横に八巻が並んでいることもあるくらいです。

 ただ、購入する本には必ず帯が付いているものを選んだりとか、本棚に並んでいる本の帯が上にずり上がっていたら、全て同じになるように直したりとか、そういった細かい独自の視点での拘りを持っていて、その拘りに関しては思惑通り正さないと、我慢がならないのです。


 幼い頃からそうでした。塗り絵でクレヨンが絵からはみ出しているのは気にならないのに、その絵を線に沿ってハサミで切るときは、少しのズレも許せないし、ちょっとでも失敗したら途端にやる気をなくすのでした。それらは、本人にとっては一大事なのですが、周りからすれば全く気にならず、気付きもしないようなことばかりです。

 そのせいで誰に訴えても共感を得られず、いつも


「それがどうかしたの?」


と言われることに嫌気がさして、いつしか誰かに相談することも止めてしまいました。


 前の夫と別れた原因も、同じようなことです。彼はとても生真面目な男でした。それこそ、リモコンを置く位置も口喧しく言う人でした。友達に前の夫との思い出を話すと、大抵


「別れて正解、よく結婚したね」


と言われました。友人達が口を揃えて気味悪がったエピソードは、彼が生粋のマザコンだった話でした。御年三十四歳の彼が母親を「ママァ」と呼び、六十四歳の義母が彼を「のんちゃん」と呼ぶのです。

 この幾人もの友人女性を震え上がらせた件こそ、私が彼と離婚しようと決心した理由でした。

 ちなみに私は彼がマザコンだったことはそんなに気にしたことはありません。「ママァ」と呼ぶ彼を初めて見たときは、さすがに心の中で


「まじか」


とは思いましたが、それ以降は別に何も感じませんでした。

 ただ、彼のことを義母が「のんちゃん」と呼ぶことは気持ち悪くて仕方なかったのです。なぜなら元夫に「のんちゃん」の要素がなかったから。元夫の名前は克希と書いて「かつき」と読みます。長らく「のんちゃん」の意味がわからずモヤモヤするタイプの気持ち悪さだったのですが、私達夫婦に娘ができた時に「のんちゃん」の由来は発覚し、理解できないタイプの気持ち悪さに変わったのです。

 私達の娘は彩希と書いて「さき」と読みます。その名前を見た義母が


「まあ! 良い名前じゃない。のんちゃんの『のぞみ』の字を使っているのね」


と言った瞬間、やっと「克希」の「希」を「のぞみ」と読んで「のんちゃん」なのだとわかったのでした。他の人から見たら、そんなに気になることではないのかもしれません。あだ名というのは得てしてこういうこじつけからできるものです。

 しかし、自分達で考えた我が子の名前を、わざわざ違う読み方にして呼ぶ、その思考回路が私にはどうしても理解も我慢もできませんでした。

 このままでは、彩希だって「あやちゃん」とか、それこそ「のんちゃん」なんて呼ばれてしまうかもしれない。それは私にとっては耐え難い恐怖でした。大袈裟だと思われるかもしれませんが、私にとっては大事です。結婚生活を続けられないと決断するくらいに。


 彼に別れを切り出す時、何と伝えるか大層悩みました。幼い頃から、自分の性分はよくわかっていて、それが人に共感されないことだとはわかっています。そして、理解してもらえるまで根気よく説明、説得しようなんて、そんな考えも微塵もありませんでした。

 だからこそ、どう伝えれば、彼に納得してもらえるか考えに考えました。そして行き着いた理由が


「『のんちゃん』と『ママァ』で呼び合うあなた達に耐えられない」


だったのです。嘘は言っていません、しかし、この言い方であれば、彼にしたら親離れ、子離れができていない自分たちの関係を嫌がられたと思ったのでしょう。


「君も結局、今までの女と一緒のことを言うんだな」

なんて言うので、私は心の中でだけ答えました。

「たぶん、今までの女と嫌がってるポイントはちょっと違うと思う」


と。

 

 

 「のんちゃん」とは無事に離婚することができ、義母にあんな女の血が混じった子供なんて要らないと言われ、彩希の親権も私が獲得しました。元夫は彩希のことは可愛かったでしょうが、ママァには逆らえないので引き下がり、養育費だけは払ってくれることになりました。

 私たち親子は細々と、しかし穏やかで幸せな毎日を過ごしていました。


 そんなささやかな幸せの日々の中で出会ったのが俊雄くんです。俊雄くんはパート先の社員さんで、私より六個も年下なのに、とてもしっかりしていました。詳しくは聞いていませんが、彼はお父さんがいないらしく、お母さんと二人で暮らしているようでした。

 私が、お母さんに雰囲気が似ているから放っておけないんだと、誰にでも優しい彼は、私には特別優しくしてくれるのです。それがいつの間にか男女の仲になり、俊雄くんは自分と似た境遇の彩希のことも大変可愛がってくれました。


「彩希ちゃんは、パパいなくてさみしい?」

「うん、さみしい!」

「そっか、パパできたらうれしい?」

「うれしい!」


 俊雄くんと彩希がこんなやり取りをする度に、私はどぎまぎしていました。俊雄くんが私との結婚を考えてくれているのは、本人からも聞いていました。

 しかし、私は正直、彼とは結婚をするつもりはありませんでした。勿論、俊雄くんのことは本気で好きでしたし、二度目の結婚に尻込みしているわけでもありません。

 彼との結婚を躊躇う理由は唯一つ、俊雄くんが「佐々木俊雄」という名前だったからなのです。「佐々木」という名字に何か恨みがあるわけではありません、しかし、私は俊雄くんでなくても「佐々木」さんとは結婚したくなかったのでした。


 俊雄くんと結婚した場合、私、佐藤真理は佐々木真理になります。そして、娘の彩希は佐々木彩希、平仮名で書くと「ささきさき」となるのです。まるで早口言葉か、漫画にでてくる架空のキャラクターにいそうな、これが受け入れられないのです。わかっています。大したことではありません。

 しかし、駄目なのです。好きな俊雄くんと結婚することと、娘をささきさきにすることだと、私にとってはささきさきの方が重大なのです。この名前が駄目なわけではありません。世の中にはたくさん「ささきさき」さんがいて、きっと彼女らは幸せに生きていることでしょう。この名前が何か、不利益を被ると思っているわけではなくて、ただ私が受け入れられないだけなのです。


 彼が彩希に「パパが欲しい?」と聞き始めた頃、私は彼に


「夫婦別姓ってどう思う?」


と聞いたことがあります。彼は少し考えてから


「色々な事情があるのは百も承知だけど、やっぱり個人的には同じ名字で家族って感じがするから、僕はできたらしたくないかな」


と言ったのでした。きっと、私はあからさまに困った顔をしたのでしょう。彼は取り繕うように、


「でも、僕は別に自分の姓にこだわりがあるわけでもないし、母も別に長男だからとかなんとか言う人でもないから、お婿さんに行っても良いとは思ってるよ」


なんて、言ってくれたのです。私が名字が変わることに不服なことをすぐ察知してくれたところは、本当に「さすが俊雄くん」と感動しました。しかし、俊雄くんに婿養子に来てもらうことすら、私は良しとできないのです。なぜなら、「さとうとしお」つまり「砂糖と塩」になってしまうから。だからなんだと言われても、何とも言えません。それの何が悪いとか、そういう話ではないのです。上手く言えないけれど、男性に向かって


「あなた、どうして女に生まれなかったの?」


と聞かれて答えられないのと、


「ささきさき、さとうとしおの何が嫌なの?」


と聞かれて答えられないのが、私にとっては同じ感覚なのです。


 そんな風に困り果てて、のらりくらりと現実から逃げていた私に、とうとう逃げられぬよう刃の切っ先を突き付けられたエックスデーが昨日。


「真理さん、僕は真理さんも、彩希ちゃんも大好きだ。家族になりたいと思ってる。僕と結婚してくれませんか」


 当然嬉しい気持ちはあります。でも何の問題も解決していないのです。私一人が我慢すれば良いというのはわかっています。私のこの下らない拘りを押さえつけて無視すれば、俊雄くんも彩希も幸せになれるのです。何度も、何度も頷いて一言「はい」と言おうとしました。けれど、やっぱり駄目なのです。


「考えさせて」


 絞り出した言葉は、案の定、彼を傷付けてしまいました。しかし、無理矢理笑顔を作って


「待ってるよ」


と、言った俊雄くんのことは、やっぱり好きなのです。彼が私たちと家族になりたいなら、それを叶えてあげたい。


「ああ、俊雄。あなたはどうして佐々木なの?」


 馬鹿みたいな台詞を思い浮かべて、悲劇のヒロインを気取ってみたところで、何の解決もしません。私は皆で幸せになりたいのです。しかし、俊雄くんと彩希の幸せを得る為には違和感を押し殺して、日々を過ごすことになります。


 ささきさき、さとうとしお。心の中で何度唱えても、口に出してみても、やはりどちらも受け入れ難いのです。理解されないのは構わないと、周りに訴える努力を怠ってきた結果なのでしょうか。けれど、ここでまた我慢すれば、いつか限界がきてしまうでしょう、前の夫との失敗を繰り返したくはありません。「のんちゃん」という呼び名が許せなかった。それを伝えることもなく、何か状況を変えるような努力もしなかった。別れるしかないと、自分自身が思い込むまで追い詰めてしまった元凶は、自分のことを唯一わかっていて見ないふりを続けた自分なのです。


 決意して、俊雄くんを呼び出しました。前の夫だけでなく、今まではわかってもらえないことを恐れて逃げていましたが、彼にだけは下らないと思われてもいいからきちんと説明しようと思ったのです。彼は私の顔を見て、


「真剣に考えてくれてありがとう」


とまず言ってくれました。唇が思ったように動いてくれなくて、きっとぎこちない笑顔になってしまっているでしょう。それでも無理矢理言葉を発しようとしました。しかし、それは俊雄くんの


「真理さん」


という呼び掛けに止められてしまったのです。


「あのね、後だしになってしまって本当に申し訳ないし、もしかしたら今、良い返事を考えてくれていても、これを聞いたら考え直そうと思うかもしれない。僕にとっては隠しておきたい、大切な話を、やっぱり聞いてもらってから返事を貰いたいんだ。先に僕の話を聞いてもらっていいかな」


 躊躇いがちに彼はそう言って、私は戸惑いながら首を縦に振りました。


「ありがとう。僕、父親がいないって話は前にしたと思うけど、別に死んだとか離婚したとかじゃないんだ。ある日突然、僕と母さんの目の前から消えた。借金残して失踪したんだ。借金は母さんと僕でなんとか全て返済できたけど、僕は父親、いやあの男を許せなかった。今もそうさ。ただ、母さんは、まだあの男の帰りを待ってるんだ。健気にあいつと同じ名字を名乗って、あいつが帰ってくるのを。それが僕はどうしても我慢ならなかった。

 佐々木っていうのは母さんの旧姓でさ、僕はどうしてもあの男を思い出させる名前を名乗りたくなくて、勝手に佐々木を使ってたんだ。だから、本当は僕、佐々木俊雄じゃないんだよ」


 私は最後の俊雄くんの台詞を聞いた瞬間、咄嗟に俯いてしまいました。顔がにやけてしまいそうだったからです。

 嬉しかった、彼の気持ちを考えたらそれが不適切な感情だとはわかっています。けれど、押さえきれない喜びがこみ上げてしまったのです。決心してやってきましたが、やはり今までの自分自身を変えるのは恐ろしいことです。受け入れられないことを、わかってもらえるまで説明し続けるのは面倒で、そして苦しいことだと、今までの自分が知っていて、決して良しとはしていません。それをしなくて良くなるなんて、願ったり叶ったりでした。


 私は神妙な顔を作り上げ、彼に問いかけました。


「じゃあ、俊雄くんの、本当の名前は何なの?」


 自分でも思った以上に、軽やかで、穏やかな声でした。そんな私の声に、彼は、少しだけ緊張を解いて答えました。


「真理さん、僕、本当は水田俊雄って言うんだ」

 

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