ケープ・ナイトメア

藤原くう

Cape night mare

 フロントガラスの向こうに漂う朝靄を切り裂いて、栗色の物体が飛び出てきた。


 私は反射的にブレーキを踏み締める。


 甲高いブレーキ音と共に、全てがスローモーションで過ぎていく。


 間に合えと願っている私は同時に、そうならないと理解しつつある。


 車が質量のあるものと衝突し、肉と金属とがひしゃげる音がした。それと同時に、慣性のままに頭がハンドルへと叩きつけられる。(ダッシュダッシュ)その直前に眼前で破裂音がした。かと思えば、私を白くて柔らかなものが包み込む。エアバッグが開いたのだと、ぼんやりとした頭で理解する。


 白いエアバッグをかき分け正面を見れば、車の前に何かが倒れていた。


 意識が一気に覚醒する。


 轢いてしまった。


 恐怖と後悔と絶望とが背中から迫り上がってきて、頭をざわつかせる。吐き気が込み上げてきたが、今はそれどころではなかった。


 シートベルトをなんとか外し、車を転がり出る。


 車の前方には、大きな物体が転がっていた。


 それは、一頭の馬だった。


 艶やかな栗毛、しなやかな肢体。発達したモモの筋肉。茶色の中にふっと現れる白い流星。濡れるような、でも、燃えているようでもある瞳。まるで、神話の中でしか垣間見ることのできないような美しさが、そこには存在していた。


 それが目の前に倒れていた。


 私は、ゴクリと唾を飲み込んでいた。


 馬は、体を起こそうとしている。でも、なかなかできないようであった。苦痛に呻くような鳴き声が、早朝の岬に響きわたる。


 立ち上がると、痛みに悶えている理由がわかった。


 馬の左脚が、ぷらんぷらんと中に揺れていた。それはちょうど、骨折した脚を庇っているかのように。実際のところはどうだったのかはわからない。私は獣医ではなく、一介の会社員にすぎないのだから。


 ただ、その姿を見たときに浮かんだのは、安堵だった。


 人を轢いたわけではない。相手は美しい動物に違いなく、それと偶然にも正面衝突してしまっただけなのだから。


 と。


 いななきが聞こえた。


 馬を見れば、その朝露に濡れた瞳がじっと見つめてきていた。


 物言わぬ視線は、何を訴えようとしているのか。


 はたまた、ただ、何も考えていないだけなのかもしれない。


 野生動物の考えていることなど、私には到底理解できなかった。


 素朴で、表情が読み取れないからこそ、怖気がした。


 私は車に乗り込み、イグニッションボタンを連打する。そうでもしなければエンジンが作動しないような気がした。いや、単に、怖かっただけだ。


 今すぐにでも、この場から立ち去りたい。


 幸いにも、海辺のこの辺は、牧場があるばかりで人気が少ない。それに何より、この濃霧で見通しはほとんどきかない。たぶん、誰にも見られていないはず。そうであってほしい。


 エンジンが始動する。悲鳴にも似た唸り声が上がったが、幸いなことに動きそうだ。


 私はゆっくりと、馬を避けるようにして、車を走らせる。


 離れながら、私はバックミラーへ視線を寄せる。


 鏡には、じっとこちらを見つめている水晶のような瞳が映っている。その顔は、馬体は霧に隠れて、じきに見えなくなった。



 私は賭け事に興じたことは一度としてない。宝くじ、パチンコ、麻雀、競艇、競輪、そして競馬。そのどれもが、私の平々凡々な人生には縁遠いものだったし、それでいいと思っていた。

 少なくとも、この時ばかりは違った。



 馬と衝突事故を起こし、逃走した。


 人であれば轢き逃げは大問題だが、動物ならそう問題はならない。心配になって調べたのだが、犬猫を轢いてしまった際は物損事故扱いとなるそうだ。


 だからって何も言わずに逃げていいわけがない。法律的な意味でもそうだが、事故にあった動物を救うことだってできるかもしれないから。


 だがしかし。


 何を言われるのかわからなかった。なんらかの罪に当たるのではないかと思ってしまって、警察に連絡することができなかった。


 悶々とした気分を味わいながら、はや二ヶ月。その事故そのものを忘れようとしていた矢先のこと。


 テレビをつけると、ニュース番組がやっていた。


 どうやら、競走馬の一頭が、予後不良によって処分されたという痛々しいニュースであった。


 馬の名前はドリームパイロット。父親からとった名前と、夢への水先案内人という意味でパイロットを冠した牝馬。現在、桜花賞とオークスの二冠馬で、牝馬三冠の期待がかかる中での死は競馬ファンに動揺と悲しみを云々。


 名前を聞いてもピンと来なかった。


 だが、その馬の写真を見た途端、それとわかった。


 東京競馬場で行われたオークス終了後に取られたという写真。そこには、馬主やその家族、ジョッキーに囲まれるようにして赤の優勝レイをかけられた馬が、その馬体を晒している。


 輝く栗色の体はまさしく、あの時の馬だ。


 写真が消える。ニュースキャスターが、殺処分を行うことになった経緯を話していく。


 どこかで事故に遭い、その際に骨折してしまったことによって、衰弱。安楽死という方法を取らざるを得なくなった。警察が、当て逃げの容疑で捜査を行なっている――。


 私はリモコンを掴み取って、テレビを消した。


 気がつけば、荒い息遣いになっていた。コップのなかの水を一息に飲み込む。冷たいはずの水が、どこか喉に焼きつくかのように感じられた。


 私は逮捕されてしまうのだろうか。


 いやそんなことはないはずだ。あの場所に、人はいなかった。証拠も、破片の1つ、車の塗装くらいは残っていてもおかしくはないが、それが、私の車のものだと断定することは不可能なはず。


 論理的にはそう考えられても、わけもなく、不安が込み上げてきて消えない。


 脳裏に焼きついたあの馬の瞳が、恐怖心を煽ってくる。


 追いかけられているような、そんな気分になって振り返ってみても、そこにあるのは、私1人が住む平屋造りの建物。独り者には広すぎる我が家は、祖父の代から住んでいる年季の入った家だ。


 祖父母の代と父母の代でしっかりと手入れされていたからか、百年に近づきつつこの家は、未だ外観を綺麗に保っている。とはいえ、私は手入れなんて面倒でやっていないから、どこかにぼろが出てきていてもおかしくはない。


 そう思って自室の部屋を見てみると、なんだか不気味な印象を受ける。職場は、強い蛍光灯に照らされているし、真っ白な床はピカピカだ。そんな中で、私を含めた社員は突き刺さるような光を放つパソコンの前でキーボードを叩き続けている……。それもそれで不気味ではあったが、我が家も別の意味で負けていない。


 白熱灯は、天井からオレンジの柔らかな光を部屋へと振りまいている。傷だらけの板張りの壁には陰影が浮かぶ。いつもなら何とも思わない、見慣れたもの。それなのに、今日は怖いと感じていた。


 窓の方を見てみれば、カーテンが閉じられている。その外には夜の闇が広がっている。その向こうには、山が広がっている。近くに家はなく、あたりはしんと静まり返っていた。風は全く吹いていないらしく、木々がこすれあう音も虫のさざめきさえも聞こえてこない。


 エアコンの駆動音が静かにうめいている。


 夏なのに、虫の声、カエルの声が聞こえない。


 ひんやりとせたものが、背中を駆け巡った。


 しんと静まり返った部屋の中で、私は、どうにも動けずにいた。妙に緊張していた。それは外が異様に静かだからかもしれない。


 何かがおかしい。


 おかしいならおかしいで、ほったらかしにすればいい。そう思って、椅子に座ってスマホをいじっていた。


 三十分ほどして、私は立ち上がった。


 我慢ならなかった。


 ジャケットを羽織り、玄関へ。吊り下げた懐中電灯を掴み、革靴に足を突っ込む。


 玄関を開けると、生ぬるい空気が雪崩れ込んでくる。それを蹴るように、外へと出る。


 じっとりとした夏っぽい夜。いや、いつもよりもずっと、じめじめしている感じがする。だがそんなことは、恐怖心が生みだす錯覚に違いない……。


 一歩、先へと進む。


 古めかしい車庫に近づく。ちかちかと点滅する常夜灯が、薄汚れたシャッターを照らしている。近いうちに買い替えないといけないなんて思いつつ、スイッチを押す。ごうんと音がして、シャッターが上がっていく。


 ノーズのへこんだマイカーが姿を現す。いそいそと乗り込み、ジャケットから鍵を取り出す。前乗っていた車のくせで、こうして取り出してしまう。


 ボタンを押して、エンジンを始動させる。


 ぶるんと車が目を覚まし、眠りを遮られた子供みたく鬱陶し気に鋼鉄の体が震えた。事故に遭って以来、エンジン音が大きくなり、揺れもひどくなった。馬は人間よりもずっと大きい。法定速度ないとはいっても、衝撃はそれなりのものがある。エンジンにも悪影響が出ているのだろう。修理しに行きたいところだが、そうしたら事故のことが露見してしまいそうで、できなかったのだ。


 とにかく、車は動く。


 ハンドルを握って、ふと、どこへ行くのだと疑問が脳裏をよぎった。


 いや、どこでもいい。とにかく、ドライブでもしてみて気分転換しよう。


 アクセルを踏むと、そろそろと車が動き始める。


 砂利道を抜けて、市道へ出る。


 さてどこへ行こうか。とにかく街に行こう。街の喧騒を浴びたい。静寂が存在しないところならどこでもいい。いっそ運転し続けて、エンジン音とともに朝焼けを迎えたっていい。


 そう思いながら運転していれば、霧が立ち込めてくる。あっという間に、視界は真っ白に染まった。


 ゆっくりゆっくり増えてきたわけではない。いつの間にか、もわんと現れたかのよう。


 そういえば、あの時も、急にあたりが霧に包まれたような。あの時は早朝だったからだと思っていたが……。


 いや、たまたまだろう。


 かちりと音がした。私はドキリとする。よく考えると何でもない、濃霧に反応して、自動的にライトが上向きになったのだ。おそらくはフォグランプも点灯したのだろう。


 光が、夜の闇に張られた白いカーテンをなめるように伸びていく。


 影が見えた気がした。


 その影は四足歩行で、すっと伸びた胴体は――先日轢いた馬のように見えて。


 私はブレーキを踏んでいた。


 あの時と同じように、この時もまた私は確信めいたものを抱いていた。車の前に突如として現れたそれに激突する――。


 しかし、そうはならなかった。


 ブレーキ音とゴムの焼ける匂いを寝静まった森へと響かせながら車は止まった。何かにぶつかったわけではなく、急ブレーキによる停止。


 私はハンドルを強く握りしめる。


 さっきの幻だったのか。幻覚だったのか。


 気持ちの悪い汗が額から目へと伝ってくる。それをぬぐって、私は深呼吸する。心臓が痛い。


 本当に幻覚だったのだろうか。


 私はエンジンを止めずに、車を降りる。懐中電灯のスイッチを入れれば、車のライトよりはだいぶ頼りない光が、白とも黒ともつかない車道へと伸びていく。周囲を見渡してみても、そこに、動物の姿はなかった。


 脚を怪我した馬はいなかった。


 私は安堵し――その時、馬のいななきを耳にした。


 それがやってきたのは森の方からだった。最初は聞き間違いだと思った。だが、二度三度と響く。


 ――聞き間違いであってほしかった。


 声は一種類だけではない。様々な音が森の中から聞こえてきた。蹄の音、銃声、人とも獣ともつかない奇妙な声。男女の嬌声……。それとともに、どこか肉が腐ったような気味の悪い臭いが漂ってくる。


 その雑多な声が、私めがけてやってきているかのように思われた。


 何度目かの銃声とともに、パリンと何かが割れた。


 世界を包む闇がその濃さを増した。


 車のライトが消えた。寿命――いや、銃で狙われたのか。


 とにかく、こんなところにいてはいけないような気がした。森の方からは、声だけではなく何かの大群がひしめき合い駆けてくる騒音が響いてくる。その音は、もう間近まで迫っている。


 割れる音が、またしても響く。一度二度三度。そのたびにライトの光は失われた。


 残ったのは手元の懐中電灯から伸びる一筋の光だけ。


 私は狂ったように、白色の光線を振り回していた。……実際狂っていたのかもしれない。後から確認したのだが、ドライブレコーダーには、闇の中で振り回される光の線しか映っていなかったのだ。


 だが、幻覚なんかではなかったと思う。


 光がとらえたのは、無数の影。


 それは馬だった。


 それは人間だった。


 輪郭のはっきりしないおぼろげな影だ。それが妙に不安をかきたてる。


 ――あれは人間ではないのではないか。


 彼らはみな、死者なのではないか。


 銃声が轟く。私は腰を抜かしてしまった。


 音に驚いてしまったのではない。音の方角を照らした先にいた、身の毛がよだつような存在が目に入ったから。


 それは、ぐずぐずに皮膚を溶かした腐乱死体だった。その手には古風なライフルが握られていた。馬も同様に生きた存在ではなく、いたるところ骨が見え、肉は腐っているのに、どっしりと四足で大地に立っている。


 悲鳴を上げて尻もちをついた私を、誰かが耳障りな嘲笑を上げた。


 そして、彼らは私を取り囲んだ。


 転がった私が目にすることができたのは、たいていが足であった。腐った脚、骨の見えた脚、蹄の剥げた脚。そもそも脚の先がないのにやってくる幽霊のような透き通った脚……。


 一頭の馬が私の下へと近づいてくるのが見えた。その馬だけは、生気に満ち満ちていた。


 栗色のしなやかな脚。


 私が顔を上げるのと、馬の頭が近づいてくるのはほぼ同時。


 水晶のようなきれいな目と合った。


 それは、あの時私が轢いた馬の目と同じだった。


 そこにいたのは、先日亡くなったはずのドリームパイロットその馬だったのだ。


 私は固まった。


 これから何が起きるのか、混乱していた頭でも、すぐに想像がついた。


 復讐。


 私は何も言えなかった。半狂乱で何か言えたらどれほどよかったか。だが、現在の状況を引き起こしたのは、私自身なのだから、何も言えるわけがなかった。


 ただガタガタ震えることしかできなかった。


 馬の頭が遠ざかっていく。


 私は殺されるのだろう。諦観の中で、私はその瞬間をひたすら待った。


 だが、その瞬間はなかなか来なかった。


 私はそろりと顔を上げる。均整の取れた体にまたがる脚が見えた。さらに顔を上げると、騎乗しているのが人間であるとわかる。若々しく、腐ってもいない血の気の通った肉体。


 精悍な顔つきを見るに男らしい。その男は、馬と話をしているようだった。


 そして、頭には角が生えていた。


 悪魔のような二対の角が。


 いや悪魔そのものに違いないと私は理解した。


 それから先のことはよく覚えていない。


 最後に見たのは、ギロチンのごとく振り下ろされる馬の脚。



 次に目覚めたときには病院だった。


 未知のど真ん中で倒れていたところ、トラックの運転手に助けられたらしい。


 命はあった。


 だが、脚は粉々になっていた。


 なにがあったのですか、と医者に言われてしまうほどに、私の脚は粉みじんになっているらしい。言いにくそうに医者が口にしたところによれば、どういうわけか骨が再生しようとしないのだとか。


 私はテレビを見る。


 ちょうど、ドリームパイロットのニュースがあっていた。


 火葬しようとした亡骸が、忽然と姿を消してしまったらしい。行方は分からず、警察と有志による捜査は続いているらしい。


 やはり、あの馬は――。


 私は布団の中へと潜りこむ。


 復讐は果たされたのだろう。なら、何もかも忘れた方がいいに決まってる。


 死んだはずの馬も、騎乗していた角の生えた男のことも、一夜の悪夢として。

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ケープ・ナイトメア 藤原くう @erevestakiba

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