ひまわりバッグとパン

しぐれのりゅうじ

一章 密かな恋

素直になれない気持ち

 部活終わりの帰り道は、薄暗くて空気が冷えている。車道にはライトをつけた車が通って、歩道には、同じ道を帰るジャージ姿の生徒が何人か歩いていた。

 景色がはっきりしない夕方は、家までの距離が長く感じてしまう。しかも、長距離走の練習後で、心と体が疲れきっていているから尚更。ただ、十分くらいで家に着く近さで、良かったとも思うけど。


「おーい、アオ」


 後ろから、聞き馴染みしかない、あたしを呼ぶ快活な男子の声が聞こえる。少しドキッとして、足を動かす速度が落ちた。


「……ヨル」


 あたしに駆け寄って来たのは、幼なじみの日向夜空だった。夜空のことはヨルって呼んでいて、あたしは月城葵でアオって呼ばれている。

 

「一緒に帰ろ」

 

 そう言って、人懐っこい笑顔を見せると、八重歯が顔を出す。その表情はとても輝いていて、その光に当てられると、胸の奥が甘く締め付けられて、顔が熱くなる。


「……」


 赤くなってないか気になって、頬を触って確認する。でも、手の体温なのか頬の温かさなのかわからなかった。


「アオ、陸上部は後輩とか結構入ってきた?」

「……まぁ、そこそこ」


 そんなあたしの様子には気づかないで、ヨルは話しながら隣を歩く。この気持ちを悟られたくなくて、思わず体に力が入って、精神も乱れないよう心にシャッターをかけてしまう。


「サッカー部もさ結構な人数入ってきてさ、何か先輩として接するって結構ムズいな~って感じでさ。アオはどう?」

「まぁ、同じ感じ」

 声音はすごく平坦で、何ともない感じを装う。


「だよなー。どうすればいいんだろうな。陽翔はもう先輩っぽくなってんだよなー」

「そうなんだ」

「キャラかなー」

「そうじゃない」


 気持ちを落ち着かせたいのに、視線はどうしても彼の方に吸い寄せられてしまう。中性的で整った顔立ちに愛嬌のある表情、たれ目で透き通った黒の瞳。髪はくせ毛でふんわりとしていて、背丈はいつの間にか越されていて、少し見上げないといけない高さで。薄暗いこの時間でもヨルの姿は見えている以上に見えてしまう。

 何度かやり取りを繰り返していると、ヨルの様子が変わって、一呼吸入ると重々しく口を開いた。


「……って何か機嫌悪い?」

「え?」


 パタリとヨルが歩くのを止める。あたしは、それに少し遅れて、前に出る形になって、体を少しひねって彼の方に向けた。


「その、すごく睨まれてた気がして」

「あ、いや」


 睨んでたつもりはなかった。多分顔が強ばってしまっていたのかも。それに少しつり目だし。


「それに、最近からだけど、話しても何かそっけない感じだしさ」

 ヨルは、怒りよりも不安な感じの声色で素直な思いを吐露する。

「何か俺、何かアオに気にさわることしたかな。だったら謝るからさ、言ってくれない? アオと仲良くしたいんだ」


 ヨルの寂しげな表情と真っ直ぐな言葉が突き刺さって苦しい。ヨルは何も悪くなくて、ただあたしのせい。あたしも仲良くしたい、そう頭の中では言えるのに口には出せなくて。


「ご、ごめん。先、帰るね」


 口から出たのは、自分の保身のための言葉だった。後悔するのには遅くて。


「あ、アオ」


 あたしを呼ぶ声は聞こえないふりをして、逃げるように家まで走った。

 中二になって彼を意識してから、ずっとこう。こんな感じは一ヶ月も続いてて。こんなことは初めてだし、どうすればいいのかわからない。それで、思わず距離を遠ざける態度を取ってしまう。でも、それは傷つけていい理由にはならない。


「最低だな、あたし」


 辺りはどんどん暗くなって先は見通しづらくなっていく。ふと、空を見上げると、雲に隠れていた月が隙間から顔を覗かせていた。


           *



「あぁぁぁぁぁ! あたしのバカぁ」


 部屋のベッドの上で、枕を口に押し当てて叫んだ。

 時刻はもう11時。こんな時間になっても今日のことを思い出すと、自分の体たらくに体を引っ掻きたくなる。


「アオ、少しいいか?」


 あたしを呼び掛ける声と共にドアがノックされる。その声の主は兄の疾風の声だった。少し珍しくて、重くのしかかってた傷跡の痛みへの意識がそれる。ただ、一人になりたくて気は進まなかった。


「……ど、どうかした?」


 ドアを開けると、兄さんは黒のジャージ姿で、手には似つかわしくない水色を基調として二本の向日葵が描かれている小さな手提げバックを持っていた。


「これを渡そうと思ってな」

「へ?」


 無愛想に鋭い瞳であたしを見ながら、その手提げバックを渡してきた。想定外に想定外が重なって思わず、体が固まる。


「ど、どうして?」

「いや、高校の帰り道の路上で売っているのを見て、買ったんだ」

「そうじゃなくて、どうしてくれるの?」


 あたしと兄さんは普段はあまり関わらない。それに、少し苦手意識もあって。表情が乏しく何を考えてるかわからないし、切れ目の中にどこか悟ったような冷たい瞳があって、心を見透かされるようで少し怖い。それに、兄さんはあたしよりもずっと優秀で、親に比較されてきたから。

 だから、こんな行動は記憶にはなくて、混乱する。


「そのバックは悩める心を詰め込むと、特別な力でそれに即して手助けしてくれるらしい」


 兄さんはあたしから視線を外してなぜかバックの説明をしてくる。


「アオが、父さんに不満を持っている感じだったし、ヨルくんのことで悩んでいる様子だったから。そのバックを見かけてつい買ったんだ」


 あたしには興味も無いのかと思ってたけど、意外に見られていて驚く。確かに、ヨルについてもお父さんについてもそう。

 お父さんは寡黙な人なのだけど、酒を飲むと多弁になって、面白くもない話をしてくるし、いつもはそんな素振りを見せないくせに大切に思ってるとか調子の良いことを言ってくる。酒の力で言われても気分は良くない。あたしは、ああいう人にはなりたくない。


「それに、盗み見る気はなかったんだが今日もヨルくんと上手くいってないのを見てしまったんだ」

「み、見てたの?」

 あの光景を見られていると思うと、羞恥で頭の回路が焼ききれそう。

「だから、気休めにでもと」

「あ、ありがと」


 なんだか、可愛らしいプレゼントを真逆のイメージの兄さんから渡されて、しかも結構あたしのことを考えてくれてて素直に嬉しいって思った。それに、少し兄さんが可愛く見えてきて、印象が良くなってしまう。あたしはちょろいのだろうか。


「それは、寝るときにそのバックを抱きながら、そこに悩みを詰め込むみたく考えると良いらしい。店員が言っていた」

「そ、そうなんだ」


 そんな簡単に悩みが解決したら、苦労はしない。まぁ兄さんも信じてないようだし。


「そういうことだから。じゃおやすみ」

「おやすみなさい」


 兄さんは終始表情を変えることなく、自分の部屋に戻っていった。でも、ふと横顔を見ると頬が色づいているように見えた。気のせいかもだけど。


「まぁ、おまじない程度に試そうかな」


 怪しげなバックだけど、せっかく貰ったのだし使おうと思う。


「……」


 兄さんと話したからか、バッグを貰ったからか、少し気分が前向きになって、ヨルの苦悩が和らいだ。そのおかげで、少し眠くなって。

 あたしはひまわりの手提げバックを抱いてベッドに横になった。

 悩みを想起してそれをバックの中に入れるイメージをしていると、次第に意識が薄れる。あたしは心地いい温かな眠気に委ねた。



                 *



 お腹の辺りに何かひんやりとした感覚があって、それを手がかりに睡眠の海から意識を浮上させた。


「……なにこれ」


 まだ半分くらい浸かっている意識の中で、手を動かし原因のものを手に取る。


「これって兄さんに貰ったやつ」


 ベッドからそのバックを出すと、明らかに中に何か入っている重みがあって。

 恐る恐る中のものを取り出すと、それはビニール袋に入ってる、七本の向日葵の絵柄のあるパンが一つ入っていた。冷凍されたかのように冷たい。袋の下には、六百ワット一分で温めると書いてあった。

 謎のパンに気を取られていて、少し時間を確認するともう六時二十分。早くしないといけない。あたしは、学校に行く準備をして、身だしなみも整えてから、すぐに出られる状態にして、二階の部屋から一階の真っ暗なリビングへ。

 お母さんはまだ寝てて、お父さんはもう仕事。兄は良くわからない。


「どうしようかな……」


 片手に一つ冷凍パンを持ってキッチンの電子レンジの前まで来たけど、食べようか迷う。だって、めちゃくちゃ怪しいし、変なのだったらヤバイし。

 スマホを開くと時刻はもう六時三十五分。七時までにはもう校庭に出ていないといけない。悩んでる時間はない。


「た、試しにちょっと食べようかな」


 ぶつかり合っていた葛藤に少しの空腹感が食べる勢力に加担して、食べる側に傾いてしまった。

 書いてある通りにレンジで温め、熱さに気を付けながら袋を開ける。


「あちち。よし、頂きます」


 熱くて長は手に乗せられず、食べる前にもよぎった不安も顧みず、一口食べた。

 ふわふわなパン生地の感触の後、甘いクリームの味が舌の上で優しくとろける。


「お、美味しい……」


 味とか書いてなかったから、良い意味で予想外な味だった。パンの中が見えて、その中にはクリームがぎっしりつまっていて、少しでも力を入れてしまえば、飛び出してしまいそう。あたしは、一気にパンを口の中に入れて、飲み込んだ。


「ごちそうさまでした」


 これで何か良いことが起きるのかは知らないけど、少し気分が良くなった。食後に急いで歯磨きをしてから、リュックを背負って玄関に。


「いってきまーす」


 返事が返ってこないとわかってても、一応そう言って外へ出た。


「……あ」


 あたしが玄関のドアを開けたとき、ちょうどヨルが家の前を通って目があった。隣の家にいるのだから、こうなることもあるのだけど。


「お、おはよう、ヨル」


 普段とは違って気まずそうな挨拶で。昨日は、あんな感じです別れたから当然だけど。だから、あたしも同じように。


「おはよう! ヨル」

「え」

 え。

 心の声とヨルの声がハモった。

 自分で自分のしたことが信じられなかった。なんたって、笑みを浮かべながら挨拶をしたんだから。

 心の中は気まずいとか、気持ちを知られたくないとかネガティブな思いよりも、ヨルと会って話しせるのが嬉しくて幸せってポジティブな思いが強くて。

 あたしは軽い足取りで、目をぱちぱちさせてるヨルの隣に。歩調を合わせて二人っきりで学校に向かう。


「一緒に行こ」

「う、うん」


 昨日とは立場がまるで逆だった。自分が自分じゃないみたいだけど、素直な気持ちを出せている状態は心地よくて。


「昨日はごめんね? ちょっと疲れちゃっててさ。睨んでたとかそんな気はなくて」

「そっか。こっちこそごめん。アオの気持ちとか考えられなくて」

「ううん、あたしが悪いんだよ。最近は、ヨルに変な態度をとってたから。けどそれは、どう接したらいいかわかんなくなったからで」


 流石にヨルのことが好きだから、とは言えない。ただ、今なら前みたく、いやそれ以上の近さで話せそうだった。


「接し方?」

「なんか、思春期的な? 成長したら男子との関わり方を変えないといけないのかなって。なんだか、考えすぎたみたい」


 そう伝えると、ヨルは顔を綻ばせて安堵の吐息をこぼした。


「良かったぁ。いやぁ、何か嫌われるようなことしたかなって不安だったんだよー」

「ごめん。本当にそんなことはないし、逆に話しかけてくれて嬉しかったっていうか。というか、あんな感じでも、結構話しかけてきたよね」

「結構びびってた。でも、無視とかはされなかったからさ。昨日はヤバイかなとは思ったけど」


 あっけらかんとヨルは教えてくれる。軽い感じなのはきっと、性格もそうだけど気を遣ってれてる部分もあるのだと思う。


「あたしも同じ気持ちだった」


 しばらくヨルに不安な思いをさせた。だから、その代わりじゃないけど、笑顔にしたいって思う。まぁ見たいっていうのもあるけど。

 なんだかヨルとこんな感じで話していると、昔を思い出す。いつも後ろにいたヨルを引っ張っていたあの頃を。

 なんだか今日は普段の景色よりも明るく見える。雲一つない青空だからだけじゃなくて。

 ヨルとのやり取りはクリームみたく甘かった。



               *



 朝練を終え、眠い一、二時間目を乗り越える。さらに、昼食が待ち遠しくなる三、四時間目を通り越して、昼ごはんを食べてエネルギーをチャージ。そして、昼休みに入り、その後に掃除。そこから、部活の時間に思いを馳せる五時間目になって、終了を告げるチャイムが鳴り十分休憩。

 あたしは、真ん中の列の一番後ろの席に座っていて、クラスを見回す。机に突っ伏している人が何人かいて、お疲れムードが少し漂っているけど、あたしは活力がみなぎっていた。


「……」


 つい教室の前方にいるヨルを眺めてしまう。ヨルはハルくんと仲良さげに話していた。二人はクラスの中でも一際顔が良くて、ヨルは可愛い感じだけどハルくんはクールでキリッとしてる。なんだか、勝手にスポットライトに当てられてるみたいに目立つ。


「なーにニヤニヤしてんのー?」


 横から近づいてきたアメが、口角を上げながら話しかけてくる。


「し、してないし、そっちだって」

「いやー熱々だなーって思ってさ」

「熱々って……」

 

 星宮雨音。愛称はアメ。髪はミディアムロングのふんわりとしている。小顔の中にアーモンド形の瞳に通った鼻筋で整っていて、すごく可愛い。そして目元のホクロがとても印象的。


「なんか、今日はめっちゃ距離近い感じだったじゃんかー。何かあった?」

「べ、別に?」

「えー、教えてよー。昨日めっちゃやらかしたってメッセ送ってきたじゃんか。どんな逆転劇?」


 アメとは深いこととかも話せる間柄。ヨルとのことも話したりしている。反対にアメの幼なじみで恋してる明星陽翔、ハルくんとのことも聞いたりしていた。


「うーんと、なんて言えばいいのか……」


 そのまま言っても信じて貰えないだろうし、変に誤魔化したくない。思い出すのは、昨日テレビでついていた野球での九回裏のツーアウトツーストライクからのサヨナラホームラン。


「えーと、何か後がなくなって、やるしかないって感じになった的な」


 めちゃくちゃ適当なことを言っても気がする。


「ふむふむ。なるほどねー、すごいじゃんアオ」


 アメは唇に指を当てて納得したように頷く。普通に信じられてしかも感心されてすごく居心地が悪い。ごめんアメ、本当はパンの謎の力を借りてるだけなんだ。

 心のなかで平謝りをしていると、向こうで話していたヨルがこっちに。


「アメ、ハルが呼んでるよ」

「私? わかった、ありがとねー」


 あたしに意味ありげな目線を送ってから、ヨルの横を通り抜けて、軽快なステップでハルくんの元に行った。

 アメに用があって来たのかと思ったけど、ヨルはその場に止まった。チラリと時計を確認すれば、授業まで後一分もなくて。


「もうすぐ授業始まるよ?」

「ああいや。その、放課後一緒に帰らない?」


 ヨルは頬を少し赤らめて、そっぽを向きながらそう尋ねてきて。あたしは、心臓がふわふわな綿に挟まれた感覚になって。


「う、うん。いいよ」

「そ、そっか。じゃ、また」 


 ヨルは短いやり取りで終わらして、真ん中の一番前の席に戻っていく。たったこれだけでも癒されてライフが回復してく。

 あたしはその背中を目で追ってしばらくまた眺める。次第にその間の人の背で見えなくなるまで。

 クラスの中にいるだけ。ただ話すだけ。一緒に帰るだけ。そんな大したことじゃないことが、大切なことになっていた。

 六時間目、数学の授業を受けて、帰りの会から部活の時間へ。部の練習はきついけど、同じグラウンドにいるヨルの姿を見ると頑張れて、あっという間に下校時刻。

 どこで会うかとかは決めてなかったけど、校門前まで行こうとしたら、ヨルが来てくれた。

 一緒に校門を出て、周りの人の流れに乗って帰る。

 次第に人数が少なくなり、家に近づくと、草木の風に揺れる音や足音なんかがはっきりと聞こえるようになっていく。


「ヨル、今日何か結構後輩に色々と教えてなかった?」

「あー。キックのコツとかポジショニングの話しとか、色々聞かれたんだよ」

「ふーん、何か悩んでたわりにしっかり先輩してるなーって」


 ヨルの姿を見た感想をそのまま伝えると、グイット顔を近づけてきた。


「ほ、本当! 先輩出来てるか不安でさー。そう言ってくれると勇気でるよ」

「まぁ、これは外野から見た感想だから、当人たちはどう思ってるか知らないけどね」


 ちょっと意地悪なことを言えば、ヨルはわかりやすく、しゅんとなって肩を落とした。


「後輩に聞いてみれば?」

「それ、肯定されても気を遣ってる感じになるし、否定されたら俺の心が破壊されるから、詰みじゃんか」


 少し口を尖らせて反論してくる。


「ごめん。今のはあたしが悪かった。でも、何でそんな先輩らしくしたいの?」

 疑問だった。そんなに真面目に頑張る必要あるのかと。

「……幼稚園とか低学年のときとかさ、気弱な俺をアオがいつも助けてくれたじゃん。それですごく救われたって思ってる。だから俺も同じことしたいなって」


 まるで想像していなかった理由で、照れ臭いよりも驚きが勝った。


「そうなんだ」


 そう思ってくれて嬉しいって気持ちはあるんだけど、それ以上にヨルの純真な想いが星の光みたく輝いていて、感心してしまう。それと同時に眩しすぎてチリチリと脳裏に微かな痛みも感じた。


「あ、そうだ今週の日曜日は暇?」

「うん。暇だけど」

「良かったなんだけど、サッカー見に行かない? その、二人っきりで」


 二人っきりで、その音が柔和に鼓膜を揺らして、明瞭に響く。


「いいよ、行こう」

「じゃあ、チケットとか時間とか後でね」

「りょーかい」


 瞬時に妄想が出現するけど、何とか振り落とした。

 空は朝と比べて雲がかかっていて、月も見え隠れしている。日曜日は、朝も夜も晴れた良い天気になって欲しいなって思った。


               

            *



 あの日から朝に向日葵のパンを食べる生活が始まり、もう四日目。その間パンの力を借りることで、ヨルとも良好な関係を築けていた。満ち足りた時間は、すごく早く感じて、もう金曜日。あっという間だ。

 明日は土曜日でとうとう休み。そして明後日はヨルとの約束がある。すごく楽しみ。

 時刻は夜の十時。夕食を済ませ二階の部屋で、お洒落のネット記事を見ていた。


「アオ、ちょっといいか」


 ドア越しに兄から声がかかった。


「兄さん、どうしたの?」

「ああいや。どんな感じかと気になってな」


 ドアの向こうには、相変わらず無表情な兄がいた。鋭い目であたしを見るけど、前みたいな怖さは減っていた。


「大丈夫。あれのおかげで結構上手くいってるから」

「そ、そうなのか……。それならいいが」


 少し困惑した様子だ。確かに、兄もあんな力があるなんて思いもよらないと思う。


「ただ、夕食のときとかは不機嫌そうだったから」

「それは、お父さんが酒に酔って興味のない上に面白くない話しとかしてくるからで。別に普段からそれなら、まぁいいけど。でも、酒の力で話されるのって、嫌だなって」


 思わず日頃たまっていた鬱憤が口から飛び出してしまう。


「……気持ちはわかるが、父さんも距離感が掴めないんだと思う。それに自分の気持ちとかを話すことも得意じゃないみたいだし」


 相変わらず達観してる物言いで、それが冷たく突き放されてる気がしてつい反論してしまう。


「でも、だからって、頑張らずに……酒に頼るって……」


 自分で言ってて、お父さんの姿と最近のあたしの姿が重なって見えて。


「……どうした?」

「……ごめん。眠くなってきたから。そろそろ寝るね」

「あ、ああ。おやすみ」


 兄を帰すために部屋の明かりを消した。ドアを閉めてから、脱力した体で仰向けにベッドに沈み混んだ。


「あたし……同じことしてた」


 あの日と同様に体をかきむしりたくなる衝動に駆られる。そして、浮足立っていたさっきまでの自分を叩きたくなって。

その代わりにあたしはおでこを軽くこつこつと叩いた。


「最悪なのあたしじゃんか」


 お父さんの行いを否定したくせに、それを嬉々としてやっていたんだ。文句を言う権利なんてなかった。

 動く力もなく夢の中に入ろうとする。けれど、思考は止まらず、後悔から始まり、最後にはどうして素直になれないんだろうと、兄みたく自分を客観視して、気づいた。

 あたしはヨルのことを下に見てたんだって。

 考えてる内に眠りについたのだけど、何度も定期的に短い睡眠と目覚めを繰り返して、眠った感覚もなく八時半になっていた。気だるい体に鞭を打って、部活に行く準備をする。

 陸上部は土曜日が午前練習で、九時半から開始で十一時に終わる。サッカー部は九時からで、午後までで、ヨルと出くわすことはない。

 残り一つのパンは食べることなく、家を出た。空には、白い大きな雲が沢山浮かんでいて、太陽の光を隠していた。

 学校について部室に行って荷物を置いてから、全体集合して個別の競技の練習へ。結構緩いからなだらかに始まる。千五百メートル走のトレーニングはアップからスタート。まず、一定のペースで走る練習。それから最初はゆっくりで徐々に速度上げる練習をして、一番きついインターバル走を越えると、最後には学校の周囲とグラウンドを二週軽くジョギングをする。


「もうすぐ終わる……」


あたしは何とかジョグ時間までたどり着いた。


「アオ、一緒に走ろ」


 早歩きぐらいのペースで走ってると、学校の裏門からでて半分くらいのところの緑道の地点で、アメが話しかけてきた。

 無言で頷くとアメは眉をひそめて、あたしの顔を覗きこんでくる。


「何かさ今日ずっと元気なくない? 体調悪いの?」

「そうじゃないんだけど。……明日のことで悩んでて」


 寝不足な頭に疲れきった体の相乗効果で、苦しみを吐き出したくて、そう呟いた。


「えっ、昨日までずっと楽しみにしてたじゃん。何かあったの」

「まぁ……ね」


 昨日までは凄く楽しみで、アメにも話して色々からかわれたりもした。走る速度がほぼ歩いてるぐらいになる。風が吹くと木々がざわめいた。


「あのね。何でヨルに素直になれないのかわかったんだ」


 これをありのまま言えば、性格が悪いと思われるかもしれないけれど、色々と気持ちがバグっているから、躊躇うことはなかった。


「あのね――」


 あたしはパンのことは少しごまかしつつも、アメに包み隠すことなくぶちまけた。無我夢中で、自分が何を言ったことの記憶は朧気。その間に緑道を真っ直ぐ進んで、言葉が止まった頃には、学校の曲がり角にさしかかっていた。そこから曲がり、直進すれば左側に正門が見えてくる。

 無言で話を聞いてくれたアメは、話し終えたのを見計らって口を開いた。


「話してくれてありがと。あれだよ、すごく真面目なんだよアオは」


 軽蔑されるか悪しざまに言われると思ったけれど、褒め言葉で。正門近くで足が止まった。


「だから、自分をあんまり卑下しないで」

「で、でも……」


 アメはあたしの背後に回ってポンと背を押した。足が一歩前に出る。


「変えたいって思ってるんでしょ。そしてどうすればわかってるでしょ。だったら後は動くだけだよ」

「アメ……」

「もし駄目だったら私を頼って。アオがどんな子でも味方だから」


 慈愛に満ち足り微笑みが頭の中のモヤモヤが洗い流してくれて、視界が涙で滲んだ。

 雲の隙間から陽光が差し込むと同時に雨粒がパラパラと零れてきた。水滴は汗ばんでいた体を冷やしてくれて。


「行こっ」

「うんっ」


 あたしたちは再び走り出して正門をくぐった。



               *



 日曜日は晴天で気持ちが良いほど晴れ晴れしていた。サッカーの試合は十四時から。十一時には起きて、十二時に一緒にスタジアムに行く。朝食と行く準備を済ませたあたしは、白のブラウスにジーパンを履いて、ひまわりの手提げカバンを持って出かける。もちろん、パンは食べることなく部屋に置いてある。その袋は冷たくなくなっていた。

 白色のスニーカーを履いて玄関を出る。すると、もう家の前にはヨルがいた。


「おはようアオ」


 ニコニコと挨拶をするヨルは、黄色と青ストライブのユニフォームの上に薄手の黒いジャケットを着て、黒のズボンに藍色の斜めがけバックという姿だった。


「おはようヨル」


 パンを食べてたときを模倣するように、微笑んで返す。それから、ヨルの元に駆け寄って、一緒に歩いた。


「今日は首位のチームとで、前に代表だった選手とかいるから、見るのが楽しみなんだよなー」

「へー、そんなにすごいんだ。あたし、ルールとか詳しくないから、教えてね」

「もちろん!」


 あたしたちは近くのバス停まで歩き、駅まで乗り、電車に。一駅先で降りてから、近くのバスでスタジアム付近に降りた。その間には、基本的なルールとか注目選手とか教えてもらって、緊張と幸福の二つの感情が入り乱れていた。

 もう左にはスタジアムがあって、応援の練習の太鼓を叩く音と大きな声が聞こえる。車道を挟んで向かい側にはアパート何かが立ち並んでいた。

 スタジアム入り口まで歩いていると、対戦相手のユニフォームを着た人ともすれ違うようになる。ユニフォームとか応援グッズを持っている人だらけの中で、何だか場違いな気がして、キョロキョロしていると、横断歩道の向こう側にアパートと繋がるようにブランコとベンチだけがある公園を見つけた。


「ねぇヨル。少し話しがあるんだ。ちょっとあの公園までついてきてくれない?」


 バックの紐の部分をぎゅっと握って、そう伝えた。


「う、うん。いいけど……」


 困惑するヨルを尻目にあたしは、横断歩道を渡って、公園に入ってスタジアム側を正面にしてベンチに座る。ヨルも隣に少し間を開けて座った。


「ど、どうしたの? 疲れちゃったかとか」

「その聞いて欲しいことがあるんだ」


 このタイミングなのは、自分から逃げないようにするためで。一泊置いてぎゅっと結んでいた口を開けた。


「あたしさ、謝らないといけないことがあるんだ」

「えっ」


 選手の名前を連呼する応援の声がこっちまでも聞こえてくる。


「あたしが変な態度だった理由には、ヨルを下に見てたってのもあったの」

「下に……?」


 自分で言ってて嫌気がさす。重々しい太鼓はあたしの鼓動と同期して、体が震える錯覚をする。


「あたしさヨルの好きで……その大切な友達として。なのに、素直になれなくて……」


 今すぐ冗談として誤魔化したくなるけど、その気持ちを押さえる。太鼓のリズムが早くなって、名前を呼ぶ声も早くなっていっていた。


「その理由はね。昔あたしは守ってあげなきゃって思ってた。それはお姉さんみたいなのに憧れてたのかな。頼られて、そうなれてる気分になってて」


 始まりは純粋だったけど、次第に薄汚れた欲が出てきた。


「そんな気持ちは、成長するたびに増していった。それは兄さんが優秀で良く比較されてたから、どんどん優越感が欲しくなったんだと思う。それで、自分が優位に立とうと遠ざけたんだ」


 膝に置いたひまわりのバックをぎゅっと握りしめた。


「で、でもさ、最近はそういうのがなくなったじゃんか」

「それは詳しくは言えないけど、ちょっとしたおまじないのおかげで、その力を借りてただけ。多分、お酒に酔って人が変わるみたいな感じだから、本当の自分は変わってない。今のいままで、ヨルのことをそう思ってた……ごめんなさい」


 そう言えること全てを言いきった。出し尽くした精神的な疲労感で清々しさを感じる。もうどうにでもなれという気分になる。

 練習が終わったのか応援の音は鳴りを潜めて、辺りは車が風を切る音だけの静寂に包まれた。


「アオ」


 あたしはヨルの顔を見れずにうつむくことしか出来なくて。


「本心を言ってくれてありがとう」

「え」


 思わず顔を上げるとヨルは笑顔で。アメと同じ反応だ。こんなにひどいあたしなのに。


「それに少し嬉しいっていうか」

「な、何で」

「だって、好きって言ってくれたじゃん。しかも、酒に酔ってるときってさ人の本性が出るっていうし。おまじないがよくわかんないけど、同じようならあれが本当のアオってことじゃん」


 真っ直ぐな言葉が突き刺さって、脳が揺さぶられる。


「それに、前にも言ったけど、俺は昔からアオのことをリスペクトしいて、下に見られたくらいじゃ気にならないし。まぁ対等に見ては欲しいけどさ」

「ご、ごめんなさい。そういうの治してくから」

「俺も、そういう目で見られないくらいになるよ。そしたら……」


 ヨルはいきなり歯切れが悪くなり口をパクパクさせた。頬は少し赤くなって、目が泳いでいる。


「いや、何でもない。というか、そろそろスタジアムに行こう!」

「わわっ」


 手を握られたと思えばそのまま手を引かれる。

 何だかすごくはぐらかされた気がするけど、手を繋げられたから、どうでも良くなった。


「ふふっ」


 ヨルは下に見られないようにって言っていたけど、あたしからしたらもうそんなことはなくて。

だってもうあたしの前にいて引っ張ってくれているのだから。

 そんな思いを抱きながら人混みの中に溶け込んでいく。午後の日差しは穏やかな暖かさで満たしてくれていた。



                *



 月曜日は憂鬱だった。けれど今は、どんな朝でも来ることが嬉しい。朝と夜が繰り返されるように、幸せもまた繰り返されるから。

 ヨルとまた会えるから。


「……ん?」


 お腹の上に重みと少しの冷たさを感じた。そういえば昨日も最近の癖でバックと一緒に寝てしまったのを思い出す。


「あれ?」


 ベッドから出して、バックの中を漁ると少し冷たいパンが五つ入っていた。そして、デザインが変わっていて、ひまわりの本数が六本になっていて。下には六百ワット三十秒とそこも変化していた。


「……どうしよっかな」


 一歩を自分の力で踏み出すことが出来た。想いを叶える力があって変わったってことは、多分また別の想いになったってことだと思う。

 まだ使うかどうかは決めてないけど、もしもってときの最終手段にしよう。そうしよう。


「起きよっと」


 あたしは温もりのベッドから這い出した。

 優しい明るさで心を暖めてくれる、ヨルに会うために。

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