兄と妹
「ふむ、今日はもう遅いし俺も久しぶりの剣の指導だ、ちょいと考えることもあるからな、琴よお前はもう帰れ」
「はい……分かりました……?」
やや武蔵の様子のおかしさに気づきながら、琴は寺の境内を去って行った。
琴が去った後も、武蔵は虚空を見上げていた。凡人には見えない何かが、この兵法者の目には映っているようだった。
「……さて、何故に
武蔵の左目だけが極端に動き、寺の影を見る。
「良之助よ」
そこから出てきたのは中沢良之助だった。相変わらず
「まいりましたねぇ、さすがは武公ってとこですか?」
とぼけたように、良之助は後頭部を撫でる。
「
「いやね、武公にどんな意図があるのか分かりかねますが、妹に……琴に余計なことを吹き込むのはやめてもらっていいですかね?」
「ふむ……どうやら、お前はこうやって妹を守ってきたと見えるな」
「……。」
良之助の顔から微笑みが完全に消えた。
「ここっこれは俺の見立てだが、新徴組に最初に行こうとしたのはお前ではなく琴だろう? お前は妹を追うためにここに入ったのではないか?」
良之助は武蔵の方ではなく境内の真ん中に行くと、腕を組んでしばらく黙っていた。
「……琴は、兄の俺が言うのもなんですが、気立ての良い娘なんですよ」
「知っている」
「普通にしていれば、良縁に恵まれて、田舎の片隅で穏やかな人生を送るような娘です。夫と子供に囲まれて、争いなどと無縁なところで畑仕事や織物などして……そんな、なんでもない人生の似合った女なんですよ。けれどあいつには、幸か不幸かあのでかい体と剣の腕がある。それをあいつは何かに使わないといけないと思い込んでるんです」
「兄としては、ごく当たり前の願いだな。しかし、かかっ過保護過ぎやしないか」
「そんなことはないですよ。実際、浪士組の奴らは琴に内通をさせて横須賀の外国人街を焼き討ちにしようとしたんですからね。女であることを利用して。……不本意だったけど、それで俺が代わりに計画に参加したんです」
「……。」
「だからさぁ武蔵さん、これ以上琴に余計なことを吹き込まないでもらえませんかねぇ? 女なのに侍? そりゃあ歴史上にはそんなご立派な女が何人かいたのかもしれませんよ。そういう人たちのおかげで作られた今だってあるでしょうよ。……けどね、そういうのは身内じゃあごめん被るわけですよ」
「……。」
武蔵は顎に手を当て考え込んでいた。しかし、どうやらそれは考え込んでいるのではなく、良之助を不思議そうに見ているようだった。
「……武蔵さん?」
「何だ、お前気づいておらんのか?」
「何をです?」
「お前の妹はどこかが欠けとるぞ」
「……!?」
武蔵の口がぱかりと開く。
「桜のつぼみを摘んだところで柿の木にはならん。それにな、花は陽の許しを得ずとも咲くものだっ」
「……赤の他人は好き勝手言えるもんですよ。だいたい、放浪してたあんたに家族の何たるかが分かるわけがないでしょう」
「おお、俺にも家族がいたことがある。妻と娘がな……。」
初めて聞く武蔵の家族の話に良之助は驚いた。宮本武蔵は諸国を放浪して、家族と言えば血のつながらない養子がいる程度だと広く信じられている。
「だがな、家族を、一族を想う心は人を強くする場合があるが、弱くすることもある。くれぐれも妄信せぬことだ」
「経験者は語るってやつか」
それに対して武蔵は嗤った。そのおぞましい笑顔に、良之助の暗い影も吹き飛んでしまった。
──老年ニ及テ思ヒモノ有、其腹ニ女子出生セリ。甚寵愛セラル。三歳ノ時不圖病死ス。
武州(武蔵の敬称)、悲歎無限、朝ヨリ夕ニ至マデ小児ノ死骸ヲヒザニ置キ、歎キ暮サル。サマサマ進メ慰テモ、更ニ聞受ナシ。武州ニハ不似合仕形ト、隨仕ノ面々モ申ス。
暮ニ及ンデフツト立揚リ、カノ死骸ヲヽツ取テ、スルスル縁ニ出、目ヨリ高ク指上ゲ、「ヱイ」ト云テ蹈石ノ上ニ打付、扇取テ立出テ、「嶺ノ雲花ヤアラン初櫻」ト、湯谷ノ曲舞ヲマハル。
其後、死骸ヲ葬タリヤトモ問玉ハズ。生涯、其女ノ噂ナカリシト云リ。
『武州伝来記』より
老年期、宮本武蔵には愛妾がいたという。その愛妾との間に女子が生まれ、武蔵はその娘をたいそう溺愛したそうだ。ところがその娘は三歳の時、突然病死してしまった。
武蔵は悲嘆のあまり朝から夕方まで娘の亡骸を抱きかかえて嘆き続けた。誰がどんな言葉で慰めても一向に聞く耳を持たない。あの宮本武蔵にこんな意外な一面があったのかと周囲の人々は困惑した。
しかし日が暮れようとした時、武蔵は突然悲しみむのをやめて立ち上がり、娘の亡骸を乱暴につかむと庭に出た。そして娘の亡骸を高く抱え上げ、なんと気合の一声とともに踏石の上に叩きつけたのである。
そして武蔵は懐から扇を取り出し「嶺の雲、花やあらん初桜」と、「湯谷」の曲を舞ったのだという。砕け散った娘の亡骸を、舞い散った桜に例えて。
その後は、娘のことももちろんその死に関しても、だれも武蔵には訊ねることはなく、また武蔵自身も話さなかったのだという。
「と、とにかく、俺たちのことはほっといてくださいよ」
「それはあの女が決めることだ。ここっ子供ではないのだからな」
「……子供みたいなもんですよ」
「お前がそれを望んでいるのではないか?」
良之助は武蔵をにらむ。
「俺をにらみよるか、兄妹そろって面白い。どうだ、お前にも二天一流を教えてやろうか」
良之助はふいと背を向けて去っていく。
「俺には法神流がある」
「俺のいた時代ではききっ聞かなかった流派だな」
「時代は進んでるんですよ、武蔵さん。過去の人は眠っておいてくださいな」
「その過去の俺に誰も勝てんとはな。傑作だ、この二百年間お前らは何をやってた」
良之助が立ち止まる。武蔵はその背中に近づく。
良之助の足が引いた。
武蔵は両手をだらりと下げて直立不動、体中の力が抜けているような柔らかい立ち方だった。
「……。」
良之助が意識下で動く。
振り向きざまに抜刀。
足への切り払い。
距離がある武蔵への連続しての片手での横なぎ。
身を低くしてからの小手狙いの切り上げ。
柄での打突。
身を引いてからの刺突。
飛び上がっての面打ち。
受けたと同時に二刀目が来ている。
………。
ふたりの間を飛んでいたアブが、触れてもいないのに地に落ちて息絶えた。
「勝てたか?」武蔵が問う。
「むかつくけど無理ですね~」
そうして、良之助は境内から去っていった。
境内に独り残された武蔵。天を見上げると怪しく笑みを浮かべた。
「
──日本橋伝馬町 葛飾応為の長屋
応為は夕日の差し込む部屋で、新しい絵の制作を始めていた。題材は中沢琴だった。しかし美人画にしようと思ったものの、一向に筆が進まない。いや、筆どころか絵の方向性も定まらなかった。
美しい女だ。そして強い女でもある。しかし、胸が締めつけられるほどに危うい女、それが応為の見る中沢琴だった。
応為は
「ああいう子は、どこに行けば幸せになれるもんかねぇ……。」
応為は「いけねぇいけねぇ、老婆心出すなんて、あたいも歳くったねぇ」と独りで嘆いた。
「ちょいと応為さぁん」
応為の部屋の引き戸を開けて、大家の女が入ってきた。
「ん? 何だい大家のおかっちゃん? こんな夜中に」
「聞いたわよ、あんた、今日もあの新徴組の人と一緒にいたんだってねっ」
「あ、ああ、うん、そうだけど?」
「やっぱりっ? あの男装のお侍さんがすっごい大立ち回りやったとかで、町がその話題でもちきりなんだよぉ。一緒にいたってことは、あんたも見たんだろう?」
「そうだね……。」
「うらやましぃわぁ、うちの娘がちょうど見ててさぁ、何でも刀持った浪人の奴らを、素手で投げ飛ばしてやっつけちゃったんだってっ?」
「まぁ……うん」
尾びれがついていそうだが、間違いではない。
「それでさぁ、娘がそのお侍さんに惚れこんじまって、熱まで出してんだよぉ。飯ものどを通らないみたいで……恋
「あ~、一応聞いとくけど……。」
「お願いするよぉ、ていうかあたしもその男装の美剣士とやらを間近でみたくって、だから、娘と二人で……お願いね?」
「聞くけど、向こうの都合がついてからの話だからね。なんてったって、あちらさんは真夜中でも見廻りで忙しいんだから」
「わかってるよぉ、おまわりさんの邪魔はしないって~」
大家はよろしくねぇ、と言って自分の長屋に戻っていった。
大家が去った後、応為はぼおっと天井を見ながら考えを改める。
「もしかしたら、あの子はしっかりとあそこで自分の道を生きていくのかもしれないね……。」
物事は良い方に流れていく、応為はそう願って煙管の残り火をポンと灰皿の上に落した。
「みんなが幸せになる結末だっていいじゃないのさ。悲劇は浄瑠璃で十分さ」
新徴組が賊軍として江戸を追われることになるまで、
あと五年
幕末武蔵伝 鳥海勇嗣 @dorachyan
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