幸福の形

「早まってはいけない!」

 青年は叫んだ。


 すると、フェンスの向こうで佇んでいたスーツ姿の中年男性が、力なく振り返った。


 ここはビルの屋上である。八階建てのビルだ。とうぜん、この高さから落下すれば命はない。

 とはいえ、中年男性はそれを望んでいるようだった。彼はここから飛び降りて、この世を去ろうとしているのだ。


「少し、話をしましょう」

 青年はそう言いながら、ゆっくりとフェンスに近づいて行った。


 その間、中年男性は微動だにせず、生気せいきのない目でジッと青年をフェンス越しに見つめていた。


 青年は持ち前の正義感と優しさで、粘り強く中年男性に語り掛け続けた。


 中年男性は初め、呆然とした様子で一言も発さなかった。彼に言葉がきちんと届いているのか、青年は不安だった。


 しかし、青年の努力は実を結び、やがて中年男性はぽつぽつと身の上話をするようになった。

 曰く、彼はアルコール依存症になり、家族には迷惑をかけっぱなし。仕事も信頼も失った。再就職も上手くいかない。もう生きていく自信がなくなってしまった。そういった事情のようだった。


 青年は、中年男性を励まし続けた。生きていれば必ずいいことがある。不幸というものは、案外長くは続かないものだと、力強く語った。


「あなたが亡くなったあとの、ご家族の気持ちを考えてください」

 そう青年は言った。

「あなたの奥さんや息子さんの気持ちを、きちんと考えてください」


 その言葉に勇気づけられたのか、中年男性の目に、だんだんと生気が戻ってきた。


「あなたの命は、あなただけのものではありません」

 そう青年は続けた。

「どうか、ご家族の幸福を何より尊重したうえで、自らの行動を決めてください」


 中年男性の目に、涙が浮かんだ。

 やがて涙は頬を伝い、床にぽたりと落下した。

 

 それを合図としたように、中年男性は口を開いた。

「あなたは優しい方だ……。あなたに会えたのは、私にとって最高の幸運です」


 青年はホッと胸をなでおろした。どうやら、自分の気持ちがきちんと伝わったようだ。


「実を言うと、私、すごく悩んでいたんです」

 中年男性は言った。

「ここから飛び降りようか、やめようか、と。死にたいけど、生きたいような気もして……。ここに立って、もう二時間以上悩んでいました。でも、あなたの言葉に救われました。家族の幸福を考えるべき。そうですよね。私は、を第一に考えないといけない」


 青年は微笑んだ。そして言った。

「では、早くフェンスをのぼって、こちら側に……あ!」


 青年が言い終わる前に、中年男性は飛び降りてしまった。

 

 中年男性が人生の最期に思い描いた光景。

 それは、自分の訃報を聞いてホッと胸をなでおろし、姿だったのだ。

 


<終>

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闇オチ 汐見舜一 @shiomichi4040

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