二章 あなたに夢中

一話 素直の先と壁

 六月に入って一週間、梅雨の接近を感じさせる天気が増えてきた。あたしは雨の日に気分が悪くなったり頭が痛くなったりするから、この時期は精神的にハードモードだ。だからめちゃくちゃ学校をサボりたい欲が溢れてくる。

でもあたしは今ある程度前向きな気持で学校にいる。今は机に突っ伏しているけれど。

 その理由はやっぱりヨルと前よりも近い距離でいれているから。それだけでモヤモヤが吹き飛んでしまう。

 素直になれてからの日々のことを回想していると、周囲の音が薄れて流れている映像に意識が沈んでいく。それはとても幸せで心地よくて、ずっと見ていられる。

 ヨルといられることが生きがいだ。


「アオ……アオ。起きて」


 頭上から聞き心地の良い呼びかける声がする。それを吸い込まれるようにして意識が浮上した。


「うぅ……ヨル?」


 いつの間にか寝ていたのか、頭の中がぼんやりとしている。現状もよくわからないまま机から顔を上げると教室にはあたしたちだけで、電気も消されていた。


「あれ……えっと」


 異常事態なのにも関わらず、あたしの思考は寝起きだからか恐ろしいくらい冷静だった。今日は六月十日の月曜日で、さっきまで五時間目の授業を受けていて、次は六時間目の音楽だ。ぱっと時間を見ると授業開始一分前だった。


「やばっ」


 徐々に生まれてきた焦りをガソリンにテキパキと教科書とファイル、筆記用具を準備する。雨が降り注ぐ音と物を取り出す音が鮮明に聞こえた。


「やっちゃったなー」

「めっちゃ寝てたね。声かけても中々起きなかったし」

「そうだったんだ。ヨル、ごめんね迷惑かけて」


 罪悪感がこみ上げてくるのと同時に、待っていてくれた優しさに温かく満たされて複雑な感情が生まれた。


「俺が好きでやったことだから気にしないで。それに、この状況になったらどんな反応するか興味あったから。でも、意外にも冷静だね」


 アオはいたずらっぽく笑った。さっきまでの喜びを返して欲しくなるけど、その表情を見せられると毒気が抜かれてしまう。


「ふふっ残念でした」


 なんだか勝った気がして嬉しくなる。まぁ、遅れそうなこの状況になっている時点で、勝ちも負けも無いだろうけど。

あたしは持っていくものを全て取り出して腕で抱えてから、彼に向かって勝者の笑みを向けた。


「そういえばさっき寝言で、俺が生きがいみたいなこと言ってたけど、どんな夢見てたの?」

「は、はぁ⁉️」


 急速に全身が熱くなって、頭の中が真っ白になって沸騰する。あまりのことで思わず教科書を落としそうになった。


「ま、マジでそう言ってたの?」

「うん。どんな夢なのかなーって聞いた時思ってさ」


 ヨルも少し恥ずかしそうに目を泳がせる。その反応されると、こっちもその熱が移ってしまう。


「い、言わないからっ」


 あたしは彼の横を通り過ぎて、そのまま逃げるように教室を出た。


「ま、待ってよ」


 頬の火照りを冷ますように早歩きで三階の奥にある音楽室に向かった。もう、今すぐ外に出て雨の中に飛び込みたい。


「あたしのばかぁ……素直すぎるでしょそれは」


 結局精神が乱れたまま、ぎりぎりで音楽室にたどり着けた。音楽室では大きな机一つに六人ずつ座わる。席の位置は教室と同じで、あたしはそこに力なく腰を下ろした。なんだか、普通に遅刻した方がダメージは少なくすんだ気がする。


「では授業を始めます」

 先生は四十代くらいのおばさんで髪は短めで背が低く目付きの鋭い。ハスキーな声で授業開始の合図をする。授業は、前方にある大きなテレビで舞台の映像を見ながら、そのモチーフについて学ぶというもの。

 あまり興味がなくて適当にテレビの方に目をやっていると、視界にヨルの後ろ姿が入ってきてそっちに視線が吸い込まれてしまう。


「……」


 じっと彼を眺めていると、もっともっと近くにいたいと思いがこみ上げてくる。この物理的な距離もそうだけど、心の距離も。


「あっ」


 舞台では男女が想いを伝え合っているシーンになって、思わずその姿を自分とヨルを重ねてしまう。そしてその先を頭の中で描いてみたりして。


「――ということで授業を終わります」


 そんな妄想をしている内に授業はあっという間に終わってしまった。結局、告白シーンだけしか記憶に無いままで。

 頭の中では色々と都合のよい設定でヨルと結ばれたけれど、現実はそんなに上手くいきそうにない。だって、どうやって進展させて良いのか分からないから。それに今の関係も心地いいから、変に積極的になって壊したらと思うと怖くて動けそうになかった。


「あ、アオ……一緒に戻ろ」

「う、うん」


 それと、この気まずい状態の打開策も見当たらなかった。



               *

 



 アオとのぎこちない感じは変わることなく家に戻ることになった。一緒には帰ったのだけど、あまり会話は弾まなくて。ちょっと前の状態に戻ったみたいだった。


「きっと大丈夫……だよね?」


 今日のことと先のことばかりを考えてしまい夕食はあまり喉に通らなかった。食べ終わってからは部屋でベッドの上でゴロゴロして、ショート動画をダラダラ見ている。


「ちょっといいか?」


 ドアのノックと共に無機質な兄さんに呼びかけられた。あたしは体を起こしてとぼとぼと歩いてドアを開く。


「何か用?」

「いやあまり食べていなかったから、調子が悪いのかと思ってな」

「あはは……意外と兄さんってよく見てるよね」


 最近になって兄さんについて理解してきたから驚きはなかった。表情には出ないけど優しい。


「実はそうなんだよね。ちょっと悩んでる」

「そうか。あのバッグでも駄目なのか? 何か効果があったんだよな」


 兄さんは机の上にあったバッグを指し示した。


「そうだけど、使わないようにしてる。まずは自分の力で頑張って本当に無理だと思ったら使おうかなって。くれた兄さんには悪いんだけど」

「いやそんなことは無い。アオは偉いな、頑張っていて」

「そ、そうでもないけど?」


 やっぱりあたしはちょろい。兄さんにちょっと褒められただけですごく嬉しくて元気が出てきた。


「でも無理はするなよ。困っているなら頼ってほしい」

「ありがと。けど今は大丈夫だから心配しないで」

「……わかった。頑張れよ」


 そう言い残して兄さんは部屋に戻って行った。


「パンかぁ」


 あたしはバッグから冷たいパンを取り出す。相変わらず冷たくて長くは持てない。柄はひまわりが六本描かれていて、温め温度と時間も変化したままだ。

 後でひまわりの花言葉を調べてみると、六本だとあなたに夢中という意味らしくて、今のあたしに完全に当てはまっている。もし食べたら、簡単にもっとアオに接近できるのだと思う。


「だめだめ、使わないって決めたから」


 楽になりたい欲と共にパンをバッグに仕舞う。パンの感触と冷たさはしばらく消えずに残った。

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ひまわりバッグとパン しぐれのりゅうじ @ryuuji7236

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