第4話

 怪我をしたときはそれほど大変だと思っていなかった千尋だが、重大なことを失念していた。


「この指じゃピアノが弾けない」


 昨日の放課後うっかり切ってしまった左手中指は、鍵盤を叩くとまだ痛い。なにより傷口が開きそうで、そっちのほうが怖かった。


「痛いの嫌いなんだよね」


「痛いのが好きな人なんていないだろうけど」と思いながら、包帯でグルグル巻きにされた指をそっと鍵盤に置く。

 登校した千尋はすぐさま慎司に捕まった。そのまま保健室に連行され、包帯をギュッと巻かれる。新しい絆創膏に交換したのにと思っていると、なぜか「馬鹿かおまえは」と怒られてしまった。


「怖くて傷口は見てないけど、思ったより切れてるってことなんだろうなぁ」


 だから絆創膏しか貼っていないことを怒ったに違いない。昨日、絆創膏の上からハンカチを巻かれたことを思い出せばわかりそうなことなのに、返すことばかり考えてすっかり頭から抜け落ちていた。


「それなのに返しそびれてしまった」


 ポケットから空色のハンカチを取り出す。昨日、神崎から借りたハンカチは綺麗に洗濯してアイロンもバッチリかけてある。

 今日中に返すため、朝からずっとポケットに忍ばせていた。ところが休み時間も昼休みも神崎はどこかに行っていたようで姿が見えない。放課後は別のクラスの女子たちが呼びに来て声をかける時間すらなかった。


「明日こそ返さないと」


 ハンカチを撫でながら、外したときにちょっといい匂いがしたのを思い出した。グレープフルーツのような爽やかな柑橘系の香りで「もしかして神崎がつけている香水かな」なんて想像しただけでドキドキが止まらなくなった。

 あの匂いを思い出すだけで、いまもドキドキする。千尋はハンカチをポケットに仕舞い、気持ちを落ち着かせるようにゆっくりと鍵盤に指を置いた。


「いまの気持ちからすると、この曲かな」


 右手だけで弾くのは、きらきら光る星の曲だ。最初は右手だけで弾いていたのに、結局物足りなくなって左手も鍵盤に載せる。

 キラキラが輝きを増すように音色が増えていく変奏曲は、怪我をした左指ではうまく瞬かせることができない。あちこち歪んで尖った星がぶつかり合うような旋律になってしまった。それでも千尋には心地よく、次々と音を奏でていく。


「……あれ?」


 左指に違和感を感じて見てみると、真っ白な包帯に少しだけ血が滲んでいた。


「うわー……これ、開いちゃったのかな」


 急にズキズキした痛みを感じた。うっかり中指に力を入れてしまったのかもしれない。

 鍵盤に血が付いていないのを確認してから、カバンを持って第二音楽室を出た。保健室に行くべきか悩みながら階段をおりていると、階下から人の話し声が聞こえてきた。踊り場で立ち止まり、手すりから少しだけ顔を覗かせて下を見る。見えたのは神崎と知らない女子だった。

 立ち聞きや覗き見は趣味じゃないが、このまま階段をおりて行く勇気もない。どうしようか悩んでいる千尋の耳に、少し興奮したような女子の声が聞こえて来た。


「でも神崎くん、いま付き合ってる人いないんでしょ?」

「うん、いないよ」

「それじゃ……」

「それでも付き合うってのは難しいかな」


 最悪のシーンに出くわしてしまった。千尋は気配を殺すように踊り場でじっと佇んだ。


「……そっか、やっぱダメか。しつこくしてごめんなさい」

「ううん、俺のほうこそごめんね?」


 神崎の言葉には優しい響きが滲んでいる。声しか聞こえなくても微笑んでいるだろうことが想像できる声だ。相手も落ち着きを取り戻したらしく、神崎が女子と揉めた噂を聞かない理由がわかったような気がした。


(神崎はただのイケメンじゃなくて、超イケメンだったのか)


 しばらくすると話し声が聞こえなくなった。告白タイムが終わったんだろう。


(そういえば、恋人は作らないんだったっけ)


 千尋も噂で聞いただけだったが、図らずも真実だということがわかった。そのことにほんの少し胸がチクリとする。


(だから、僕は神崎に告白する気はないんだって)


 そもそも告白したところで男の自分と付き合うなんてことにはならない。そんな言い訳を心の中でしながら指を見た。痛みも出血もしているが、何となく保健室に行く気になれない。

 千尋はこのまま帰ろうと残りの階段をおりることにした。中庭を通り抜けようと廊下に出たところで、神崎がまだいたことに気がついた。


「あ、」


 変な声が出そうになり慌てて口を閉じる。頭を下げて立ち去るべきか、一声かけて通り過ぎるべきか悩んでいるうちに足が止まってしまった。

 そんな千尋とは違い、告白直後の神崎はいつもと変わらない様子に見える。ただ立っているだけでもかっこいいなぁと思っていたが、見惚れている場合じゃない。


(そうだ、ハンカチ!)


 慌ててポケットから取り出した千尋は、少し緊張しながら声をかけた。


「あの、ハンカチ、ありがとう」

「……?」


 空色のハンカチを差し出すと「あぁ」と神崎がつぶやいた。


「洗濯してあるから。それと、血はついてなかったから、大丈夫だと思う」

「それはいいけど……それ、傷口開いてない?」

「え?」


 神崎の視線がハンカチを持っていた左手に向いている。見ればさっきよりも血の滲む範囲が広がっているような気がする。


「あ、いや、大丈夫」

「大丈夫じゃないでしょ。保健室に行くんだよね?」


 千尋が答える前に神崎が歩き出した。きっと保健室に行くのだろう。そんな神崎を放り出して帰るなんてことはできない。少し緊張しながらも千尋は後をついていくことにした。

 後ろ姿もかっこいいなぁと思いながら入った保健室は無人だった。どうしようかと迷っていると「俺でよければ交換するけど」と言われて「へ!?」と変な声を出してしまった。


「痛くなかったの?」

「えぇと、痛い、けど」


 血の滲んだ包帯を取ると、やっぱり傷口が開いたようで思っていた以上に血が出ていた。神崎の手が傷口を消毒液で拭き取り、新しいガーゼを当てて真っ白な包帯を巻いていく。慎司と同じくらいギュッと締められたが、神崎がしていると思うだけで痛みなんて感じなかった。


「病院に行ったほうがよくない?」


 声をかけられてハッとした。観察するように見つめていたことを知られたくなくて、慌てて「大丈夫」と答える。


「さっきまで大丈夫だったから、たぶん無理しなければ平気、だと思うんだけど」

「なんか無理して傷口開いたわけ?」

「あ、いや、ちょっと、ぶつかったり、して」


 ピアノを弾いて傷口が開きました、なんて間抜けな理由は言いたくない。そう思って変な言い方になってしまったが、神崎は千尋の言い訳に興味がなかったらしく何も言わなかった。


「あの、ありがとう」

「どういたしまして」


 保健室を出て、そのまま何となく一緒に廊下を歩く。初めて隣を歩くことに緊張していた千尋は、結局何も話すことができないまま昇降口にたどり着いてしまった。


「あの、僕、帰るから。今日はほんと、ありがとう」


 ちょっと残念に思いつつも、これ以上神崎を引き留めることはできない。お礼を言って頭を下げた千尋に、神崎が軽く片手を上げながら踵を返した。


(はぁ、やっぱりイケメンは何をしてもイケメンなんだな)


 改めてそう思いながら靴に履き替えたところで「あのさ」と声をかけられた。びっくりして振り返ると、去ったはずの神崎が立っている。


「名前、なんだっけ?」

「え?」


 何を聞かれたのか一瞬わからず呆けた千尋は、慌てて口を開いた。


「あ、きやま、だけど」

「違う違う、下の名前」

「ええと、ちひろ、だけど」

「あー、そうだった。原田がいつもそう呼んでたっけ」


 どうして名前なんて聞いてきたんだろう。不思議に思って神崎を見ていると、神崎が片手を上げた。


「じゃ、また明日ね、ちひろ」


 心臓が止まるかと思った。まさか名前を聞かれた挙げ句、イケメンな声で名前を呼ばれるとは思わなかった。しかも名字じゃなくて下のほうをだ。

 今度こそ廊下の奥に消えていく神崎の背中を見ながら、千尋の心臓はドキンドキンと激しく動いていた。まるで坂道を全力で走った後みたいで、きっと顔も真っ赤になっているに違いない。


(……どうしよう。神崎のこと、すごく好きかもしれない)


 そう思った千尋の背後で、少し強い春風がびゅうっと吹き抜けた。

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春、僕は恋をした 朏猫(ミカヅキネコ) @mikazuki_NECO

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